1.はじめに
今日はペンテコステ記念礼拝です。使徒言行録2章には、五旬祭の日(つまりペンテコステの日)に弟子たちに聖霊が降り、弟子たちは様々な国の言葉で「イエス様こそキリストである」と宣べ伝えたことが記されております。私共は、このペンテコステの日を聖霊が降った日、聖霊降臨日として覚え、礼拝しているわけです。「ペンテコステ」という言葉は新共同訳聖書で「五旬祭」と訳されていますが、この言葉自体には、聖霊に関する宗教的な意味はありません。単純に「50番目」という意味です。この日はユダヤ教において、過越の祭の50日後に祝われる春の収穫に感謝する祭でした。「七週の祭り」とも呼ばれ、過越の祭、仮庵の祭と共に、ユダヤ人たちがエルサレムに巡礼しなければならない、三大祭の一つでした。ですから、この日は世界中から大勢のユダヤ人たちが巡礼のためにエルサレムに集まって来ておりました。その世界中から集まって来ていたユダヤ人たちに向かって、聖霊を注がれた弟子たちは、「イエス様は十字に架けられて死んだけれど三日目に復活された。自分たちはそのことの証人だ。イエス様こそ、旧約において預言されてきたキリストである。」と語りました。
聖霊が弟子たちに注がれたペンテコステの出来事において何が起きたかと申しますと、第一に、イエス様の福音が宣べ伝えられるということが起きました。そして第二に、イエス様を信じる者が増し加えられ、キリストの教会が建ったということです。ですから、ペンテコステは教会の誕生日とも呼ばれるわけです。キリスト者がいる、キリストの教会が建っているならば、そこには必ず聖霊なる神様の御臨在というものがあります。今日は、聖霊なる神様は何を為され、どのように私共を導いてくださっているか、そのことを聖書から聞いていきたいと思います。
2.「イエスは主なり」との信仰を与える聖霊
聖霊なる神様のお働きについて、私共はすべてを網羅することは出来ません。聖霊なる神様は神様ですから、完全に自由であり、私共の設定する枠の中に捕らえることは出来ません。しかし、何も分からないということですと、私共は、聖霊と諸々の霊、或いは聖霊と悪霊の区別を付けられないということになってしまいます。それでは困ります。聖霊なる神様の第一のお働きは、12章3節に「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」とありますように、「イエスは主なり」との信仰を与える。これが聖霊なる神様の決定的に重大なお働きです。
聖霊なる神様は、イエス・キリストというお方と無関係には存在しません。父・子・聖霊の神様は、永遠から永遠に一つであられます。私共は日本という多神教の世界に生きています。ここには諸々の霊、あるいはたくさんの霊的なものがあります。タヌキやキツネの霊もいるでしょうし、私共を様々な欲に引きずられていくようにする悪い霊もいるでしょう。権力や富と結びついた霊もいるでしょう。偶像と結びついた霊もいるでしょう。ゲゲゲの鬼太郎だっています。しかし聖霊なる神様は、そのような諸々の霊の中の一つとしておられるのではありません。聖霊なる神様は、天地を造られたただ独りの神様の霊、主イエス・キリストの霊ですから、その力・聖さ・栄光は諸々の霊とあまりに違って、比べることが出来ないほどです。しかし、私共は目に見えるものに引きずられてしまい、何か不思議なことが起きると、それがいかにも大した霊による出来事だと思ってしまうのです。随分前に、スプーンを曲げるということが流行ったことがありました。この手のものは何時の時代にも出てくるのですが、私共はこの手のものに対しては明確な基準を持っていますので、惑わされることはありません。その基準とは、スプーンが曲がるのと「私の救いに何の関係があるか」ということです。更に言えば、スプーンが曲がるのと「イエス様と何の関わりがあるのか」ということです。
聖霊なる神様だけが私共を救うことが出来るお方であり、私共に「イエスは主なり」との信仰を与えてくださるお方であるということです。
3.イエスは主なり
この「イエスは主なり」とは、最も古い、そして最も短い信仰告白と言われます。ギリシャ語ではたった二つの単語です。「キューリオス・イエスース」。キューリオスは主、イエスースはイエスです。直訳すれば「主イエス」になってしまいますが、ギリシャ語では、英語のbe動詞にあたる単語が省略されるのが普通なので、「イエスは主なり」と訳すわけです。この「キューリオス・イエスース」というたった二つの単語を告白するようにさせることが出来るのは、聖霊なる神様だけです。「イエスは主なり」という告白は、ただ一度だけ口で言えば良いというようなものではありません。この「イエスは主なり」との告白は、自分はイエス様の僕であることを告白しているのであり、イエス様の僕としての歩み、生活というものが共にあるということでしょう。そして、その信仰者としての歩み、生活というものを導いてくださるのもまた、聖霊なる神様なのです。実に、私共の信仰は聖霊なる神様によって与えられ、聖霊なる神様によって導かれ、聖霊なる神様によって完成されるのです。
私共がこのように主の日の礼拝を守るのも、祈りを捧げるのも、讃美を捧げるのも、愛の業に励むのも、すべては聖霊なる神様の導きの中で為されているものです。良きものすべては聖霊なる神様と共にあります。聖霊なる神様は、私共にあまりに近いので、意識しない、意識出来ない、よく分からない、ということなのかもしれません。そもそも、聖霊なる神様御自身が、自らの姿を露わにされないお方なのです。聖霊なる神様は「イエスは主なり」との信仰を私共に与えますが、そこで誉め讃えられるのはイエス様であり、父なる神様です。聖霊なる神様のお働きがいよいよ大きく強くなればなるほど、栄光は父なる神様と子なるキリストへと帰されていきます。聖霊なる神様は、実に謙遜な霊なのです。ですから、この聖霊なる神様によって導かれる私共に与えられる信仰の特徴もまた、謙遜ということになります。「イエスは主なり」ということは、私は主ではありません、私は僕ですということです。主の栄光が現れること、イエス様の御名が誉め讃えられること、それが僕である私共の喜びであり、目的です。それは聖霊なる神様と一つです。聖霊なる神様もそのことを喜び、目的として働かれます。私共の信仰は、聖霊なる神様が私共の中に宿られることによって与えられるものですから、当然のことです。
4.霊の識別
私共は聖霊なる神様の御業と諸々の霊、或いは悪霊の働きについて、明確に区別しなければなりませんが、その基準は今申しましたように、「イエスは主なり」の信仰に貫かれているかどうか、自分の栄光を求めていないかどうか。ただ神様の栄光、イエス様の栄光を求めているかどうか。この二点でおおよその区別がつくのではないかと思います。それは、聖霊なる神様は、私共を捧げる者としての歩みへと、献身者としての歩みへと導いてくださるということです。
しかし、この基準に照らして、「あの人は聖霊の導きの中にあるかしら? ちょっと怪しい。」などと自分以外の人に対して評価を下すようなことがあると、これもまた変なことになってしまいます。私共は欠けのある者、救われし罪人なのですから、欠けを探せばいくらでも出てきます。その欠けをあげつらって、「あなたは聖霊の導きの中に無い。」などと言い始めたら、教会は愛の交わりどころか、裁き合いの場になってしまいます。それでは聖霊なる神様の導きの中にある交わりとは言えないものになってしまうでしょう。ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節には「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」とあります。聖霊の導きによって形作られる交わりは、愛に満ち、寛容、親切、善意、柔和といったものに特徴付けられるものだからです。
こう言っても良いでしょう。聖霊なる神様は「イエスは主なり」との信仰を与えるのでありますから、聖霊の導きの中では私が主人になることは決してない。私が一番にはならない。私は仕える者。神様に仕え、教会に仕え、隣り人に仕える。ですから、自分が主人のようになって「あいつはダメだ。」などと言って裁くことは決してしないのです。それは必ず教会の交わりを壊すことになります。聖霊なる神様は教会を建てるのであって、壊すのではありません。
だったら、何をしても良いのか、何を言っても良いのか。そんなことはありません。「イエスは主なり」の信仰に貫かれて、神様の栄光を求めていく。この筋道は決して蔑ろにされてはなりません。そうでなければ、教会はキリストの体にはなっていかないからです。もし、そうではないことが起きれば、教会はその人を諫めなけばなりません。これはとても難しいことですけれども、そうしなければならないことはあるでしょう。しかし、それは好き嫌いの問題、私と合う合わないという問題ではなくて、教会の秩序の問題です。その秩序を保持するために長老会はあります。
5.聖霊の賜物① ~いろいろある~
さて、聖霊なる神様によって「イエスは主なり」との信仰を与えられた私共でありますから、私共には一人一人に聖霊が注がれています。例外はありません。イエス様を主と信じ告白する者には、必ず聖霊が注がれています。聖霊が注がれていると言うと、何か不思議な力が備わっているかのように思われる方もいるかもしれません。勿論、そういう人もいるでしょう。しかし、私共が具体的に神様に仕え、隣り人に仕えるにあたって、私共には例外なく聖霊の賜物が与えられています。私には与えられていない、そんな人はおりません。8節以下に、パウロは聖霊の賜物を記しています。それは「知恵の言葉」であり、「知識の言葉」であり、「信仰」であり、「病気をいやす力」であり、「奇跡を行う力」であり、「預言する力」であり、「霊を見分ける力」であり、「異言を語る力」であり、「異言を解釈する力」などが列挙されています。今、これを一つ一つ見ていくことはしませんけれど、ここに記されているのは、実際に当時、コリントの教会においてそのような賜物を持った人たちがいたのでしょう。しかし、コリントの教会においてはその賜物を持った人たちが、賜物を比較し、優劣を語り、教会が混乱するという状況があった。それで、パウロはこの手紙を書いたのでしょう。
聖霊によって賜物、恵みとして様々な力が与えられる。それは素敵なことです。しかし、それは与えられたものですから、自ら誇るべきものではありません。「誇る者は主を誇れ」です。聖霊の賜物はここにすべてが記されているわけではありません。聖霊の賜物というのは実に多様なのです。先ほど出エジプト記31章の始めの所をお読みいたしました。ここは神様に命じられて会見の幕屋を作った時のことが記されています。「見よ、わたしはユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。」とあります。「彼に神の霊を満たし」とあります。つまり、聖霊を注いだということです。そして、聖霊を注がれたベツァルエルは、金・銀・青銅・宝石や木の細工を見事に出来るようにされたというのです。ここでは、実に職人の腕、そこにも聖霊が働くと言われているわけです。
私共の教会の一人一人にも、様々な聖霊の賜物が与えられています。具体的に言えば、奏楽する人、歌を歌う人、教会学校の教師、週報を作る人、電気や設備に詳しい人、説教題を書く人、訪問する人、祈る人、食事を作る人、掃除をする人、手先が器用な人、等々、いくらでも挙げることが出来ます。話をすることが賜物の人もいれば、それを聞く賜物を与えられている人もいます。それはその人に与えられたものです。与えられたものであるということは、人と比較して誇ったりするようなものではないということです。
私にはそんな風に人に言える賜物はありません、と思う方もおられるかもしれません。しかし、そうではありません。11節を見てみましょう。「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」とあります。ここに「一人一人に」とあります。この言葉は7節にも出てきます。聖霊なる神様は、「一人一人に」それぞれの賜物、恵みを与えてくださっています。何かが出来る、それだけが聖霊の賜物ではありません。主の日の度毎にここに居る。その存在がどれほど他の教会員を励まし、私を励まし、教会を励まし、支えていることか。この手紙のもう少し先の所で、パウロは教会をキリストの体にたとえて、「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」と言っています。私共は必ず何らかの聖霊の賜物を与えられています。例外はありません。しかし、それに気付いていないという方は、結構いるのではないかと思います。
6.聖霊の賜物② ~全体の益となるため~
聖霊の賜物は、人それぞれに個性のように、実に多様なあり方で与えられているものです。しかし、この多様な賜物はバラバラではありません。それはただ独りの聖霊なる神様によって与えられているのですから、その賜物には聖霊なる神様の意図に添った、御心に適った用いられ方、用いられる目的というものがあります。それは「イエスは主なり」との信仰を明らかにするためであり、主の栄光が現れるためです。それを更に具体的に申しますと、7節に「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」とありますように、「全体の益となる」ということです。この「全体」とは、教会全体ということです。自分はそれが得意だから、それをする。それをするのが楽しいから、それをする。それは大切なことではあるとは思います。苦手なのに、或いはそれをするのが嫌なのにすることはありません。しかし、それは目的ではありません。私共が聖霊なる神様に与えられた賜物を用いるのは、教会全体の益となるためなのです。
人には、他の人に認められたいという思いがあります。承認欲求という言い方もされますが、これは誰にでもあります。しかし、自分の賜物をその為に用いますと、どうも違ったことになってしまいます。神様の栄光ではなく、自分の栄光を求めてしまうからです。全体の益になるよりも、自分の思いを満足させるということになってしまうからです。私共は、ここで一つのことをはっきり弁えていなければなりません。それは「私を認めてくださり、評価してくださるのは神様です。」ということです。私共はそれで十分なのです。それこそ、私共の喜びであり、誇りなのです。勿論、様々な御奉仕に対して、私共は本当にありがたく感謝していますし、その感謝を言葉で表すことも大切なことです。しかし、それを他の人に求め始めますと、人が見ていないところでの奉仕ということが出来なくなってしまうでしょう。しかし、聖霊なる神様が与えてくださった賜物を一番良く用いるべきところは、人が見ていないところ、しかし人がどうしても必要としているところなのではないかと思うのです。そして、それを為し続けていくのに必要なことは、「謙遜と誠実」ということではなかろうかと思うのです。
7.聖霊の賜物③ ~組み合わせて用いられる~
ここまで言っても、「私には、こんな賜物があると、そんな風に言えるものはありません。」と言う人がいるでしょう。どうしても、聖霊の賜物とは特別な能力のことだと思ってしまうからでしょう。確かに、誰が見ても分かる、誰が見ても特別だ、そんな能力を誰もが持っているわけではありません。しかし、聖霊の賜物は、その人が単独で何かが出来る、何かをするという形で用いられるとは限りません。普通は何人もの賜物が集められて、一つの教会の業が為されていきます。一人で出来ることなんて、ほとんどありません。そういう場合、人前で目立つ賜物を与えられている人もいるでしょうけれど、人目につかないところでこまごまとした奉仕で支えている人も必ず必要です。私は、そのようなこまごまとした業に仕えている人は、これが私に与えられた賜物だと受け止めることが大切だと思うのです。何も賜物が無いのではなくて、こまごまとしたことに喜んで仕えることが出来る賜物が与えられているのです。それは実に素敵な賜物です。石垣をイメージしてみてください。石垣は大きな石だけでは石垣になりません。隙間だらけで石垣になりません。その間を埋める石がなければ、大きな石だけでは組み合わされないからです。目立たない小さな石が、堅固な石垣を築いていくのに必要不可欠なのです。
私自身は、特技もない、これといった取り柄もない、無芸大食の男だとずっと思ってきました。運動が出来ない。音楽が出来ない。綺麗な字が書けない。絵も描けない。語学が出来ない(これは牧師としてはかなり致命的です)。何にも出来ない。更に今では髪の毛までない。ただ、私は洗礼を受けてからずっと、教会にいること、教会の御用をすること、それはちっとも苦にならない。嫌にならない。大変だとも思わない。今では、これが私の賜物なのだと思っています。そして、いつも誰か一緒に奉仕してくれる人がいる。ありがたいこと、嬉しいことです。
皆さんも一人一人、聖霊なる神様の賜物を頂いています。それにまだ気付いていないという方は、牧師に言われるままに、兄弟姉妹に誘われるままに、奉仕をしてみたら良いと思います。そこで、意外と自分が気付かなかった賜物に気付くかもしれません。ですから、誘われたら断らない方がいいです。
そして、最後にこのことだけは言っておかなければなりません。最も大切な賜物は、愛と信仰に基づいた祈りの賜物です。なぜなら、この祈りの賜物は、他の人のすべての賜物が用いられることを支え、守るからです。この祈りの賜物を用いて、互いの歩みを支え合いながら、聖霊なる神様の導きの中で、共に御国への歩みを為してまいりたいと願うものです。
祈ります。>
主イエス・キリストの父なる神様。
今日私共は、御言葉を通して、既に聖霊を注がれ、聖霊の賜物を与えられていることを教えられました。どうか、それぞれに与えられている聖霊の賜物を、全体の益となるようにささげていくことが出来ますように。あなた様の救いの御業の道具として、私共を存分に用いてください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2020年5月31日]