日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「目を覚ましていなさい」
創世記 7章1~16節
マタイによる福音書 24章32~44節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日、8月9日は長崎に原爆が堕とされた日です。先週の木曜日、8月6日は広島に原爆が堕とされた日でした。そして、今週の土曜日は敗戦記念日です。あれから75年が過ぎました。私共の教会で戦地に行かれたことがある方は、もうI・Mさんだけになりました。日本はこの75年間、何とか戦場になることがありませんでした。ありがたいことです。でも、アジアでは朝鮮戦争がありましたし、ベトナム戦争がありました。そして今は、中国とアメリカ、また台湾の間で、更に南シナ海においても、緊張が高まっています。尖閣諸島においても、緊張した状態が続いています。このような中にあって、私共は改めて主の平和が世界に満ち満ちるようにと祈ります。そして、主が再び来られることを祈り願うものです。その時にこそ、この世界が完全に平和で満たされることになるからです。

2.イチジクの木のたとえ
 今朝与えられている御言葉、マタイによる福音書24章は、イエス様が2節「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」とエルサレム神殿を指して告げられ、それに対して弟子たちが3節bで「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」と問うたのに対して、イエス様がお答えになったという形で展開されています。
 そして、今朝与えられました御言葉においてイエス様は、32節「いちじくの木から教えを学びなさい。」と告げられました。イチジクの木から何を学ぶのかと言いますと、イチジクの木の「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」と言われるのです。イチジクの木は、ユダヤでは最も一般的な果物の木でした。どの家にも一本は植えてあるような木でした。最近はそうでもありませんが、私が幼い頃はどの家の庭にも柿の木があったものです。ユダヤのイチジクの木は、日本の柿の木のような感じだったのでしょう。みんなイチジクの木に馴染みがあった。イチジクの実が実るのは夏です。イチジクの葉が大きくなってくると、人々は「今年も夏が近づいてきたな。そろそろイチジクの実を収穫出来る、食べることが出来るぞ。」そんな風に思ったのでしょう。それと同じように、「これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」とイエス様は言われたわけです。「これらすべてのこと」というのは、今までイエス様が言われた、イエス様が再び来られる前に起きると言われたすべてのことです。戦争・飢饉・地震・迫害・偽預言者・不法がはびこる・大きな苦難といったものです。そういったことが起きたならば、「人の子が戸口に近づいている」つまり、イエス様が再び来られる時が近づいていると悟れと言われたのです。
 ここでイエス様は、戦争とか飢饉とか地震とか、大きな苦難とか、何か大変なこと、不幸なことが起きると預言しているかのように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。イエス様が言われたようなことは何時の時代でも起きておりますし、今も起きておりますし、これからも起きるでしょう。イエス様は、確かにそのことを御存知でした。しかし、イエス様はここで、そういうことが起きるということを言いたかったのではないのです。34~35節でイエス様はこう続けます。「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」とイエス様は言われました。こういうことは起きるのです。戦争でも飢饉でも、それは大変なことですから、それに巻き込まれればもうこの世界は終わりだと思ってしまう私共です。しかしイエス様は、そういうことは起きるけれども、それらがすべて起きなければ、つまりそういうことが一つや二つや10や20起きたところで、この世界が滅びるわけではない。そしてそういう時にこそ、「人の子が戸口に近づいている」、つまり「イエス様が再び来られる」そのことに目を向け、心を向けよ。そうイエス様は言われたのです。そして、イエス様が来られたならば、その時「天地は滅び、新しい世界が来る。神の国が来る。私共のそして世界の救いが完成する。」そこに目を向けよ。その日が来ることを信じて生き抜け。そうイエス様は言われたのです。

3.天地は滅びるが、神の言葉は滅びない
 「天地は滅びる」とイエス様は言われました。目に見えるものは、やがてすべて滅びていきます。例外はありません。どんな立派な建物も、会社も、組織も、国も、思想も、やがて滅んでいきます。人間もまた、例外なく死を迎えなければなりません。ですから、目に見えるものを頼り、それを拠り所とする者は必ず失望し、空しさに捕らえられることになってしまう。しかし、「神の言葉は滅びない」のです。それは、神様の御支配は変わらないということであり、それ故、神様を依り頼む者は失望に終わることはないということです。今朝の御言葉の文脈で言えば、イエス様が再び来られること、救いが完成すること、新しい天と地が創造されること。これは必ず実現されるということです。それを信頼し、そこに望みを置き、そこに向かって生きる。それがキリスト者です。
 私共は目に見えるものを得ようと努力し、それを得ることが幸いだと思い、それを失えば生きる気力も希望もすべて失ってしまうかのように思うかもしれません。しかし、そうでありません。私共が何を失おうと、神様の御支配は変わりなく、やがて私共に永遠の命、復活の命を与えられます。神様は必ず約束を実現し、私共の救いを完成してくださる。そこに私共の希望があります。「神の言葉は滅びない」とは、そういうことです。
 イエス様は「わたしの言葉は決して滅びない。」と言われたわけですが、この言葉は元々、イザヤ40章8節に記されている言葉です。イザヤ書40章8節「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」と預言者イザヤは告げました。これは、人も国も草や花のようにあっという間に滅んでいく、しかし神様が約束された言葉はむなしくなることなく必ず実現される、という意味です。この言葉がどのような時に告げられたかと言いますと、南ユダ王国がバビロニア帝国によって滅ぼされ、国の主だった者たちはバビロンに連れて行かれてしまいました。いわゆるバビロン捕囚です。このバビロン捕囚の中でイザヤは、南ユダ王国を滅ぼしたバビロニア帝国もやがて滅びる、そして神様が約束されたようにユダの国は再建される、そう告げたのです。しかし、この言葉はバビロン捕囚からの解放という出来事を超えて、イエス様が再び来られるまでの変わることのない真理として、イエス様はお告げになりました。この世界を支配し導いておられるのは、どんな時でも変わることなく、天地を造られたただ独りの父なる神様だからです。この神様の御心の中で、神様の永遠の救いの御計画の中で、やがて時が満ちて、御子イエス・キリストが再び来られます。そして、その時私共はキリストに似た者とされて復活するのです。これが滅びること無き神の言葉によって私共に約束されていることです。

4.その時はだれも知らない
では、イエス様は何時来られるのでしょうか。イエス様はこのことについて、はっきり告げておられます。36節「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」これはとても大切なことです。イエス様が何時来られのか、何時救いは完成するのか。それはただ父なる神様だけが御存知だとイエス様は明言されました。天使もイエス様も知らない。それは、このことは神様の領域のことであって、神様以外には誰も知ることは許されていないことだということです。ということは、「〇年〇月〇日に世界は終わる」と言っている人は偽預言者であり、それを語っている宗教は偽物だということです。
 しかし、何時の時代でもこのように言う偽預言者がいましたし、このように言う宗教がありました。具体的な名前は出しませんけれど、今もあります。これは人の不安を煽るものなのですけれど、何時の時代にもそういうことを言う人が出てくる。人はこういう話が好きなのだろうと思います。ですから、何十年かに一回くらいの割合で、宗教としてではなくて、社会現象のブームのようなものとして起きます。あるいはまた、地球が終わってしまうような危機が襲ってくるというような映画も作られます。そして、それなりにヒットします。どうしてこんなことがブームになるのかと思いますけれど、人はこれに心が引かれるんですね。理由は色々あるのでしょうけれど、私はこれは、イエス様が言われた「その日、その時は、だれも知らない。…ただ、父だけがご存じである。」ということを、人は受け入れたくないからではないかと思います。なぜなら、このイエス様の言葉を受け入れるということは、神様の絶対的な御支配を受け入れるということになるからです。しかし、それはしたくない。だから、イエス様の再臨によらず、地球が彗星と衝突したり、核戦争になったりして世界が滅びるという話にしてしまうのでしょう。神様無き終末、再臨のイエス様無き終末です。それは疑似終末であり、ただの滅亡の話でしかありません。イエス様が教えてくださった終末は、そのようなものでは全くありません。イエス様が再び来られて、すべてが新しくなるのです。私共の救いが完成するのです。それは喜びの日です。そして、それを為してくださるのは、父なる神様以外にありません。

5.ノアの時と同じ
 イエス様が再び来られる時について、イエス様は「ノアの時と同じ」だと言われます。このノアの時というのは、創世記6~9章に記されているノアの洪水のことを指しているわけですが、どこが同じかと言いますと、ノアは神様に命じられて大きな箱舟を造るわけです。人々はそれを見ていましたけれども、特に気にもかけませんでした。「ノアの奴、変なことを始めたぞ。」くらいの反応はしたでしょうけれど、だからといって自分たちも洪水に備えようとはしませんでした。それが38節「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。」ということです。何も変わらずに、日常の生活をしていた。そして、洪水が襲ってきてみんな滅んでしまった。それと同じだというのです。
 教会の歴史において、このノアの箱舟は教会を指していると受け止められてきました。そして、ノアの洪水の話は単なる昔話ではなく、やがて来る終末における裁きを指し示していると受け止めてきました。人々が日常生活をしていたのが悪いわけではありません。そうではなくて、ノアの行動やノアの言葉に全く注意も払わず、ノアに示されていた神様による大洪水の話をまともに受け取らなかった。聞いていても、本気でそれに備えようとしなかった。それと同じように、イエス様が来られる時も人々は普通に日常生活を営んでいて、突然やって来る裁きに耐えられない。そうイエス様は言われたのです。日常生活が悪いわけでは勿論ありません。ただ、その日常の生活が神様と繋がっていなかった人々が、ノアの行動を見てもまともに受け止めなかったように、イエス様が再び来られることをまともに受け止めて備えるのでなければ、裁きに耐えられる者はいない。ですから、イエス様の再臨をまともに受け止めて、その生き方を変える。その日に備える者として生きよ。そうイエス様は言われたのです。

6.裁きと選び
 このイエス様が来られる時、終末の時、救われる者と滅ぶ者とに分けられます。救いの完成に与る者と完全に滅ぶ者に分けられる。そうイエス様は言われます。40~41節「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」と言われている通りです。ここで救われる者と滅びる者とは、日々の生活において特に変わったところがあるわけではないかもしれません。畑で仕事をしていた男のうち、一方は真面目に働き、一方は怠けていた。また、臼をひいていた女性の一方は真面目に上手に臼をひき、一方はいい加減に臼をひいていた。そういうことではありません。見た目では分からない。この男女は同じように畑で仕事をし、臼をひいていたのでしょう。しかし、救われる者と滅びる者と分けられてしまう。
 その違いはどこにあるのか。それは、その後に続くイエス様の言葉によって明らかになります。42節「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」とありますように、大切なことは「目を覚ましている」ということなのです。勿論、「目を覚ましていなさい。」というのは、寝ないで徹夜するというような意味ではありません。寝なかったら、すぐに体調を崩してしまいます。ここで、イエス様が言われた「目を覚ましていなさい。」というのは、「何時イエス様が来られても良いように備えていなさい。その日に備えて生きなさい。」ということです。私共は信仰があろうが無かろうが、同じように働き、日常の生活をしているのです。傍から見て、「あの人はキリスト者だ。」と分かるような、特別なことをしているわけではないでしょう。しかし、決定的な違いがある。それは、イエス様が再び来られることを信じて、それに備えて一日一日を歩んでいるということです。主の御前に立つ者として歩んでいるということです。
確かに、イエス様が来られる時には滅びる者と救われる者とが分けられます。ただここで弁えておかなければならないことは、私共には「あの人は滅び」「この人は救い」ということは分からないということです。これは神様にしか分かりません。ただ言えることは、「イエス様を我が主、我が神として信じる者」は必ず救われるということです。イエス様を我が主、我が神として信じる信仰さえあるならば、救われるということです。このことについて、私共は少しも揺らぐことなく確信して良いのです。私は滅びの方に分けられてしまうのではないか、と不安になる必要は全くありません。自分はそんなに真面目なキリスト者じゃないし大丈夫かしら、と心配する必要など全くありません。ただ、自分以外の人に対して、「あの人は救われない」「この人は救われる」と言うことは、誰にも許されていません。それは神様の領域を犯すことです。このことは、よく弁えていなければなりません。

7.目を覚ましていなさい
 さて、この「目を覚ましている」ということですが、日本基督教団信仰告白はこのことを「愛の業に励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む。」と言い表しています。「目を覚ましている」とは、そういうことです。イエス様が再び来られることを、「待ち望む」ということです。待ち望みつつ生きるということです。ここで大切なのは、「待つ」ということです。「目覚めている者」として何か特別なこと、政治行動であったり、ボランティア活動であったり、自然保護活動であったり、慈善事業であったり、そういうことをしなければならないということではありません。勿論、「愛の業に励みつつ」ですから、イエス様の来られるのをただボーッと待っているのではありません。神様の御業に仕え、神様を愛し、隣り人を愛し、隣り人に仕える業を為していくわけです。しかし、それは傍から見て、明らかに違うというような歩みではないだろうと思います。しかし、神様の目から見れば、それは大いに違う、全く違うということです。人が見るところと、神様が見られるところは違うからです。神様は私共の信仰を見られるからです。
 イエス様が「目を覚ましていなさい」と言われた理由ははっきりしています。それは、私共はすぐに寝てしまう、眠りこけてしまう者だからです。それは日々の日常の生活の中で、イエス様が再び来られること、救いの完成に与る日が来ることを、私共はすぐに忘れてしまう者だということです。「そんな先のことより、今の目の前の現実が大切。」そういう感覚に引きずられてしまう者だからです。このことは、私共はこの世の常識にすぐに影響を受け、引きずられてしまう者だということです。「神様なんか関係ない。働いて、稼いで、生活してかなければならない。自分のことで、我が家のことで精一杯。」そういう感覚がこの世界を覆っています。これが神無き世界の常識です。神様との交わりよりも、目に見えるものの方が現実的で、大切だと思う。子どもならば、受験が一番大切、大人は仕事が一番大切、お母さんなら子育てが一番大切、年をとると健康が一番というように、神様以外のものを一番とすることが当たり前の社会に生きている私共です。「健康が一番」と平気で言ってしまう。これは間違いです。健康は大切です。しかしそれは一番ではありません。一番は神様です。神様との交わりです。しかし、そういう社会のただ中において、目を覚まして生きるということは、簡単なことではありません。私共はこの世界の中で、いつでも「眠りこけるように」との誘惑にさらされ続けているからです。
 では、どのようにして「目を覚ましている」ことが出来るのかということが、私共にとって重要な課題となりましょう。これについては、特別なことがあるわけではありません。聞いたら拍子抜けしてしまいそうな、当たり前のことがあるだけです。
 ①主の日の礼拝を守る。
 ②祈りの生活を確保する。
 ③神様に仕え、隣り人に仕える業に励む。
この三つです。特別なことでもありませんし、特に難しいことでもありません。しかし、サタンはこの三つから私共を引き離そうと、様々な手立てを用います。これに対抗する手段について、今日は丁寧にお話しする時間はありません。けれども、大切なことはこれを習慣付けるということです。目を覚ましているというのは、その状態を習慣にして継続するということです。この三つを身に付けた者に対して、サタンは中々手を出すことは出来ません。
 特に主の日の礼拝を守ることは、何より大切でしょう。主の日のたびごとに、私共は御言葉を受け、イエス様が再び来られる日を待ち望むことを新しく心に刻むからです。皆さんは気付かれていたでしょうか。礼拝で歌われる讃美歌の多くには、御国への希望、御国を待望する歌詞が入っています。この御国を待ち望む、主が来たりたもうを待ち望む、これが欠けてしまえば、私共の信仰の歌にならないからでしょう。これが欠けてしまえば、私共はまことに弱い者になってしまいます。目当てを失ってしまうからです。この目当てがあるから、耐え忍ぶことが出来る。大きな苦難さえも、希望を失わずに耐え、そこから再び立ち上がっていくことが出来るのです。

8.思いがけない時に来る
イエス様は「人の子は思いがけないときに来る」と言われました。泥棒にたとえて、いつ泥棒が入るのかを知っていれば、その日は目を覚ましているだろうと言われました。確かにそうです。イエス様はこのたとえで、いつ泥棒が来るのか分からないように、イエス様も何時来られるか分からないから、目を覚ましていなさいと言われる。何時イエス様が来られても良いように備えていなさい。その日を待ち望みつつ歩みなさい。そう言われたわけです。
 私共は、二千年間イエス様は来なかったのだから自分の目の黒いうちは来ないだろう、そう思っている所があるのではないかと思います。しかし、イエス様は「いつ来るか分かりませんよ。」と言われました。私共の目の黒いうちには来ないということであれば、私共の信仰の歩みは弛んだものになってしまうでしょう。そして、その弛みの中で、いつの間にか「神様の御支配の中に生かされている」と信じることも薄らいでいってしまうのではないでしょうか。何も、いつも緊張していなければならないと言うのではありません。そんなにいつも緊張していたら、その姿勢を生涯続けるということは出来ないでしょう。私は「熱心な信仰者にならなくて良い。」といつも言っています。熱心は続かないからです。熱心でなくて良い。ただ、為すべきことを淡々と為し続けていくキリスト者であって欲しい。イエス様は私共を「怠惰な信仰の歩み」から守ろうとして、このように教えてくださったのではないかと思います。変に緊張するのでもなく、怠惰もない。健やかな信仰者として歩んでいくようにと、イエス様はこのことを教えてくださったのだと思います。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、私共に目を覚ましているように、主が再び来たりたもうを待ち望みつつ歩むべきことを教えてくださいました。ありがとうございます。どうか、私共の信仰の眼差しが、私共を取り巻く様々な困難を突き抜けて、イエス様が再び来られる日に向けられますように。その希望によって、どんな状況の中にあってもキリスト者として生き抜くことが出来ますように。聖霊なる神様が私共一人一人の、一日一日の歩みを導いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。       アーメン

[2020年8月9日]