1.はじめに
マタイによる福音書の24章を読み進めております。マタイによる福音書24章及び25章は、イエス様が終末についてお語りになったところです。先週は、イエス様が再び来られるまで私共がどのように歩んで行けば良いのか、その姿勢を、「目を覚ましていなさい。」というイエス様の言葉によって示されました。この「目を覚ましている」ということにおいて一番大切なことは「待つこと」、イエス様が再び来られることを待つことだと申し上げました。そして、この姿勢は日本基督教団信仰告白において「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む。」と言い表されていると申しました。今朝与えられている御言葉は、イエス様が「忠実な僕と悪い僕」のたとえ話によって、このことを更に具体的に私共に教えてくださっているところです。
2.忠実な僕
このたとえ話において、まず「主人」が出てきます。イエス様のたとえ話において「主人」が出てくれば、それは大抵、父なる神様のことです。ただ、ここはイエス様が再び来られる再臨のことを扱っている文脈ですので、この場合は「イエス様」と読んで良いでしょう。次に「家の使用人」と彼らに食事を与える務めを与えられた「僕」(しもべ)が出てきます。まず「僕」ですが、これは奴隷という言葉です。僕は主人の奴隷、主人のものです。僕は自分がしたいことをするのではなくて、主人に命じられたことをします。この僕は、私共キリスト者を指しています。そして「家の使用人」ですが、これは僕によって食事を与えられる「教会」、あるいは「この世界の人々」と読むことが出来るかと思います。
忠実で賢い僕は、主人に言われた通りに、家の使用人たちに食事をきちんと与え続けておりました。そこに主人が帰ってくる。忠実で賢い僕は、その働きを主人に認められます。そして、主人は全財産をその僕に管理させるに違いないというのです。
問題は、ここで主人が命じられた「食事を与える」ということが何を意味しているかということです。たとえ話ですから、これをある特定の行為に限定して解釈することはありませんし、そうしてはならないでしょう。しかし、全く分からないのでは、たとえ話の意味がありません。ここでイエス様が言われた「食事を与える」ということが何を意味しているのか、幾つかのことを類推することは出来るでしょう。
「食事を与える」ことの第一は、霊の糧である御言葉を与えるということです。それは更に具体的に言えば、礼拝を守る、礼拝に与らせるということでしょう。聞く御言葉である説教と見える御言葉である聖餐をもって養うということです。ちなみに、「教会とは正しく御言葉が語られ、正しく聖礼典が執り行われるところ」というのが、私共福音主義教会の教会の定義です。第二には、「食事を与える」とは命を養う営みです。私共の命は、神様との交わりによって与えられるのですから、神様との交わりである祈りの生活を指導し、祈りの時を確保させるということになるでしょう。
今述べました第一、第二は「家の使用人」が教会である場合のことですが、しかし「家の使用人」は教会の枠を越えて、「この世の人々」と理解することも出来るでしょう。とすれば、第三には、「食事を与える」とは伝道するということにもなりましょう。この世界に救いをもたらす御言葉を与える。それが伝道です。そして第四には、文字通り食事を与える、その人に必要なものを与えるあり方でその人に仕える、ということではないかと思います。これはキリスト者の「証し」と言っても良いでしょう。世の人に必要なものは、勿論食事だけではありません。仕事であったり、教育であったり、医療であったり、話し相手であったり、その人のために代わって祈ってあげたりなど、様々な愛の業が考えられます。それもまた、イエス様の僕に命じられた「食事を与える」大切な務めなのです。
この第一から第四のことまで、「礼拝を守り」「祈りの生活を為し」「伝道し」「証し」するという歩みを為していく。このすべてが、「愛の業に励みつつ」ということなのでありましょう。ここでイエス様がここで言われたことは、特に難しい話ではありません。イエス様がキリスト者にまたキリストの教会に為すように求められていることを普通に為していけば良いということです。それが、イエス様が再び来られる時を待ち望む私共の歩みなのです。
そして、イエス様はそのようなキリスト者に全財産を管理させるというのです。イエス様の全財産。それは、全き愛であり、永遠の命であり、全き平安であり、全き希望であり、全き喜びであり、全き祝福でありましょう。神の御子として、父なる神様と共にお持ちになっているすべてを管理する者とされるというのです。それは、神様の持つ良きものすべてに与る者とされるということです。それが忠実で賢い僕に約束されていることなのです。
私共がイエス様に求められたことは忠実であることです。「賢い」というのは、知識があるとか、頭が良いという意味ではありません。この「賢い」とは、何が大切なことであるかを弁えているということです。イエス様の御言葉に従って歩んで行くならば救いの完成に与れる、そのことをよく弁えているという賢さです。どんなに知識があり、頭が良くても、このことを弁えていなければ、それは愚か者なのです。
3.悪い僕
次に悪い僕です。彼は「仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだり」して、主人が命じたことを少しもしない。理由ははっきりしています。「主人は遅い」と思ったからです。帰ってこないと思ったわけではないのですけれど、帰りは遅いと思った。だから、今は何をしても大丈夫だと思ったということです。この感覚は私共にも分かるのではないかと思います。イエス様が再び来ると言ってから、もう二千年も経った。しかし、まだ来ていない。だったら、自分たちの目の黒いうちは来ないだろう。これが「主人は遅い」と思った内容ではないかと思います。正面から、イエス様の再臨を否定したわけではない。しかし、自分の目の黒いうちには来ないと思った。それはイエス様の再臨を本気で受け取らないということです。このことについて使徒パウロは、復活について論じた箇所で「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。」(コリントの信徒への手紙一15章32節)と告げています。イエス様の再臨をまともに受け止めないということは、その時に与えられる救いの完成、復活の命をまともに受け止めないということでもありましょう。これは同じ生き方を私共に与えます。それが、どうせ死ぬんだから、今を面白可笑しく生きれば良い、というあり方です。現世主義、生きている時のことしか考えない、そういうあり方です。これは、何時の時代でも世の常識となっているものです。現代の日本においてもそうです。
誤解がないように言いますが、イエス様は何も、酒を飲んではいけないとか、楽しく生きてはいけないと言っているわけではないのです。楽しく日々を過ごすことは大いに結構なことです。私共は楽しいことが大好きです。イエス様がここで「酒飲みどもと一緒に飲んだり食べたりする」と言われたことは、とても象徴的な表現です。酒を飲めば我を忘れる。それと同じように、この世の快楽に心を奪われ、それが何よりの楽しみとなり、神様なんて忘れてしまうと言われているのです。
また、「仲間を殴り始める」というのは、「仲間喧嘩」とか「内輪もめ」とも理解出来ます。キリスト者同士が喧嘩を始める。これはあってはならないことですけれど、実際には教会の歴史の中ではいつもあったと言っても良いほどです。残念なことですけれども、それは歴史的な現実です。教会同士、あるいは教会の中で、そのようなことが起きる。私共はこのイエス様の言葉をきちんと受け止めなければならないと思います。
4.御国を目指すならば
しかし、この「仲間を殴り始める」との御言葉が告げているのは、単に教会の中だけのことだけではないと思います。先ほどエレミヤ書をお読みしました。エレミヤはバビロン捕囚の直前に現れた預言者です。このままでは、ユダ王国は神様の裁きによってバビロンに滅ぼされると預言した人です。5章26節以下を見てみましょう。「わが民の中には逆らう者がいる。網を張り、鳥を捕る者のように、潜んでうかがい、罠を仕掛け、人を捕らえる。籠を鳥で満たすように、彼らは欺き取った物で家を満たす。こうして、彼らは強大になり富を蓄える。彼らは太って、色つやもよく、その悪事には限りがない。みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず、貧しい者を正しく裁くこともしない。これらのことを、わたしが罰せずにいられようか、と主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。」これは当時の南ユダ王国において、もっとはっきり言えばエルサレムにおいて、社会的正義が為されていなかった。貧しい者やみなしごの訴えが取り上げられず、助けられることなく、社会的に弱い者たちが強い者たちの食い物にされている。豊かな者は更に豊かになり、貧しい者は更に貧しくなる。それは悪事であり、神様はそのような悪に報いると告げられました。「仲間を殴り始める」ということにはこのような、本来麗しい関係にあるべき神の民の中において、神無き世界と同じことが行われている。互いに自らの力を誇り、敵対し、社会全体が弱肉強食の状態になっている。それは、神の国のあるべき姿を知らされたキリスト者にとって、決してあってはならない神の民のあり方であり、この世界のあり方だということなのではないかと思います。
しかし、そうは言っても、現実の社会は弱肉強食の世界ではないか。確かにそうなのです。神無き世界の現実は、いつでも戦いがあり、強い者が弱い者を、強い国が弱い国を支配しようとしていますし、実際支配しています。昨日は75回目の敗戦記念日でした。誰もが、二度とあのような戦争が起きないようにと願ったはずです。また、そのような人々の思いが伝えられたニュースの直後に、中国とアメリカの対立、香港での自由が危うくなっていることが告げられる。確かに、それが私共の生きているこの世界の現実なのです。それは仕方のないことなのでしょうか。そうかもしれません。
しかし、私共はイエス様が再び来られること、御国が来ることを知っています。そして、その日に向かって生きています。その歩みの中で、私共はこの現実があることをきちんと受け止めつつ、しかしこれがあるべき姿ではない。御心ではない。そのことをはっきりと弁え、「主よ、あなたの平和を与えてください。」「困窮の中にある者たちに生き抜く力を、希望を与えてください。」「主よ、早く来てください。」そう祈ることを止めるわけにはいかないのです。
5.僕であることを弁える
さて、忠実で賢い僕と悪い僕の違いはどこにあるのでしょうか。勿論、私共は忠実で賢い僕でありたいのです。どうすれば、どこに注意すれば、私共はこの忠実で賢い僕であることが出来るのでしょうか。悪い僕にならないでいられるのでしょうか。それは、何よりも自分が僕であることを弁えるということではないかと思います。そして、僕として主人であるイエス様が来られるのを待つということに尽きます。悪い僕は、自分が僕であることを忘れてしまったのでしょう。主人は遅い。主人は来ない。だったら、自分が主人になって何が悪い。誰も止めはしません。しかし、もし私共が僕であることを忘れ、自ら主人になってしまうとすれば、それはキリスト者であることを止めるということです。
私共がキリスト者になったということは、何よりも主イエス・キリストという主人を持つ者になったということだからです。私共は、イエス様に出会うまで、自分の人生の主人は自分自身だと思って疑うことがありませんでした。日々の生活のなかで、目の前のことに心も時間も奪われ、しなければならないことをこなすのに精一杯。自分がどこに向かっているのか、自分の人生の目的や意味についても、深く考えることもありませんでした。考えてもよく分かりませんでした。その時私共は、自分の人生の主人だったのではなくて、実は自らの罪の奴隷でり、悪しき霊の支配のもとにいました。勿論、その時にはそんな風に考えたこともありません。罪の奴隷だったからです。奴隷は主人の命じることに従うだけで、それが罪であると自覚することはありません。ですから、よっぽどの法律違反をするのでもなければ、自らが罪人であるなどとは思いもよらないことでした。自分はそれなりに良い人だと思っていましたし、神様の御前における罪を自覚することなど全くありませんでした。神様の御前に立つことがなければ、自らの罪を自覚するということは起きないものなのです。
しかし、そのような私共を神様は見捨てることなく、愛してくださり、イエス様と出会わせてくださいました。そして、私共は自分が神様に愛されており、天地を造られた神様の御計画の中で命が与えられ、私共の人生には神様から見て意味があること、私共の命は肉体の死で終わらない永遠の命へと繋がるものであることを教えられました。イエス様はその為に十字架にお架かりになり、一切の罪の裁きを我が身に負ってくださり、まことの救いへと私共を招いてくださいました。私共は、この方を我が主、我が神と信じ、新しい命に生きる者となった。それがキリスト者です。イエス様が私共の主人となってくださったのです。私共はイエス様のものとなりました。私共の人生の主人はイエス様。その僕となった者が、再び自らの主人となってはなりません。それは、まことの主人であるイエス様を捨てることであり、イエス様が与えてくださった救いのすべてを失うことだからです。
しかし、私共は神の子とされたのですけれど、罪人でなくなったわけではありません。罪赦された罪人です。ですから、いつでも「私が主人だ。神様やイエス様が主人ではない。人間死んだらお終いだ。復活だとか、神様だとか、イエス様の再臨だとか、そんなものを信じてどうする。そんなことより目の前にあるものを見ろ。楽しいことがたくさんあるじゃないか。それで十分じゃないか。」そんな私共の罪を煽るような囁きが聞こえてくるのです。そしてその囁きは、実際の人の言葉、つまり友人や夫や妻や親や子どもといった人から告げられることもあります。その人たちは、私たちを憎んで、滅びに至らせようとして語ってくるのではありません。彼らはそれが本当のことだと思い、私共のためだと思って語ってくる。ですから、まことに難しい。
6.神の御前に
では、私共はどのようにして、イエス様が再び来られることを忘れず、これを待ち望み、愛の業に励みつつ歩んで行くことが出来るのでしょうか。悪い僕は「主人は遅い」と思って、信仰を失ってしまったような歩みをしたわけです。とするならば、「主人は遅い」と思わないでいられれば良いわけです。「主人は遅い」と思った悪い僕は、自分が何をしても神様は見ていない、そう思ったから好きなことをし放題したのでしょう。しかし、神様は私共の歩みを見ておられないのでしょうか。そんなことはないでしょう。イエス様が再び来られるまでの間、私共の為すことをすべて、神様・イエス様は御存知です。しかも、ただ天から御覧になっているだけではありません。聖霊なる神様として、私共と共にいてくださり、必要のすべてを与え続けてくださり、道を開いてくださり、私共を御国へと導き続けてくださっています。そうなのです。イエス様が誰にでも分かるあり方で、すべての者を裁くお方として、世界を全く新しくされるために来られるのは、再臨の時です。しかし、だからといって、それまでの間、私共と共におられないということでは全くありません。復活されたイエス様は、このマタイによる福音書の最後でこう告げられました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章20節b)
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この御言葉は真実です。では、この御言葉の真実を私共はどこで知らされていくでしょうか。それは、忠実で賢い僕が為す四つのこと。第一に礼拝を守り、第二に祈り、第三に御言葉を伝え、第四に証しの生活をする。この営みによって、私共はイエス様が自分と共にいてくださることを知らされていきます。イエス様が共にいてくださることを知るというのは、理屈の話ではありません。ある日突然、それを知らされるということもありましょう。しかし、多くの場合、この四つの営みを為していく中で、御言葉と出来事を通して経験し、知らされていくのです。それも、何度も何度もです。そしてその歩みの中で、私共は「主と共に生きる」「神の御前に生きる」者として鍛えられ、整えられ、様々な誘惑の囁きにも心を引かれないようになっていくのでしょう。勿論、どれだけ経験しても油断することは出来ません。信仰生活がどんなに長くなっても、この囁きに全く心が動かないということはありません。私共がこの地上での歩みを為し続けている限り、この囁きとの戦いはずっと続きます。
7.忠実な賢い僕として歩んだ者たち
私共は、そのような罪との戦いを立派に戦い抜いて、この地上の生涯を歩み通した多くのキリスト者たちを知っています。今、いくらでも名前を挙げることが出来ます。キリスト教の歴史にその名を残した人たちのすべてがそういう人でした。しかし、今私が申し上げたいのは、そのようなキリスト教人名辞典に載っているような人たちのことではありません。名も無き忠実な賢い僕たちのことです。教会の歴史というものは、そういう人たちによって担われてきたし、今も担われているからです。キリスト教の歴史に名を残した多くの人は、神学者であったり、牧師であったり、その時代のキリスト教会を導いた人たちです。それはそれで、尊敬すべき人たちであり、忘れてはならない人たちです。しかし、イエス様がここで告げている忠実な賢い僕とは、そのような人たちのことだけを言っているのではありません。教会の歴史においては忘れられていった、多くの無名のキリスト者たちのことです。そして、それは私共一人一人のことです。人は忘れていきます、そして、忘れられていきます。私共もやがて忘れられていくでしょう。地上の生涯を閉じて40年もすれば、覚えているのは自分の子どもと孫ぐらいなものでしょう。しかし、神様は決して忘れません。その忠実な賢い僕であった一人一人を覚えておられ、その歩みのすべてを御存知であり、やがてイエス様が再臨された時、その一人一人の名が呼ばれ、神の子とされた者として相応しい、良きものすべてを与えられます。神様はこの約束通りに、私共に報いてくださいます。私共はこの約束に生きます。ここに、どんな困難も私共から奪うことの出来ない希望があるからです。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、私共に忠実な良き僕として歩んで行くようにと、御言葉を与えてくださいました。ありがとうございます。どうか、主と共に、神の御前に生きる者として、一日一日を歩んでいけますように。どうか、弱い私共の信仰を強めてくださり、一切の誘惑から守ってくださいますように。主よ、早く来てください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2020年8月16日]