1.新型コロナウイルスの感染が始まって
今日から受難週に入ります。先週の臨時長老会において、その時はまだ富山県では新型コロナウィルスの感染確認者は出ておりませんでしたけれど、次の礼拝からは感染対策として、全員マスクをして、座る場所も市松模様のように座り、讃美歌も半分だけ歌うということを決めました。そして一週間の内に、富山県も遂に感染者が出まして、昨日までに10人となりました。毎日報道されている新型コロナウイルス関連のニュースに、皆さんも心を引きずられているかと思います。私もそうです。予定されていた集会や会議も中止の連絡が毎日のように入ります。中部教区総会も中止ということになりました。自分の身近な人が感染確認者と近しかったので、大事を取って今日の礼拝は休みます、との連絡も何人もの方から入りました。家の人に、このような時だから礼拝は休むように言われたという人もいます。教会でも、イースターの祝会や集合写真の撮影をやめることにしました。
2.一枚の葉書
そのような中で、一枚の葉書が届きました。昨年の9月に天に召された大住雄一東京神学大学学長の奥様、大住真理さんからのものでした。ホセア書6章1~3節の御言葉が記されていました。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」まず、この御言葉に心が動きました。何度もこの御言葉を読み返しました。まるで初めて読む言葉のように、私の心に染み渡りました。
そして、それに続く文面にはこう書かれていました。「皆様ご無事でいらっしゃいますか。新型コロナウイルス によりそれまでの生活が一変してしまいました。感染予防のために様々な営みが停止を余儀なくされ、個人も組織も暮らしが脅かされ不安に支配されています。私もその一人で、主の受難と復活を覚える時を迎えようとしていても、心を備えることができないでいます。それで主の慈愛に心を向けられるように、皆様にイースターのご挨拶と近況をお伝えしたいと思いました。」私はこの葉書に心が動かされました。主の受難と復活を覚える時を迎えようとしていても、心を備えることができないでいる。本当にそうだと思いました。私もそうでした。次々と流れるニュース、入り続ける集会中止の連絡、教会はどう対応すればいいのかという相談。それらに心を奪われ、混乱していました。正直なところ、主の受難と復活に向けて心を備えられないでいました。しかし、この一枚の葉書によって、「そうだ。主の慈愛に心を向けよう。何をしているのだ。私が今心を向けなければならないのは、イエス様の御受難の出来事、死に勝利されたイエス様の御復活の出来事ではないか。」そう思わされました。葉書は、近況が記された後、「教会にも日常が早く戻ってきますようお祈り申し上げております。」という言葉で閉じられておりました。教会の日常、それは何よりも主の受難と復活を覚えて、すべての営みを為していくということではないか。それはこの新型コロナウイルスの感染に脅かされている今も変わりはない。御言葉に聞き、心を高く上げる、この主の日の礼拝に教会の日常がある。改めて、大住先生の奥様から教えていただきました。
3.三本の十字架
私共が今朝心を向けなければならないのは、主の慈愛です。主の憐れみ、主の愛です。御言葉に聞いて参りましょう。
32~33節「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」イエス様は「されこうべ」と呼ばれる所、アラム語ではゴルゴタ、ラテン語ではカルバリと呼ばれる所で十字架に架けられました。この丘がされこうべと呼ばれたのは、頭蓋骨のような形をしていたからなのか、処刑場なので実際にされこうべが転がっていたからなのか、或いは処刑場であったので死を連想させる名前を付けたのか、多分それらが重なってそう呼ばれていたのだと思いますが、そこでイエス様は十字架につけられました。この時、イエス様は一人ではありません。イエス様の右と左にも犯罪人が十字架につけられました。三本の十字架が立てられたのです。
4.十字架の下で
34節b「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」とあります。マタイによる福音書とマルコによる福音書では、これを行ったのは兵士たちでした。人を十字架につけて殺すのは嫌な役目です。しかし、それが兵士たちの仕事でした。また当時、服は大変貴重なものでしたので、十字架につけられた人の服を分けるのは兵士たちの役得でした。彼らは、自分たちが十字架につけた者たちのことなど少しも考えず、目の前の服をどう分配するのか、どこの部分が当たれば得か、そんなことに思いに集中してクジを引いていた。ちなみに、これは詩編22編19節に「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」と預言されていたことでした。
35節a「民衆は立って見つめていた。」とあります。ここには様々な思いを持った人々がいたと思います。イエス様がエルサレムに入られる時に「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。」(19章38節a)と言って喜び迎えた人、イエス様に期待していた人もいたでしょう。イエス様のことを、やっぱりインチキだった、とんでもない奴だと思った人、総督ビラトの前で「十字架につけろ。」(23章21節)と叫んだ人もいたでしょう。或いは、十字架の処刑を見せ物として、ただ興味だけでここにいた人もいるでしょう。共通するのは、皆、十字架に架けられたらお終いだ、もう終わりだ、そう思ってイエス様の十字架を見つめていたということです。
そして35節b「議員たちも」いました。彼らはイエス様を訴えて、ピラトのもとでイエス様を十字架につけるように計画した人たちです。彼らの目論見通り、イエス様は十字架につけられました。彼らはイエス様の十字架を見てあざ笑い、こう言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」十字架につけられてしまって、降りることもできない。偉そうなことを言ってみたところで、何もできないではないか。何がメシアだ、大嘘つきめ。本当のメシアなら、そこから降りてみろ。そう言ってイエス様をあざ笑い、ののしったのです。
36節には兵士も出てきます。彼らもまた、イエス様を侮辱して言うのです。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエス様の十字架の下では、イエス様をののしる声が満ちています。この時ほど人間の罪が露わになった時はありません。神様に敵対し、自らの正義を疑わず、死にゆく者に一片の同情さえ示さない、悲しいほどの悪しき人間の姿が露わになりました。
ただここで、私共はこの場面を遠くから眺めるようにして見ることはできません。ここに出てくる人々の悪しき姿を、何とひどい人たちかとなじることは出来ません。何故なら、服を分け合うためにくじを引いている者、イエス様を十字架につけながらあざ笑い、ののしり、侮辱している者、死にゆく者をただ面白がって見ている者、この人々の中に私もいるからです。この人々の中にあなたがいる。聖書はそう告げているからです。
5.十字架の上で① ~イエス様の祈り~
何故なら、イエス様は十字架の上で、こう祈られたからです。34節「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」驚くべき祈りです。この「彼らをお赦しください。」の「彼ら」の中に私が入っている、あなたがたも入っているからです。十字架の下の人々と私共が無縁であったら、このイエス様の祈りもまた私共と無縁になってしまうからです。
この祈りの言葉に私が初めて出会った時、もう40年以上前ですが、こんなことを言う人はいない、こんな人はいない、絶対にいない、そう思いました。十字架につけられたとてつもない痛みの中で、自分を十字架につけた者、自分をののしる者、自分の苦しみを楽しんでいる者、苦しむ自分に全く注目せずに目の前の服の分け前にしか興味を持っていない者、その者たちのために神様に向かって赦しを求めて祈る、そんな人はいない。絶対にいない。そう思いました。そうです。そんな人はいません。これは人間の言葉ではありません。神の独り子の言葉です。神の言葉です。この言葉に、この祈りに、イエス様とは誰なのかがはっきり現れています。イエス様の十字架とは何だったのかがはっきり示されています。
イエス様は十字架の上で「父よ」と神様に向かって呼びます。イエス様は、御自分が十字架に架けられることが神様の御心であることを御存知でした。そして、その十字架の上で、手と足を釘で打たれた痛みの中で、なお神様に向かって「父よ」と呼ばれるのです。神様を愛し、信頼しておられるのです。何と深い絆でしょう。どんな痛みも、苦しみも、屈辱も、イエス様を神様から引き離すことはできなかったのです。何故なら、イエス様は神様の独り子、キリストだったからです。そしてイエス様は御自分を十字架につけた者、自分の苦しみをあざ笑う者、自分に全く興味を示さない者、その者たちの一切の罪を赦してくださるよう、神様に祈られたのです。
6.自分が何をしているのか分からない者の為に
彼らは自分が何をしているのか知らなかったのでしょうか。彼らは自分が何をしているかは知っている、そう思っていました。議員たちは、自分たちが計画したとおりに事が運び、喜んでいたに違いありません。自分たちが計画したのです。自分たちが何をしているのか知らないはずがありません。しかし、知らなかった。何も分からなかった。神様の御前において、自分がしていることが何を意味しているのか、彼らは全く知らなかったのです。
私共もそうでした。特に人に悪い事をしたわけじゃない。十字架の下で服を分けるためにくじを引いていた人のように、ただ自分の日々の生活のことを考えて生きていただけ。或いは、自分の正しさを信じて、間違っている人間を非難し、やっつけただけ。議員たちは、自分たちの計画通りに事が運び、イエス様が十字架につけられて、上手くいったと喜んでいた。自分たちは正しいことをしている。そう信じていた。自分がしていることを自分は知っていると思っていた。しかし、イエス様は、「彼らは自分が何をしているのか知らないのです。」と言われた。神様の前で自分の為していることがどういうことなのか、人は知らないのです。神様など関係無しに、自分の思いのままに生きていること。それが罪なのです。
その彼らのために、私共のために、イエス様は祈られました。ここでイエス様が捧げられた祈り、この祈りこそ、最も大いなる執り成しの祈りです。この祈りの中に私共もいます。このイエス様の執り成しの祈りからこぼれ落ちている人は一人もいません。イエス様の十字架は、自分を十字架に架けた者、自分をあざけり、ののしり、侮辱する者のために、彼らに代わって神様の裁きをお受けになったのです。十字架の下にいる者たちはそのことを知りません。しかし、自分が今ののしっているその十字架の上で、イエス様が神様に赦しを求め、執り成してくださっている。十字架の下にいる人たちは、この十字架が自分のためであることを知りません。しかし、そうなのです。知っていようと、知っていまいと、ののしろうと、侮辱しようと、イエス様は、一切の罪の赦しを父なる神様に願い、執り成してくださったのです。
イエス様は弟子たちにこう教えられました。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカによる福音書6章27~28節)イエス様はお教えになったとおりに生きられました。ここに愛があります。私は40年以上前このイエス様の言葉に出会って、初めて愛とは何なのかを知りました。それまで私が知っていた愛は、自分によくしてくれる人を大切にする、そういうものでしかありませんでした。しかし、神様の愛はそんなものではありません。もし、神様の愛がそんなものなら、いったい私共の誰が神様の愛を受けることができましょう。いったい誰が救われましょう。しかし神様は、自分に敵対し、愛する独り子さえ殺す者を、それでもなお愛してくださるのです。それが神様の愛です。イエス様と神様は御心において一つであられますから、イエス様が祈られたこの祈りは、父なる神様の御心でもあります。父なる神様は、私共すべての罪人を赦すためにイエス様を与えてくださったのです。
7.十字架の上で② ~救いの宣言~
このイエス様の祈りを、十字架の下にいた者たちは誰も聞いていませんでした。しかし、この祈りをしっかり聞いていた者がいました。それは、イエス様と一緒に十字架につけられた罪人です。一人の罪人は、十字架の下の者たちと同じようにイエス様をののしりました。39節b「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」しかし、もう一人の罪人はこの人をたしなめて、こう言うのです。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」この人がイエス様のことをどれだけ知っていたのかは分かりません。しかし、イエス様がこの時為された祈りを聞いていたのでしょう。そして、この方は違う、自分たちとは違う、そうはっきり分かったのではないでしょうか。彼は、自分が大きな罪を犯したことを知っています。十字架に架けられたのですから、強盗とか殺人とか、とんでもないことをしたのでしょう。彼は何の言い訳もしません。そして、イエス様にこう願うのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
彼は「わたしを救ってください。」とは言いませんでした。自分がしてきたことを思えば、そんな虫のいい願いはできなかったのでしょう。ただ「わたしを思い出してください。」とだけ言いました。しかし、その心ははっきり分かります。私を救ってほしいということです。イエス様はこの罪人に対して驚くべきことを告げました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」これは救いの約束、赦しの宣言です。彼はもう十字架につけられているのですから、これから回心して良いことをする時間なんてありません。彼はただイエス様を頼り、イエス様に救いを求めただけです。イエス様はその願いを受け取ってくださり、救いの約束をしてくださったのです。
「楽園」というのは「パラダイス」という言葉ですが、救われた者が入る国、天の国、神の国と考えて良いでしょう。イエス様はこの時、「あなたは今日」と言われました。「死んだ後で、やがて時が満ちて神の国が来た時には」とは言われませんでした。「今日」です。それは、イエス様を信頼し、イエス様に救いを求めたならば、その時からイエス様と永遠に共にいることになる。このイエス様とのつながり、イエス様との関わり、それこそが救いであり、楽園に入るということなのです。
私は皆さんに何度も申し上げてきました。私共は既に神の国に生き始めている。それは、イエス様の十字架によって罪を赦され、イエス様と一つにされ、イエス様の命を与えられ、神の子・神の僕とされているからです。
私共は今から聖餐に与ります。この聖餐こそ、私共がイエス様と一つにされて既に神の国に生き始めていることを心と体に刻むために、イエス様が備えてくださったものです。今、心を高く上げて、私共に与えられている救いの恵みに心から感謝したいと思います。
[2020年4月5日]