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礼拝説教

「エルサレム入城」
詩編 118編19~29節
マタイによる福音書 21章1~11節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は総員礼拝です。2月の一番寒い、雪の多いこの時期に共に御言葉に与って、信仰の歩みを強められ、整えられていこうということで始められたと聞いています。今年は全く雪が降りませんけれど、寒い時期、御言葉に与って、健やかに御国への歩みを整えられてまいりたいと思います。今日は礼拝の中で洗礼があり、聖餐にも与ります。聞く御言葉と見る御言葉と食する御言葉に与るわけです。私共が何者であり、どのような救いに与っているのかが明らかにされる時です。

2.エルサレム入城
 今朝与えられている聖書の箇所はマタイによる福音書21章の始めの所です。小見出しには「エルサレムに迎えられる」とありますが、この箇所は昔から、イエス様の「エルサレム入城」の場面と呼ばれてきました。エルサレム入城。「城に入る」と書く「入城」ですが、この言葉は、王様が城に入られる時に用いる言葉です。特に、戦いに勝って敵の城に入ること。新しい王様が入城して、その城の王様が変わるのです。イエス様が王様として神の都であるエルサレムに入られる。それがこの場面です。
 この時、過越の祭りを祝うために多くの巡礼者たちがエルサレムに上って来ていました。その人たちと一緒にイエス様はエルサレムに入られたわけですけれど、巡礼者の一人としてエルサレムに入られたのではありません。イエス様は神の都エルサレムの王として入られました。
 この日は週の初めの日、つまり日曜日でした。この場面から受難週が始まります。日曜日にエルサレムに入られたイエス様は、金曜日に十字架に架けられ、次の日曜日に復活されました。受難週の一週間の出来事がこの21章から始まります。そして、マタイによる福音書では21章から28章まで、全体の約3割をこの一週間の出来事を記すことに用いています。このことからも受難週の出来事、特に十字架と復活の出来事こそ、福音書の中心であることは明らかです。イエス様はまことの王としてエルサレムに入城されました。そのまことの王の即位式、それが十字架であり復活の出来事です。十字架に架かり死んで復活される王として、イエス様はエルサレムに入城されたのです。そのことをイエス様は御存知でした。御自身の十字架と復活についてこの時までに三度も予告されたのですから間違いありません。けれども、この時「ダビデの子にホサナ。」と叫んでイエス様を迎えた人々は、そのことを知りませんでした。イエス様もそのことは承知されていたと思います。しかし、イエス様はこの時「あなたがたの思いは誤解だ。」と人々に言われることは一切無く、エルサレムに入られました。どうしてでしょう。私には、イエス様は言葉で説明することよりも、今は神様の救いの御業である十字架と復活に向かって歩む、そこに集中されていたように思えます。
 イエス様は今までも色々と話をしてこられました。神の国について、救いについて、自らが誰であるかも語られました。しかしそのお語りになられたことが、人々によく分かったという風に受け止められたとは、とても思えません。弟子たちにしてもそうです。イエス様と弟子たちとの会話はいつもトンチンカンです。イエス様が誰であるのか。イエス様によって与えられる救いとは何なのか。それは「話せば分かる」というようなことではないからでしょう。それは、イエス様がお語りになって弟子たちや人々に伝えようとされたことと、彼らの常識や自らの経験に基づく知識や知恵というものが、あまりに違っているからです。そして、イエス様の言葉が分かるためには、自分が変わらなければならないからです。しかし、これが本当に難しい。なかなか変われない。どう変わればいいのかも分からない。イエス様のそばにいた十二弟子たちでさえ分からなかった。彼らは、イエス様の十字架の後で復活されたイエス様と出会って、やっとイエス様が誰であるのかが本当に分かりました。そして聖霊を注がれて、旧約の言葉や出来事、イエス様の言葉と出来事の意味を分からせていただいたのです。しかし私共は、十二弟子たちがイエス様と一緒に生活してそれでも分からなかったことを、今、分かる者とされている。それは本当に驚くべきことではないでしょうか。私共の上に聖霊なる神様が臨んでくださって、一人一人にそれを教えてくださったのです。聖霊なる神様のお働きに与らなければ、イエス様が誰であるのか、私共には分かるはずもなかった。ただ聖霊なる神様が働いてくださって、私共を変えてくださり、イエス様の業と言葉が分かる者にしてくださった。私共は実に、この聖霊なる神様の中で生かされているのです。まことにありがたいことです。

3.子ろばに乗って
 まず1~7節を見てみましょう。ここでイエス様は二人の弟子を遣わして、御自身がエルサレムに入る時に乗るための子ろばを引いて来させました。どうして、イエス様は弟子たちに子ろばを調達させたのか。それは旧約の預言の成就のためであったと聖書は記します。5節に引用されているのはゼカリヤ書9章9節の言葉です。ゼカリヤ書にはこうあります。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」ここで、はっきりと「見よ、あなたの王が来る。」と言われています。そして、その王は子ろばに乗って来ると告げられているわけです。ですから、イエス様が二人の弟子を遣わしてエルサレムに入る時に乗るための子ろばを引いて来させたということは、御自身がこの預言の成就として、まさに預言者が告げていた王として、神に従い、神から勝利を与えられた者としてエルサレムに入る。そのことをはっきりと意識されていたということです。
 何故ろばの子なのか。それは、この王が力の王ではなく、愛の王だからです。戦いの王ではなく、平和の王だからです。力の王、戦いの王なら馬に乗ります。或いは、馬に引かせた戦車に乗ります。しかし、イエス様は愛の王、平和の王。だから子ろばに乗るのです。この王は、5節に「柔和な方」であると告げられています。ゼカリヤ書では「高ぶることなく」となっています。これは謙遜な方、へりくだった方という意味です。それは、偉そうにしない方だという程度のことを告げているのではありません。イエス様は父なる神様と共に天におられましたけれど、人間となり、馬小屋に生まれ、罪人の一人に数えられて十字架にお架かりになる。この歩みが「へりくだった方」ということなのです。そして、この平和の王によって与えられるのが神の国、神様の御支配です。それは、ゼカリヤ書9章10節に「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる。」と言われているように、もはや武器を必要としない平和を与える王なのです。残念ながら、まだその平和は完成されていません。それが完成されるのは、再びイエス様が来られる時です。しかし、その平和は始まっています。その平和を証しするのが私共であり、キリストの教会という存在なのです。

4.主がお入り用なのです
 さて、二人の弟子が子ろばを調達に行った時、不思議なことが起きます。イエス様は、村に行ったら子ろばがいるから引いて来なさい、と言われました。普通に見れば、これはろば泥棒です。ですから、見つかれば当然とがめられます。イエス様は、その時には「主がお入り用なのです。」と言いなさい、そうすればすぐに渡してくれる、と言われました。弟子たちが出かけて行きますと、確かに子ろばがいた。引いて来ようとすると、やっぱりとがめられた。それで、イエス様に教えられたとおり、「主がお入り用なのです。」と言うと渡してくれた。この出来事について、イエス様が前もってろばの持ち主と話をつけておいたのかどうか、想像力を豊かにしてそこに関心を向けてもあまり意味がありません。聖書に記されていないのですから、結論が出る議論ではありません。そんなことより大切なのはこの言葉です。イエス様がお告げになった「主がお入り用なのです。」という言葉です。この言葉は、直接には子ろばの持ち主に告げられたものですけれど、その後二千年の間、聖霊なる神様のお働きの中で、キリストの教会に集うすべての者に向けて告げられてきました。今朝、私共にも告げられています。イエス様が必要とされたのは子ろばです。大きくて見映えのする馬でもなければ、力がある大人のろばでもありません。力もなく、見映えもしない子ろばです。しかし、子ろばでなければならなかった。そうでなければ、預言の成就とならなかったからです。
 イエス様が私共を求められるのも同じことです。力もなく、見映えもせず、年もとり、取り立てて誇るべき所など何もない私共。しかしイエス様は、「あなたが必要なのだ。」と言われるのです。私共は、「そう言われても、私は何もできません。力もありません。」と言ってしまいそうになる。しかしイエス様は、「何も要らない。ただわたしを乗せるだけだ。」と言われます。私共は、「どうしてイエス様を乗せることができるでしょう。私は愚かで、弁も立たず、何より毎日罪を犯すような者です。」と言いたい。しかしイエス様は、「わたしがすべてを備える。ただわたしを信じること。それがわたしを乗せることだ。」そう言われるのです。私共は、イエス様のため、神様のために何かをしなければいけないと思い、そして、そんなことは自分にはできないと思う。しかし、イエス様を我が主、我が神と信じること。信じて生きること。イエス様を愛し、信頼し、従うこと。それがイエス様が私共に求めておられるただ一つのことであり、それがイエス様をお乗せするということなのです。

5.ホサナ
 8節以下には、子ろばに乗ったイエス様のために、大勢の群衆が道に自分の服や木の枝を敷いたことが記されています。そして群衆は口々に叫びました。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」「ホサナ」という言葉は、先ほどお読みしました詩編118編25節では「どうか主よ、わたしたちに救いを。」と訳されていました。ここでは、「万歳」というニュアンスで用いられているかと思いますが、本来は「わたしたちを救ってください」という意味です。この「ホサナ」は「アーメン」や「ハレルヤ」と同じように、当時の言葉がそのまま残ったものです。小松教会の松島牧師の名前は「保真」、「まことを保つ」と書いてホサナと読みます。彼は牧師の子ですが、両親はこの時の群衆のように、イエス様に向かって「ホサナ」と賛美する者として成長して欲しいと願ったのでしょう。
この時、群衆はイエス様を平和の王として迎えたのではありませんでした。イエス様が5日後には十字架にお架かりになるなどとは、人々は考えてもいなかったでしょう。彼らはイエス様のたくさんの奇跡を見、この方こそ旧約において預言されていた方だ、必ず来ると告げられていたまことの王、メシアだと思った。ローマの支配から自分たちを救い、ユダヤを再びダビデ王の時代のように繁栄させてくださる方だ。そう思って、そう期待して、口々に「ダビデの子にホサナ。」と叫んだのでしょう。彼らはイエス様を王として、預言者として迎えました。しかしそれは、へりくだった王、愛の王、平和の王、十字架にお架かりになられる王としてではありませんでした。でも、イエス様は彼らの熱狂的な歓迎、「ホサナ、ホサナ」と叫ぶその声を静めたりはされませんでした。御自分が誤解されていることは分かっていた。しかし、王として迎えること自体は間違っていません。イエス様は確かに、旧約において預言されていたまことの王であられたからです。

6.誤解の中で
 マタイによる福音書は、イエス様をホサナと言って迎えた群衆と、エルサレムの町の人々とを分けて記しています。イエス様をホサナと言って迎えたのは、多分エルサレムに巡礼に来ていた者たち、おもにガリラヤから来ていた人々ではなかったかと思います。彼らはガリラヤでイエス様のなさる様々な奇跡を見たり、その見た人たちから話を聞いていました。また、イエス様の言葉も聞いていました。しかし、エルサレムの町の人々は、今までイエス様のなさった奇跡を見たこともなければ、イエス様のお話も聞いたことがなかった。ですから、エルサレムの町の人々は、巡礼者たちと一緒になってホサナと言って迎えるわけがないのです。彼らはイエス様のことを噂に聞いたことがあったとしても、イエス様の業を見ていなかったし、言葉も直接聞いたことはなかった。ですから、彼らはこの騒ぎに、「いったい、これはだれだ。」と言います。群衆は、「ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ。」と答えました。ここには「俺たちのガリラヤ、俺たちのナザレから出た預言者だ。」というニュアンスがあったと思います。たとえが適当かどうか分かりませんが、「富山の朝乃山」「富山の八村塁」といった感じではなかったでしょうか。彼らは熱狂の中、興奮して「ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ。」と答えたことでしょう。しかし、これも誤解による答えでした。
 私共も、この時の群衆と同じようにイエス様を誤解して、熱心にホサナと叫ぶことがあるかもしれません。イエス様の十字架によって、人々の熱狂は誤解であることが明らかにされます。私共の主は、私共の王は、十字架にお架かりになられる方なのです。ここから目をそらしてしまえば、私共は誤解してしまいます。イエス様を自分の願いや望みを叶えてくれる方にしてしまう、偶像にしてしまうのです。しかし、イエス様は決して私共の偶像になったりはされません。生ける神だからです。
 イエス様は私共に聖霊を注ぎ、御自身が何者であり、私共にどんな救いを与えてくださるお方なのかを、御言葉と出来事をもって私共に教え続けてくださいます。だから私共は安心して、この方を私共の主、まことの王と信じ、「ホサナ」と言って賛美し、あなたの御業のために私を用いてくださいと自らを差し出していけば良い。主が必ず道を備え、私共を御心のままに用いてくださいます。そこに私共の平安があり、誇りがあります。
 今朝洗礼を受けられる方も、そのことをしっかり心に刻んで、安心して、喜びと感謝と誇りを持って主にお仕えしていっていただきたいと思います。 

[2020年2月2日]