1.「二人の息子」のたとえ
今朝与えられております御言葉は、小見出しが「『二人の息子』のたとえ」となっています。マタイによる福音書だけに記されている、イエス様のたとえ話です。説明の必要がないほど、とても簡単な話です。お父さんが兄に「今日、ぶどう園へ行って働きなさい。」と言った。兄は「いやです。」と答えたけれど、後で考え直して出かけた。父が弟のところへも行って同じことを言うと、弟は「お父さん、承知しました。」と答えたが、行かなかった。この二人の兄弟のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。子供だって分かります。始めは「いやです。」と言ったけれども、後で考え直して出かけた兄の方でしょう。 この話そのものは、とても単純な話です。返事は良かったが言われたことをしなかった弟は、口では調子のいいことを言うけれど、ちっとも動かない、働かない。何て奴だと思います。こんな兄弟は実際に結構いるのかもしれません。私は四人兄弟の末っ子でして、末っ子は調子がいい、甘えっ子だとよく言われました。妻は長女ですので、この話になりますと、どうも私の方が分が悪い。末っ子だって口だけじゃない、調子がいいだけじゃないと言うのですけれど、どうも分が悪い。しかし、このイエス様のたとえ話は、兄弟のどちらが調子がよくて口だけなのか、そんなことを言おうとしている話ではありません。
2.行かなかったのは兄?それとも弟?
ちなみに、このたとえ話は、口語訳と新共同訳では正反対の話となっています。口語訳では、行かなかったのが兄で、後で考え直して出かけたのは弟になっていました。これは翻訳する際に用いた本、底本と言いますが、これが採用している写本が違ったからです。聖書には原本というものはありません。みんな写本です。それもほとんどが断片で残っているものです。その断片になった写本を比べて、より古いであろうと思われる断片を採用し、それを集めて底本とします。この底本は改訂され続けています。そして、それを様々な言語に翻訳し、私共はそれを用いているわけです。
兄が後で考え直して出かけたという方が、古い。そう考えて、新共同訳の底本ではこちらを採用したわけです。どうして古いと考えたかと言いますと、この兄と弟はそれぞれ、徴税人や娼婦たち、そして祭司長や民の長老たちを指しているわけですが、当時のユダヤ教の常識に従えば、祭司長たちを兄つまり上、徴税人たちの方を弟つまり下とするのが当たり前です。祭司長たちを弟、徴税人たちの方を兄とするのは考えにくいわけです。だからイエス様もそのように言われたに違いない。そのように考えて、後の写本家が逆に書き換えたのだろうというわけです。写本のどちらが古いかを考える時には、「あれ、ちょっと変だな。これは何か違うのではないか。」そういう方が古いと考える。と言いますのは、後になって、そのちょっと違うのではないかというところが写本家によって修正されるということが起きるからです。逆に、わざわざ分かりにくいように書き換えるということは考えにくいでしょう。新共同訳は、「あれ?どういうこと?」という方を採用したのです。兄は後で考え直して、父の言いつけどおりにぶどう園へ行った。弟は口では良い返事をしたけれど行かなかった。
3.このたとえ話の解釈
さて、これはたとえ話ですので、この話に出てくるものが何を指しているのか、そのことをはっきりしなければなりません。これを取り違えますと、たとえ話が言おうとしていることと全く違うことを受け取ることになってしまいます。順に見ていきましょう。
イエス様のたとえ話で「父」と出てくれば、神様のことです。「ぶどう園で働く」というのは、神の国で働く、神様に仕える、つまり救われるということを意味します。では、始めは「いやです。」と言ったけれども、後で考え直して出かけた兄は誰を指すのか。これが、このたとえ話をどう理解するかの鍵となります。31節cでイエス様は「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」と言われていますので、この兄は徴税人や娼婦たちのことということになります。そうであれば、良い返事だけで結局出かけなかった弟は、神殿の祭司長や民の長老たち、つまり当時のユダヤ教の指導者たちのことということになります。イエス様はここで大変なことを言われたのです。当時のユダヤ教が教えている救いの秩序を根底から覆すことです。そもそも、兄が徴税人や娼婦たちで、弟が神殿の祭司長や民の長老たち。こんなことは誰も考えたことさえなかったでしょう。イエス様がこのたとえ話で言われたことは、そのような誰も考えたことさえない、当時のユダヤ教の常識からは全く考えられない、実に驚くべきことだったのです。
4.当時のユダヤ教の救いの秩序に対して
当時のユダヤ教は、エルサレム神殿を中心とした宗教体系です。日々の生活において律法を守り、エルサレム神殿で決められたいけにえを献げ、そのことによって、自分は神様の前に正しい者、救いに与る者、そう思っていた。そのエルサレム神殿の運営を任されていたのが祭司長であり、民の長老たちでした。自分たちは正しい人なのですから、彼らは悔い改めることがない。エルサレム神殿の礼拝において決定的に欠けていたのは、この悔い改めです。それを最初に指摘したのは洗礼者ヨハネでした。洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で悔い改めのしるしとしての洗礼を施しました。彼はファリサイ派やサドカイ派という当時のユダヤ教の指導者たちに対して、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイによる福音書3章7節b~9節)と告げたのです。
ファリサイ派の人々、これは律法学者たちに代表される人々です。彼らの教えは律法主義と呼ばれます。そして、サドカイ派の人々、これは神殿の祭司たちに代表される人々です。彼らの教えは祭儀主義と呼ばれます。ファリサイ派の人々もサドカイ派の人々も、自分たちはアブラハムの子孫であって、律法を与えられ、エルサレム神殿を与えられた特別な民であると思っておりました。しかも、自分たちは律法を守り、エルサレム神殿で決められたいけにえを献げているのですから、自分たちこそ正しい人、神様に愛され、確実に救われる者だと信じて、疑っていませんでした。
しかし、洗礼者ヨハネもイエス様も、それではダメなのだ、自ら正しい者だなどと考えてもみるな、人は神様の前に正しい者などではあり得ない、ただ神様の前に悔い改め、神様の赦しに与るしかない、そういう者なのだと告げたのです。それは祭司長たちや民の長老たちにとって、とても受け入れられることではありませんでした。それは自分の権威も自分の正しさも、すべてを捨てるということだったからです。多くの民衆が、洗礼者ヨハネのもとに行って洗礼を受けました。民衆は、洗礼者ヨハネこそ神様が遣わされた預言者だと信じておりました。しかし、エルサレム神殿を牙城としていた祭司長たちは、洗礼者ヨハネなど少しも認めていなかったのです。洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって首をはねられました。そして、今度はイエス様がエルサレム神殿に来た。イエス様はエルサレム神殿に来るなり、宮清めを行い、強盗の巣呼ばわりした。エルサレム神殿を管理していた祭司長たちがこれを放っておくことはできません。それでイエス様のところに来て、「あなたは何の権威でこんなことをしているのか。」と詰め寄ったのです。これが先週見た23節以下のイエス様と祭司長たちとの問答でした。イエス様は、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と逆に問い返しました。祭司長たちは、ヨハネの洗礼が天からのものだと言えば、どうしてあなたがたはヨハネを信じなかったのかと言われるし、人からのものだと言えば、民衆はヨハネを信じているから暴動が起きるかもしれない、そんなことを考えて、結局「分からない」としか答えられなかったのです。
5.後で考え直した
そして、この「二人の息子」のたとえへとつながっています。イエス様はこのたとえで、徴税人や娼婦という、当時のユダヤ教では、決して救われないと考えられていた人々、罪人の代表、それを兄として語りました。そして、このたとえを聞かされている祭司長たちを弟として語りました。これ自体がもう、祭司長たちには耐えられないほどの屈辱でした。どうして自分たちが徴税人や娼婦より下なのか。そもそも、あんな者たちとは兄弟などではない。そう祭司長たちは思ったことでしょう。しかし、イエス様は徴税人や娼婦を兄とし、しかも彼らの方が神の国に先に入る、つまり先に救われる、そう告げたのです。これは、祭司長たちには聞くに堪えない言葉だったことでしょう。
では、イエス様はどうしてそんなことを言われたのでしょうか。理由は簡単です。彼らはヨハネを信じたからです。ここでイエス様は、御自分と洗礼者ヨハネとを重ねておられます。「悔い改めよ。神の国は近づいた。」これがイエス様の第一声でした。そしてこれは、洗礼者ヨハネが告げていたことと同じでした。洗礼者ヨハネは、まことの王、まことの救い主であるイエス様の前に道備えをする者として遣わされた者だったからです。
確かに、徴税人や娼婦がしていたことは、ユダヤ人から見れば良いことではなかったでしょう。徴税人は、ローマから税金を徴収する権利を買い、ユダヤ人たちから税金を徴収していた人々です。勿論、決められただけの額を取り立てていたのでは実入りがありませんから、水増ししていたでしょう。ローマの手先になって同胞を苦しめる裏切り者、罪人そのものと見られていました。また、娼婦というのは、単に不道徳という以上に、偶像礼拝をする神殿で宗教行為として売春するので、偶像礼拝に連なる罪人と見られていた人々です。彼らは律法を守らない。だから、イエス様はこのたとえ話しの中で、神様から「ぶどう園へ行って働きなさい。」と言われても、「いやです。」と言った兄にされたのです。しかし、彼らは洗礼者ヨハネを信じた。悔い改めた。それが「後で考え直して出かけた」ということです。しかし、祭司長たちは悔い改めなかった。洗礼者ヨハネを、そしてイエス様を、信じなかった。それは神様の「ぶどう園へ行って働きなさい。」という言葉に対して、「お父さん、承知しました。」と返事は良かったけれど、結局のところ、神様の御心に従うことはなかった。何故なら、洗礼者ヨハネを遣わし、イエス様を遣わされた父なる神様の御心を無視したからです。
このように見てくると、このたとえ話は実に、エルサレム神殿を中心とした、律法を守ることによって救われるというユダヤ教に対して、イエス様が真っ向から、それは違うとお語りになったものであることが分かるかと思います。
6.私共はどこに立つのか
問題は、私共はどこに立つのかということです。これも説明するまでもないほどに明らかなことでしょう。私共も、神様にぶどう園で働きなさいと言われて「いやです」と言ったのです。神様なんて知らないし、自分の人生は自分で決める、神様の御心なんて関係ない、そう思って生きていた。しかし、イエス様に出会って悔い改めたのです。イエス様を我が主、我が神として信じ、この方に従っていく者になった。「後で考え直した」のです。
それは、幼い時から教会に来ていた人も、大人になってから教会に来た人も変わりません。幼い時から教会に来ていた人は、幼い時から神様に従って生きてきたか。そんな人はいません。なんで日曜日なのに、学校が休みなのに、教会なんて行かなければいけないのか。クリスチャン・ホームに育ってそんな風に思ったことが少しもなかった人はいないでしょう。嫌だけど、両親が行くから仕方がない。そう思って教会に来ていた。或いは、礼拝はつまらないけれど、友達に会えるから来ていた。そんなところでしょう。しかし、「後で考え直した」のです。自分が罪人であることを知った。そして、その罪を赦すために、イエス様が十字架にお架かりになってくださったことを知った。それ故、この方を愛し、信頼し、従う者として生きていこうと思ったのです。
自分は徴税人でも娼婦でもないと思っている人もいるでしょう。確かに、私共は世間から犯罪者と見られるような者ではないかもしれません。しかし、聖なる神様の前に立つならば、だれも自分は罪人ではないと言い張れる人などおりません。
イエス様は、徴税人も娼婦も悔い改めるなら神の国に入ると約束してくださいました。この約束から漏れる人は一人もいません。神様は、今までの私共の歩みを問わないのです。人は問います。今まで何をして来たのか。どんな風に生きて来たのか。しかし、神様は問わない。ですから、教会も問いません。教会が問うのは、悔い改めてイエス様を我が主・我が神と信じ受け入れたかどうか、この一点だけです。その一点に私共の救いのすべてが懸かっています。
7.今日、御声を聞いたなら
神様は兄に対してこう告げました。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい。」この御言葉が今朝、私共にも告げられています。神様は私共に向かって「子よ」と呼ばれます。私共は神様の子です。神様がそう呼んでくださるからです。そして、「今日、ぶどう園へ行って働きなさい。」と言われます。「今日」です。明日でも、一ヶ月後でも、一年後でもありません。「今日」です。詩編95編7節「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」、ヘブライ人への手紙4章7節「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。」とあるとおりです。私共は実にかたくななのです。私の正しさ、私の考え方、生き方、そういうものを持っていて、それをなかなか捨てられない。祭司長たちもそうでした。しかし、私共は「今日、ぶどう園へ行って働きなさい。」との御言葉を受けました。今までどうだったかは問題ではありません。私の考え方がどうであるか、自分の生き方がどうであるか、そんなことも関係ありません。私共は今日、御声を聞きました。
私共はここから、それぞれ遣わされている場へと戻っていきます。そこが私共のぶどう園です。そこで主の業に仕え、励むのです。神様を愛し、人を愛し、神様に仕え、人に仕える者として歩むのです。それが、神の国に入ることを約束された私共の為すべきことだからです。
[2020年3月8日]