1.はじめに
先週の水曜日からレント、受難節に入りました。今年のイースターは4月12日です。イースターまでの日曜日を除く40日間をレントと呼び、かつては音曲を禁じたり断食したりしていました。現在ではそのようなことは行ってはいませんが、イエス様の御苦難を覚える大切な時としています。元々は、イースターに洗礼を受ける者の準備の期間とされていました。私共は今年のレントの期間中、共々に読み進んでおりますマタイによる福音書の、ちょうど受難週の記事から御言葉を受けていくことになります。
2.宮清めの後
受難週の始めの日、日曜日に、イエス様はろばの子に乗ってエルサレムに入られました。そして、すぐに神殿に向かい、「宮清め」と呼ばれることをなさいました。体に障害を持つ者や異邦人たちを疎外し、決められたいけにえを献げてさえいればそれで良しとするエルサレム神殿の礼拝のあり方に対し、イエス様は、祈りの家と呼ばれるべき神殿を強盗の巣にしている、と激しく批判されたのです。そして、両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛けを倒したりして、人々を追い出されました。この出来事はすぐに、エルサレム神殿を管理していた祭司長たちの所に報告されたことでしょう。
3.イエス様の権威を問う祭司長たち
それで、次の日にイエス様がエルサレム神殿において人々に教えておられると、祭司長や民の長老たちが近づいて来て、イエス様にこう問うたのです。23節b「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」これはただの質問ではありません。尋問です。神殿において騒ぎを起こした者に対して問いただしている。その答え如何によっては、ただじゃおかない。そういう問いです。
ここで、祭司長や民の長老たちは権威を問題にしています。当然、自分たちには権威がある、それを前提としています。このエルサレム神殿における営みはすべて、自分たちの権威の下で行われている。両替人にしてもいけにえ用の動物を売ることにしても、自分たちの権威の下だ。自分たちがそうしても良いという許可を出したから、彼らはその営みをしている。それを否定したり邪魔したり、まして神殿を強盗の巣だと言う。一体お前は何様のつもりか。しかも、人々に教えを宣べている。こんなことを続けるなら、ただじゃ済まないぞ。そうイエス様に迫ってきたのです。
これは祭司長たちにしてみれば、常識的と言いますか、当たり前のことを言っているのでしょう。エルサレム神殿を中心とする当時のユダヤ教のシステムに対して逆らう者、先祖以来の救いの秩序を乱す者だ。そうイエス様のことを受け止めたのです。秩序を乱す者に対しては、それを止めさせるか、止めない場合には排除するしかない。それがユダヤ教、更にはユダヤ社会を守る立場にある者にとって、当然のことでした。彼らはそれを行う権威があるし、それをもとにした実際の力、つまり権力をも持っていた。彼らはイエス様に「何の権威でしているのか。だれが権威を与えたのか。」と問うことによって、「これはお前が勝手にやっていること、言っていることであって、何の権威もない。」ということを、イエス様の教えを聞いている人々に明らかにしようとしたのでしょう。彼らは、自分たちには権威があることを疑っていません。彼らの権威は、この世における実際の力、つまり権力として機能しておりました。
4.権威の根本
ここでイエス様は、彼らが自ら持っているを疑うこともなかった権威について、根本から問いただします。イエス様はこう答えたのです。24~25節a「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」イエス様は洗礼者ヨハネを持ち出して、権威とは何か、その根本を問いただしたのです。権威には「天からのもの」と「人からのもの」がある。あなたたちが問題にしているのはどっちの権威なのか。そもそも、権威は神が与えたもの以外にはないだろう。あなたたちはそのことが分かっているのか。そう問うたのです。
洗礼者ヨハネはイエス様に洗礼を授けた人ですが、イエス様の道備えのために神様から遣わされた人でした。洗礼者ヨハネの告げたことは、ひたすら「悔い改めよ。」でした。そして、エルサレム神殿における礼拝に欠けていたもの、それは何よりもこの「悔い改め」だった。人々は決められた献げ物を献げて、自分たちは正しい者、神の民、神様に愛されている特別な者だと思っていた。そして、自分たちは異邦人とは違う、彼らは汚れた者、救われることのない者たちだと思っていた。これを支えていたのがエルサレム神殿であり、その運営を任されていたのが祭司長たちでした。エルサレム神殿の礼拝を守り、それによって保証される救いのシステムを守るのが自分たちなのであって、自分たちも、自分たちが行っていることも当然正しい。正しいのですから、悔い改める必要などありません。
つまり、エルサレム神殿を権威の源としていた祭司長や民の長老たちは、洗礼者ヨハネのことを苦々しく思っていましたが、彼が活動していたのはエルサレム神殿から遠く離れたヨルダン川でしたので、放っておくこともできました。しかし、イエス様は彼らの本拠地であるエルサレム神殿の中に入って来て、事を起こし、洗礼者ヨハネと同じことを言っている。エルサレム神殿の権威を否定し、救いのシステムそのものを否定している。これは無視できません。だから、イエス様に対して、何の権威か、だれに与えられた権威か、と問いただしたのです。しかし、その問いが、逆にイエス様から自らの権威を問われることになってしまいました。
5.暴かれる祭司長たちの権威の実態
25節b~27節a「彼らは論じ合った。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と我々に言うだろう。「人からのものだ」と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。』そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。」彼らはイエス様の問いに答えることはできませんでした。何故なら、「天からのもの」と答えれば、「なぜヨハネを信じなかったのか。」と言われるし、「人からのもの」と答えれば、洗礼者ヨハネを預言者と信じている群衆に反発され、ひいては暴動を引き起こしかねない。それで彼らは「分からない」と答えたのです。
ここに、彼らの言う権威がどの程度のものであるかが明らかになってしまいました。彼らの権威は人を恐れるものでしかなかった。つまり、彼らはまことに神に与えられた権威に生きる者ではなかった、そのことが明らかになってしまったのです。彼らは、ヨハネの洗礼は「人からのもの」と間違いなく思っていたでしょう。しかし、それが言えなかった。人を恐れていたからです。そう答えれば、洗礼者ヨハネを信じている民衆が暴動を起こしかねないからです。しかし、洗礼者ヨハネは人を恐れませんでした。それ故、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに対して、兄弟の妻であったヘロディアを妻としたことを批判しました。そして彼は獄に入れられ、首をはねられました。
イエス様はここで、人からの権威は人を恐れるが、神からの権威は人を恐れはしない。本当の権威は神様によって与えられるものだ。あなたたちは自分には権威があると思っているが、それは所詮人からのものであって、神から与えられたものではない。そして、わたしの権威は、洗礼者ヨハネと同じように神からのものだ。そのことをお示しになったのです。そしてこのことは、イエス様もまた、洗礼者ヨハネと同じように権力というこの世の権威によって殺される、そのことをも暗示しているのでしょう。
6.本当に恐れるべきお方
イエス様はここに至るまでも、マタイによる福音書10章28節において、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と言われました。人ではなくて神を恐れる。これがイエス様の歩まれた道であり、同時に、イエス様によって新しくされた者の歩む道です。
イエス様の弟子たちは、イエス様が十字架にお架かりになった時に皆逃げました。自分たちも捕らえられることを恐れたからです。人を恐れたのです。しかし、復活のイエス様に出会ってからの弟子たちは、全くの別人になったように、人を恐れることなく、ただ神を恐れる者として歩みました。使徒言行録5章29節には、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」とペトロと他の使徒たちが告げた言葉が記されています。これは、使徒たちが最高法院に立たされ、大祭司から「あの名(=イエス様)によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。」と言われた時の答えです。彼らはもう人を恐れることはありませんでした。彼らは、最高法院も大祭司も恐れませんでした。そして、全世界に出て行って、イエス様こそ救い主であることを宣べ伝えたのです。
7.神様の権威に生きる者が弁えるべき二つのこと
ここではっきり弁えておかなければならないことが二つあります。一つは、神からの権威に生きる者は徹底的に人に仕えるということです。神の権威に生きたイエス様の歩みは、十字架への歩みでした。自ら十字架にお架かりになって、私共の一切の罪の裁きを我が身に負われるという歩みでした。イエス様の権威は、人々の上に立って偉そうにするような権威ではなかったということです。イエス様の後に従って神の権威に生きる私共も同じことです。神様は私共に、「神を愛し、人を愛すること」「神に仕え、人に仕えること」をお命じになりました。この御心に従って生きることが、私共が神様の権威に従って生きるということなのです。
第二に弁えておかなければならないことは、私共はイエス様ではないということです。当たり前すぎることですけれど、このことをはっきり弁えませんと、大変な勘違いをしてしまうことになります。イエス様はまことの神の御子として、まことの王としての権威を神様から与えられておりました。しかし、私共はそうではありません。そのことを弁えませんと、まるで自分がイエス様であるかのように、この世の権威を否定することが正しいことであるかのように振る舞いかねません。イエス様が宮清めを為されたように、自分も教会を糺すのだと言いかねません。1960年代から1970年代にかけて学生運動が盛んであった頃、若者たちの間で教会の権威を否定することが正しいことだと主張された時代がありました。現在の70歳代、80歳代の方々が学生だった頃です。主の日の礼拝において牧師が説教をしていると、学生が講壇に上がってきて「ナンセンス!」と叫んで牧師の説教原稿を破るということまで起きた。まことに愚かなことです。私共はイエス様ではありません。間違うことだって少なくない罪人です。そのことをしっかり弁えて、神様の御前に謙遜な者として生きる。神様の権威に生きるということは、この謙遜と切り離すことはできません。
人はいつも、自分は正しく、他の人が間違っていると思うものです。それが罪というものです。罪を弁えないで神の権威を振り回せば、私共は多くの人を傷付けてしまうでしょう。確かに、私共はイエス様の救いに与り、人を恐れず神を恐れる者とされました。しかし、私共自身が権威を持つ者となったのではありません。私共は、十字架のイエス様に従う者とされました。それは、謙遜にそして徹底的に、神と人を愛し、神と人とに仕える者として生きる者とされたということです。
8.神様の召命と権威(エレミヤの召命から)
先ほど、エレミヤ書の1章4節以下をお読みしました。エレミヤが預言者として神様から召命を受けた場面です。これ以降、エレミヤは預言者として、神様の権威の下で生きる者とされます。この召命を受けた時エレミヤは、6節で「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と言います。彼は、自分が神様の召しにふさわしい者ではないことを自覚しています。しかし、神様はエレミヤを預言者として立てます。7~8節「しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す』と主は言われた。」とあります。エレミヤは自分で観察し、判断し、言葉を紡ぎ、語るのではないのです。エレミヤが預言者として立たされたということは、ただ神様が語れと命じられた言葉を語る者として立てられたということです。その意味では、エレミヤが若いとか、経験が無いとか、弁が立たないとか、一切関係ありません。更に神様はエレミヤにこう告げます。9節b~10節a「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。」エレミヤの預言者としての権威は、ただ神から召命を受け、語るべき言葉を与えられたというこの一事に懸かっています。エレミヤは預言者として召され、神様が語れと命じられたことを語る。そこにエレミヤの権威の源があります。
神様が与えられる権威は、この召命の出来事と結ばれています。キリストの教会を秩序づける権威も同じです。牧師も長老も皆、神様の召命を受けてその任に当たっているのです。牧師も長老もその人をその職務に召してくださった神様に依っています。その人の人柄や能力や学歴などとは何の関係もありません。召命無き権威など、キリストの教会には何一つ存在しません。親が牧師だったので私も牧師になりましたなどという話は、笑い話でしかありません。勿論、牧師の子が牧師になることはあります。それは、その子が神様から召命を明確に受けたからです。それ以外の道はありません。
それはすべてのキリスト者においても同じことです。キリスト者は召命を受けて、神様に召し出されて、聖霊を受け、信仰を与えられ、洗礼を受けるのです。そして、キリスト者という新しい存在、主の御名をほめたたえ、主の御心に従い、主の御名を語り伝える者として立てられ、遣わされるのです。その歩みを特徴付けるのは、謙遜と愛です。私共は、人柄が良いから、熱心だから、神様に選ばれ、召し出されたのではありません。ただ、神様が私共を愛してくださったからです。権威は、私共を選び、召し出し、救ってくださった父なる神様とイエス様にしかありません。私共はただこの方を愛し、ほめたたえ、仕えていくだけです。ここに神の権威に生きる者の姿があります。
只今から聖餐に与ります。私共を召し出してくださった神様が私共に与えられた救いの恵みを心に刻む時です。十字架のイエス様、復活のイエス様と一つにされて、いよいよ主を愛し、これに仕え、御名をほめたたえ、宣べ伝える者としてここから遣わされて参りたいと思います。
[2020年3月1日]