1.はじめに
レント、受難週に入って3回目の主の日を迎えています。レントには6回の主の日があり、6回目の主の日に始まる週が受難週となります。そして、その次の主の日がイースターです。今年のレントの期間、私共はマタイによる福音書の21章、イエス様のエルサレム入城に始まる受難週の記事を共々に読み進めております。
イエス様はエルサレムに入られると、すぐにエルサレム神殿に向かい、宮清めと呼ばれる業をなさいました。そこから、神殿の祭司長たちとの大変厳しいやり取りが続きます。今朝与えられております御言葉もその流れにあります。今朝与えられております御言葉は、45~46節「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」との言葉で終わっています。遂に、祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエス様を捕らえようとします。勿論、ただ捕らえるだけで済ますはずがありません。しかし、群衆を恐れて、この時は見送りました。イエス様が捕らえられるのは木曜日の夜です。その時は刻々と近づいています。しかし、まだその時ではありません。祭司長たちは捕らえたかったのですが、まだ時が来ていませんでした。時とは神様が定められた時です。
2.イエス様が求められる悔い改め
今朝与えられた御言葉において、イエス様のたとえを聞いていた、聞かされていた人々は、45節にありますように「祭司長たちやファリサイ派の人々」でした。細かなことですが、23節では「祭司長や民の長老たち」となっていました。民の長老たちがファリサイ派の人々だったということなのでしょうけれど、この言い換えには意味があると思います。宮清めの出来事から一貫してイエス様が告げて来られたことは、悔い改めることのない当時のユダヤ教指導者たちへの批判です。自分は正しい者であることを疑いもせず、信仰深い者だと思って神様の前に立っている。その代表が祭司長たちであり、ファリサイ派の人々でした。祭司長たちは、当時のユダヤにおける分類ではサドカイ派に属する人々です。彼らは、エルサレム神殿における礼拝と定められたいけにえを献げることによって、罪は赦されると信じて疑わない人々でした。祭儀主義と言って良いでしょう。心は問わないのです。一方、ファリサイ派の人々は、律法を守ることによって神様の前に自らを正しい者とされることを疑わない人々でした。これは律法主義です。こちらも心は問わないのです。
しかし、イエス様もその直前に現れた洗礼者ヨハネも、人々に求めたのは「悔い改め」でした。イエス様は悔い改めることのない人々に対して、特に信仰において皆を指導する立場の人々に対して、大変厳しく批判しました。この「悔い改め」は「反省」とは違います。反省は、自分で悪かったと思って、もうああいうことはしないでおこうと思うことですが、基準は自分ですから、新しくはなれません。それに、この反省というものは、大変甘いものになるのが普通です。自分も悪かったけれど、相手も悪いと思う。或いは、あれは悪かったけれど、あれ以外のところの自分はなかなか良い奴だと思う。言い訳なしに、徹底的に自分が悪いとは思わないものなのです。確かに人間関係というものは、どちらかが一方的に悪いということは少ないのでしょう。また、すべてがダメで、何の良いところもないという人もいないでしょう。反省というのは、そのような人間同士のレベルでのことですから、結局のところ、大変甘いものになってしまう。人間は自分には甘いものだからです。勿論、反省することは意味が無いとは言いません。反省することも大切でしょう。しかし、聖書が告げる悔い改めは、それとは全く違うのです。悔い改めは、何よりも神様の前に立つのです。神様の前に立つ時、私共は初めて、一切の言い訳をしないで自分の罪を認めることができるのでしょう。それは、あの時あの人にこんなことをしてしまった、あんなことを言ってしまった、そういう所から始まりますけれど、もっと根本的に、私という人間そのものが、神様なんて関係ないと思って生きていた、その存在のあり方自体が間違っていた。これはもう神様に赦していただかなればどうにもならない。そこに立って、神様に赦しを求める。それが悔い改めです。悔い改めにおいては、言い訳は一切出てきません。そして、私共が悔い改める時、神様は必ず赦してくださいます。この神様の赦しに与って、人は新しくなります。神の子、神の僕として、新しい命に生きる者となる。イエス様が私共に求めておられるのは、いつもこの悔い改めなのです。
イエス様は、この悔い改めによって、私共が神様の赦しに必ず与ることができるように、私共のために、私共に代わって十字架の裁きをお受けになった。イエス様が既に私共の裁きを受けてくださったが故に、私共の悔い改めは神様によって必ず受け入れていただける。そして新しい存在、神の子・神の僕という新しい存在に生まれ変わるのです。神様が造られた本来の人間の姿を回復していくのです。
3.「ぶどう園と農夫」のたとえ話
さて、今朝与えられた御言葉は、「『ぶどう園と農夫』のたとえ」という小見出しが付いています。これはマルコにもルカにも記されているものです。こういうたとえ話です。33節b~39節「ある家の主人がぶどう園を創り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」というものです。これはたとえ話ですから、一つ一つが何を指しているのか、何をたとえているのか、そのことを考えなければなりません。
まず出て来るのは、「ある家の主人」です。これは神様のことを指しています。次に「ぶどう園」です。これは先ほどイザヤ書をお読みしましたが、そこにも出て来ました。旧約の伝統においては、「ぶどう園」はイスラエルの民、或いは神の民、神の国を指します。神様はイスラエルを、エジプトの奴隷の状態から様々な奇跡をもって救い出し、カナンの地を与えてくださいました。そして、十戒に代表される律法を与え、神様の御心に従う道を教えてくださった。困難な時には良き指導者を与えて導いてくださいました。それが、「垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」たということです。必要のすべてを備えてくださったということです。それを「農夫」に貸した。この「農夫」というのがユダヤ教の指導者たちのことです。祭司長たち、そしてファリサイ派の人々です。収穫の時が近づいたので、収穫を受け取るために主人は僕たちを送った。ぶどう園の主人はぶどう園を造って、それを農夫に貸したわけですから、小作料を受け取るのは当然のことでしょう。ところが農夫たちはこの僕を捕まえて、「一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。」というのです。なんてひどい農夫たちでしょう。主人が怒って農夫たちを捕まえて処刑してしまっても当たり前です。ところが、この主人はそうはしないのです。それどころか、この主人は更に他の僕たちを前より多く送ったのです。何というお人好しでしょう。この「僕」は神様から遣わされた預言者を指しています。この中には洗礼者ヨハネも入っているでしょう。イスラエルの歴史は、預言者たちを神様が遣わしてくれたのに、その預言者の言葉を受け入れない、これに従わない、その連続でした。そして最後に、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう。」と言って、主人は自分の息子を送ります。このぶどう園の主人はどこまでお人好しなんでしょう。しかし、農夫たちはこの息子も捕まえて殺してしまう。この「息子」とは、まさにイエス様のことです。イエス様はここで、御自分が祭司長たちに捕らえられ、十字架に架けられて殺されることをはっきり分かっておられました。
イエス様はここまで話して、このたとえ話を聞いていた祭司長やファリサイ派の人々に聞きました。40節「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らはこの時まだ、悪い農夫たちが自分たちのことを指しているとは思っていなかったのでしょう。彼らは、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」と答えたのです。
この答えを受けて、イエス様は更にこう言われました。42節b~44節「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」ここに引用されているのは詩編118編22~23節です。「家を建てる者の捨てた石」、これがイエス様です。しかし、この捨てられた石が隅の親石、家全体を支える石ですね、これになる。この「家」は、新しい神の民、キリストの教会を指しています。こうして、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」とイエス様がお話しになってやっと、このたとえ話のとんでもない農夫が自分たちのことを指していたと、祭司長たちやファリサイ派の人々は気づきました。何という侮辱。もう我慢できない。どこまで勝手なことを言えば気が済むのか。このまま済ますわけにはいかない。痛い目に会わせてやる。そう思った。それで祭司長たちやファリサイ派の人々はイエスを捕らえようとしたのです。でも、出来ませんでした。
4.何故、農夫たちは僕や息子を殺したのか?
このたとえ話の中の一つの大切な点は、どうして農夫たちは僕や息子を殺したのかということです。イエス様は38節で、「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。」と話し合ったと言っています。このぶどう園は息子が相続する財産ですが、それは主人のものです。つまり、農夫たちは主人のものを自分のものにしようとしたということです。神様のものを自分のものにしてしまう。そのためには神様の僕も神様の息子も邪魔なだけだということです。もっと言えば、神様だって邪魔なのです。神の国、神の民、或いは救いというものは神様のものですが、それを自分の考え、自分の作ったシステムによって自分のものにしてしまうということです。祭司長たちは、エルサレム神殿においていけにえを献げていればいいという救いのシステムを作り上げました。また、ファリサイ派の人々は、日常のこまごました所まで律法の網の目を張り巡らせ、この律法を守っていればいいという教えを作り上げました。神様の御心を思うこともなく、自分の正しさや自分たちが作り上げた宗教システムを守ることばかりに心を使っている。
私は、この祭司長やファリサイ派の人々の心が分かります。私の中にもこれと同じ心があるからです。自分の正しさの中に入らないものを排除する心です。これは誰の心にもあります。私共は祭司長たちやファリサイ派の人々とは違うと言って、のんきにこのたとえ話を聞くことはできません。祭司長たちやファリサイ派の人々が特に悪人だったわけではない。人間の基準で見れば、真面目で立派な人たちだったでしょう。しかし、そんなものは神様の前に出れば、何ほどのものでもありません。私共が救いに与るためには何の役にも立たないのです。
5.罪の根である私の正しさ
私は月に2回刑務所に行っていますが、あそこでは正しい人と悪い人とがくっきり線が引かれています。1回は聖書研究クラブというクラブ活動です。刑務所の中には受刑者の為の俳句クラブとか、英会話クラブとか、民謡クラブとか、色々あります。その中の一つに聖書研究クラブというものがあって、今は5人の人が参加しています。私はその人たちを前にして、聖書の話をするわけです。やっていることは、家庭集会などと変わりません。その受刑者の横には刑務官が一人付いています。私はいつも5人の受刑者に対してではなく、刑務官を含めた6人の人に向かって話をしています。神様の前に出れば、刑務官と受刑者といった刑務所の中の正しい人と悪い人の区別など、何の意味もないからです。
しかし、目に見えるところしか見えない私共には、それがなかなか分かりません。そして、いつの間にか、自分を正しい者の所に置いてしまうのです。インターネット上には、「私の正しさ」があふれています。みんな自分は正しいと思っている。そして、自分と考えの違う人は分かっていない人だと非難し、排除しようとする。みんな同じです。それが罪人である人間というものなのです。
この自分の正しさに固執する私。その私が新しくなるためには、神様の御前に悔い改め、赦しを求めるしかありません。私共の中にある罪は、一度悔い改めて赦されれば、一度新しくされれば、それでもう大丈夫というようなものではないからです。神様の愛、神様の御心以上に、自分の正しさに固執する私がいつの間にか出て来る。その度に私共は、何度でも悔い改める。「神様、赦してください。新しくしてください。」そう祈るしかない。神様はその度に私共を「我が子よ」と呼んでくださり、新しくしてくださいます。そして、その新しさは、何よりもイエス様を敬う者とされる新しさです。イエス様を我が主、我が神として敬う。私の人生の主人は私ではなく、イエス様あなたです。正しいのは私ではなく、イエス様あなたです。この新しさに生きる者とされるのです。誇るべきは私ではなく、イエス様あなたです。私をあなたの御業の道具としてください。そう祈る者へと変えられ続けていくのです。
6.家を建てる者の捨てた石が隅の親石となる
さて、「家を建てる者の捨てた石」ですが、家を建てる者というのは建築工事をする人ですね。この人たちは家を建てる時、普通は隅の親石を定めて、基礎を作って、その上に家を建てるわけです。ですから、「家を建てる者の捨てた石が隅の親石となる」ようなことは、普通は起きない、起きるはずがないことです。しかし、それが起きた。それがイエス様の十字架であり、復活なのです。イエス様は、祭司長やファリサイ派という、当時のユダヤ教の指導者たちによって殺された。ユダヤ教には必要のないもの、邪魔なものとして捨てられたわけです。しかし、それが新しい神の民、キリスト教会が建っていく土台、基礎となった。それは、人間業ではない、「主がなさったこと」です。この不思議、驚くべき神の業によって、キリストの教会は建てられました。
イエス様は、43節「神の国は…それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言われました。神の国にふさわしい実とは、悔い改めの実です。神様の前にただ罪人として立ち、赦しを求め、赦しに与り、イエス様を我が主・我が神として生きるということです。この「それにふさわしい実を結ぶ民族」というのは、イスラエル民族やユダヤ民族といった特定の民族を指しているわけではありません。「家を建てる者の捨てた石が隅の親石となる」家、つまり、キリストの教会に集うすべての民族です。当然そこには私共も含まれます。キリスト教は欧米の宗教だと思っている人が今でも多いようですが、今はアジアやアフリカのキリスト者の方がずっと多いのです。悔い改めてイエス様を我が主と敬う者たちが、国家や民族の垣根を超えて召し集められ続けています。私共もこの召しに与りました。ありがたいことです。
7.底抜けにお人好しな主人
イエス様のこのたとえには、底抜けにお人好しな主人が出て来ます。とても考えられないほどに農夫たちを裁きません。これが私共の父なる神様です。この神様の憐れみこそ、私共に注がれている神様のまなざしなのです。もし神様が、最初の僕を送ってそれが袋叩きにあった時、すぐさま農夫たちを捕らえて裁くお方だったなら、私共が救われることはなかったでしょう。神様を知らず、それ故に神様のことなど問題にしていなかった私共です。自分の人生は自分のもの。神様に与えられたなどとは考えたこともなかった。しかし、神様は耐えてくださり、愛してくださり、赦してくださいました。ありがたいことです。しかし、神様の忍耐は永遠に続くわけではありません。必ず時は来ます。収穫の時が来る。その時には神様は裁かれます。だから、私共はその時が来る前に悔い改めなければならないのです。神様はその時が来るまで、その全能の御腕をもって神の民である私共を守り、支え、神の国へと導いてくださいます。ですから、私共は安心して、悔い改めて新しくされた者として御業に励めば良いのです。
[2020年3月15日]