1.はじめに
イエス様は金曜日に十字架にお架かりになりました。その前の日の木曜日には、「最後の晩餐」「ゲツセマネでの祈り」「捕らえられる」そして「大祭司のもとでの裁判」がありました。更にその前の日の水曜日には、「オリーブ山での説教」「ベタニアで香油を注がれる」「ユダの裏切り」ということがありました。この水曜日になされた「オリーブ山での説教」というのが、24~25章に記されているものです。イエス様はその公の生涯のはじめに、5~7章に記されている、有名な「心の貧しい人々は、幸いである」で始まる、いわゆる「山上の説教」をお語りになりました。そして、十字架の上でこの地上での生涯を閉じられる最後の時の直前に、エルサレムの近くのオリーブ山で弟子たちに説教をされました。私共は共々にマタイによる福音書を読み進めておりますが、今朝与えられている御言葉は、オリーブ山での一連の説教の中で語られたものです。私共はこのことを弁えていなければなりません。もう次の日には捕らえられ、その次の日には十字架に架けられる。イエス様はそのことを御存知の上で、このオリーブ山での説教をお語りになった。もう時間がないのです。2日後に弟子たちはイエス様が十字架の上で死ぬことを見る。勿論、それで終わってしまうわけではありません。イエス様は三日目に復活されます。しかし、イエス様が弟子たちと一緒に旅をし、一緒に食事をし、お語りになる、或いは奇跡を行う。そのようなイエス様と弟子たちとの目に見える交わりの時は、もう終わろうとしている。イエス様は御自分が目に見えるあり方で弟子たちと共にいるという時が終わろうとしていることを知り、その後弟子たちがどのように歩んで行けば良いのか、そのことをどうしても伝えないわけにはいかなかった。それが、オリーブ山での説教が語られた理由です。そして、このオリーブ山での説教において告げられているメインテーマは、終末です。イエス様が再び来られることによってもたらされる、救いの完成としての終末。その時が来るまで、弟子たちは待たなければならない。そのことを繰り返し繰り返し、イエス様はこのオリーブ山での説教においてお語りになったのです。
2.目を覚ましていなさい
この時、イエス様が繰り返し語られたのが「目を覚ましていなさい」という言葉でした。24章42節で「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」と語られました。そして、今朝与えられた御言葉の最後、25章13節においてもまた、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」と語られました。「その日、その時」とは、イエス様が再び来られる日、その時のことです。この世界が新しくなり、イエス様の救いに与った者たちがイエス様に似た者として復活の命を与えられ、救いが完成する時のことです。その日、その時は誰も分からない。だから、いつその時が来ても良いように「目を覚ましていなさい。」とイエス様はお語りになりました。信仰において眠りこけないように、信仰において目覚めているようにと語られた。イエス様を愛し、イエス様を信頼して、イエス様に従いつつ、イエス様が再び来られる日を待ち望みながら生きて行きなさい、そう言われました。キリストの教会はいつでも、この「目を覚ましていなさい」というイエス様の言葉を忘れることなく、二千年の間歩んで来ました。
しかしだからといって、キリストの教会は、またすべてのキリスト者は、二千年の間、信仰において少しも眠りこけることなく、しっかり目を覚まし続けてきたか、そう問われますと心許ないところがあるかと思います。勿論、眠ると言っても、うとうと眠るという眠りから、起こされても目が覚めないほどにぐっすり眠るという眠りまで、色々あるでしょう。教会もキリスト者も、信仰において眠ってしまって、御心に適わない歩みをしてしまったことが全く無いとは誰も言えないでしょう。
例えば、イエス様がオリーブ山で話された次の日、この話を聞いていた弟子の一人であるイスカリオテのユダはイエス様を裏切ってしまいます。また、最後の晩餐の後でイエス様はペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人の弟子たちとゲツセマネにおいて祈りました。十字架にお架かりなる前の日の、イエス様が弟子たちと共に祈る最後の時でした。その時イエス様は「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と弟子たちに言われました。しかし、ペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人の弟子たちは眠りこけてしまいました。しかも、三度も続けてです。この時イエス様は、「心は燃えても、肉体は弱い。」と彼らに言われました。私共は目を覚ましていなければならないことを知っていても、それでも眠りこけてしまう。そして、そのことをイエス様は御存知でした。この事をよく御存知の上でお語りになったのが、今朝与えられているたとえ話なのです。
3.天の国のたとえとしての婚宴
イエス様がお語りになられたのは、こういうたとえ話でした。十人の乙女がいます。それぞれがともし火を持っています。このともし火というのは、油を入れるところがあり、その油に浸された芯があって、その先に火をともしたものだったと思います。このともし火は、花婿が来るのが夜になるので、花婿を迎えるためのものです。1節は「そこで、天の国は次のようにたとえられる。」と始まりますから、このたとえ話は「天の国」「神の国」のたとえ話です。ですから、この花婿というのはイエス様のことであり、婚宴というのは天の国・神の国のこと、そしてこの十人の乙女というのは、私共キリスト者のこと、或いはキリストの教会を指していると考えて良いでしょう。
ちなみに、イエス様の時代のユダヤの婚礼というのは、まず花婿が花嫁の家に花嫁を迎えに行きます。そして、花婿が花嫁を連れて、婚宴の用意がしてある花婿の家にやって来る。この時、乙女たちが花嫁と花婿を出迎えるわけです。この乙女たちは、きっと花嫁の世話をするためではなかったかと思います。その場面のことをたとえとしてイエス様は話されたのです。まず花婿が花嫁を迎えに行くわけですけれど、これが簡単じゃない。花婿はすぐに花嫁を連れて来られるわけではなかったようです。花嫁の家では、娘を迎えに来た花婿を親族一同が歓迎する。花嫁の家族としては別れの時ですから、そう簡単に「それじゃ。」なんてわけにはいかなかったでしょう。当時の婚宴の開始は夕方からというのが普通だったそうです。しかし、花婿が花嫁を連れて来るのが遅れて、いざ花婿の家で婚宴を始める時には、夕方どころか真夜中になってしまうこともあったようです。みんなが時計を持っていて、時刻に合わせて動いている時代ではありません。そもそも、花婿の家での婚宴は一週間続いたそうですから、始まりが多少遅くなろうと、どうということはなかったのでしょう。現代のホテルや結婚式場で行われる、何としても2時間で終わらなければならない婚宴とはわけが違います。婚宴は人生で最も賑やかで、華やいだ、最も楽しい時でした。食べて、飲んで、歌って、踊って、それが何日も続く。しかめっ面をしている人なんていません。村中の人たちが来る。遠くからの親戚も来る。仕事も休みです。人生の中で最も喜びに満ちた時、それが婚宴の時でした。ですからイエス様は、救いの完成としての終末を、この婚礼の時にたとえてお語りになったのでしょう。
4.賢い乙女と愚かな乙女
さて、イエス様のたとえに戻りますが、花婿と花嫁を迎える十人の乙女たち。花婿が来るのが遅れて、いつまでたっても来ないものですから、彼女たちはとうとう眠り込んでしまいました。ここまでは、十人の乙女は皆同じです。ところが、五人の賢い乙女はともし火用の予備の油を持っていました。しかし、愚かな乙女は予備の油を持っていませんでした。そして、真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい。」と叫ぶ声がします。愚かな乙女も、賢い乙女もその声で起きます。賢い乙女たちは、持っていた予備の油を入れて、赤々とともし火をともして花婿を迎えることが出来ました。ところが、愚かな乙女たちは予備の油を持っていなかった。花婿が来るのが遅かったものですから、油を使い切ってしまったともし火は、消えそうになってしまいました。愚かな乙女たちは、賢い乙女たちに油を分けてくれるように求めますが、「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」と言われてしまいます。愚かな乙女たちが油を買いに行っている間に花婿が到着します。賢い乙女たちは花婿と一緒に婚宴の席に入ります。一方、愚かな乙女たちが油を買いに行って戻った時には、既に花婿は婚宴の席に入り、戸は閉められた後でした。愚かな乙女たちは「御主人様、御主人様、開けてください。」と言いますが、主人は「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない。」と答え、戸は開かれなかったという話です。ここで「御主人様」というのは、天の父なる神様のことです。つまり、賢い乙女は天の国・神の国に入れたが、愚かな乙女たちは入れなかったというのです。
このたとえ話を聞いて、「油を分けてあげないなんて、賢い乙女は優しくない。自分勝手だ。」と感じる人もいるでしょう。そもそも、油を真夜中に買うことが出来るのか。セブン・イレブンもないのに、真夜中に店が開いてるとは思えない。確かに、そうです。また、「愚かな乙女のために戸を開けてくれない御主人は冷たい。入れてあげればいいじゃないか。」そう思った方もおられるでしょう。でも、これはたとえ話です。たとえ話は、何を語ろうとしているのか、その意図をきちんと捉えずに細かなところに目がいってしまいますと、何を語ろうとされたのかさっぱり分からない。そういうことになりかねません。イエス様はこのたとえ話で何を言おうとされたのか。大切なポイントを捉えて、そのことをきちんと聞き取りたいと思います。
5.花婿の遅れ
まず、このたとえ話の第一のポイントは、花婿が遅れたということです。これは何を意味しているのでしょうか。それはイエス様の再臨は、私共が期待しているような「すぐに」ではなく、待ちくたびれて寝てしまうほどに後のことかもしれないということです。
初代教会の人たちは、イエス様が十字架に架かり、三日目に復活され、四十日後に天に昇られた後、すぐにイエス様は再び来られると思っておりました。自分たちが生きている間に来られると思っていた。しかし、イエス様は中々来られない。そういう中で、第一世代のキリスト者たちが年老いて死んでいく。それでも来られない。キリストの教会の中に、「イエス様が再び来られるなんてことはないのではないか。」「イエス様が再び来られるなんて嘘ではないか。」そう言う人たちさえ現れてきます。そのような中で、弟子たちはイエス様がお語りになったこのたとえ話を思い起こし、イエス様が再び来られることを待ち望む信仰を整え直したのです。
こう言っても良いかもしれません。最初のキリスト者たちの信仰は、まことに激しく、熱心でありました。それは短距離走のような信仰と言いますか、「すぐにイエス様が来られるのだから、その時までの辛抱だ。」といった具合で、「もうすぐイエス様は来られるのだから、仕事なんてしていられない。」そんな人たちさえ現れるほどでした。自分の生きている間にイエス様は再び天から来られる、みんなそう信じられていました。しかし、第一世代のキリスト者たちが年老いて死んでいく。時を同じくして迫害も起きる。「本当にイエス様は来られるのか。本当に神様はわたしたちを愛してくださっているのか。」そういう動揺が、キリストの教会の中に起きた。そして、まさにそういう時代に、このマタイによる福音書は記されたのでした。この福音書が編纂されたのは紀元後80年代と考えられています。キリストの教会はこの福音書を編纂しながら、イエス様の再臨を待ち望む信仰を、短距離走から長距離走へとシフトチェンジしていったのではないかと思います。イエス様は再び来られる。しかし、それは自分たちが生きている間ではないかもしれない。みんなが待ちくたびれて寝てしまうほどに遅くに来られるかもしれない。勿論、明日来られるかもしれません。しかし、たとえそうでなかったとしても、自分たちが生きている間に来られないとしても、その為の備えをしておこう。いつ来られてもいいように、備えだけはちゃんとしておこう。そういう信仰へと変えられていったのです。
花婿の到来、イエス様の再臨という出来事は、私共が「この日、この時」と決めることが出来ることではありません。100%神様がお決めになることです。私共はそれを待つしかありません。この神様の御業を待つ。神様の愛を信じて待つ。ここにキリストの教会のその後二千年の歴史を貫く信仰のあり方が整えられていったのです。
6.ともし火と油
さて、このたとえ話の第二のポイントは、「ともし火」とは何を意味しているのか、また「油」とは何を意味しているのか、ということです。しかし、この「ともし火」と「油」については、昔から様々な説が唱えられてきました。簡単に「こうです」とは言えないところがあります。ただ、「ともし火」については、これがあれば神の国に入ることが出来るわけですから、これは「信仰」と理解して良かろうと思います。イエス様を我が主、我が神と信じる。イエス様の十字架の贖罪を信じる。復活の命を信じる。そのような「信仰」がこの十人の乙女たちがともしていた「ともし火」と理解して良かろうと思います。
問題は、「油」です。この油は他の人に分け与えることは出来ない性質のものです。これについては、諸説あります。これを「聖霊」と理解する人がいます。私共の信仰は聖霊なる神様のお働きによって与えられ、保持され、守られるのですから、なるほどこの油を聖霊と理解することも出来ると思います。ただ、聖霊を余分に備えておくというのは、少し奇妙な感じがいたします。聖霊なる神様を、私共が余分に取っておくなんてことは出来る話ではありません。
ある人はこの油は「御言葉」だと言います。確かに、私共が何をどのように信じるかと言うことは、御言葉によって与えられるわけですから、確かにこの油を御言葉と理解することも出来ましょう。それに、御言葉は蓄えておくことが出来ます。聖書の言葉をしっかり心に蓄えて、私共は信仰の歩みをいよいよ確かなものとすることが出来ます。このように理解することは出来ると思います。ただ、御言葉を蓄えていたということは、「眠ってしまった」ということとどういう関係になるのか、判然としません。
またある人は、この油は「祈り」だと言います。確かに、祈ることが私共の信仰を保持していくために不可欠であることは間違いありません。なるほどと思わされます。しかし、祈りの油を持っていたということは、祈り続けていたということでしょう。だったら、それは眠りこけてはいないということで、信仰においては「目を覚ました」状態のことでありましょう。やはり、「眠ってしまった」ということとどういう関係になるのか、判然としません。
また、ある人はこの油は「愛の業」だと言います。確かに、信仰は愛の業と連動するはずですから、このように理解することも出来るでしょう。しかし、愛の業に励む者であり続けたのならば、それもやっぱり信仰において「目を覚ました」状態のことでありましょう。これも、「眠ってしまった」ということとどういう関係になるのか、判然としません。
色々調べ、考えたのですが、結局の所、この「予備の油」というものは、「聖霊」とか「御言葉」とか「祈り」とか「愛の業」とか、特定の何かを指すのではないのではないかと思うのです。この「予備の油」は、どんなにイエス様が来られるのが遅くなったとしてもイエス様が来られるのを待つことを止めない、或いは「待つ」ということを信仰の基本的な有りようとして受け入れる、その信仰の有りようと理解すれば良いのではないか考えます。短距離走の信仰のあり方でしたら、とにかく熱心に、限界まで挑戦するような信仰の歩みが大切だということでしょう。しかし、それは予備の油を持たない信仰のあり方です。燃え尽きてしまうんです。
こう言っても良いでしょう。私共は「何かをする」ことに価値を見出す、そういう文化・価値観の中を生きています。ですから「何かが出来る」「何かをする能力がある」、そういう所に価値を見出します。それを自然と信仰の歩みにおいても当てはめてしまう。それが無意味だとはいいません。しかし、それを「予備の油」にも当てはめて、これをすることによって信仰のともし火を消さないようにしようという理解をしてしまう。しかし、イエス様がここで教えてくださったことは、自分が何かをするというのではなくて、神様が何かをされる、神様が事を起こされる、それを待つ。イエス様が再び来られるのを、どんなに遅くなろうとも待つ。それが、賢いこと、大切なこと、なくてはならないことだということなのではないかと思うのです。このことが第三のポイントに続きます。
7.眠ってしまった乙女たち
第三のポイントは、賢い乙女も愚かな乙女も皆眠り込んでしまったということです。イエス様がここで話されたのは、賢い乙女は目を覚ましていたけれど愚かな乙女は眠ってしまったという話ではないのです。みんな寝てしまった。これがイエス様の私共キリスト者に対しての、あるいは人間というものに対しての理解なのです。イエス様は私共の熱心さなんかに期待しておられないのです。そして、そのような熱心さが私共の救いのために必要だなんて、少しも思ってはおられない。先ほども申しましたけれど、ペトロやヨハネやヤコブでさえ眠りこけてしまうのです。私共の信仰とは、眠りこけてしまうものだ。そうイエス様ははっきり言っておられるわけです。そして、たとえそうであったとしても、イエス様が来られることを待つ、神様が事を起こされるのを待つ、この基本的な信仰の有り様さえあれば大丈夫だ。持ち堪えることが出来る。そうイエス様は言われた。自分の熱心や真面目さで信仰を保とうとしても、それではイエス様が来られるまでもたないのです。私共の信仰の歩みというものは、熱心な時もありましょうし、マンネリを感じる時もありましょう。色んな時があります。なぜなら、信仰の歩みは長いからです。この地上の生涯が閉じられるまで、イエス様が再び来られる時まで、私共は信仰の歩みを止めるわけにはいかない。これは長距離走です。この長距離走の場合、一気に走り抜くというわけにはいきません。走ったり、歩いたり、時には休んだり、眠ったり、それでもイエス様が来られる日に向かって進み続ける。時には眠りこけたって良いんです。人間とはそういうものなのです。強くて、元気で、いつでも熱心で、というわけにはいかない。そういうものなのです。波がある。それで良い。それでも、イエス様の来られるのを待ち続ける者。それが賢い者だ。それこそが賢い者なのだ。イエス様は、そう言われたのです。自分の人生は、イエス様が来られるのを待つ日々なのだ。神様が事を起こされるのを待ち続ける日々なのだ。その事を弁えている者が本当に賢い者なのだ。そうイエス様は言われたのです。
もっと言えば、イエス様が再び来られる日を待つ。それが私共の人生ということです。何を達成した、何をやったというところに私共の人生の意味があるのではなく、イエス様が再び来られるのを信じて、待ち続けて、日々を歩む。その事こそが意味あることであり、尊いことだということなのです。
私共の目の前に起きることは、イエス様が来られる時に起きることに比べれば、小さな事でしかありません。現在私共が直面している新型コロナウイルスの感染という出来事も、どんなに大きな事のように見えたとしても、決定的に大きな事ではありません。イエス様が来られる。この決定的に重大な出来事の前には、私共の心が奪われるほどの出来事ではありません。本当に賢い者は、そのことを知っている。そのことを知るが故に、信仰は揺るがないのです。待ち続けることが出来るのです。
8.待ちつつ急ぎつつ
『神の国の証人 ブルームハルト父子』(井上良雄著、新教出版社)という本があります。その副題は「待ちつつ急ぎつつ」です。38年前、私が神学生だった時に出た本です。とても良い本です。19世紀後半にドイツに生きたヨハン・クリストフ・ブルームハルトという牧師がいました。彼の息子も牧師であり、カール・バルトなどに強い影響を与えた人です。この本は、父ブルームハルト牧師と子ブルームハルト牧師の伝記のような本です。その中にとても有名なエピソードが記されております。随分前に読んだ本ですが、とても印象的に覚えています。父ブルームハルトは、いつも牧師館の庭に、まだ誰も乗ったことのない新しい馬車を用意していたそうです。19世紀ですから馬車だったのですね。そして「あの馬車は何のためか。」と人から尋ねられると、「主イエス・キリストが再臨される時、自分がそれに乗って直ちに駆けつけて、主をお迎えするためです。」と答えていたといいます。彼は、いつ来るか分からない「その日、その時」を真剣に待ちつつ、日々為すべき務めに励んだのです。その姿勢が、「待ちつつ急ぎつつ」です。私共はイエス様が来られるのを待っています。しかし、ただボーッと待っているのではありません。早く来てくださいと祈りつつ、キリスト者として為すべきことを為しつつ待つのです。「その日、その時」に向かって、「その日、その時」を待ちながら歩む。それが私共のこの地上における歩みなのです。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、イエス様のたとえ話によって、イエス様が再び来られることを待つべきことを教えてくださいました。どうか私共が、生涯を通して、この主を待ち望む信仰に立ち続けることが出来るよう、聖霊なる神様御自身が私共を守り、支え、導いてくださいますように。私共の信仰が、たとえ眠りこけてしまうようなことがあったとしても、なおも御手をもって御国への歩みを全うさせてください。
私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2020年8月23日]