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礼拝説教

「遺す言葉」
ヨシュア記 23章1~16節
テモテへの手紙一 6章11~16節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は2月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。ヨシュア記23章です。ここはヨシュアの告別説教と呼ばれる所です。24章29節に「ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ」たとありますが、その最後の時が近づいた時に為されたものと考えられます。イスラエルの民は40年の荒れ野の旅を終えて約束の地に入りましたけれど、戦いの日々が長く続きました。この時も約束の地における戦いが全部終わったわけではありません。まだ征服されていない土地も民もいます。しかし、イスラエルのすべての部族へ土地の分配が為され、これからイスラエルの民がその地に住み、神の民として歩んでいく、その見通しが立ちました。ヨシュアは自分の残された日々が多くはないことを悟り、イスラエルのおもだった人々を皆呼んで、この言葉を告げたのです。この時ヨシュアは、イスラエルの民に何を語るべきかをはっきりと弁えておりました。ここには、神の民として歩み続けた者が、神の民を指導してきた者が、次の世代の者たちに何を遺していくのか、そのことが示されています。ここにあるのはヨシュアの信仰の遺言です。財産の遺言ではありません。信仰の遺言、信仰においてどうしても遺していかなければならない言葉が記されています。このヨシュアの言葉は、今朝、私共に語られているのと同時に、私共が遺していく言葉でもあろうかと思います。

2.死を覚悟して
ヨシュアはこう語り始めるのです。「わたしは年を重ね、老人となった。」重い言葉です。ヨシュアが年老いたことは改めて言うまでもありません。見れば分かる、皆が知っていることです。しかし、本人がそれを口にする時、それはもう自分の死を覚悟しての言葉です。ここに集った人々は、ヨシュアにもう会えないかもしれない、ヨシュアの言葉を聞くのはこれで最後かもしれない、そんな思いでこの言葉を聞いたのではないかと思います。誰もが死を迎えます。例外はありません。14節で、ヨシュアは「わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。」と言います。「この世のすべての者がたどるべき道」とは死です。ヨシュアはもう自分の死を覚悟しているのです。この時、ヨシュアの周りに集まった人々には、今から告げられるヨシュアの言葉を何一つ聞き漏らすまいとする緊張感があったことでしょう。

3.遺す言葉(1) ~神様が戦ってくださった~
 まずヨシュアが告げたのは、イスラエルのために神様が為してくださったことでした。彼が最初に告げたことは、自分が何をしてきたかでも、自分がどう生きてきたかでもありません。神様が何を為してくださったかです。3~4節「あなたたちの神、主があなたたちのために、これらすべての国々に行われたことを、ことごとく、あなたたちは見てきた。あなたたちの神、主は御自らあなたたちのために戦ってくださった。見よ、わたしはヨルダン川から、太陽の沈む大海に至る全域、すなわち未征服の国々も、既に征服した国々もことごとく、くじによってあなたたち各部族の嗣業の土地として分け与えた。」主がイスラエルのために戦ってくださったのです。その結果、ヨルダン川を渡り、多くの国々と戦って、土地を得ることができた。まだ戦いが終わったわけではありません。ヨシュアの時代にすべての民を征服したのなら、次の士師記はありません。しかし、各部族に土地を分け与えることができ、この地に住んでいく目処が付いた。それは、エジプトで奴隷だったイスラエルの民にとって、驚くべきことでありました。イスラエルが奴隷であった時のことを知っているのは、もうヨシュアとカレブしかいませんでした。ヨシュアはモーセと共にあった40年の出エジプトの旅のことも思い起こしたことでしょう。そして、ヨルダン川を渡って以来の様々な出来事を思い起こしたに違いありません。そのすべてが、主が自分たちイスラエルのために為してくださったことでした。「今あるは、ただ神の恵み。」そう思ったことでしょう。主が戦ってくださった、そのことを忘れてはならない。ヨシュアが第一に遺したかったのは、そのことでした。決して忘れてはならないこととして遺していかなければならない言葉でした。
イスラエルの中には、ヨルダン川を渡り、それぞれの部族に土地が与えられて、いつの間にか、それが当たり前だと思ってしまう者もいたでしょう。或いは、自分たちが一生懸命戦って勝利した結果だと思っていたものもいたでしょう。しかし、ヨシュアは、何よりも主が自分たちのために戦ってくださったことを忘れてはならない。そう告げたのです。このことを忘れてしまえば、神の民が神の民であり続けることはできないからです。
 私共が今、こうして生かされている。それは、ただ神様の恵みによります。父なる神様が御子を与えてくださり、イエス様が私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになり、復活された。そして、天に昇られ、聖霊を注いでくださった。更に、この地に教会を建て、礼拝を守ることができるようにしてくださり、私共一人一人に聖霊を注ぎ、信仰を与え、神の子とし、神の民に加えてくださった。すべて神様の恵みの御業です。今あるは、ただ神の恵みです。

4.遺す言葉(2) ~主の約束を信じて~
 ヨシュアは、この大いなる神様の恵みの御業を思い起こし、こう続けるのです。5節「あなたたちの神、主は、御自ら彼らをあなたたちのために押しのけ、あなたたちのために追い出される。あなたたちの神、主の約束されたとおり、あなたたちは彼らの土地を占領するであろう。」まだ戦いは終わっていない。しかし神様は、今まで事を起こしてくださったように、これからも事を為してくださるだろう。そう告げるのです。ヨシュアは、自分がいなくなった後、この民は大丈夫だろうかと、心配なんてしていないのです。それは、今までも神様が為してくださった、だからこれからも為してくださる、そう信じているからです。ここでヨシュアは、「主の約束されたとおり」と告げます。ヨシュアの将来への希望の源はここにあります。「主の約束」です。主の約束があるのです。だから大丈夫なのです。
このことは9~10節でも繰り返されています。「主が強大な国々をあなたたちのために追い払ってくださったから、あなたたちの行く手に立ちはだかる者は、今日まで一人もなかった。あなたたちは一人で千人を追い払える。あなたたちの神、主が約束されたとおり御自らあなたたちのために戦ってくださるからである。」今まで主が為してくださったことを思い起こし、そして「主が約束されたとおり御自らあなたたちのために戦ってくださる」と告げています。ヨシュアにとって、約束の希望の根拠は、この主の約束なのです。更に14節において、「あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。」と告げられています。ヨシュアはもう年老いています。この地上における希望はもうありません。では、何があるのか。それは自分がどうなるかということではなくて、主の民がどうなるか、そこに希望がある。それは主の約束に基づく希望であり、神の民全体に対する希望です。
 私共にしてみれば、キリストの教会の明日に希望があるということです。この富山鹿島町教会の明日に希望があるということです。私共自身は、やがて時が来れば地上の生涯を閉じなければならない。しかし、それで終わりではありません。永遠の命、復活の命の約束があるからです。しかしそれは、単に自分一人がどうなるかという希望ではありません。この永遠の命、復活の命の希望は、すべてのキリスト者に与えられているのですから、神の民すべての希望なのです。そして、その希望に生きる群れと共に主は歩んでくださり、神の国の完成へと導いていってくださるのです。主が約束されたからです。主が再び来られる日に向かって、神の民は歩み続けます。主の約束を信じているからです。この主の約束を信じて生きよ。それがヨシュアが第二に告げたことでした。

5.遺す言葉(3) ~神の民はどう生きるのか~
 第三に、だったらどう生きていけば良いのかを告げます。6節「だから、右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい。」、8節「今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。」そして11節「だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。」と告げます。主が自分たちのために戦ってくださった。そして、約束どおり、これからも戦ってくださる。「だから」です。「右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることを忠実に守りなさい」「主を信頼しなさい」そして「主を愛しなさい」です。これが何よりも大切なことです。ただ独りの神様を愛し、信頼し、従うのです。そしてそれは、具体的には、他の神々を拝まないということです。ここに私共の信仰の戦いがあります。信仰の戦いとは、ただ独りの神様を愛し、信頼し、従う、これに尽きるのです。

6.信仰の戦いを戦い抜く
 使徒パウロは、自分の子ほど年の離れた伝道者テモテに対して様々な助言をしました。先ほど、テモテへの手紙一6章11~16節をお読みしました。その14節で、パウロは「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。」と告げます。主が再び来られるのだから、そして、その時永遠の命を与えられるのだから、この約束を信じて、しっかり歩むようにと勧めています。私共はイエス様の救いの御業によって救われることになっている、いや既に救われている。だからといって、この地上での信仰の戦いがなくなったわけではない。12節で「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」とあるとおりです。約束を信じ、主を信頼し、主を愛する。それは、戦い抜きに全うされることではありません。私共は弱いのですし、すぐに誘惑に負けてしまうような者なのです。だから、そのことをしっかり弁えて、主に助けを求めて、しっかり戦わなければならないのです。しかし、それは主が共にいて、私のために戦ってくださる戦いです。必ず勝利することになっている戦いです。ですから、負けたらどうしようとびくびくする必要はない。でも、しっかり戦わなければなりません。その姿を次の世代の者たちや子供たちが見ている。そこに私共の信仰の証しが立ちます。
 ヨシュアだってそうでした。主を信頼し、主を愛し、主に従って、その時その時をしっかり戦ってきた。そして、主によって勝利を与えられてきた。だから、こうして次の世代の者たちに遺す言葉があり、それを皆が聞くのでしょう。少しも戦うことなく、或いは負けてばかりだったら、誰も聞かないし、遺す言葉もないでしょう。そもそも、神の民は消えてしまっていたでしょう。しかし、そうではなかった。

7.異教の民に囲まれた中で
 約束の地に入って定住の地を得たとはいえ、イスラエルは主なる神を拝まない民に周りを囲まれています。そういう中で、どうやって主のみを信頼し、愛し、従っていくのか。ヨシュアは、ここにイスラエルの最大の課題があることを見ていました。実際、このヨシュア記の後にあります士師記において、イスラエルの民はカナンの地の偶像を拝み、主なる神様を裏切るということを繰り返してしまいます。その度にイスラエルは攻め込まれ、士師が立てられて辛うじて守られる。しかし、士師が死んでしまうと同じ過ちを繰り返す。それが士師記に記されていることです。
 これはカナンに定住したイスラエルの課題であると共に、私共の課題でもありましょう。日本のキリスト教会の長年の課題は、信仰が子や孫になかなか受け継がれていかないということです。これはヨシュア記の後に士師記があるように、簡単ではありません。時間もかかることでしょう。ただ大事なことは、信仰というものを私個人の事柄として考えないということです。信教の自由の問題もありますし、個人の信仰は基本的人権の一つとして守られなければなりません。そうでないと、私共の信仰もなかったでしょう。この中で、クリスチャン・ホームに育った人がどれほどいるでしょう。日本の教会は、まだ初代のキリスト者が多数を占めています。個人の信仰がちゃんと認められなければ、初代のキリスト者は生まれないわけです。しかし、それを子に伝えるということを考えると、個人の信仰ばかり言ってもいられない。どうしても「家族の信仰」ということが大切になってきます。勿論、教会学校の働きは大切ですし、小児洗礼も大切なことだと思います。でも、やっぱり大きいのは家族の信仰ということになるのだろうと思います。食前の祈りが為され、毎週の礼拝を家族で守る。そして何よりも、愛情をもって夫婦仲良く子供を育てる。これが基本です。勿論、そうしていても、確実に子や孫に信仰が伝わるわけではありません。教会を一歩出れば、家を一歩出れば、キリスト教ではない宗教文化の中に身をさらしているわけですから、いつの間にかそれに染まってしまうということになるわけです。しかし、それでも、文字どおりの神の家族が形成され続けていかなければならないのでしょう。そして、大きな神の家族としての教会となることを信じて歩んでいくのです。
 先日の中部教区の常置委員会で、フィリピンから来ているキリスト者の群れと、岐阜地区の教会が交わりを持っているということが報告されました。インドネシアから来ているキリスト者の群れとは、三重地区の教会が交わりを持っています。私が「何人位集っている群れですか?」と尋ねますと、「だいたい50人くらいだと思いますが、そういう数え方はしていない。」と言われました。どういうことかと申しますと、このフィリピンの合同教会の人々やインドネシアから来ている人々のキリスト者の群れは、どちらも家族単位で教会に集っているので、何人ではなくて何家族と数えるのだ、と言うのです。家族単位ですから、10数家族で50人くらいになってしまうわけです。これは現地においてもそうなのです。ですから、礼拝は何百人にもなるのが当たり前ということになります。ちょっと日本では考えられない姿です。「個人の信仰」から「家族の信仰」へと展開していかなければならないことを強く思わされました。

 私共は神様の永遠の選びによって召し出され、イエス様の尊い血潮によって贖われ、神の子とされました。聖霊を注がれ、信仰を与えられ、神の民に加えられました。私共の地上の生涯は、やがて閉じられます。しかし、神の民としての教会は建ち続け、救いの御業に仕え続けていきます。イエス様が再び来られる時まで、建ち続けていきます。そして、イエス様が再び来られる時、すべての神の民が復活し、御名をほめたたえるのです。それが主の約束です。ここに私共の希望があります。この希望に支えられ、それぞれの家族が共に主を拝む家族となっていくよう祈りつつ、しっかり信仰の戦いを為してまいりたいと願うのです。

[2020年2月23日]