1.はじめに
先々週から先週にかけて、九州を始め、お隣の岐阜県また島根県でも大きな水害がありました。心も体も疲れ果てながら、今日も片付けが続けられていることでしょう。主の守りと支えを祈るものです。そして、先週は新型コロナウイルスの感染者数が、東京を中心に300人に迫る勢いで増えました。私の娘も東京で働いておりますが、会えるのがまた先になったなと思いました。当然のことですが、私共は我が身に危険が迫りそうな情報に対して、敏感に心が反応します。ですから、視聴率が取れますからマスコミはその手の話をどんどん流します。そして、人も社会もいつの間にかこの「不安」というものに支配されていきます。不安によって人々は行動し、別の問題が起きる。そういう所があるのではないかと思います。不安がデマを拡散させたり、不安によってデマに振り回されたりもします。今、新型コロナウイルスを原因とする不安に世界中が取り込まれている。そんな風にも思えます。
先週の説教の中で、私は「希望の感覚」という言葉を用いました。とても厳しい、辛い状況の中でも、「これでは終わらない」「これは終わりじゃない」と思っている自分がいる。これを「希望の感覚」と呼びました。私が作った言葉です。心理学的には、適切な呼び方があるのかもしれませんが、私はよく分かりません。ただ、私はこれを心理学的な事柄として捉えているのではありません。これは信仰によって備えられる、信仰によって育まれていく感覚だと思っています。楽観的か悲観的か、それはその人の性格によると考える人もいるでしょう。楽観的な人は元々この希望の感覚を持っている。そうかもしれません。しかし、この希望の感覚は、生来の性格とは関係無しに、それを越えて、信仰によって確実に育まれていくものであり、実に強靱なものだと思っています。ちょっとやそっとでは折れることのないものです。神様がおられる、神様が私を愛してくださっている、神様がすべてを導いてくださっている。このことをイエス様の十字架と復活の出来事によって信じる者とされた者は、この神様の愛の御手の中にある将来に生きる。それは究極的には神の国の完成、私の救いの完成へと至るものです。そこからこの希望の光は注がれてきます。そして、今という一日一日を、そこに向かっての日々であることを受け止めて生きる。この希望の感覚は、私共をどんな状況の中でも生かし、力と勇気を与えるのです。
イエス様は、私共がどんな時にもこの「希望の感覚」を失うことがないようにと、私共を強めてくださるために、御自身が十字架にお架かりになる前に、多くの分量を用いて、終末について、またそこに向かって歩む者としての心得を教えてくださいました。それがマタイによる福音書の24章・25章です。ここは小黙示録とも言われます。ヨハネの黙示録のように、終末の教えがまとまって記されているからです。私共は御国に向かって歩んでいく中で、次々と襲いかかってくる不安を後ろに投げ捨てて進んで行かなければなりません。そのような私共にとって、この御言葉が与えられたことはまことにありがたいことだと思います。
2.エルサレム神殿の崩壊と再臨とこの世の終わり
24章2節において、イエス様はエルサレム神殿の崩壊を預言されました。エルサレム神殿はユダヤ人にとって自慢の種であり、誇りでした。この壮麗な、大きなものでは500トンを越える巨大な大理石で出来た大神殿が崩壊する日が来るなど、彼らは考えることさえ出来ませんでした。そんなことが起きる時は「この世の終わり」だと思っておりました。この時弟子たちは、エルサレム神殿の崩壊、イエス様が再び来ること、そして世が終わることが一つのことであると考えておりました。実際には、エルサレム神殿が崩壊するのは紀元後66年から始まりましたローマとユダヤとの戦争の結果、紀元後70年にローマ軍によって瓦礫の山とされるわけです。これとイエス様が再び来られること、そしてこの世が終わることとは別のことです。当時のユダヤ人にとって、この三つは同じことのように思われましたけれど、それは違います。エルサレム神殿の崩壊は、ユダヤ人にとって悲劇的な結果をもたらしました。この時を境にユダヤ人たちは祖国を失い、流浪の民となりました。しかし、この出来事とイエス様が再び来られる、これを(再び臨むと書きまして)再臨と言いますが、この再臨と共にやって来るこの世の終わりとは、別のことです。
エルサレム神殿の崩壊という出来事は、この歴史の中で繰り返されている最も悲惨な出来事である戦争によってもたらされました。戦争に巻き込まれた者たちは、この世の終わりと思ったに違いありません。日本で言えば、広島・長崎の原爆や、東京そしてこの富山の大空襲。あの日を経験した者にとっては、それはこの世の終わりだと思うような出来事であったろうと思います。思い出したくもない出来事でありましょう。しかし、広島も長崎も東京も富山も復興しました。エルサレム神殿は宗教的・政治的理由で再建されてはいませんけれど、エルサレムの町も復興いたしました。
このエルサレム神殿の崩壊と本当の終わり、イエス様の再臨と共にやって来る世界の終わりは別のことです。このことを弁えることが、私共にはとても大切なことです。なぜなら、イエス様の再臨と共に来る世の終わりを知っているということは、エルサレム神殿が崩壊するような出来事があったとしても、これは本当の終わりではないということをはっきり認識することが出来るからです。本当の終わりではないということを知ることは、私共はそこからなお、本当の終わりの時に向かって歩むということになるからです。
弟子たちはイエスさまに「そのことはいつ起こるのですか。」「どんな徴があるのですか。」と尋ねました。当然の反応です。私共も一番知りたいのはそこでしょう。しかし、結論を言いますと、イエス様はいつ、或いはこの徴があったら終わりが来る、とは言われませんでした。それは、24章36節で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」とイエス様が言われたように、その時を知っておられるのは父なる神様だけだからです。いつ、どのようにして終わりが来るのかということは神様の領域であって、私共の知り得る範囲を超えていることなのです。私共にはそれを知ることは許されていない。そのことははっきりさせておかなければなりません。その上で、イエス様が何とお答えになったのか、順に見てまいりましょう。
3.惑わされるな
まずイエス様が告げられたことは、4節「人に惑わされないように気をつけなさい。」ということでした。何時の時代でも、「もう終わりが来る。」と言って人を惑わす人がいるのです。皆さんの中にも、「ノストラダムスの大予言」といって「1999年7月に人類が滅亡する」という噂が大流行したのを覚えておられる方もいるでしょう。また「何年に終末が来るから、悔い改めなさい。」と言って伝道している人々もいます。本人たちはキリスト教だと言っていますけれど、イエス様も知らないことを自分たちは知っているというのですから驚きです。イエス様より自分たちの方が神様の御心を知っているということで、これはまともなキリスト者が考えることではありません。イエス様は惑わされてはいけないことを4つ挙げていますので、見てみましょう。
徴-① 偽キリスト
一番目は5節にある偽キリストです。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」とイエス様は言われました。また11節には「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。」と言われています。私がメシアだ、キリストだと言う人、私が預言者だと言う人が、いつの時代にも出てくるのです。韓国には今40人のキリストがいるそうです。笑ってしまいますけれど、勿論、みな偽者です。みんなカルト宗教です。でも、それを信じている人は少なくありません。韓国で新型コロナウイルスのクラスターになった教会もその一つです。日本では「キリスト教の教会でクラスターが起きた」と報道されましたけれど、私は「あれをキリスト教と言って欲しくない。」と思って聞いていました。
偽キリストと再臨されるキリストの違いは何かと言えば、はっきりしているのです。それは25章31節で、イエス様が「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」と言われているように、再臨のイエス様は誰にでも分かる栄光をもって来られます。認める人もいれば認めない人もいる、またその国だけでは認められる、なんていうことはあり得ません。再臨のイエス様は、そんなあり方で来られるのではありません。何万人の信者が生まれようと、世界から見ればほんの一握りの者によって信じられるようなのは再臨のキリストではありません。みんな偽キリストです。
徴-② 戦争・飢饉・地震
二番目には、戦争・飢饉・地震です。6~8節「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」とイエス様は言われました。戦争・飢饉・地震というのは、これはこの世界における最も悲惨な現実です。どれか一つでも、もう世界は終わりかと思ってしまうような出来事です。けれど、これにも「惑わされるな」「慌てるな」とイエス様は言われます。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」からです。これらは本当に悲惨な現実でり、あって欲しくはないのですけれど、必ず起きるのです。イエス様も「起こるに決まっている」と言われました。イエス様がこの言葉を語られてから、既に二千年経ったわけですけれど、この二千年の間に戦争・飢饉・地震が無かった年なんてありません。いつも世界中どこかで戦争があり、飢饉があり、地震があります。しかし、それは終わりの徴ではありません。今も戦争があり、飢饉があり、地震があります。この戦争・飢饉・地震のようなことが起きれば、もう世界は終わりだと人は思うでしょう。そして、そのように言う人も現れます。しかし、イエス様は「惑わされるな」「慌てるな」と言われるのです。そして、「これらはすべて産みの苦しみの始まりである」と言われる。「産みの苦しみ」というのは、出産の痛みは激痛であるけれど、その後に赤ちゃんの誕生という喜びの出来事が控えているわけです。だからお母さんは耐えられるわけでしょう。この赤ちゃんの誕生にあたるのが、再臨のイエス様の到来であり、神の国の完成です。それがあるのだから、その日に向かって、この困難な時も生き抜け。御国に向かっての歩みを止めるな。そうイエス様は言われているわけです。
9年前に東日本大震災が起きた時、「終末は近い。悔い改めよ。」と言って被災地を回った海外から来たキリスト教の団体があったと聞きます。被災地では地元の人と一緒に毎日泥だらけになってボランティアに励むキリスト教の団体もありました。このボランティアの団体の人は、「勝手にやって来て、『終末は近い。悔い改めよ。』と言って不安をあおるだけで去っていくキリスト教の団体は、本当に迷惑だ。」と言っていました。イエス様はこのような、人の不安に付け込むような言葉に惑わされるな、慌てるなと言われたのです。まして、人々の不安をあおって伝道するなどということは、もってのほかです。
徴-③ 迫害
三番目は迫害です。9~10節「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。」とイエス様は言われました。驚くべきことに、イエス様は信仰による迫害まで「起こること」として告げられました。私共は、自分の命が脅かされるような迫害を受けたことはありません。そのような事態になったらどうするか、私も自信はありません。さすがにそのような事態になったら、うろたえるし、惑わされてしまうかもしれません。そういう時には当然、つまずく人が出るでしょうし、裏切る人も出るでしょう。そして、裏切った者と裏切られた者との間に憎しみも生じましょう。
今、香港において、そのようなことが起き始めているのではないかと案じています。自由を求めて立ち上がった若者の指導者たちの多くはキリスト者でした。目に見えて自由が抑圧されていく中で、その自由を脅かす者の手が教会にまで伸びてくるのは時間の問題であり、既にそのような状況になっているのかもしれません。この日本では、長く同調圧力という装置によって、地方における伝道はなかなか厳しいものがあります。教会の礼拝には来ていても、洗礼という段になるとそこから先に進めない。そういう人を何人も見てきました。ここには、目に見えない迫害があるとも言えるでしょう
。
徴-④ 愛が冷える
そして、最後に12節で「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」と言われました。この不法とは、法律を破るという意味の不法ではありません。破られるのは律法です。そして、迫害が教会の外からのことであるのに対して、これは教会の中におけることです。「不法がはびこる」とは、端的に言えば、十戒に反することが公然と行われるようになるということです。十戒に反することとは、何よりも偶像礼拝が為されるということです。勿論、教会の中に仏像が置かれてそれを拝むようになるということではないでしょう。そんな分かりやすいことではなくて、一見正しく礼拝が捧げられているように見えて、そこで告げられ、大切にされているのは、この世の富であったり、社会的立場であったり、自分自身であったり、要するにこの世の幸を求める場になってしまうということです。そして、自分さえ幸せならそれでいい。人のことは関係ない。そのような思いに支配されてしまえば、愛が冷えるのは当然です。教会においても、また家族・夫婦・親子においてさえも、互いに愛し合い、支え合い、仕え合うということが出来なくなる。愛が分からなくなる。そして、何よりも神様への愛が冷えてしまう。神様なんて関係ない。そのような状況の中で、なおも御国を求めて生きていかなければならなくなる時が来る。そうイエス様は告げられました。
4.最後まで耐え忍ぶ者は救われる
今、イエス様が告げられた、「惑わされてはならない」4つの出来事・状況を見てきました。これらはいつの時代にもあることです。そして、このようなことがあれば私共の信仰が動揺するということをイエス様は知っておられた。だから前もって、このようなことがあっても「惑わされてはならない」とお教えになられたのです。実際、偽キリストや偽預言者に惑わされてしまう人はいつの時代にもおります。戦争や飢饉や地震、これに疫病や経済的な大不況を加えてもいいでしょう。こういうことが起きれば「神様の御支配が分からない、信じられない。」「神様は本当に私共を愛してくださっているのか。愛しておられるならば、どうしてこんなことが起きるのか。」そんな思いに囚われてしまうことは容易に起こるでしょう。信仰者や教会に対しての迫害が起こり、不法がはびこって愛が冷える社会情勢になれば、やっぱり「神様がいるなら、神様が愛しているなら、どうしてこんなことが起きるのか。」という疑問が沸いてもきましょう。あるいは「こんな目に遭って、どうして信じるのか。」と周りの人々から言われることもありましょう。そして、とても神様なんて信じられないと言う人も出てまいりましょう。イエス様は、そういうことは起きると言われたのです。
しかし、このようなことは、何も特別な時であるわけではありません。いつの時代でも起きていることです。今回の新型コロナウイルスのことにしたって、同じことです。どうしてこんなことが起きるのか、これからどうなるのか。そのような問いに対して、教会は答えることは出来ません。イエス様も、この4つのことがどうして起きるのか、その結果どうなるのか、それについてはここで何も教えてはおられません。イエス様は「惑わされるな」と言われ、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われました。
「最後まで」とは、イエス様が来られるまで、終末が来るまでです。或いは、私共の地上の生涯が終わるまでということです。あと2年とかあと3年という話ではありません。信仰の歩みは、私共の生涯を懸けたものだからです。
そして、「耐え忍ぶ」ということですが、これの日本語のイメージとしては、歯を食いしばって、辛くても、しんどくても頑張るということになるのでしょうが、この言葉のギリシャ語のイメージは、「とどまり続ける」「踏みとどまる」ということです。どんなことがあっても、人々が何を言っても、そこにとどまり続けるということです。神様に愛され、神様を愛し、神様を父とし、神様の子とされ、御言葉と聖餐に与り、イエス様と一つにされた者として生きる。聖霊なる神様の導きの中、神様を信頼して生きる。この歩みを続けていく。ここから離れないことです。そうすれば、やがてイエス様が再び来られる時、この世が終わる時、私共は救いの完成に与ることが出来る。この世が終わるとは、新しい世界が始まるということです。それは神の国が完成し、私共の救いが完成し、私共がみんなイエス様に似た者に造り変えられる時です。この救いの完成に与る日を待ち望みつつ、イエス様を我が主、我が神と告白し、神様を愛し、信頼し、従って生きる。それが「耐え忍ぶ」ということです。神様・イエス様との交わりの中にとどまり続けること。それだけが私共に求められていることなのです。
5.確かな神様の御手の中で
神様は預言者イザヤを通して、44章1~2節「そして今、わたしの僕ヤコブよ、わたしの選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。」と告げました。このヤコブもエシュルンも、イスラエルの別の言い方です。神様は私共を造ってくださり、選んでくださいました。神様の子・僕として生きる者としてくださいました。神様はいつでもどこでも、神の民に「恐れるな」と語られます。それは神様がいつでも、どんな時でも、私共を愛してくださり、守ってくださり、導いてくださるからです。この恵みの事実を受け入れることが出来ないように、信じることが出来ないように、様々な力が私共に働き、私共を惑わすのです。そして、私共を惑わすものは「恐れ」です。イエス様が挙げられたもの以外にも私共を恐れさせるものはたくさんあります。そして、この私共を恐れさせる最大のものが「死」でありましょう。しかし、その「死」さえも恐るべきものではない、と神様は告げます。神様は、それをイエス様の復活によって私共に証ししてくださいました。
詩編の詩人は139編7~10節でこう告げました。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」私共が天に行っても、死んで陰府に下っても、海のかなたに行こうとも、神様の御手は私共を捉えて離すことはありません。この御手の中で、私共はイエス様が再び来られる時まで、御国に向かって歩み続けるのです。
6.あらゆる民に福音が伝えられる
イエス様は最後に、14節「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」と告げられました。イエス様の救いの福音が伝えられていない所は、まだたくさんあります。この富山においても、教会に入ったことさえないという人がたくさんいます。きっと、人口の半分以上、いや、8割、9割の人がそうかもしれません。その人たちに福音を伝えていく責任が私共にはあります。イエス様が再び来られるのを待つというのは、ただ、ぼーっと待つのではありません。御国の福音を全世界に宣べ伝えるための時が私共に与えられているということです。ですから、私共はパウロが愛するテモテに告げたように、「折が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝える」(テモテへの手紙二4章2節)のです。それが、惑わされることなく、イエス様が再び来られるまで耐え忍ぶ、私共の歩みなのです。
祈ります。
恵みに満ち給う全能の父なる神様。
今朝、あなた様は私共にイエス様が再び来られるまで、惑わされることなく、あなた様を愛し、信頼し、お仕えする者として歩むようにと御言葉を与えてくださいました。私共はまことに弱く愚かで、困難なことがありますと、すぐにあなた様の愛と御支配を疑ってしまうような者です。どうか私共に聖霊を注ぎ、あなた様の子・僕としての歩みをいよいよ確かなものとさせてください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
[2020年7月19日]