1.はじめに
今朝与えられております御言葉は、先週に引き続いて最後の晩餐の場面です。先週はこの食事の場で、イエス様が「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」とお語りになった所から御言葉を受けました。今朝与えられております御言葉は、その直後のことです。いわゆる聖餐を制定された所です。世界で最初の聖餐の場面と言っても良いと思います。イエス様は既に、イスカリオテのユダが裏切ることは御存知でした。そして、この後すぐにペトロの裏切りを予告しますので、ペトロが自分を三回知らないと言うことも知っておられました。勿論、他の弟子たちが、御自分が捕らえられる時に御自分を見捨てて逃げてしまうことも知っておられたでしょう。この時にイエス様と最後の食事をした十二人の弟子たち皆が自分を裏切ることになるということを、イエス様はこの時既に知っておられました。それも、ずっと先のことではなくて、何時間後に起こるということを知っておられた。その上で、イエス様はこの食事の席で聖餐を制定されました。イエス様は聖餐の食事、キリストの体であるパンとキリストの血である杯に与らせたのです。この意味はとても大きいと思います。イエス様は、弟子たちの裏切りを知った上でその罪の赦しに前もって与らせたということであり、この聖餐に与り続けることによって罪の赦しに与り続けるのだ、わたしと一つであり続けるのだ、そう弟子たちに告げられたのです。そして弟子たちは、そしてキリストの教会は、復活のイエス様に出会って新しく歩み始めて以来、今日に至るまで、この聖餐に与り続ける民として歩み続け、立ち続けているのです。この聖餐において、イエス様は私共の交わりのただ中に現臨されることを示し続けてくださっているのです。
教会のことを「〇〇共同体」と言うことがあります。信仰共同体、祈りの共同体、礼拝共同体、御言葉共同体、色々な言い方があります。それぞれ、教会とは何かということを言い表そうとしているわけです。その中で、聖餐共同体という言い方もされるのです。実際、聖餐を行わないキリストの教会は原則としてありませんし、礼拝堂を見れば聖餐台が必ずどこかに設置されています。その形や設置の仕方には教派的な特徴がありますけれど、聖餐をすることが前提となっていないような礼拝堂はありません。聖餐を中心にキリストの共同体である教会は形成され、歩んでまいりました。この聖餐についての理解の違いによって教派が生まれたと言っても良いほどです。それほどに、聖餐が大切だったからです。私共の教会は、教会員の中で礼拝に与り教会員の責務を果たしている者を「現住陪餐会員」と言います。現住とは、現在ここに住んでいてということ。そして、陪餐会員とは、聖餐に与っている会員ということです。この言い方の中に既に、私共が聖餐というものを大切にし、これを一つの中心と考えていることが表れていると言って良いでしょう。
2.過越の食事
聖餐は過越の食事の席で制定されました。過越の食事というのは、宗教的な食事です。宗教的儀式と言っても良い。つまり、何をどの順番で、ここでは何を祈って、何を語ってということが決まっている食事なのです。イスラエルはイエス様の時代までに1000年以上にわたってこの食事を続けてきたわけですから、その間にこの食事は整えられてきていました。イエス様の時代とは少しやり方が違うようですけれど、現代でもユダヤ人たちはこの食事を守っています。毎年過越の祭の時には、必ずこの過越の食事をする。それがユダヤ人です。今、この食事の順番について詳しくお話しすることは出来ませんけれど、祈りも語ることも決まっている過越の食事の中で、イエス様は聖餐を制定する言葉を告げたわけです。弟子たちは驚いたと思います。これは本来の過越の食事においては、決して語られることのない言葉だったからです。26~28節に「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」とあります。パン、これはマツァと呼ばれる、種入れぬパンです。過越の食事中ではこれを食べる時も決まっています。また、杯をとってブドウ酒を飲む時も決まっています。マツァを食べる時もぶどう酒を飲む時も、順番に従ってこの食事の間に何回かあります。過越の食事は、皆の前に食べ物が並べられて、皆が勝手に、好きなように手を出して食べる。楽しくお話ししながら食べる。そういう食事ではありません。ここで、何を食べ、何を祈り、何を賛美するか、全部決まっているのです。それが過越の食事というものなのです。宗教的儀式と言っても良いほどの、宗教的食事だったのです。前の日の、イエス様の頭に香油が注がれた時のような普通の食事とは、全く違います。
そして、この食事で語られなければならないことは、何よりも過越の出来事を含む出エジプトの物語です。これを語ることは家長の責任、この食事を主催する者の責任でした。神様がエジプトからイスラエルを導き出す時に、神様はエジプトに十の災いを下しました。その最後の災いは、エジプト人のすべての初子を撃つというものでした。しかし、イスラエルの家は子羊の血を入り口の柱と鴨居に塗り、そのしるしがある家はこの神様の裁きが過ぎ越して行った。これが過越の出来事です。この時、イエス様はこれから捕らえられ、十字架に架けられて死ぬわけです。十字架の上で血を流されるわけです。その十字架の血が、過越の出来事の時の子羊の血と同じように、神様の裁きを過ぎ越させる。ですから、洗礼者ヨハネはイエス様を「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」(ヨハネによる福音書1章29節)と言ったのです。しかし、聖書はイエス様がこの時に出エジプトの話をしたのかどうか、何も記していません。そうではなくて、イエス様は今日、今の数え方ですと明日ですが、御自身が十字架にお架かりになって死ぬ。この出来事が新しい出エジプトなのだ。わたしの十字架の血によって、多くの人の罪が赦される。そう告げられたのです。この場にいたのは十二人の弟子たちだけです。少しも多くはありません。しかし、イエス様は、この場には居ない多くの者のために、場所を超え、時代を超えて、イエス様を信じるすべての人のために、十字架に架かる。その人のための「罪を贖う子羊」となる。そう宣言されたわけです。ここで語られているのは、新しい出エジプトです。イエス様の十字架によって、新しい神の民、キリストの教会が生まれるのです。イスラエルがずっと過越の食事を守ってきたように、これからはこのパンと杯の食事、聖餐を守り続けるのだ。これが新しい過越の食事なのだ。そう告げられたのです。
弟子たちは本当に驚きました。こんな過越の食事は初めてだったからです。「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか。」と、何とも緊迫感の無かった弟子たちでした。けれども、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」とイエス様に告げられ、この聖餐の制定の言葉に至り、いよいよ容易ならざる事態に至っていることを思い知らされたのではないかと思います。この食事は、和気藹々とした楽しい食卓ではなく、緊迫した食事、緊張した食事だったに違いないと思います。もうイエス様が捕らえられるのは数時間後に迫っているのです。
3.ユダはここに居たか
前回、ユダの裏切りについて見ました。皆さんは、この聖餐制定の場にイスカリオテのユダは居たと思われますか。それとも、この聖餐を制定された時にはこの場から出て行ってしまっていて、もう居なかったと思われますか。これについても、幾つかの説があります。マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書は、ユダがこの場から何時、どのタイミングで離れて行ったのか、何も記していません。唯一、ヨハネによる福音書だけがユダが出ていったときのことを記しています(13章30節)。けれども、そもそもヨハネによる福音書には、最後の晩餐において聖餐が制定されたという場面が記されておりませんので、ユダが出ていったのが聖餐制定の後であったのか、前であったのかは分かりません。私は単純に、イエス様はこの後オリーブ山に行き、ゲツセマネの園で祈られる。そこでユダによって手引きされた祭司長や下役、長老たちが遣わした群衆によって捕らえられるわけです。ですから私は、この聖餐制定の時にはまだユダはここに居て、このパンと杯に与った。そして、イエス様が祈りの場に行くのを確認して、祭司長たちの所に行ったのではないかと思っています。
そんなことはどっちでも良い、そういう人もいるだろうと思います。確かに、どっちでも良いのでしょう。だから、マタイもマルコもルカもその事については記していないのだと思います。しかし、ペトロはイエス様を三度知らないと言う。他の弟子たちもイエス様を見捨てて逃げてしまう。そのような弟子たちにこの聖餐のパンと杯が与えられたのならば、きっとユダにも与えられたのではないか。私はそう考えても良いのではないかと思うようになりました。若い時には私は、ユダはこの場には居なかった、そう考えていました。自分が裏切ることをイエス様が知っていることが分かったのですから、ユダは居たたまれなかったに違いないと思ったからです。また、ユダのような決定的な裏切りをした者が聖餐に与ったということに抵抗があったからです。イエス様を裏切ったと言っても、ユダとペトロ、ユダと他の弟子たちとでは、レベルが違うだろうと思っていたからです。しかし、今はそう思わなくなりました。この場にユダは居なければいけない。否、ユダこそが居なければいけない。そう思うようになりました。聖餐の恵みの圧倒的力と、この聖餐によって受け取るイエス様の愛、イエス様の赦しの徹底性というものに、若い時よりも少し目が開かれてきたからかもしれません。
4.聖餐の意義(1)過去~思い起こす~
私共に与えられている聖餐は、私共の信仰の眼差しを過去・現在・未来へと向けさせます。
第一に、過去へと眼差しを向けさせられます。それはイエス様の十字架の出来事です。そして、私共がイエス様を知らず、それ故神様に敵対していた事実です。神様に造られ、日々の必要のすべてを与えられ、神様の恵みに囲まれて生きているのに、神様に感謝することさえ知らなかった私共でありました。平穏無事であることが当たり前で、何か困難な目に遭えば、神も仏もあるものかと思うような私共でありました。神様の裁きから到底逃れることが出来ない、滅びるしかない、そのような私共のために、イエス様は私共に代わって十字架の裁きを受けてくださったということ。私共はこの驚くべき神様の愛を知らされ、神様・イエス様と共に生きよう、神様・イエス様を愛し、信頼し、従って生きていこうと心に決め、洗礼を受けました。神様と契約を結びました。この契約を思い起こすのです。27~28節でイエス様が告げられた「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」この御言葉によって、イエス様が私のために、私に代わって血を流してくださった驚くべき、畏るべき愛の出来事を思い起こし、心に刻むのです。
5.聖餐の意義(2)現在~キリストと一つ~
第二に、この聖餐は私共がイエス様と一つにされていることを思い起こさせます。イエス様は26節で、「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と告げらられました。又、27~28節で「皆、この杯から飲みなさい。これは…わたしの血、契約の血である。」と告げられました。この聖餐において、私共はイエス様の体を食し、イエス様の血を飲むのです。言葉だけを聞けば、何ともグロテスクなことです。しかし、この言葉は実に、イエス様がパンとして、ぶどう汁として、私共の中に入ってくださり、私共と一つになってくださっているということを告げています。言葉や概念としてではなく、目に見える形として、視覚・触覚・嗅覚・味覚をも用いて、私の中に入ってくださったことをはっきりと分からせてくださるのです。私共がイエス様と一つにされるのは洗礼によってですけれど、その恵みを聖餐ははっきりと私共に教えてくれるのです。
イエス様と一つにしていただいたが故に、私共は神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る、神の子とされたからです。神様の子は、本来、独り子なるイエス様しかおられません。しかし、そのイエス様が私共一つになってくださるから、私共は神の子とされ、神様を「父よ」と呼ぶことが出来、神様を恐れるのではなく、親しい交わりの中に生きる者としていただいているのです。このことを聖餐は、私共にはっきりと教えてくれます。
6.聖餐の意義(3)現在~私共を一つに~
第三に、このキリストと一つにされている恵みは、共に聖餐に与る私共もまた、一つにされていることを教えます。キリストと一つに結び合わされた者たちの交わりがキリストの体なる教会ですが、この教会の交わりは、みんなで仲良くしましょうと言って仲良くしていく交わりではありません。この交わりは、キリストに繋がることによって生まれた交わりです。生まれも、育ちも、人種も、国も、言葉も、文化も、趣味も、性格も、年令も、経験も、性別も越えて、一つにされる交わりです。勿論、教会に集う人たちが仲が良いのは嬉しいことですし、それに越したことはないでしょう。でも、たとえ人間的にはどんな関係になろうとも、キリストに結ばれて一つであるという恵みの現実は、その根本において壊れることはありません。人と人との交わりは、まことにもろいものです。しかし、そのもろさを持ちつつも、そのもろさを包み込んで、教会は堅固な交わりとして建ち続けてきたし、建ち続けるのです。この交わりの根本には、キリストとの交わりがあるからです。そのことを聖餐は私共に思い起こさせます。
7.聖餐の意義(4)未来~神の国を目指して~
第四に、この聖餐によって私共の眼差しは、神様が備えてくださる将来へと向けられます。神の国の完成、終末へと向けられます。イエス様は29節において、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」と言われました。これは、「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日」が来るということです。父の国、すなわち神の国が来る。そして、そこにおいて私共は共にぶどうで作ったもの、ぶどう酒・ぶどう汁を飲む。それは一緒に食事をするということです。パンとぶどう酒というのは、日本的に言えばご飯と味噌汁のようなものだからです。ここで、神の国の食卓にはパンとぶどう酒しかないのかとがっかりすることはありません。イエス様と共に囲む食卓には何でもあると思いますよ。しかし、ここで告げられているのは神の国の食卓のメニューが何であるか、そんなことではありません。大切なことは、イエス様は神の国において私共と一緒に食事をすることになると約束してくださったということです。イエス様はもうすぐ十字架の上で、この地上での生涯を閉じます。「今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」と言われたのは、そういうことです。最後の食事だと言われたのです。しかし、それで終わりではないとも言われている。それは私共とて同じなのです。私共も、この地上での生涯は遅かれ早かれ閉じなければなりません。死を避けることは誰にも出来ません。しかし、イエス様が復活されたように、イエス様と一つにされた私共もまた復活するのです。イエス様に似た者として復活し、イエス様と一緒の食卓を囲むのです。何と幸いなことでしょう。
私共は、自分の死ぬことなど考えたくありません。また、看取る者とてその事には触れたくない。そういうものです。しかし、その時はやって来ます。そのような時でも、この聖餐に与るならば、私共の眼差しは、自分の肉体の死を超えた命、イエス様と一つにされた者としての命に向けられます。自分の死に対して目をそむけていた私共の眼差しが、肉体の死を越えた命へと開かれるのです。
8.聖餐の意義(5)私共を強めるために
さて、この聖餐は、洗礼と合わせて福音主義教会においては聖礼典と呼ばれ、説教と共に神様が与えてくださった恵みの手段と受け止めてきました。そして宗教改革者カルヴァンは、「イエス様が私共に聖餐という恵みの手段を与えてくださったのは、信仰の弱い私共を強めてくださるためだ。」と述べています。確かに、私共は洗礼を受けてキリスト者として歩み始めても、様々な誘惑に出遭い、その信仰は揺れに揺れてしまうものです。特に、肉体的な痛みや病をはじめ経済的、社会的困難は、私共が本当に神様の愛の御手の中にあるということさえ疑わせます。私共の信仰が厳しく試される時です。或いは、洗礼を受けて信仰の歩みを始めたけれども、いつの間にか日々の生活に追われて信仰がマンネリ化してしまうということもあるでしょう。そのような時も、この聖餐によって私共の眼差しはイエス様の十字架へと向けられ、イエス様と一つとされ、神の子とされていることを思い起こさせるのです。そして、どのような困難があっても、神様が私のために備えてくださっている天の御国、神の国の到来、救いの完成は揺らぐことがないことを思い起こさせます。実に、聖餐に与りつつ、私共は御国への歩みを為していくのです。聖餐は、御言葉と共に、私共の信仰を養ってくれる霊の糧です。霊の糧による養いを受けなければ、私共は霊的な栄養失調状態に陥ってしまいます。自分が何者であり、どこに向かって歩んでいるのか分からなくなってしまいます。そうならないように、私共は聖餐に与り続けて歩んで行くのです。
9.信仰をもって与る聖餐
しかしこの聖餐というものは、それに与る者に信仰が無ければ、それはただのパンであり、ただのぶどう汁に過ぎません。それは、教会に来て初めての人が聖餐に与ったとしても、今申しましたような、過去・現在・未来に眼差しを向けるということは起きませんし、何がありがたいのかも分からないでしょう。ですから、教会は洗礼を受けた者だけがこれに与ることにしているのです。聖餐は、過越の食事と同じように極めて宗教的な食事だからです。新しい過越の食事だからです。過越の食事が、食べる順番も、祈ることも、賛美することも決まっていたのと同じように、聖餐もまた、それに与る手順はそれぞれの教会において決まっています。しかし、そうは言っても、その人に信仰があるかどうか、誰に分かるのでしょうか。それは神様にしか分かりません。ですから、人間である私共は、洗礼を受けているという目に見える所において判断するしかないのです。洗礼によって神様と契約を結んだ者が、その契約を更新するのが聖餐だからです。
洗礼と聖餐は「見える御言葉」と言われ、説教は「聞く御言葉」と言われてきました。共に同じ主イエス・キリスト御自身を指し示し、主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みを私共に差し出してくれるからです。この「御言葉」には与り続けることが大切です。説教を一度や二度聞いてもよく分からないでしょう。何度も何度も聞いていくうちに、私共の霊の耳が作られてきて、神の言葉を神の言葉として聞くことが出来るようになるわけです。聖餐も同じです。何度も何度も与り続ける中で、キリストの体、キリストの血として与ることが出来るようになっていくのです。
この「見える御言葉」と「聞く御言葉」との関係において大切なことは、「見える御言葉」は「聞く御言葉」と共にあるということです。「聞く御言葉」としての説教によって信仰が起こされ、その信仰をもって聖餐に与るわけです。勿論、それを可能にしてくださるのは聖霊なる神様御自身です。聖霊なる神様のお働きなくして、説教は説教とはならず、聖餐は聖餐となりません。私共は自由に働かれる聖霊なる神様の御業の中で、キリスト者として生かされ、歩んで行くのです。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、私共に、イエス様が最後の晩餐において為された聖餐制定の御言葉を与えてくださいました。この聖餐によって私共の信仰が新しくされ、強められ、御国に向かっての私共の足取りがいよいよ確かなものされることを教えてくださいました。ありがとうございます。私共のために御子を与えてくださいましたあなた様の愛は、どんな時にも揺らぐことはありません。どうか、私共の信仰も揺らぐことなく、喜びと感謝と賛美をもって、あなた様が与えてくださいましたこの地上での一日一日を歩ませてください。
私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2020年10月11日]