1.メシア(=キリスト)
私共はキリスト者です。キリスト者とは、私共のために十字架に架かり、死んで三日目に復活されたイエス様をキリストと信じる者です。「イエス・キリスト」という言い方を私共はしますけれど、これは「イエスはキリストです」という信仰を言い表しています。ですから、ユダヤ教の人は決して「イエス・キリスト」とは言いません。どうしてもイエス様のことを言わなければならない時には、単に「イエス」と言うか、「ナザレ人イエス」と言います。イエス様をキリストとは認めていないからです。
この「キリスト」という言葉ですが、新共同訳では「メシア」と訳されています。新共同訳聖書が出された時に、「聖書新共同訳 翻訳の基本方針について」という文書が日本聖書協会から出されました。その中に「新約聖書のキリスト(ギリシャ語のクリストス)は、ヘブライ語のメシアのギリシア語訳であるが、従来の翻訳においてはこれをすべて一様にキリストと訳していた。今回の新共同訳においては、メシアの意味のキリストはすべてメシアと訳す方針を立てた。」という一文があります。パウロ書簡の中で「キリスト・イエス」という書き方をしているところでは、口語訳と同じく「キリスト・イエス」となっていますが、それ以外のところ、今朝の御言葉においてイエス様がファリサイ派の人々に対して「あなたたちはメシアのことをどう思うか。」と訳されているところなどは、ギリシャ語の原文では「キリスト(クリストス)」となっています。原文にキリストとあるのに、わざわざメシアと訳さなくても良いだろうにと思いますが、そうなっています。こんな話をしますのは、メシアとキリストは全く同じ意味の言葉だということを説明したかったからです。
「メシア」とは直訳すれば「油注がれた者」という言葉です。旧約において、神様に選ばれ、その務めに就く時に油を注がれた者は、すべての者がそうであったわけではありませんけれど、王・祭司・預言者、この三職に就く時には油を注がれる儀式が為されました。この「油注がれた者」という意味のメシアという言葉が大変大きな意味を持つようになったのは、バビロン捕囚の後です。
紀元前587年にバビロンによって南ユダ王国は滅ぼされます。ダビデ王家によって統治されていた神の民であるはずの南ユダ王国が滅びた。ダビデ王家も滅んだのです。そして、おもだった者たちは祖国から、遠い異国バビロンへと連れていかれます。この時、神様は我々を見捨てた、契約を反故にされたという深刻な絶望感が彼らを襲いました。しかし、そのバビロン捕囚の中で、「いや、神様が我々を見捨てたのではない。我々が律法を守らず、神様に背いたからこのような懲らしめを受けたのだ。」という預言者たちの言葉に導かれ、神の民の信仰が再び立ち上がってきました。そして、そうであるならば、神様がアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセ、更にダビデと結ばれた契約はまだ反故にされていない。神様は我らを見捨てたのではない。悔い改めて律法を守り、御心に従うならば、やがてあの約束の地に戻ることが出来る。そして、ダビデと契約されたように、ダビデ王家によって神の民は復興される。そのための王=油注がれた者=メシアが来る。このメシアによってダビデ王家は復興され、神の民に栄華と繁栄がもたらされる。そのように信じるようになったのです。このメシアを待ち望む信仰の根拠となったのが、先ほどお読みいたしました、サムエル記下7章11節b以下にあります、いわゆるダビデ契約と呼ばれる御言葉です。「主はあなた(=ダビデ)に告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
確かに、その後バビロンはペルシアに滅ぼされ、バビロン捕囚は終わりました。彼らは祖国に帰ることが出来ました。エルサレムを再建し、エルサレム神殿も再建しました。しかし、ペルシアの後はアレキサンダー大王によるギリシャの支配、その後はローマ帝国による支配と、ユダヤの民はずっと巨大な帝国に支配され続けました。バビロン捕囚から解放されて500年。メシアは来なかった。キリストは来なかった。しかし、メシアを待つ思いはユダヤの人々の中で消えることはありませんでした。
2.イエス様の問い①「メシアをどう思うか。だれの子か」
そのようなメシアを待ち望み続けていたファリサイ派の人々に、イエス様はこう問うたのです。42節「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」この問いは、当時のユダヤ人ならば誰でも間違いなくこう答えたはずです。当然、彼らは「ダビデの子です。」と答えました。それ以外の答えなどあるはずがない。
これは正解です。しかし、十分ではありませんでした。それが、ファリサイ派の人々には分かりませんでした。イエス様の問いを注意深く見てみましょう。イエス様は「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」と問われました。イエス様は「メシアは誰の子か?」とだけ問われたのではありません。「メシアのことをどう思うか?」とも問われたのです。しかし、ファリサイ派の人々は「誰の子か?」という問いに対しての答え、「ダビデの子です。」としか答えませんでした。どうしてでしょうか。それは、ダビデの子と言えば、そのメシアがどのような方であるのかは説明するまでもなかったからです。「ダビデの子」であるメシアは、ダビデのように地上の王となり、ユダヤ人を繁栄へと導いてくれる。ローマの軍隊など蹴散らし、逆にローマを支配する。ユダヤに豊かな繁栄をもたらし、ユダヤを世界に冠たる国にする。それをしてくれるのがメシア。彼らはそう思っていました。
3.イエス様の問い②「どうしてダビデは、メシアを主と呼んでいるのか」
しかし、まことのメシアであるイエス様はそうではありませんでした。「メシアが誰の子か?」という問いと「メシアはどのような方なのか?」この二つの問いは繋がっています。
イエス様は「ダビデの子」と答えたファリサイ派の人々に対して、それではメシアがどのような方なのか分からない。本当のメシアは、目に見える所だけを見ても分からない。もっとはっきり言えば、「神の御子」であることが分からなければ本当のメシアは分からない。そのことを示すために、イエス様はもう一つの問いをファリサイ派の人々にされました。
43~45節です。「イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで』と。」このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。』」これは一度読んで、そういうことかと合点がいく人はそう居ないでしょう。イエス様は何を言われているのか、ちっとも分からない。そう思われる方も多いかと思います。イエス様が言われていることは、少し込み入ってはいるのですけれど、難しいことを言われているわけではありません。こういうことです。
44節でイエス様が引用されたのは、詩編110編1節の言葉です。この詩編は1節の始めに「ダビデの詩」とあり、ダビデが歌った詩です。詩編は聖書の言葉ですから、ダビデは聖霊を受けてこの詩を歌いました。「主は、わたしの主にお告げになった。」とダビデは歌っている。歌っているのはダビデですから、最初の「主」は神様です。そして「わたしの主にお告げになった」の「わたしの主」こそメシアなのです。何故なら、神様が「わたしの主」に告げたのは「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで。」という言葉だったからです。「わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」とは、神様が敵をこの方の足もとに屈服させる、やっつけるということですから、この方はメシアということになります。しかも「わたしの右の座に着きなさい」というのですから、これはただの人ではありません。ただの人間が、神様の右に座ることなど出来るはずがないからです。そして、この詩編を歌ったダビデはこの「敵を足もとに屈服させる方」であるメシアに対して、「神様の右の座に座る」ただの人間ではないこの方に対して、「わたしの主」と言っているわけです。ですから、メシアは単なる人間としての「ダビデの子、ダビデの子孫」であるはずがないとイエス様は言われたのです。イエス様はダビデの詩を引用されて、ダビデ自身がそう言っているではないかと言われたのです。自分の子や自分の子孫に対して「わたしの主」となんて言うはずがないからです。子どもが父に向かって「わたしの主」と呼ぶことはあります。しかし、その逆はありません。
ここでイエス様は、「メシアが単なるダビデの子(=子孫)である人間だ」という理解を退けられました。メシアは、すべての敵を滅ぼし、神様の右に座る大いなる方、聖なる方であることをお示しになったのです。
4.イエス様はダビデの子ではない?
しかし、このように言われると私共の頭は少し混乱するのではないかと思います。何故なら、聖書はたくさんの所で「イエス様はダビデの子孫である」ことを示し、その事によってイエス様がまことのメシア(=キリスト)であることを示しているからです。
代表的な所は、マタイによる福音書の冒頭です。あの名前ばかりが続くところです。それは「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」という言葉で始まり、アブラハムからダビデを経て、イエス様に至る系図を記しているわけです。イエス様はダビデの子孫なのです。「ダビデの子」と言う場合の「子」は、「子孫」を意味します。この系図はイエス様の父であるヨセフの系図です。イエス様は母マリアと聖霊によって生まれたのだから、ヨセフとは関係ない。そういうことではありません。あの系図は、明らかにイエス様がダビデの子孫であることを示すために記されているのです。他の箇所をいくらでも引くことは出来ますが、聖書はイエス様がダビデの子であることを明確に告げています。メシアはダビデの子として来られるという旧約の預言は成就されなければなりませんし、成就したと告げている。しかし、そうであるならば、ここでイエス様がダビデの子であるというファリサイ派の人々の答えを退けられたことと、どういう関係になるのでしょうか。
それはこういうことです。イエス様は確かにダビデの子として、神様によって乙女マリアから生まれました。しかしそれは、ダビデの再来として来られたのではありません。ダビデのようにユダヤの民を最強の民族にして、ローマに代わってユダヤの民に栄光と栄華を与えるために来られたのではなかった。イエス様がまことのメシアとして来られたのは、神様が造られたすべての民を罪から救い、神様との関係を正し、神様に向かって父よと呼ぶ、新しい神の民を造るためでした。まことのメシアであるイエス様は、ユダヤの王になるどころか、ローマの兵隊を蹴散らすどころか、ローマの兵隊によって十字架に架けられ、殺されてしまうのです。ファリサイ派の人々が信じ、待ち望んでいたメシアと、何とかけ離れたお方だったことでしょう。その事を知らせるために、イエス様はファリサイ派の人々とこのようなやり取りをされたのです。しかし、彼らはこれを悟ることは出来ませんでした。
5.三位一体の神
イエス様はダビデの子であるだけではなくて、神様の独り子でした。まことの人にして、まことの神。それがまことのメシアである、イエス・キリストというお方でした。「まことの神にして、まことの人」それがイエス・キリストというお方です。しかし、このようなことは、ファリサイ派の人々だけではなく、すべての神の民が考えたこともないことでした。天地を造られた全能の神様が、ちっぽけな一人の人間として現れる。これは神様に対しての冒涜以外の何ものでもありませんでした。
永遠無限の神様と限りある存在である人間。天地を造られた全能のお方と人間に殺されてしまう方。ここにどんな関係があるというのでしょう。ファリサイ派の人々でなくても、関係ないと言いたくなりましょう。メシアはこの世の王であり、絶対に正しく、憐れみに満ち、しかし絶対に負けない。このメシアは神様に選ばれ、油注がれ、遣わされたお方だけれども、神ではない。世界史の教科書は、イエス様のことを「三大聖人」の一人として教えます。偉い人。立派な人。愛の人。そう教える。しかし、そうではないのです。もしただの人であるならば、それがどんなに偉い人であったとしても、私共に罪の赦しも、復活も、永遠の命も与えることは出来ません。
この聖書が記された時、三位一体という言葉があったわけではありません。「まことの神にして、まことの人」という言葉があったわけではありません。しかし、代々の聖徒たちは、イエス様に対しての自分たちの信仰を言い表す言葉として、このような言葉を紡いで来ました。私共もその言葉と共に、イエス様に対しての信仰を受け継いでいます。ですから、私は「イエス」なんて言えません。「イエス様」或いは「主イエス・キリスト」としか言えません。何故なら、この方によって私は救われたからです。神と崇めるべきお方、礼拝するお方だからです。私は、この方によって神の子とされ、新しい命に生きる者としていただいたからです。
三位一体という言葉は、人間が頭の中で造り出した言葉ではありません。「まことの神にして、まことの人」も同じです。どうして三位一体でなければならないのか。どうしてイエス様は「まことの神にして、まことの人」でなければならないのか。理由は、とっても簡単なことです。それは、そうでなければ私共は救われないからです。永遠の命に与ることなど出来ないからです。ファリサイ派の人々のメシア像は、彼らが想像することが出来る範囲の中、自分の頭の中に入りきるものでした。そして、彼らが「これは本当」「これは偽物」と判断出来るものだった。しかし、イエス様はその判断によって、十字架に架けられることになりました。イエス様は神の独り子であられますから、決して私共の頭の中に入りきるようなお方ではないのです。
主イエス・キリストというお方が、ただダビデの子孫であるということであったならば、まことの神の独り子でなかったのならば、その十字架の死が、どうして私共の身代わりとなり得ましょう。一人の人間の十字架の死が、時代を超えて、すべての人の罪の裁きを飲み込むことがどうして出来ましょう。神の独り子でなくて、どうして死んで三日目に復活させていただけるでしょう。更に、神の独り子でなくて、どうして今も生きて働き、私共のすべての歩みを導くことが出来ましょう。これが出来るのは、神の独り子、まことの神にしてまことの人であられるお方だけです。もしイエス様がまことの神、神の独り子でなかったのならば、この主の日の礼拝そのものが、偶像礼拝という、最も神様の御心に適わないことを為しているということになってしまうでしょう。
6.まことの王、まことの祭司、まことの預言者
イエス様が「まことのメシア」=「油注がれた者」であられるということは、イエス様が「まことの王」「まことの祭司」「まことの預言者」であられるということです。ダビデの子孫というだけでは、「王」という職務しか持っていないことになってしまうでしょう。それでは十分にまことのメシアであるイエス様のことを言い表すことは出来ません。 イエス様は「まことの王」として、天の父なる神様の右におられ、神様と同じ権威と力を持って、この世界のすべてを支配しておられます。まことの王は、地上の王ではありません。地上の王が作る王国は、どんなに広くてもこの世界のすべてではありませんし、どんなに続いてもやがては滅んでいくからです。イエス様の国、神の国はそんなものではありません。
また、イエス様は「まことの祭司」として、すべての人間の罪を贖うために、御自身を十字架の上で贖いのいけにえとして捧げられました。これにより、私共は一切の罪を赦され、アダム以来途絶えていた神様との交わりを回復していただいた。全く罪の無い、神の御子であられるが故に、すべての者の罪の贖いのいけにえとなることが出来たのです。
そして、イエス様は「まことの預言者・教師」として、神様の御心を正しく、はっきりと、言葉と業とによって私共にお示しくださいました。言葉だけではありません。その存在と業とによって、神様の御心、神様の愛、神様の真実、神様の命を示されました。その事によって、私共が歩んで行くべき御国へと続く道を明らかにしてくださったのです。
この「まことの王」「まことの祭司」「まことの預言者」であられるお方が、どうしてただの人間であるはずがありましょうか。
7.私共の答え
私共は、教会に来始めた頃、「イエスってどんな人?」と問うたことがあるかと思います。これは決定的に大切な問いです。しかし、この問いは必ずイエス様からこう問い返されます。「あなたはわたしをどう思うのか?」私共は何と答えたでしょうか。
今朝、私共はイエス様から「あなたはわたしを誰の子と言うか?」「あなたは私をどう思うのか?」と問われています。私共の答えはこうです。「主よ、あなたはダビデの子にして、神の独り子であられます。」「主よ、あなたは私共の一切の罪の裁きを我が身に負って、十字架の上で殺された方です。そして、三日後によみがえられた方。天に昇られ、全能の父なる神様の右に座し、今も生きて働き、すべてを支配しておられるお方です。」「主よ、あなたは、恵みと慈愛に満ち給うお方です。罪にまみれた私共を退けることなく、友よと呼んでくださいます。そして、わたしと共に生きようと招いてくださいます。」「イエス様、あなたは私共の主であられます。私共の心も、体も、力も、富も、時間も、すべてはあなた様のものです。どうか、私共をあなた様の御業の道具として、存分に用いてください。」私共はイエス様の問いに対して、こう答えるのでしょう。この答えを信仰告白と言うのです。信仰告白とは、教会の旗印でありますけれど、それは実に神様の御前に立つ私共が、神様・イエス様から直接問われ、答えるものです。この神様との応答関係こそが、私共と神様との関わり方なのであり、交わりなのです。この交わりの中で、この一週もまた、健やかに御国に向かっての歩みを為してまいりたと願うものです。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神様。
今朝、あなた様は私共に、イエス様はどのようなお方で、誰の子であるかを教えてくださいました。ありがとうございます。イエス様をわが主、わが神と告白し、拝み、信頼しつつ、この一週も歩ませてください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2020年5月17日]