1.はじめに
先週の祈祷課題の一つは「キリスト教諸施設のために、特に北陸学院のために」でした。主の日の礼拝の中でも、聖書を学び祈る会においても、お祈りしました。また、皆さんの日々の祈りの中でも覚えていただいたことだと思います。そういう中で、月曜日に堀岡満喜子先生から、「今度作った北陸学院の中高の広報動画が出来ましたので見てください。」というメールが送られてきました。堀岡先生は現在、北陸学院中学・高校の校長ならびに北陸学院全体のキリスト教センターのセンター長をされています。ホームページからも見ることが出来ます。なかなか良いものです。その中で、北陸学院のスクールモットー、これは教育理念とか教育方針といったものですが、それが「Realize Your Mission(あなたの使命を実現しよう)」であることが告げられていました。この言葉が北陸学院のスクールモットーであることは知っておりましたけれど、今朝の礼拝の備えをしていく中で、改めて良いスクールモットーだと思いました。私共の教会学校に集っている子どもたちにも、「Realize Your Mission」ということを伝えて行きたい、伝えて行かなければならないと思いました。この言葉は、北陸学院が宣教師によって建てられたミッションスクールであり、金沢においては北陸学院が町の人々から単に「ミッション」と呼ばれていることもあるのでしょう。「Realize Your Mission(あなたの使命を実現しよう)」という言葉の前提は、私共一人ひとりにはそれぞれミッション、使命があるということです。それは神様に与えられている使命であり、それを実現することが私共が生きるということなのだ、私共の生きる意味であり目的なのだということでしょう。実に、これはイエス様が私共に教えてくださったことです。
2.タラントンのたとえ
今朝与えられております御言葉においても、イエス様はそのことを私共に教えてくださっています。今朝与えられているたとえは、とても単純で印象的なものですから、一度聞いただけでも覚えてしまえるものです。
こういう話です。主人が旅行に出かける時、三人の僕を呼んで、それぞれに5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けた。5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕はそれぞれ商売をして、ほかに5タラントン、2タラントン儲けた。ところが、1タラントン預かった僕は穴を掘り、その金を隠しておいた。主人が帰ってきて精算をする。5タラントン儲けた僕と2タラントン儲けた僕に対して、主人は「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」と言います。一方、1タラントンを土に埋めておいた僕に対して、主人は「怠け者の悪い僕だ。」そう言うのです。そして「わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。」と言ったというのです。
このたとえにおける「主人」とは、イエス様御自身のことでしょう。イエス様はこのたとえ話をされて、すぐに十字架にお架かりになられるのです。ですから、この主人が旅に出るとは、イエス様が十字架にお架かりになり、復活されてから天に昇られることを指しているのでしょう。そして、旅から帰って来るとは、イエス様が再び天から来られる時のこと、イエス様の再臨、終末の裁きのことを指していると考えて良いでしょう。
1タラントンしか与えられなかった僕とは、直接的にはファリサイ派の人々や律法学者たちを指していると考えられます。彼らは律法違反することを恐れ、神様に裁かれることを恐れ、「○○してはならない」ということにばかり心を使い、神の民として御心に適うことに大胆に一歩を踏み出すことをしない。ひたすらに「○○してはならない」という律法を守ることがすべてだと考えていた。イエス様はこのようなあり方を、神様から預けられている尊い救いの恵みを土の中に隠しているのと同じだ、と言われたのです。
一方、2タラントン、5タラントン与えられた僕とは、イエス様の弟子たちのことで、彼らは神様の救いの恵みを自分たちだけのものとせず、多くの人に宣べ伝え、その恵みに与る人をユダヤ人という枠さえ越えて、全世界へと広げていきます。そのことをイエス様は「忠実な良い僕だ。よくやった。」と言って褒めてくださると言うのです。
3.タラントンとは
ここで、イエス様が僕たちに預けた「タラントン」とは何かということを考えなければなりません。元々「タラントン」とは、お金の単位です。どのくらいのお金かと申しますと、当時の労働者の1日の賃金は1デナリオンです。1タラントンというのは、その6,000倍です。あまり大きくて、ちょっとピンと来ないかもしれませんけれど、安息日には労働しませんので、1年の労働日数が約300日と考えますと、1タラントンは労働者の20年分の賃金となります。2タラントンは40年分、5タラントンは100年分の賃金となります。今のお金に換算するのは難しいところがありますけれど、1タラントンは6千万円、2タラントンは1億2千万円、5タラントンは3億円くらいになるでしょう。ということは、僕たちが預けられたお金は、少しも小さなお金ではなかった。私共の感覚からすると、とてつもない大金です。一生見ることもないような大金です。これがいったい何を意味するのか。これについては、伝統的に二つの理解があります。
第一には、キリスト者やユダヤ人に与えられている特別な恵み、神の民とされたこと、神が与えてくださった救い、神様との愛の交わりといったことと考えられるということです。
第二には、それぞに与えられている才能や能力、或いは与えられている環境、性別とか両親とか生まれた国といったことが考えられるかと思います。才能・素質を意味する英語talentはこのタラントンが語源です。
私はこの二つの理解の仕方の内、どちらか一方に限定する必要はないと思います。この二つを重ね合わせて理解するのが良いと思います。
4.タラントンを用いる
そうしますと、預かったタラントンを用いて商売をして儲けたとは、何を意味しているのか、またタラントンを土の中に埋めて置いたとは何を意味しているのか、ということです。
タラントンを第一の意味、神様から与えられた救いの恵みとして理解するならば、これを用いて商売をして増やしたというのは、伝道してこの神様の救いの恵みに与る者を増やしたということになろうかと思います。また、土の中に埋めておいたとは、自分たちだけが救われれば良いとして、この恵みを伝えることもせず、この恵みに与る者を増やそうとしなかったということになるかと思います。
また、タラントンを第二の意味と理解いたしますと、預かったタラントンを用いて商売をして儲けたとは、神様から与えられた才能や能力や与えられた環境を用いて、神様の御心に適うことに励んだということになるでしょう。また、土の中に埋めておいたとは、与えられた才能や能力や与えられた環境を、神様の御心に適うことのために少しも用いず、ただ自分の思いや願いを実現する為にしか用いなかったということになるのではないかと思います。
どちらの理解に立つにしても、大切なことは、主人である神様・イエス様の御心に適うことのために、私共が神様に与えられたすべてを注ぎ込んで生きるかどうかということなのです。自分の才能や能力を十分に生かして生きることは大切なことです。嬉しいことであり、楽しいことであり、やり甲斐もあることでもありましょう。人にはそれぞれ適性というものがあります。その適性に合った歩みが与えられるならば、それは本当に幸いなことです。しかし、このたとえ話で大切なことは、僕が喜んだかどうかではないのです。主人が喜んだかどうかということなのです。5タラントン、2タラントン儲けた僕がその儲けたことを喜んだとは聖書は記していないのです。聖書は、5タラントン、2タラントン儲けた僕に対して、主人が「忠実な良い僕だ。よくやった。…主人と一緒に喜んでくれ。」と告げたと語ります。喜んでいるのは主人なのです。イエス様・神様が喜ぶのです。そして、喜ぶ神様・イエス様が僕に対して、「一緒に喜ぼう。」と言われている。主人が僕と共に喜ぶ。つまり、神様の喜びと私共の喜びが一つとなる。これこそが、預けられたタラントンを増やした僕の喜び、私共の喜びなのです。商売をして、タラントンを増やすことが喜びなのではないのです。商売をして「儲けたな、嬉しい。」と私共は考えます。でも、この話のポイントはそこにあるのではありません。このタラントンを商売で増やすということについては、具体的には色々なことが考えられるでしょうけれど、それが神様の御心に仕える、神様の愛の業に仕えるということと無関係ならば、それは私共に命を与え、良きものすべてを与えてくださった神様・イエス様を喜ばせることにはならないでしょう。神様と共に喜ぶ。神様と一つになって喜ぶ。これこそが私共に約束されている、終末において与えられる大きな祝福なのです。ここを読み間違えてはいけません。この地上の歩みにおいて儲けること、成功すること、それが私共の目的ではないし、神様・イエス様の喜びではないのです。
5.失敗はない
さて皆さんは、この5タラントン、2タラントン儲けたということを聞いて、儲けたから良いけれど、もし商売に失敗して元も子もなくしてしまったらどうなのか。そんなことは考えにならなかったでしょうか。私は商売人の息子なものですから、こういう話を読むとすぐそんなことを考えてしまいます。商売は儲かるとは限らない。失敗してすべてを無くしてしまうことだってあるではないか。確かに、この世の商売においてはそういうこともありましょう。そういうことの方が多いのかもしれません。しかし、イエス様はここで、この世における実際の商売の話をしているのではありません。イエス様が言われているのは、私共が与えられたこの地上の生涯をどう歩むかということです。結論を言えば、5タラントンの僕も2タラントンの僕も、預けられたタラントンを用いて生きる人生において、失敗というものはありません。失敗のない人生です。そもそも、私共の人生において何が成功で、何が失敗なのでしょうか。地上の歩みにおいて、富や名誉や豊かな生活を手に入れることが成功で、それを手に入れられなければ失敗ということなのでしょうか。「勝ち組」「負け組」という言葉がありますけれど、それはそういう意味で使われているのでしょう。しかし、イエス様がそんなことを言われるはずがありません。
例えば、タラントンを神様が与えてくださった救いと理解した場合、それを増やすために福音をみんなに伝え、そのために生涯を捧げた者がいたとします。簡単に言えば、伝道者になった、そういう人のことを考えてみましょう。その伝道者が一生懸命伝道したけれど、洗礼者がちっとも与えられなかった。そういうことだってあるでしょう。私共の教会の歴代の伝道者の中にも、若くして体を壊し、伝道者としての本当に短い生涯を閉じた者もいます。彼の生涯は、神様から預かったタラントンを増やすことが出来なかった生涯だったのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。彼は神様の御許に召されて、預けられたタラントンを豊かに増やした者として神様に喜ばれ、「忠実な良い僕だ。よくやった。…主人と一緒に喜んでくれ。」と言われるに違いないのです。そもそも、成功した伝道者とはどういう者を言うのでしょうか。たくさんの洗礼者を出した伝道者でしょうか。確かに洗礼者が与えられることは素敵なこと、嬉しいことです。或いは、キリスト教史に残るような事業を展開した人でしょうか。それも素敵なことであるに違いありません。しかし、それらは伝道者の努力の結果ではないでしょう。主が働いてくださった結果でしかありません。神様の御前において、目に見える結果など何の尺度にもならないのです。そうではなくて、与えられた恵みに感謝して、自分が与えられた持ち場において、日々為すべきことに励んだ。そのことを神様は喜んでくださり、「忠実な良い僕」と言ってくださる。
勿論、それは伝道者だけではありません。信徒だって同じことです。友人を教会に誘って、その人が洗礼へと導かれたという、幸いな経験を持っている人もいるでしょう。家族が次々と洗礼を受けたという人もいるでしょう。しかし、そうでない人もいます。でも、主の日のたびごとに礼拝に集い、主を誉め讃えつつ歩んで来た。神様はその歩みを見てくださっているのです。ある信徒の方は、年老いた人、体の弱った人のことを覚え、よく手紙を書いたり、訪ねたりされています。ある方は教会学校の教師としての奉仕に励んでいます。聖書を学び祈る会に集って、祈り続けている人がいます。会計の御奉仕をされている方がいます。いつもトイレのお掃除をしてくれている人がいます。オルガンの奏楽で奉仕されている人がいます。これらは教会での奉仕ですけれど、教会以外の所で神様の愛の業に仕えている人もいます。自分の信仰を表に出すことなく、その仕事を通して忠実に神様の愛の御業に仕えている人がいます。学校・幼稚園・保育園の先生もそうでしょう。福祉施設や病院で働いている人もいる。その仕事を通して神様に仕えているわけです。それぞれの仕事が、社会において意味があり、価値がある。そこに自分が与えられた才能・能力を用いているわけです。また家庭においては、夫として、妻として、母として、父として、子として、神様に与えられた務めを為している者がいます。それもまた、神様から見れば、与えられたタラントンを存分に用いて生きている者であるに違いないのです。そこでは、私共が為す事柄の大きさや規模といったものは問題ではありません。目の前の一人に向かって、神様から自分に注がれている愛を注ぐ。それで十分なのです。神様に与えられたこの命を、愛を、信仰を、恵みを、感謝して受け取り、神様の御心を信じて、自分に与えられた力を用いて生きる者の人生に、失敗などありません。神様が「忠実な良い僕だ。よくやった。」と言ってくださるからです。そのような歩みをする者として、私共は召されているのです。
6.怠け者かな?
さて、預けられた1タラントンを地の中に隠しておいた僕は、預けられたタラントンを増やした者といったい何が違っていたのでしょうか。それは、神様に対する心、神様の愛に対しての理解、神様が与えてくださっている救いに対しての理解が違っていたのです。彼は「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。」と言うのです。ここに、この僕の主人に対する理解がはっきり現れています。しかし、これは本当でしょうか。違うでしょう。先ほど出エジプト記32章をお読みしました。ここは出エジプトしたイスラエルが金の子牛を作ってしまった時のことが記されています。この時神様は大いに怒るのですが、モーセに執りなされて「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」(14節)のです。それが聖書の神様です。更に言えば、この僕はイエス様の十字架を見ていない。イエス様の十字架を知らないのです。自分の主人がどんなに憐れみ深い方であるかを知らないのです。だから、ただ神様に裁かれることを恐れ、縮こまって、与えられたタラントンを無くさないことだけに汲々としていた。
イエス様・神様はこの僕に対して「怠け者の悪い僕」と言われます。「怠け者の悪い僕だ。」厳しい言葉です。このような言葉に出会うと、私共はドキッとするところがあります。自分は大丈夫だろうか、自分は「怠け者の悪い僕だ。」と言われないだろうか、と思うわけです。自分はそんなに真面目なキリスト者でもないし、熱心とも言えない。大丈夫だろうかと思ってしまう。
しかし、ここで大切なことは、実は、自分は神様のために何をしてきたか、何をしているかということではないのです。そうではなくて、決定的に重要なことは、私共は神様に脅えているか、それとも愛しているかということなのです。1タラントン預けられた僕は、神様を恐れ、神様に脅えていた。だから、与えられた物を無くすのが怖くて、土の中に埋めて隠してしまったのです。しかし、2タラントンや5タラントン与えられた僕は違いました。自ら進んで、商売が失敗するかもしれないとは考えもせずに、預けられたタラントンを増やした。彼らは神様・イエス様を愛していたからです。だから、神様が喜ぶことをした。それは、彼らが神様に愛されたから、愛されていることを知らされたからです。私共とて同じことです。神様はその独り子を私共に与えられるほどに、私共を愛してくださった。こんな愛は他にありません。そして、私共をその独り子と一つにされた者として見てくださり、「我が子よ」と呼んでくださった。私共には、天地を造られたただ独りの神様に、そのように愛される価値なんてどこにもない。あり得ないことです。自分勝手で、感謝することさえ知らなかった私共です。しかし、神様は私共の一切の罪を赦し、愛してくださった。この愛を与えられたならば、この愛を知らされたら、どうして神様を愛さないでいられましょう。勿論、私共は聖なる神様を畏れ敬います。しかし、恐れ脅えるのではありません。愛されているから、愛しているからです。「愛には恐れがない。」(ヨハネの手紙一4章18節a)のです。
この神様・イエス様との愛の交わりの中にある者は、自由なのです。感謝と喜びをもって、神様に与えられた恵みを自由に用いるのです。神様との愛の交わりの中に生かされていることを覚え、神様の愛の道具とされていることに感謝し、喜んで損をする道さえ選ぶことが出来るのです。愛は、注がれるが故に注ぎ出し、しかし枯れることなく、かえって更に豊かにされていくのです。この愛に生きることが、与えられたタレントを用いるということなのです。その用い方は一人ひとり違います。与えられているタラントンが違うからです。そこに私共それぞれに与えられている個別の使命・ミッションがあります。このミッションは愛に生きることですから、自分だけの損得を考えて生きることは出来ません。このミッションは、神様との関わり、隣り人との関わり、世界との関わりというものの中で果たされていくことになります。
このミッションはみんな違うのですから、与えられているタラントンを他の人と比べることは意味がありません。1タラントン預けられた僕は、自分は1タラントンしかない。あの人は2タラントン、この人は5タラントン。どうして自分は1タラントンしかないのかとひがんだかもしれません。神様が自分を愛しているということさえ信じられなかったかもしれません。どうして自分はこんなに貧しく、弱々しく、力が無いのかと神様を恨んだかもしれません。私共は、人と比べれば、優越感を感じたり、逆に劣等感を感じたりします。しかし、愛に生きるという自由は、この「人と比べる」ということからも私共を自由にします。私がまだ若かった時、私はこの神様の愛を知りませんでしたから、人と比べて、目に見える所で成功したいと漠然と思っていました。しかし、その時の私は全く自由ではありませんでした。自由という言葉は知っていましたけれど、神様を知りませんでしたので、自分の欲やプライドというものからも自由にされる、或いは周りの目から自由にされる、結果がどうなるかと恐れることから自由にされる、のびのびとした自由を知りませんでした。しかし、神様の愛の中に生きるという自由を知り、自分のミッションを知らされ、本当に自由になりました。この神様が与えるミッションに生きる者は本当に自由なのです。
7.終末に繋がる今
さて、主人は、タラントンを増やした僕には「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。」と言われました。でも、彼らが預けられていたのは2タラントンと5タラントン、現在のお金にすれば1億2千万円と3億円ですから、全く「少しのもの」ではなかったはずです。普通に考えれば大金です。ところが、この主人は「少しのもの」と言います。それは、このたとえ話が「天の国のたとえ」であり、この主人の言葉は終末における言葉だからです。つまり、終末において任せられる「多くのもの」、すなわち「完全な罪の赦し」「永遠の命」「神様との完全な交わり」「永遠の祝福」「全き平安」「全き愛」といったものに比べたら、私共が神様から預かっているものはまことにわずかなものに過ぎないということなのです。実に、私共がこの地上において、神様が与えてくださった救いの恵み、愛の交わりに生きるかどうかということは、終末における祝福に満ちた救いの完成に直結しているということなのです。
そして、主人はタラントンを地の中に隠しておいた僕には「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。」と言われます。1タラントンなのか2タラントンなのか5タラントンなのか、それが何を意味しているのかは詮索してもあまり意味がありません。単純に、人それぞれ与えられているものは違う。そう考えれば良いでしょう。実際、神様から与えられているものは、一人ひとり全く違うのです。その違いに目も心も奪われて、神様に不平や不満を言ったところで仕方がありません。そうではなくて、既に自分に与えられているタラントンがどんなに豊かであるかに気付くこと、神様がどんなに私を愛してくださっているのかに気付くことです。その時、私共の目の前には、「神様の御前に生きる」という全く新しい地平が広がるでしょう。そしてそれこそが、イエス様が再び来られる日に繋がっている地平なのです。
イエス様は「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」と言われました。これは神様との交わり、愛のことが告げられているのです。神様との愛の交わり、隣り人との愛の交わりは、与えられれば与えられるほど、外に向かって注ぎ出されます。愛は外に注ぎ出せば出すほど、減ってしまうのではなくて、逆に豊かにされていく。まことに不思議なことですが、愛とはそういうものです。愛は、外から注がれて、それを自分の中に溜めておくだけならば、外に注ぎ出さないならば、その愛は腐ってしまいます。神様から注がれた愛を腐らせてはなりません。この愛を隣り人に注いで、主の再び来られる日を待ち望みつつ、ここから始まる一週も歩んでまいりたいと思います。それが私共に与えられているミッションだからです。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝あなた様は、私共をどんなに愛し、豊かな恵みを注いでくださっているかを教えて
くださいました。命が与えられ、必要のすべてが満たされ、そして何よりも主イエス・キリスト御自身を与えてくださいました。ありがとうございます。どうか私共が、このあなた様が与えてくださいました愛の交わりの中を、あなた様の愛の御業に仕える者として、今週も健やかに歩んで行くことが出来ますように、聖霊を注ぎ、信仰と愛を与えてください。
私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2020年9月6日]