1.はじめに
マタイによる福音書を共々に読み進めております。21章から受難週の出来事が記されている所に入りました。受難週の初めの日、旧約の預言者たちが預言したとおりに、イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに入られました。イエス様はまことの王、平和の王としてエルサレムに入られ、そして神殿に向かわれました。そこで宮清めと呼ばれる、両替人の台やいけにえの動物を売る者の腰掛けを倒し、追い出すことをされました。エルサレム神殿で捧げられている礼拝が、御心に適っていないものだったからです。人々は祭りになれば遠くからも神殿に詣で、礼拝していました。そこには熱心な信仰者の姿がありました。彼らは定められたいけにえを献げ、自分の願い事を祈りました。しかし、そこには肝心なものが欠けておりました。そこには悔い改めがなかったのです。自分は変わらない、変わろうとしない。変わる必要なんてない。自分たちは特別な神の民であり、定められたいけにえを捧げてさえいれば何の問題もない。そう思っていました。しかも、そのエルサレム神殿での礼拝はユダヤ人の男たちだけによって捧げられていました。女性や異邦人や体に障害を持った人は、いけにえを献げる所まで入ることさえ許されていませんでした。このような礼拝は御心に適っていないということを、イエス様は、この宮清めという、いささか荒っぽいやり方で示されたのです。そして、こう告げられました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」イエス様は大変激しく厳しい言葉を告げられました。
この厳しさは、イエス様が来られる直前に、荒れ野で叫ぶ者の声として遣わされた洗礼者ヨハネの告げたことと重なります。ヨハネの告げた言葉は、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」でした。「悔い改めよ!」エルサレム神殿の礼拝において決定的に欠けていたのは、この悔い改めでした。ヨハネはこうも告げました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」エルサレム神殿で行われていた礼拝は、悔い改めを求めるものではありませんでした。定められたいけにえを献げればそれで良し。これで神様への義務は果たした。これで神様は私を守ってくれる。この信仰のあり方こそ、洗礼者ヨハネが、そしてイエス様が、それは神様の御心に適っていないと、激しく厳しく告げられたことだったのです。
2.行動預言(象徴預言)として
旧約の預言者の伝統の中に、行動預言・象徴預言と呼ばれるものがあります。ある象徴的な行為、行動を行って預言を告げる。預言は言葉ですが、それを語る時に象徴的行動を行うことによって、視覚的にも印象深いものとして人々の心に残ります。代表的なものとしては、エレミヤ書19章にあります、エレミヤが人々の前で壺を砕いて、エルサレムもこのようになると告げたことです。イエス様の宮清め、そして今朝与えられておりますイエス様がイチジクの木を枯らされたことも、行動預言・象徴預言として受け止めて良いだろうと思います。それは、神様の御心に適わないエルサレム神殿の礼拝は、神様によって滅ぼされるということです。
今朝与えられておりますイチジクの木を枯らされた出来事は、この行動預言・象徴預言の伝統を弁えないと、イエス様が何をしようとされたのか、よく分からないのではないかと思います。18~19節「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。」
これを字面だけ読んでおりますと、イエス様はお腹が空いていたのに、イチジクの木が実を付けていなかったので、腹を立ててイチジクの木を枯らしてしまったとしか読めません。お腹が空いていて機嫌が悪かったとしてもやり過ぎではないか。そう思うのが普通でしょう。勿論これは、イエス様はお腹が空いていて、イチジクの実を食べようとしたけれど、実が付いていないので、腹を立ててイチジクの木を枯らしてしまったということではありません。そもそも、イエス様はイチジクの木を枯らすことができたのですから、本当にお腹が空いていてイチジクの実を食べたいだけだったのならば、イチジクの実を付けさせることだってお出来になったでしょう。しかし、イエス様はそうはされなかった。
このイチジクの木というのは、ユダヤにおいては一般的な、人々に親しまれている木です。日本で言えば、柿の木みたいなものです。先ほど、エレミヤ書24章をお読みいたしましたが、エレミヤ書ではイスラエルがイチジクにたとえられておりました。イエス様は、そのイチジクを神の民にたとえる伝統も、ここで受け継いでいます。つまり、イエス様はここで、イエス様が求める時に実を付けていないイチジクの木を枯れさせてしまうことによって、神様が求めていることを為していない神の民、神様の御心に適わないエルサレム神殿の礼拝は、やがて枯らされてしまうと告げられたのです。そのことは、紀元後70年、ユダヤ戦争においてローマ帝国によってエルサレムが滅びることにより実現してしまいました。今、この時のエルサレム神殿で残っているのは、嘆きの壁と呼ばれる外壁の西側の部分だけです。
実を付けないイチジクの木は枯らされる。これは私共に対しても重大な警告です。私共は、神様が求める実を付けているかどうか厳しく問われている。神様が求める実、それは悔い改めを伴う礼拝でありましょう。また、信仰であり、希望であり、愛でありましょう。更には、ガラテヤの信徒への手紙5章22節に「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」とあるようなものでしょう。このような実を私共はちゃんと結んでいるかと問われると、正直な所、いささか心許ない所があるのではないかと思います。とするならば、私共もまた、この時のイチジクの木のように神様の裁きの前に枯れるしかない、滅びるしかないのでしょうか。
3.イエス様の意外な言葉
20節以下を見てみましょう。20~22節「弟子たちはこれを見て驚き、『なぜ、たちまち枯れてしまったのですか』と言った。イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。』」このイエス様のこの言葉は意外です。「イチジクの木を枯らしたのは、あなたたちも御心に適う実を結ばないのならば、このいちじくの木のようになる。そういう意味だ。」とお語りになるのかと思ったら、イエス様は全く違った言葉を告げられました。勿論、このイエス様がイチジクの木を枯らしたという出来事には、そのような警告の意味があるのは間違いないと思います。しかし、イエス様はそのことだけを告げられたのではありません。イエス様は慰めと励ましを告げられたのです。
どう励まされたのか。イエス様は続けてこう言われました。21節「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、そのとおりになる。』」私共は、神様が求められる実を自分の力や努力で結ぼうと考えます。しかし、そうではないとイエス様は告げられたのです。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、」とイエス様は言われます。ここで、信仰というものを「自分が信じること」「自分の揺るがない信念」といった風に捉えますと間違ってしまいます。信仰とは神様が与えてくださるもの、聖霊なる神様のお働きの中で私共に与えられるものです。こう言い換えても良いでしょう。私共の中には、御心に適うような良い実を付ける力など無い。神様の前に正しい者として立つことのできない私共なのです。だから、ただ神様の赦しを求めて御前に立つしかない。それが悔い改めをもって捧げる礼拝です。そして、そのような私共を神様は憐れんでくださって、聖霊を与え、信仰を与えてくださる。信じない者ではなく、信じる者に変えてくださる。この聖霊なる神様によって与えられた信仰は、ただ神様だけを信頼する。自分の力に頼らず、ただ神様だけを信頼する。神様はそのような者を愛し、用い、御業を為してくださる。私共が付ける実とは、この神様によって備えられるものです。信仰も愛も希望も、神様が私共に与えてくださるものです。だから、イチジクの木に起きたようなこともできるし、山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、そのとおりになるのです。私共が為すのではなく、神様が為してくださることだからです。間違っても、私共に不思議な力が備わるということではありません。神様が自らの業のために私共を用いてくださるということです。
「山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。」とイエス様は言われました。勿論、山が立ち上がって、自分で歩いて海に飛び込むはずがありません。これは、とてもできるはずがない実現不可能と思えることのたとえです。とてもそんなことなどできるはずがないと思えることでも、神様にはできないことはないのですから、その神様の御業を信頼しなさいということです。
4.信じて祈るならば
22節のイエス様の言葉もそのように理解するべきです。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」とイエス様は言われましたけれど、ここで「祈る」と言われているのは、私共が自分の願いや思いを実現しようとしてそのことを祈る、ということではありません。そういう祈りであるならば、それは必ず叶えられるなどと言えるものではありませんし、イエス様はそんなことを約束されたのではありません。この言葉は誤解を招きかねない言葉ですけれど、神様の御前に良き実など何一つない者として、ただ神様の赦しを求める者として、悔い改める者として立たなければ、このイエス様の言葉は正しく受け取れないのだろうと思います。何故なら、悔い改め無き者にとって、祈りは、自分の願いや欲求を満たすものでしかないからです。しかし、悔い改めた者にとって、祈りとは、神様の御心を第一に求めることです。イエス様は「主の祈り」を与えてくださいました。ここに私共の祈りがあります。ここに悔い改めた者の祈りがあります。
私共が、自分の願い事を神様に言うことが祈りだと思っている限り、このイエス様の言葉は分からないでしょう。しかし、自分が神様に愛され、赦され、用いられることを知った者は、このイエス様の言葉がまことに真実であることを知るでしょう。勿論、自分の家族のことや我が子のために祈ることがいけないとか、間違いだということではありません。私共は神の子なのですから、父なる神様に対して子どもの自由さをもって、何でもお願いしたら良いのです。御心に適うことならば、また時に適ったことならば、神様はそれに応えて事を起こしてくださるでしょう。しかし、大切なことはその祈りが叶えられた時、私共に何が起きるのかということです。ああ良かった、で済むでしょうか。そうではないでしょう。祈りが叶えられた時、私共は聖なる神様の力を知らされ、また神様は生きて働いておられることを知らされ、ただ畏れをもって感謝を捧げることでしょう。そして、献身する、我が身を献げるということに押し出されるはずなのです。
5.祈るべき事
私は、神様のいやしや奇跡というものを素朴に信じています。今までたくさんの人のために祈ってきました。その祈りがいつも叶えられたわけではありません。ですから、私が祈ればどんな病気も治りますなどとは思ったこともありませんし、言ったこともありません。しかし、不思議なように祈りが叶えられたことは何度もありました。どの牧師も皆、経験していることです。全能の神様は私共の祈りを聞いておられますし、御心に適うことなら何でも為してくださいますし、何でも為すことがおできになります。そうでなければ、本当に小さな群れだったイエス様の弟子たちによって、キリストの教会がこのように全世界に広まったはずがないのです。キリストの教会もキリスト者も、祈りを聞いてくださる全能の父なる神様と共に歩んできたからです。
イエス様は私共に「主の祈り」を教えてくださいました。この祈りに従って、私共は神様に向かって「天の父なる神様」と呼びかけます。ここでイエス様が「信じて祈るならば」と言われたのは、何よりも神様を我が父として信じて祈るならば、ということです。私を愛し、私のために愛する我が子であるイエス様さえ与えてくださった神様に、全幅の信頼をもって祈るならば、ということです。イエス様の十字架によって一切の罪を赦していただき、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが許された者として、神様の愛と力と真実を信頼して祈るならば、ということです。そのような神様に対しての信頼は、聖霊なる神様によって私共に与えられるものです。神様が与えてくださる信仰です。これは私共の内から出て来るものではありません。
私共は、自分の力や熱心で信仰を保持しようとします。できると思います。しかし、それは砕かれます。必ず砕かれます。砕かれて良いのです。砕かれた時は苦しく辛いですけれど、砕かれて良いのです。砕かれなければならないのです。そして、ただ神様が御心を行われるのだということを知ります。
私共の祈るべきことは、御名が崇められることです。「御国を来たらせ給え。御心が天になるごとく、地にもなさせ給え。」です。御名が崇められるために、御国が来るために、御心が天になるごとく地にもなるために、神様は何でもなさるのです。それは本当のことです。確かなことです。そして、その為に私共を用いてくださるのです。
6.神様の御業に囲まれて
先日、昼の祈祷会が終わった後で、一人の婦人が証しをされました。その方は車で一時間かけて集われる方なのですが、最近は体調が悪く、なかなか教会に集うことができないでおりました。それを見た御主人が、「教会の近くに転居しよう。そうすれば、いつでも教会に行ける。そのために物件も探してきた。」と言われたそうです。今まで、教会に一緒に来てくれるわけでもないし、自分が教会に集うことには反対しないけれど、そんなにも自分の信仰のことを思ってくれていたのかと驚き、本当に嬉しく、号泣してしまったそうです。転居すれば、御主人は毎日片道一時間の通勤時間が必要となってしまう。だから、「今は気持ちだけで嬉しい。」と答えたそうです。この婦人は、御主人がイエス様の救いに与るようにと祈っておられた。でも、自分は体も弱く、御主人に対して少しも証しになっていないと思っていた。しかし、神様はその祈りを聞いてくださっていた。その事が分かり、嬉しくて、証しをさせていただきました、と言っておられました。
私共の周りに神様の業はいつも現れています。でも、私共はそれに気付かないことが多いのです。しかし、祈りと共にある者は、この神様の業に気付きます。そして、いよいよ神様を愛し、信頼し、従う者へと変えられていくのです。イエス様は「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」と告げて、私共が祈るように励ましてくださいます。この励ましを受け、信じない者ではなく信じる者として、祈らない者ではなく祈る者として、この一週も御国に向かっての確かな歩みを為して参りたいと心から願うのであります。
[2020年2月16日]