1.黄金律
今朝与えられている御言葉はとても有名な言葉です。そして、とても大切な言葉です。何しろ、イエス様御自身が、律法の中で最も重要な掟はこれですと告げられた御言葉だからです。
イエス様を試そうとしてファリサイ派の一人、律法の専門家がイエス様にこう尋ねました。36節「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエス様の答えはこうでした。37節b~39節「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」このイエス様の答えは、黄金律、ゴールデン・ルールと呼ばれてきました。金のように尊い教えという意味でしょう。ここでイエス様は、神様を愛することと人を愛すること、これが最も重要なことだと教えてくださいました。
多分、皆さんの中でこのことを今朝初めて聞いたという人はいないでしょう。神様を愛し、人を愛して生きる。これが一番大切なこと。キリスト教会においては、誰もが知っていることです。しかし、知っているということと、そのように生きている、この御言葉に従って生きているということは、別のことです。この御言葉に限らず、聖書の言葉というものは、知っているだけでは意味がありません。そのように生きるということでなければ意味がない、そういうものです。しかし、面と向かってこの御言葉に従って生きているかと問われて、「はい、そのように生きています。」と素直に答えることが出来る人もまずいない。そうすると、この御言葉は「知ってはいるけれど、理想ではあるけれど、実現することは出来ない目標」ということになりかねません。しかし、それでよいのでしょうか。
2.敬神愛人と敬天愛人
「敬神愛人」という言葉があります。神様を敬い、人を愛すると書きます。この言葉はこのイエス様の告げられた黄金律を漢字四文字に移した言葉です。これは関西学院や名古屋学院、或いは横須賀学院高校、敬和学園、山梨英和といったキリスト教学校のモットーに掲げられています。東北学院大学の最初の礼拝堂にもこの言葉が掲げられていたと言います。明治以来、キリスト教の根本を「敬神愛人」という言葉で言い表したわけです。「愛神愛人」と言わず、「敬神愛人」と言ったところに、明治の人の教養を感じます。この言葉を最初に用いたのは、明治初期の啓蒙思想家であった中村正直(まさなお)です。彼はキリスト者でした。この人は今はあまり知られていませんが、当時は福沢諭吉などと肩を並べる、大変著名な啓蒙思想家でした。
また、この「敬神愛人」という言葉は、ほんの少しだけ変わって「敬天愛人」という言葉になって、更に広く日本中に伝わりました。それは西郷隆盛がこの「敬天愛人」という言葉を好み、学問をすることの目標はこれだと言ったからです。西郷隆盛の遺訓をまとめた『南州遺訓』という書物の中に記されています。何故、西郷は神を天という言葉に置き換えたのか。それは、日本の文化土壌において、神と言うのは馴染まないと考えたからでしょう。中村正直が「敬神愛人」と言ったのは、明らかに今朝与えられているイエス様の御言葉からで、この神は聖書の神を示しています。しかし、西郷が神を天と置き換えたことにより、この言葉は聖書の意味しているものとは違って、人生訓のような、人間の歩むべき道を説く言葉となりました。これは現代にまで続いておりまして、経営の神様のように言われている京セラの創業者である稲盛和夫もこれを座右の銘としているようです。「企業経営というものは私利私欲でなされるものではなく、敬天愛人の志をもってなされるものである」と説くわけです。私は、西郷さんも稲盛さんも大変偉い方だと思っておりますけれど、見ているところが少し違うのではないかとは思います。
「敬神愛人」から「敬天愛人」へ、敬うべきが神から天に変わった。敬うべき方が変わってしまいました。神が天に変わることによって、何が変わってしまったかと言いますと、イエス・キリストというお方が抜け落ちてしまったのです。西郷自身は若い時に宣教師のフルベッキから学んだことがあり、イエス様のこの言葉を知っていたとは思いますけれど、その後のこの言葉の受け取り方においては、イエス様は抜け落ちてしまいました。イエス様が抜け落ちてしまい、敬天愛人という言葉は、ただの学問の目標や人生訓になってしまいました。それは、イエス様がここで告げられたものとは、全く違ったものになってしまったということです。この言葉は、イエス様を抜きにしては、きちんと受け取ることは出来ない言葉だからです。
3.切り離せない二つの掟
イエス様はここで、律法の専門家から「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と問われました。彼は律法の専門家ですから、自分の中に答えを持っていて、ちゃんとそのように答えるかどうか試そうとしたのでしょう。イエス様の最初の答えは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」でした。これは先ほどお読みいたしました、申命記6章5節の言葉です。実は、この言葉は4節の「聞け、イスラエルよ。」から始まるのですが、これはへブル語では「シェマー、イスラエル」となります。これは「シェマーの祈り」と言って、ユダヤ人が毎日必ず唱える祈りだったのです。ですから、これが一番重要だと言われれば、みんな納得する、ある意味「当たり前の答え」と言っても良いのかもしれません。
しかし、イエス様は続けて「隣人を自分のように愛しなさい。」と言われました。そして、これは第一の神様を愛することと同じように重要だと言われたのです。ここが大切な所です。神様を愛することと隣り人を愛することは分けられないのです。そのことをイエス様ははっきりさせたのです。
この時イエス様に質問した律法の専門家はファリサイ派の人でした。彼らは神様を愛するということにかけては、誰にも負けないとの自負があったでしょう。彼らは、613にも上る掟に従って日々生活していました。しかし、彼らはそのように律法を守ることのない人たち、守ることの出来ない人たちを、神様から見捨てられた、救われることのない者として軽蔑し、食事を共にすることさえしませんでした。その彼が今、イエス様を試すために質問したのです。この時彼は、イエス様を愛していたでしょうか。イエス様を憎み、陥れ、葬り去ろうとしていたのではありませんか。第一の掟である「神様を愛すること」と第二の掟「隣人を愛すること」が分裂していた。だからイエス様は、「第二も、これと同じように重要である。」と言われたのです。第一の掟と第二の掟は分けることは出来ません。神様を愛することと隣り人を愛することとは、分けることが出来ない。それはただ一つの御心を示しているからです。
4.十戒
このことは律法の根本と言っても良い、十戒の構造がはっきりと示しています。神様は神の民に十戒に従って生きることを求めます。この十戒は前半の第一戒から第四戒まで、つまり
①あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
②あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
③あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
④安息日を覚えて、これを聖とせよ。
は、神様との関わりを具体的に告げております。そして、第五の戒以降、つまり、
⑤あなたの父と母を敬え。
⑥あなたは殺してはならない。
⑦あなたは姦淫してはならない。
⑧あなたは盗んではならない。
⑨あなたは隣人について、偽証してはならない。
⑩あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
は、具体的に隣人との関わりを示しています。
十戒は、神様が神の民に与えられた生きる指針でありますけれど、この十戒は第一戒だけ、或いは第一戒から第四戒までを守れば良い、逆に第五戒から第十戒を守れば良いというようなものではありません。これは全部で一セットになっているもので、その一部を取り出してきて守っても意味をなさない、そういうものです。第一戒から第十戒までがセットになっていて、これに従って神の民は生きる。ここでも、神様との関わりと人との関わりは分けることは出来ないのです。神様は、私共に首尾一貫して「神様を愛すること」と「隣り人を愛すること」を求めておられるのです。イエス様は実に見事に、神様の御心をこの二つの掟に集約するあり方でお示しになったのです。
ちなみに、私共は聖餐に与る礼拝においては、この十戒を唱えています。しかし、この十戒の代わりに、この二つの掟を唱えても良いのです。実際、そのようにしている教会もたくさんあります。教会は、神様を愛することと隣人を愛すること、この二つの掟を十戒の要約のように受け取ってきたのです。
5.出来ますか?
問題はここからです。律法の専門家は、神を愛することが第一に重要であることを知っていました。しかし、第二の隣人を愛することが重要であることは知っていたとしても、それに生きることはしていませんでした。彼らからすれば、「隣人というのは、家族、親戚、親しい友人、最大に広げても律法を守る正しいユダヤ人の同胞」といった具合に限定していたのでしょう。はっきり言えば、彼らファリサイ派の人々にとって、罪人や異邦人は自分の隣人には入らない。自分はそんな人の隣り人ではない。縁もゆかりもない、赤の他人。そう思っていたのでしょう。そして、イエス様のこともそう思っていたのかもしれません。しかし、イエス様から見れば、それは間違っていました。
ここで、善いサマリア人のたとえ話(ルカによる福音書10章25~37節)を思い起こすことが出来るでしょう。ルカによる福音書では、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして「先生、何をしたら、永遠の生命を受け継ぐことができるでしょうか。」と言い、イエス様が「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。と問い返し、律法学者はこの第一の掟と第二の掟を答えます。イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。」と告げると、律法学者は「では、わたしの隣人とはだれですか。」とイエス様に問い、イエス様は善いサマリア人のたとえを話されたのです。いま、善いサマリア人の話を繰り返すいとまはありません。ただ、このたとえではっきりイエス様が示されたのは、自分の隣人とは「ここまで」といって線を引けるものではなくて、目の前の人は誰でもわたしの隣人になる、「わたしがその人の隣人になる」ということでした。
律法学者にしてみれば、誰でも彼でも自分のように愛したら、とても自分の身が持たない。だから隣人を限定したかったのです。しかしイエス様は、限定は出来ないと答えられた。ここで私共の問題となります。イエス様は「神様を愛する」ということを「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と言われました。この「尽くして」という言葉は「全部」という言葉です。つまり、心の全部、精神の全部、思いの全部を用いて神様を愛しなさいと言われたわけです。私も、神様を愛しているかどうかと言われれば、愛していますと答えます。しかし、心の全部、精神の全部、思いの全部を用いて神様を愛していますかと言われると、そんなに徹底はしていないかもと不安になります。更に、「隣人を愛する」といっても、「自分のように」愛しているかと問われたら、「いやいや、それは無理です。」そう答えるしかないでしょう。
実は、このイエス様が最も重要であると言われた二つの掟、この掟を前にして「私は出来ません。」と、はっきり、正直に答えること、それが決定的に大切なのです。このことがなければ、この掟の重大さは少しも分からないからです。この掟は神様の言葉、神様の掟ですから、「立派な教えだ。出来そうにないけれど、私の目標にしよう。」では済まないのです。これが出来ないということは、罪人として定められる、神様の裁きによって滅びるしかない、ということだからです。しかし、この掟はどう考えても、私共には出来ません。ここで私共は、自分という人間が、神様の御心に沿って歩んでいくことが出来ない者であることをはっきり示される。神様に裁かれ、滅びるしかない者であることを知らされる。これが決定的に大切なのです。神様の御心に適う歩みが出来ない者であることを知らされた時、私共はイエス様の姿がはっきり見えてくるのです。私のために、私に代わって十字架にお架かりになられたイエス様の姿です。そして、はっきり知るのです。「それでも、私は神様に愛されている。」この「それでも、私は神様に愛されている。徹底的に愛されている。」そのことをしっかり心に受け止めた時、この二つの戒めは別の響きをもってくるのです。
6.喜びの響きの中で ①神様を愛する
どのような別の響きを持ってくるのか。それは、この「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」という神様の言葉は、「わたしはあなたを、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして愛した。愛している。だから、愛する独り子を与えた。」という神様の愛の言葉として響いてくるはずなのです。「わたしはあなたを、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして愛した。愛している。」だから「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、わたしを愛しなさい。」と神様が私に語り掛けている言葉として聞こえてくる。神様は私共を「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして愛してくださった」が故に、イエス様を私共に与えてくださったのです。
ペトロたちに裏切られ十字架に架ったイエス様が三日目に復活され、ペトロに問いました。「わたしを愛しているか。」イエス様は三度も問われたのです(ヨハネによる福音書21章15節以下)。あの時ペトロは、イエス様が十字架にかけられてもなお自分を赦し、徹底的に愛し抜いてくださっていることを知らされます。ペトロは「愛しています。」と答えるしかなかった。あの時と同じように、私共は「主よ、愛します。」と答えるしかないでしょう。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」との言葉が、固い、私がしなければならないことを示している言葉や理想を掲げている言葉ではなくて、私に告げられた神様の愛のことぱとして、喜びの響きを持って私共に新しく聞こえてくるのです。
7.喜びの響きの中で ②隣り人を愛する
「隣人を自分のように愛しなさい。」も同じです。私共には出来ないのです。でも、イエス様の十字架の前に立つ時、私共は聞くのです。「わたしはあなたの隣人になった。すべてを捨てて、あなたを愛した。だから、あなたも隣人を自分のように愛しなさい。」との御言葉を聞くのです。
ここで「自分のように」ということが大切です。私共は自分を愛することが出来ているでしょうか。あれが足りない、これが出来ない、もっとこうだったらいいのに。だから自分は愛される価値がない。そんな思いをどこかで抱いてはいないでしょうか。しかし、神様は私共を完全に、徹底的に、これが出来たらとか、もう少しこうなったらとかの条件を一切付けずに、愛してくださっています。その証しがイエス様の十字架です。私共は神様に徹底的に愛されている。それを知る時、私共は自分に対して明確な自己肯定感を持つことが出来ます。人と比べるのではなく、周りからの評価によるのでもなく、天地を造られた神様が私を愛してくださっている。これは圧倒的なものです。この神様の愛を知り、神様を愛する者とされた時、私共はその愛を隣人へと注いでいくことになります。
愛は、注がれ、注ぎ、動いている。私の中にため込んでおくことなど出来ません。愛は、外へ外へと動いていくのです。それが神様の愛というものなのです。父・子・聖霊の三位一体の神様の交わりは完全な愛の交わりですが、その愛は父と子と聖霊の中で満足するようなものではありませんでした。その愛は、外へとあふれ出し、私共に注がれました。ですから、その愛は私共の中に留まることが出来ないのです。私共の外へ、隣り人へと注がれていくのです。
こう言っても良いでしょう。隣り人を愛するとは、神様が私を愛してくださっている、その徹底的した愛を分かち合うこと。あなたも神様に愛されていますと、その喜びを分かち合うことです。神様が私を徹底的に愛してくださっているということが分からなくなれば、この掟に生きることは出来ません。そして、しばしば私共はその危険にさらされます。病気、怪我、愛する者とのトラブル。材料はそこら中にあります。しかし、イエス様の十字架さえ見失わなければ、私共は何度でも、ここに立ち戻ることが出来るでしょう。
8.神様の愛の中に生きる
イエス様はここで、私共に三つの愛することを告げられました。それは「神様を愛する」こと、「隣人を愛する」こと、そして、前面には出てきていませんが、「自分を愛する」ことです。そして、その三つの私共の愛の前提が、「神様が私を愛してくれた。徹底的に愛してくれた。」という神様の愛なのです。そして、この神様との愛の交わりに生きるようにとの招きの言葉が、この二つの最も重要な掟です。神様の徹底的な愛を知った者は、どれだけ神様を愛しているか、どれほど隣り人を愛しているか、そんなことを全く気にしません。私共は既に徹底的に愛され、既に徹底的に赦されているからです。これだけ愛することが出来たから赦されたのでも、愛されたのでもないからです。それに、愛は、量や強さを計るようなものではないないでしょう。
「愛する」という言葉は、明治時代に聖書を日本語に翻訳する時に生まれた言葉だと言われています。それまで、愛欲とか愛惜とかの熟語では使われていましたが、「愛する」というように「愛」という言葉を単独で使うことはありませんでした。私共は当たり前のように「愛」という言葉を使っておりますけれど、明治時代に翻訳した人は本当に大変だったと思います。では、それよりずっと前、戦国時代にキリスト教が入ってきた時に聖書の「愛」は何と訳されていたかと言いますと、「お大切に思う」と訳されました。なるほどと思います。良い言葉だと思います。神様を大切に思う。自分が出会う人を大切に思う。そのような者として、私共は召され、生かされているのです。神様を愛し、隣り人を愛する。この御言葉と共に、この一週もまた、御国に向かって共々に歩んでまいりましょう。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神様。
今朝、あなた様は私共に最も重要な掟を教えてくださいました。ありがとうございます。私共が、あなた様を愛し、隣り人を愛する者として、あなた様との愛の交わりの中に生きることが出来ますよう、どうぞ聖霊をもって導いてください。
この祈りを私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2020年5月10日]