1.新型コロナウイルスの感染拡大の中で
今朝私共は、イエス様の御復活を喜び祝うイースターを記念する礼拝を捧げています。しかし今年は、新型コロナウイルス感染拡大という今まで経験したことのない状況、目に見えないウイルスに対する恐れの中、この日を迎えました。3月30日(月)に富山県で感染確認者が出て2週間。それまで富山県では感染確認者が0でしたので、「都会は大変だな~」などとのんびりしたところがありました。しかし、連日新しく感染確認者が出たという報道を聞く度に、ひたひたと自分の周りにも近づいて来ているという感覚を持たれていることと思います。私自身、牧師同士のメールのやり取りの中で、主の日の礼拝を長老たちとだけ守るようにしたとか、インターネットで見てもらうことにしたというような情報が次々に入ってきています。また、教会員の方からも次々と、しばらく礼拝を休みますという連絡が入ってくる。そのような中で私共の教会はどうすれば良いのか。受難週の祈祷会を行いながらも、イースター記念礼拝の備えをしながらも、この「どうすれば良いのか」という思いがずっと頭から離れない状態が続いていました。今もまだその状態から完全に解放されているわけではありません。
テレビやインターネットから入って来る情報の洪水の中で混乱し、色々な判断ができない。そんなストレスの下で主の日の礼拝の説教の備えを始めました。そしてすぐに、復活されたイエス様が弟子たちに告げた言葉が私の心に響いてきました。それは「あなたがたに平和があるように。」との御言葉です。口語訳では「安かれ」と訳されていた言葉です。復活されたイエス様が弟子たちに告げられた「安かれ、平安あれ、平和があるように。」という言葉、これが今朝、イエス様の御復活を覚えてここに集った私共に与えられた復活されたイエス様の言葉です。
今回の新型コロナウイルスの騒ぎの中ではっきりしたことがあります。それは、私共の恐れと不安の源は死であるということです。昨日、いつものようにイースターの玉子作りを教会学校で行いました。誰も来ないかなと思っていましたが、二人の小学生とお母さんが来てくれました。作業をしながら教会学校の教師とお母さんが新型コロナウイルスの話をする。すると、小学5年生の女の子が「コロナの話はやめて!」と大きな声で言いました。コロナウイルスのために小学校も休校となり、子供たちもとても不安なのだと思わされました。目に見えない不安にとらえられている。今、日本中が、世界中が、この恐れと不安にとらえられてるのです。感染したくない。そして、自分が誰かを感染させたくない。自分はいい。しかし、同居している家族に、或いは職場に感染させたら。そう思って、今朝ここに集うことのできない方もおられます。私はそれで良いと思います。不安な方は、そうして良いのです。しかし、復活の主は告げられました。「安かれ、平安あれ、平和があるように。」
2.安かれ、平安あれ、平和があるように
イエス様は復活されました。ルカによる福音書によれば、まずイエス様の墓に明け方早く行った婦人たちに天使が、イエス様は復活されたと告げます。婦人たちはそれを使徒たちに伝えましたが、彼らは「この話がたわ言のように思われたので」信じませんでした。そしてこの日、エルサレムからエマオに帰るクレオパともう一人の弟子と、復活のイエス様は一緒に歩き、語り合いました。しかし、彼らはそれがイエス様とは分かりませんでした。そして、一緒に食事をした時に二人の目が開かれてイエス様だと分かった。しかし、その途端にイエス様の姿は見えなくなりました。不思議なことです。この二人はすぐにエルサレムに戻り、使徒たちが集まっている所に行って、自分たちに起きたことを話しました。36節「こういうことを話していると、」とあるのは、そのような復活されたイエス様に出会ったとか、天使にイエス様の復活を告げられたとか、そういう話を弟子たちが集まってしていると、ということです。すると、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」のです。
きっと彼らは、自分たちが救い主、メシアだと信じて従ってきたイエス様が十字架に架けられて死んでしまい、次は自分たちが捕らえられるのではないか、殺されるのではないかという、恐れと不安の中にあったことでしょう。その彼らに向かって復活されたイエス様がまず告げられたことが、「安かれ、平安あれ、平和があるように。」でした。死の恐れと不安は、あっという間に私共を支配します。しかし、復活のイエス様は、その恐れと不安を退けるように「安かれ、平安あれ、平和があるように。」と告げられたのです。
死はいつも圧倒的な力をもって私共に臨みます。私共から生きる力も勇気も希望も奪っていきます。しかし、その死に対して、イエス様は復活という出来事をもって勝利されました。そして、復活の勝利はイエス様だけのものではなくて、イエス様を信じるすべての者に与えられます。だからイエス様は、恐れおののく弟子たちに「安かれ、平安あれ、平和があるように。」と告げられたのでしょう。もしも復活がイエス様だけのことだとするならば、私共にはさほど関係のない、「昔そういうことがあったそうだ。」という程度の出来事でしょう。それは私共に平安をもたらす出来事、勇気と希望と力を与える出来事にはなりません。しかし、そうではありません。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一15章20節「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」と告げています。初穂というのはその年の最初の収穫であり神様に献げるものです。また、初穂はその後に続くおびただしい収穫を予想させる言葉です。つまり、イエス様の復活、それはイエス様だけの話ではなくて、イエス様を信じ、イエス様と一つにされた私共にも備えられているということです。だから、復活されたイエス様は「安かれ、平安あれ、平和があるように。」と弟子たちにお告げになったのです。
3.信じられない弟子たちと信じさせたいイエス様① ~「手と足を見なさい、触ってみなさい」~
この復活されたイエス様の言葉を復活されたイエス様御自身から聞いた弟子たちはどうだったでしょうか。聖書は、37節「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」と正直に記しています。このルカによる福音書が記された時には既にキリストの教会がありました。使徒たちがイエス様の復活を宣べ伝えて、教会が誕生していました。しかしその使徒たちは、復活のイエス様に出会ってもそれでもイエス様の復活を信じられず、恐れおののき、亡霊だと思ったと聖書は記します。「使徒」と言ったところで、大したことないな。そう思われる方もおられるかもしれません。使徒たちはその後二千年のキリストの教会の礎となった人たちです。しかし、彼らは復活の主に出会っても信じられず、「安かれ、平安あれ、平和があるように。」と復活されたイエス様から直接言われても、それでもちっとも平安になれなかった人たちでした。
イエス様はそのような弟子たちに向かって、38節b~39節「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」と告げ、そしてイエス様は、40節「手と足をお見せになった」のです。その手と足には十字架につけられた釘の跡がありました。亡霊なんかではない。手も足もある。そしてその手と足には十字架の釘の跡もある。わたしは間違いなくあの十字架に架けられて死んだイエスだ。触ってみなさい。そう言われるのです。「触ってみなさい。」とイエス様に言われて、弟子たちがイエス様の復活の体に実際触ったかどうかは分かりません。しかし、イエス様は何とかして、御自身の復活を信じることができないでいる弟子たちを変えたかった。何としても、御自身の復活を信じられるようにしたかった。信じない者ではなくて、信じる者にしたかった。だから説得されるのです。イエス様は何としても復活を信じさせたいのです。何故なら、それを信じることによって弟子たちは、恐れと不安から解き放たれるからです。本当の希望に生きることが出来るからです。
恐れと不安。それは死に対する恐れと不安であり、自分たちはイエス様を捨てて逃げてしまったという罪悪感から来る恐れと不安でもあったでしょう。イエス様は手と足を見せ、御自分が十字架に架けられたイエスであることを示されます。「わたしは確かに十字架の上で殺された。しかし今、こうして復活した。死はわたしを亡き者にすることができなかった。死は私を滅ぼすことはできなかった。いや、わたしはこうして復活し、死を打ち破った。死の支配はもはや終わった。あなたがたもこの勝利に与る。この勝利の行進に連なる。だから、うろたえるな。心に疑いを起こすな。」そう説得されるのです。「あなたがたはわたしを捨てて逃げた。わたしは十字架の上で死んだ。それは本当のことだ。しかし、それがどうした。わたしは死んだままではない。復活した。あなたがたを恨んでなんかいない。私はすべてを赦す。だから大丈夫。安かれ。平安あれ。」そう言われるのです。
4.信じられない弟子たちと信じさせたいイエス様② ~魚を食べる~
しかし、それでも弟子たちは信じられません。41節「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、」とあります。不思議な表現です。喜んでいるのなら、既にイエス様の復活を信じているということにならないのでしょうか。喜んでいる。しかも、喜びのあまりというのですから、とても喜んでいる。だが、それでも信じられない。不思議だ、あり得ない。そう思っている。目の前にイエス様が居るのです。死んだはずのイエス様が居るのです。だから嬉しいのです。嬉しくて仕方がないのです。でも、そんなはずがない。だから信じられない。これは感情と理性が上手くかみ合わなくて、混乱している状態なのではないかと思います。これはよく分かります。私共の現在の状況でもあるからです。新型コロナウイルスの感染拡大の情報を毎日聞いて、目に見えない恐れと不安に包まれている。教会の礼拝は三密の状態ではない。だから大丈夫のはずだ。でも、何となく怖い。心と頭が分裂し、混乱し、恐れている。ちょうど、復活のイエス様に出会った時の弟子たちとは正反対の、感情と理性の分裂が起き、混乱している。
この混乱している弟子たちに向かって、41節b~43節「イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」と聖書は告げます。何とイエス様は「何か食べ物があるか」と言い、焼いた魚を一切れ差し出されると、それを弟子たちの目の前で食べたというのです。勿論、亡霊なら焼き魚を食べたりはしません。復活されたイエス様が弟子たちの前で最初にされたこと、それはものすごい奇跡などではなく、大演説でもなく、魚を食べることでした。弟子たちに御自分の復活を信じさせるためです。
椎名麟三という昭和のクリスチャン作家がいます。彼はイエス様の復活が信じられませんでした。そして、復活のイエス様が焼いた魚を食べたというこの記事を読んで、イエス様の復活を信じることができたと言います。イエス様の復活を信じるということは、何か論理的に積み上げていって納得するようなことではないのだと思います。イエス様の復活は、どこまでも不思議なことです。私共の理性はこれを受け入れることを拒みます。しかしある時、「腑に落ちる」ということが起きる。椎名麟三は、この焼き魚をむしゃむしゃ食べているイエス様を思うことによって、腑に落ちたのでしょう。
5.信じられない弟子たちと信じさせたいイエス様③ ~心の目を開き、聖霊を与える~
そして、45節「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、」とあります。イエス様は弟子たちが聖書を分かるように、「心の目を開いて」くださったのです。更に49節a「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。」と約束されました。「父が約束されたもの」とは聖霊です。イエス様は復活された姿を弟子たちに見せ、焼いた魚を食べ、弟子たちの心の目を開き、聖霊を与えられました。そうして、信じられない弟子たちを信じる者にされたのです。使徒たちがイエス様の復活を信じ、イエス様の復活を宣べ伝える者となったのは、このイエス様の、何としても信じる者にしようとされる熱心と、その御業によってでした。私共がキリスト者として今朝、イエス様の御復活を喜び祝っているのもまた、イエス様が私共に働きかけてくださり、信じない者ではなく、信じる者へと導いてくださったからです。
イエス様の復活の話を聞いて、最初からそれを信じた人など、ここには一人もいないでしょう。私もそうでした。教会に初めて行って、最初にイエス様の復活ということを聞いた時、そんな馬鹿なことがあるわけがないと思いましたし、それを信じている人がいるということ自体、信じられませんでした。しかし、それから10年後には神学校へ行き、伝道者としてイエス様の復活を宣べ伝えて34年が過ぎました。
また、イエス様の復活を信じたといっても、それが本当に自分が生きる上での希望となり力となり勇気を与えられるまでには、時間がかかったという人もいるでしょう。或いは、いつの間にか逆戻りして、イエス様の復活を信じ希望と喜びの中を歩んでいたはずなのに、恐れと不安にとらえられてしまう。それが私共なのでしょう。しかし、そのような私共を、イエス様は信じる者へと造り変え続けてくださいます。そのために、イエス様は主の日の度に御言葉を与え、出来事を起こし、生きて働いてくださっています。
6.復活のイエス様は今もここに
復活されたイエス様は、復活された日に弟子たちの真ん中に立たれたように、今日も私共の真ん中におられます。「安かれ、平安あれ。」と告げておられます。そして、この復活のイエス様は、今日様々な理由でここに集えない私共の愛する兄弟姉妹、家に居る方、病院に居る方、施設に入っている方、その方々とも共におられます。そして、「わたしは復活した。死はわたしを滅ぼすことはできないし、あなたがたも滅ぼすことはできない。だから平安あれ。」そう告げておられます。
私共は今から聖餐に与ります。キリスト者は二千年の間、この聖餐に与る度に、イエス様が私のために、私に代わって十字架にお架かりになったこと、そして死を打ち破り、復活されて、聖霊として私共と共におられること、このパンと杯をもって私共の中に入り、私共と一つになってくださることを心に刻んで参りました。そして、肉体の死を超えた命に既に生かされていることを喜び祝ってきました。私共も今、代々の聖徒と共に、この救いの恵みに与っていることを喜び祝い、心から主をほめたたえたいと思います。
[2020年4月12日]