日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「神のものは神に」
詩編 89編6~15節
マタイによる福音書 22章15~22節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日の礼拝から、様々な理由で教会に集うことが出来ない方のために、説教の動画と説教原稿を教会のホームページに載せて、家庭でも一緒に礼拝出来るようにしました。また、インターネットの環境がない方のためには、家庭礼拝の栞と今日の説教原稿を前日の土曜日までに届くように郵送して、時を同じくして礼拝出来るようにしました。富山でも新型コロナウイルスの感染があっという間に広がりまして、礼拝に集うことを控える方が増えたからです。家に年老いた者がいて感染したら大変だという方もおられますし、職場の関係で感染者が出たのでうつしたら大変だという方もおられます。ここに集うことは出来なくても、共に今、御前に集っている兄弟姉妹を覚えて、同じ御言葉に与りたいと思います。

2.天はあなたのもの、地もあなたのもの
 詩編の詩人は、89編12~13節a「天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの基を置き、北と南を創造されました。」と歌いました。
 私共の神様は、天と地とその中にあるすべてのものを造られ、支配しておられる。その全能の御腕の中で地上での命を与えられ、イエス様の救いに与り、一日一日を歩ませていただいているのが私共です。詩編の詩人が「天はあなたのもの、地もあなたのもの。」と歌った時、その中に自分自身が入っていることは言うまでもありません。私共は主のものです。主に生かされ、主に愛され、主に救われ、主のものとされた。私は主のもの。ここに私共の喜びと希望と誇りがあります。私は主のもの。この一点を見失えば、私共は目の前のことに汲々として、世の流れに同調し、不安と恐れの虜になるしかありません。不安と恐れは、何時の時代でも、あっという間に人々の心に感染します。そして、人の心をとらえます。しかし、忘れてはいけません。私共は主のものです。私共をとらえるのは不安と恐れではありません。全能の父なる神様です。この方の御手にとらえられ、私共は御国に向かって歩んでいる。どんな時であってもです。
 先週、私共はイースターの記念礼拝を守りました。そこで私共ははっきり聞きました。復活されたイエス様が弟子たちに告げられた言葉、「安かれ、平安あれ、平和があるように。」です。イエス様を復活させられたお方、死を打ち破り、私共に平安を与えてくださるお方、それが私共の主です。勿論、神様は私共の困窮を御存知です。信仰者としてこの地上の歩みを為していく中で、何の困難もないなどということはありません。困難な選択を迫られる時もあるし、どうして良いのか分からない時もあります。でも、「安かれ、平安あれ。」と告げられるイエス様と共に私共は歩んでいる。だから、恐れることはない。

3.ファリサイ派とヘロデ派
 さて、私共はマタイによる福音書を共々に読み進めているわけですが、21章28節から三つのたとえが続きました。そして、今日の所から三つの論争が続きます。三つのたとえにおいてイエス様は、ファリサイ派の人々や祭司長たちといった、当時のユダヤ教の指導者たちを随分はっきりと批判されました。これを聞いて、彼らはイエス様を捕らえようとしましたが、群衆を恐れたので出来ませんでした(マタイによる福音書21章46節)。そこで彼らはイエス様に論争を仕掛け、言葉じりをとらえて、何とかイエス様を捕らえる口実を作ろうとしたのです。15節に「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。」とある通りです。彼らの目的はイエス様を捕らえるための口実を作ることでした。
 ここで面白いのは、この最初の論争に来たのがファリサイ派の弟子たちとヘロデ派の人々だったということです。まず「ファリサイ派の弟子たち」です。ファリサイ派の人々ではなく、その弟子たちでした。まずは小手調べに若造を寄こしたということなのかもしれません。ファリサイ派は厳格な律法主義者ですから、彼らの理解では決して救われることのない、汚れた異邦人であるローマに支配されているということが腹立たしくて仕方がないわけです。基本的には反ローマです。一方、「ヘロデ派の人々」というのは宗教的な党派ではなく、政治的な党派です。イエス様がお生まれになった時に2歳以下の男の子を皆殺しにしたのが、ヘロデ大王と呼ばれる王様でした。彼はローマと上手くやり、ユダヤに繁栄をもたらしました。しかし、ヘロデ大王が亡くなると、その領土は分割され、この時にはヘロデの息子の、ヘロデ・アンティパスがガリラヤの領主、フィリポスがわずかな領地を認められていただけでした。このヘロデ家を何とか復興させ、ヘロデ大王の時代のようにしたいというのがヘロデ派の人々でした。彼らはローマの支配のもとでヘロデ家の復興を願っておりましたので、親ローマの立場です。この反ローマと親ローマという立場が正反対の者が、一緒にイエス様の所に来て論争を仕掛けたのです。何とも変な話ですが、立場が違おうと共通の敵を倒すために手を結ぶということは、政治の世界では良くあることなのでしょう。

4.イエス様に仕掛けられた罠
 彼らはイエス様に向かって、まずこう切り出します。16節b「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」何とも歯が浮くようなお世辞を言って近づいた。しかし、これはただのお世辞ではありません。罠が仕掛けられています。彼らはイエス様に「あなたは真実な方ですね。嘘なんて言いませんね。神様から遣わされている方なのですから、ローマだろうと、群衆だろうと、何も恐れずに本当のことを言いますよね。自分の身を守ろうとして、その場逃れなんて言いませんよね。」そう言っているのです。イエス様が言い逃れ出来ないように、まず退路を断って、逃げ道がないようにしているわけです。
 そして、本題に入りました。17節「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」「律法に適っているでしょうか」というのは、「御心に適っているでしょうか」と言い換えても良いでしょう。ここでイエス様が「皇帝に税金を納めるのは御心に適わない。」と答えれば、ヘロデ派の人が出て来て、この一言で「イエス、お前はローマに反逆する者だ。ローマへの反逆を民衆に煽っている。」そう言ってローマに訴えることになります。逆に、イエス様が「皇帝に税金を納めるのは御心に適う。」と答えれば、ファリサイ派の人々が出て来ます。そして、群衆に向かって「聞いたか。お前たちはこのイエスを預言者と信じているようだが、とんでもない。ローマに税金を払えと言う。結局はローマの言いなりになるだけの者だ。臆病者で、大した者ではない。こんな者が神様から遣わされた者であるはずがない。」と言い、群衆の支持を失わせることでしょう。どちらに答えたとしても、イエス様を陥れることが出来る、実に巧妙な罠です。

5.罠を超えて
 当然、イエス様はこの罠に気づかれます。18節「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。』」とあります。イエス様は、はっきり「偽善者たち」と言います。神様の御心を尋ねるような顔をして、イエス様を陥れようとする。まさに偽善者です。「偽善者たち」と言われて、彼らはいささかうろたえたでしょう。自分たちの心を見透かされたからです。しかし、彼らは自分たちが仕掛けた罠の巧妙さに自信も持っていました。また、偽善者と言われたくらいで、心を痛めたり、へこたれるような彼らではありませんでした。
 彼らは、イエス様の返事を固唾を飲んで待ったことでしょう。イエスかノーか、さあどっちだ。彼らはイエス様の答えを待ちました。すると、イエス様の口からは彼らが考えこともないような言葉が出てきました。イエスでもノーでもない。何が言いたいのか、何をしたいのかちっとも分からないような言葉です。イエス様は19節「税金に納めるお金を見せなさい。」と告げたのです。税金に納めるお金は当然、一般的に使われていたデナリオン銀貨です。それはローマの貨幣であり、硬貨の表面にはローマ皇帝の肖像が刻まれておりました。それは、ローマ皇帝が代わると、貨幣には新しい皇帝の肖像が刻まれるというものでした。この皇帝の肖像が貨幣に刻まれるということには、その新しい貨幣が流通していく中で、皇帝が替わった、新しい皇帝になったということがローマ帝国の津々浦々にまで伝わっていく。そういう効果、意図もありました。こう言っても良いでしょう。ローマ皇帝の肖像の入った貨幣は、これを使う者に、そこに刻まれたローマ皇帝の支配のもとにあることを示した。貨幣とはそういうものです。貨幣が通用するのは、その貨幣を通用させている支配者の支配権が及ぶ範囲でのことです。貨幣は勝手に造ることも出来ませんし、造ったとしてもその人に支配権がなければ流通することはありません。
 彼らがデナリオン銀貨を持ってくると、イエス様は「これは、だれの肖像と銘か。」と尋ねます。答えは当然「皇帝のものです。」そして、イエス様は結論を告げます。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」これはイエス様に罠を仕掛けた者たちの想定した答えとは全く違っておりました。イエスでもノーでもありません。イエス様は、自分に仕掛けられた罠を用いて、税金を納めるのか納めないのかというような問題ではなく、「あなたは何者か?」「あなたはどう生きなければならないのか?」という根本的な問いを発して、答えとされたのです。

  6.皇帝のものは皇帝に
 そうは言っても、一つのことは明確に答えています。「皇帝のものは皇帝に」ですから、これは明らかに、税金は納めなさいということです。これで、ヘロデ派の人々は何も言うことが出来なくなりました。
 しかし、このイエス様の言葉は、単に「税金は納めなさい」ということだけを意味しているわけではないでしょう。イエス様はこの言葉によって、この世の権威、この世の秩序をお認めになった。少なくとも全面的な否定はされなかった。これは重要なことです。勿論、この世の秩序というもの、或いはこの世の権威・権力というものには、これで良いのかという面が必ずあります。腐敗して、どうしようもないところもある。しかし、それを一切否定し、退けるということをイエス様はされなかったのです。この地上にあっては、理想的な政治体制もなければ、理想的指導者がいるわけでもないのだと私は思います。地上の営みとはそういうものです。罪に満ちた人間のやることなのですから、仕方がない。しかし、たとえそうであったとしても、秩序が崩壊するよりはずっと良い。秩序は無いよりあった方が、ずっとずっと良いのです。私はここで、イエス様は、ファリサイ派の人々のように宗教的理想主義のもとでローマ的なものを一切認めない、敵対視し、排除し、攻撃するようなあり方を退けられたのではないかと思うのです。この地上にあっては、神の国が完成するまでは、どうしたって「この世の秩序」というものを無視することは出来ないのです。自分たちだけが無人島に行って、理想郷を作る、神の国を作るといったところで、そこに出来上がってくるものは、罪に満ちた人間が作る、矛盾に満ちた、不公平な社会でしかないのだと思います。それが、「地上にある」ということです。しかし、それに絶望しない。それを全否定しない。そこでどう生きるのか。それが私共の課題です。イエス様は、そのことを次の言葉で告げられました。

7.神のものは神に
 それが「神のものは神に返しなさい」という言葉です。ここでイエス様が言われた「神のもの」とは何を指しているのでしょうか。ここで思い起こしますのは、天地創造の場面。神様が人間を造られた時を記した聖書の言葉です。創世記は1章27節「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と告げています。人間は神様にかたどって造られたのです。つまり、デナリオン銀貨にローマ皇帝の肖像が刻まれているように、私共人間は私共を造られた神様の姿にかたどられたものなのです。今、私共のどこが神様にかたどられたことを示しているか、神様に似たものとされているのかは論じません。ただ一点。私共が「神にかたどって創造された」ということは、何よりも私共は神様に造られたのであり、神様のものだということを示しているということを確認するに留めます。
 ということは、「神様のものは神様に返しなさい」とは、私共自身を神様に返しなさいということになりましょう。イエス様はここで「返しなさい」と言われました。私共自身が、元々自分のものではないのです。神様のものなのです。自分の時間も、能力も富も、本来すべて神様のものです。それをあたかも自分のものであるかのように思い違いをして、何でも自分の好き勝手に使って良いと思っている。それが罪です。イエス様は、この御言葉によって、私共が罪人であることをはっきり示されました。そして同時に、その歩みと決別して、神様のものとして、神様に与えられものを神様にお返しする歩みを始めるようにと促されました。まさに、悔い改めて、新しく生きることをお示しになったのです。それが献身という歩みです。自分の人生を、神様に与えられた者として、神様に捧げて生きる。それがこの地上にあっての私共の歩みなのです。このイエス様の答えにファリサイ派の人々も驚き、何も言えずにそこから立ち去りました。

8.新型コロナウイルス感染の緊急事態宣言の中で
 私共はイエス様が告げられた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」との御言葉に従って生きていきます。この御言葉に従って生きるのは、イエスかノーか、右か左か、そんな単純な歩みではありません。4月16日(木)に緊急事態宣言が出ました。これが出たので主の日の礼拝を止める。そんな単純ことではありません。新型コロナウイルスの感染がこの富山でも広がっています。外出を自粛をしなければいけません。緊急事態宣言が出ようと出まいと、そうしなければなりません。それは自分が感染しないためだけではなく、自分が他の人に感染させないためでもあります。それ故、礼拝を休んでいただかなければなりません。しかし、それは教会が主の日の礼拝を止めるということではありません。それでは「皇帝のものは皇帝に」という、この世の秩序に関わる対応だけに終わってしまいます。イエス様はそれに続けて、「神のものは神に返しなさい」と言われました。礼拝はイベントではありません。神様が私共にお命じになったことです。神様のものなのです。ですから、教会はどんな時でも、イエス様が再び来られる時まで、主の日の礼拝を守るのです。先の大戦の時だって、敵性宗教と呼ばれ、非国民と罵られても主の日の礼拝を閉じることはしませんでした。たとえ、出席する者が一人、二人となろうと礼拝を閉じることはしませんでした。
 しかし、そこには色々なやり方があります。今回、私共の教会は、希望する方には事前に家庭礼拝の栞と説教原稿を配布し、また説教の動画をホームページで流して、自宅でもこの礼拝に祈りをもって参加出来るようにしました。これがこの状況の中で私共が選択した、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という御言葉に従う道でした。私が一番恐れるのは、緊急事態宣言が出されたのだから、礼拝を守らないのは当然だと考えてしまうことです。それでは「神のものは神に返す」歩みにならないからです。ここに集わなくても良いのです。外出を自粛をされて良いのです。しかし、それでも何とかして礼拝に与ろうとする、その思いを失ってはなりません。そして、教会は何としても主の日の礼拝を守るための手立てを考えるのです。今日、ここに集うことが出来た人は少ないですが、家でそれぞれが祈りを合わせ、賛美を捧げ、御言葉に与っていることでしょう。このような形で主の日の礼拝を皆さんと共に守れましたことを、心から神様に感謝するものです。

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神様。今朝、私共は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」との御言葉を与えられました。この地上にあって、私共はどの道を選べば良いのか、しばしば悩み、困り果てます。この日本に、富山に生きる者として、キリスト者としてしっかり歩んでいきたいが故に、悩んでしまうのです。どうか神様、私共が神様のものとされていること、神様の子・僕とされていること、そのことをしっかり心に刻んで、御心に適う道を選んでいけますように、私共に聖霊を与え、信仰を与えて、導いてください。  この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

[2020年4月19日]