1.はじめに
今朝与えられた御言葉は、イエス様が語られた「『婚宴』のたとえ」です。先週、先々週も、イエス様が語られたたとえ話でした。21章28節から「二人の息子のたとえ」「ぶどう園と農夫のたとえ」と続きまして、今朝は三つ続くたとえ話の最後になります。この三つのたとえは、基本的には同じことを示しています。それは、当時のユダヤ教の指導者たち、つまりエルサレム神殿の祭司長たちや民の長老たちそしてファリサイ派の人々に対して、悔い改めることのないその信仰のあり方ではダメだ、救い主であるわたしを信じなさい、あなたたちも罪人なのだ、あなたたちが救われないと言っている者たちだって神様は救ってくださる、ということです。このことは、エルサレム神殿を中心とした、律法を守ることによって救われると信じていた人々には、とても受け入れ難いことでした。しかし、これが福音です。自らの罪を悔い改め、イエス様を我が主・我が神と信じる。神様が求めておられるのはただそれだけ。それだけで救われる。今までの歩みも、民族も、宗教的熱心さや真面目さも関係ありません。ただ悔い改めて、イエス様を信じるだけで救われる。これが福音です。
2.天の国
さて、今朝の御言葉もたとえ話ですから、先週、先々週もそうでしたように、一つ一つ何を意味しているのか、何をたとえているのかを見ていきましょう。
まず、今朝のたとえ話においては、このたとえが「天の国」についてのものである、と最初に告げられております。「天の国」、これはマタイによる福音書の表現です。ルカによる福音書では「神の国」と表現されています。「天の国」も「神の国」も全く同じことを意味しています。マタイは、直接「神」と言うのをはばかって「天」と表現したと考えられています。
天の国、それは神様が支配される所です。天の国、天国は死んでから行く所と考える人がいるかもしれませんが、そうではありません。イエス様の到来と共に天の国・神の国はもう来ています。しかし、まだ完成されてはいません。神様の支配される国、それはその国に生きる人々が神様を第一として、神様の御心に従うことを喜びとし、互いに愛し合い、支え合い、仕え合う国です。私共は既にそこに生き始めていますけれど、完全にそのように生きているわけではありません。ですから、完成はしていないのです。それが完成するのは、終末においてです。私共はその日に向かって生きているわけです。
3.王子のための婚宴
この天の国・神の国を、イエス様は「ある王が王子のために催した婚宴」にたとえられました。この点がまず大切です。私共が経験します最も大きな宴会と言えば、結婚式の披露宴でしょう。集まる人数も、出てくる料理の豪華さも、他の宴会とはわけが違います。何よりめでたい、喜びの宴です。しかも、このイエス様のたとえでは、王子様の結婚の宴です。これ以上ない、豪華で華やかな宴です。食事だけじゃありません。音楽もあり、歌もあり、踊りもあるでしょう。笑いもありましょう。しかも、イエス様がこのたとえを語られた時代、庶民の結婚式でさえ何日も続きました。現代のように、「午後2時から4時まで」、そんなものではありませんでした。村中の人たちが集まり、飲んで食べて歌って踊って、それが何日も続く。まして、その国の王子様の婚宴となれば、もう想像しただけで楽しくなるような盛大な宴でありましょう。天の国・神の国とは、そういう喜びに充ち満ちた所なのです。暗さなんて微塵もありません。それが天の国だとイエス様は言われるのです。
この王子の婚宴のために、王様は家来たちを送って、招待しておいた人々を呼ばせます。ところが、その人たちが来ない。そこで別の家来たちを使いに出して、こう言わせます。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」これは当時の習わしだったようです。まず招待することを知らせる。そして、準備が整ったら、「来てください。準備ができましたよ。」と知らせる。今のように皆が時計を持っているわけではありませんから、宴の準備ができたら知らせる。そして、知らせを受けたら招待された人々は家を出る。そういう段取りだったようです。王子様の婚宴に招かれるのですから名誉なことですし、これを断るなんて人はまずいないでしょう。
ところが、このたとえ話では何と、招待された人々が家来の言葉を「無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ」たというのです。更には、「他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」というのです。当然、王様は怒ります。そして、王様は「軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」のです。
4.王の招きを断る人々
さて、この王様は誰を指しているのか。これは神様ですね。イエス様のたとえ話で主人とか王様と出てくれば、それは神様のことです。では、王様の家来とは誰か。これは旧約の預言者たちを指していると考えて良いでしょう。そして、最後に食事の用意が整いましたと知らせに来た家来は、洗礼者ヨハネを指していると考えて良いと思います。では、招待されたのに来なかった人々とは誰か。それはユダヤの人々、特に祭司長やファリサイ派の人々といった、ユダヤ教の指導者たちです。彼らは旧約以来、神の民とされ、神様の救いに与る特別な民でした。ところが、いざ神様の救いの御業が為される時が来て、救い主であるイエス様が来られると、この救いに与ることを拒否しました。その理由が「一人は畑に、一人は商売に出かけ」たからというのです。これは要するに、神様のこと、救いのこと、神の国のことなどちっとも大事じゃない。毎日の生活で精一杯だ、とてもそんなことは考えていられない。そういうことです。しかしこれでは、信仰なしで生きている人と何の違いもありません。イエス様は、祭司長やファリサイ派の人々といった当時のユダヤ教の指導者たちに対して、信仰深く、立派で、神様を畏れ敬い、敬虔に見えるけれど、それは見せかけだけで、少しも神様のことを思っていない、自分の生活のことしか考えていない。そう告げたのです。大変厳しい言い方です。
それにしても、王様が軍隊を送ってその人たちを滅ぼし、その町を焼き払うとはやり過ぎではないか。そんな風に思う方もおられるかもしれません。そこまでしなくても良いのではないか。しかし、王様が王子の婚宴に招いたのに来ない、しかも婚宴の知らせを伝えた家来を殺してしまったとなれば、これはもう王様に対する反逆以外の何ものでもありませんので、軍隊を出すのもやむを得ないのかもしれません。ただ、このイエス様の言葉は、このたとえを語られてから40年ほど後、紀元70年にユダヤがローマ帝国によって滅ぼされ、エルサレム神殿が瓦礫の山となってしまう出来事を指していると考えることもできます。
5.誰彼構わず招く
さて、王様は次にどうしたでしょうか。8~10節「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」とあります。何と王様は、町の大通りを歩いている人を皆、婚宴に招いたというのです。これも無茶な話です。これはたとえ話ですから、実際にはこんなことはないでしょう。
この誰彼構わず人々を招いた家来とは、誰を指しているのか。これは、キリスト教の伝道者、イエス様の弟子たちと考えて良いでしょう。では、たまたま大通りにいて王子の婚宴に招かれた人、これは誰を指しているのか。これが徴税人や娼婦、更には異邦人、体に障害を持った人、つまり当時のユダヤ教では罪人と見なされ、救いに与ることがないと考えられていた人々です。もっとはっきり言えば、私共のことです。本来、王子様の婚宴に招かれるような者、つまり神様の御心を知り、神様を畏れ敬い、神様と親しい交わりの中にある者ではありませんでした。神様なんて関係ないと思って生きていた私共です。しかし、神様は私共を招いてくださいました。聖書ははっきり「善人も罪人も皆集めて来た」と告げます。善人であるか悪人であるか、そんなことも一切関係なく、神様はすべての人を招いたということです。私共がイエス様の救いに与った、神の国に入ることを許された、それは私共が善人だったからではありません。そんなことに一切関係なく、ただ神様が私共を招いてくださったからです。まことにありがたいことです。これが福音です。
神様はすべての人を招いています。しかし、それに気付かない人の何と多いことでしょう。大通りに出て行って誰彼構わず招いてくるという、私共の働きが弱いということでもありましょう。私共は、もっと誰彼構わず声をかけて招くという営みを為していかなければならないと思わされるのです。
私は、今まで何人もの人から「自分のような者が教会に行っていいのでしょうか。」と言われたことがあります。その人がどういう意味で「自分のような者」と言ったのかは分かりません。その人の中に、教会に行くのは善男善女、というイメージがあったのかもしれません。或いは、自分の家は代々仏教だということだったのかもしれません。しかし、そんなことは一切関係ありません。聖書ははっきり「善人も罪人も皆集めて来た」と告げているのです。ですからそのような人に私は、「勿論、来てください。あなたも神様に招かれています。神様はあなたが来るのを待っておられます。」と答えています。私の実家も代々、日蓮宗の家でした。幼い頃から、仏壇に小さな御飯と水をあげて、手を合わせてチーンとやっていました。しかし、今は牧師です。私は善人だったわけでもありません。神様なんて関係ないと思って生きていた。私の頭の中に、神様という意識そのものがなかった。神様のことなど、まともに考えたこともありませんでした。しかし、私は神様に招かれました。皆さんそうです。だから、今日ここに居るのでしょう。
6.婚礼の服
さて、イエス様のたとえ話はこれで終わっていません。11~13節「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」とあります。ここで、婚礼の礼服を着ていない者が一人いたというのです。大通りでいきなり声をかけられて王子の婚宴に招かれたのですから、礼服を持っていない人もいただろう、そう思う人もいるかもしれません。しかし、ここで言われているのは、そういうことではありません。王様は、礼服を着ていない人に、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか。」と問います。何か理由があるならちゃんと言いなさいということです。ところがこの人は黙っていました。ある注解者は、当時王宮に入るのにふさわしい服がない者には、ふさわしい服を与えたと言います。そうなのだろうと思います。この人は、王が与える服を着ることもしなかった。だから、問われても黙り、答えることができなかったということなのでしょう。
これはたとえ話ですから、この「婚礼の礼服」が何を指すのか、それを考えなければなりません。こういう時に大切なのは、聖書の他の箇所で何と言っているかということです。「聖書は聖書で読む」というのが聖書の読み方です。イザヤ書61章10節に、「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。」とあります。「救いの衣」「恵みの晴れ着」を着せてくださるのは神様です。そして、ガラテヤの信徒への手紙3章26~27節には、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」とあります。信仰を与えられ、洗礼を受け、キリストと結ばれ、神の子とされた者は、「キリストを着」たのです。つまり、この礼服とは、キリストのことであることが分かります。
ですから、「婚礼の服を着ていない者」とは、キリストを着なくても、つまりイエス様への信仰がなくても、洗礼を受けなくても、自分は救われると考える人のことです。自分勝手な救いの理解を持っている人ということです。神様は御自分の独り子であるイエス様を送り、その十字架の死をもって、私共の一切の罪の裁きをその身に負わせられました。これが神様の救いの御業であり、神様が備えてくださった救いの道です。この神様が備えてくださった救いの道以外に、これでも救われる、こうすることが御心に適う、と勝手に考えることは自由です。しかし、それでは救いに与ることはできません。罪に満ちた私共人間は、自分の力で天の国に入ることは出来ないからです。私共が天の国に入る、神様の救いに与るということは、神様が私共を招いてくださったからです。私共を救いへと招いてくださる神様が備えてくださった道を無視して、自分勝手に救いの道を想定することは、自分を神様の位置に持ってくるということであり、最も御心から遠い、まことに傲慢な者と言うしかありません。
キリスト教の長い歴史の中で、様々な勝手な教えを唱える人たちが出て来ました。今でもたくさん居ます。先日、韓国の新型コロナウイルスを爆発的に広めたということで有名になった「新天地」という団体もそうです。この団体の教祖は、再臨したキリストと称しているようですが、韓国には今、40人を超える「自称キリスト」がいるそうです。統一原理もその一つです。あれでは救いに与ることはできません。キリストを着ていないからです。キリストを着ると称して、とんでもない別のものを着ているからです。
7.招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない
イエス様はこのたとえ話を閉じるに当たって、14節「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」と告げられました。これは、すべての人が招かれているけれど、自分が招かれていることを知り、招きに応えて、イエス様の救いに与る者は少ないということでしょう。
私共は招かれました。神様は様々なあり方で私共を招かれます。キリスト者の家に生まれ、幼い時から教会に集っていた。これも一つの神様の招き方です。友人や家族にキリスト者がいて、教会に誘われた。これも招き方の一つでしょう。或いは、ラジオや本を通してイエス様の話を聞いて、教会に来るようになった。そういう人もいるでしょう。或いは、働いた所がたまたまキリスト教の施設だったという人もいるでしょう。招かれ方は人それぞれです。しかし、神様はすべての人を招いておられる。それは本当のことです。この神様の招きから外れている人はいません。
大切なことは、この神様の招きに応えることです。招かれても婚宴に行かなければ、招かれなかったのと同じでしょう。私共は招かれた。招かれるはずがないのに招かれた。まことにありがたいことです。だから、私共は精一杯、このありがたい招きに応えて生きていきたいと思うのです。イエス様を我が主、我が神として畏れ敬い、イエス様の心を私の心として、神様を愛し、人を愛し、神様に仕え、人に仕える者として歩んでいくのです。それがキリストを着た者として歩むということです。そして、それは喜びの歩みです。嬉しくて楽しくて仕方がない。私共は既に到来した神の国に生き始めているからです。神様の備えてくださったまことに喜ばしい宴に生き始めた者だからです。
[2020年3月22日]