1.はじめに
私共は今日、先に天に召された愛する者たちを覚えて、召天者記念礼拝を捧げております。この召天者記念礼拝には長い歴史があります。ローマ・カトリック教会では、少なくとも8世紀には11月1日を「諸聖人の日」として、殉教者や聖人を覚えて礼拝しておりました。しかし、宗教改革によって私共の教会は、聖人というものを聖書が教えているように「すべてのキリスト者」と理解するようになりましたので、この日は先に天に召されたすべてのキリスト者を覚える日となりました。今年はたまたま11月1日が主の日となりましたけれど、中々そういう年ばかりではありませんので、私共の教会は11月1日の前の主の日に召天者記念礼拝を守ることにしているわけです。11月の第一の主の日に召天者記念礼拝を守っている教会も多くあります。
ちなみに最近、渋谷の街に仮装をしたたくさんの人が出ることで有名になりましたハロウィン。「今年は渋谷に来ないでください。」と渋谷区の区長さんが言っていましたが、これは10月31日です。これも「諸聖人の日」と関係があります。「諸聖人の日」は英語では、「オール・セインツ・デー」と言いますが、別名「ハロウ・マス」とも言います。「ハロウ」は聖なるもの、「マス」は祭という意味です。キリストの祭がクリスト・マス=クリスマスと言うのと同じです。この「ハロウ・マス」の前夜が、ハロウ・イブでこれがハロウィンとなりました。この日、この世とあの世との間の「門」が開き、あの世とこの世の行き来が出来ると信じられていました。もっとも、これは古いケルト人の祭りで、キリスト教の祭りとは言えませんし、クリスマスのように全世界で守られているわけではありません。
2.皆、変えられた者
皆さんのお手元に、私共が今日覚えて礼拝している、先に天に召された方々の名簿があるかと思います。昨年の召天者記念礼拝以降、2名の方(M・Kさん、N・Hさん)が加えられました。
この名簿には、若くしてこの地上の生涯を閉じた方もおられますし、長寿を全うされた方もおられます。キリスト者の家に生まれて若い時に信仰を与えられた方もおられますし、晩年になって信仰を与えられた方もおられます。先の大戦を経験された方もおられますし、戦後に生まれた方もおられます。神様は、私共一人一人に命を与えられ、この地上での生涯を導かれます。そして、時が至ればその生涯を閉じられる。私共はその時を決めることは出来ません。それをお決めになるのは神様です。この神様が与えられる地上の生涯は、誰一人として同じではありません。
しかし、主イエス・キリストを我が主、我が神と信じる信仰を与えられた者は、全く違った時代に、全く違った場所で、全く違った人生を歩んでおりながら、全く同じところがあります。それは、主イエス・キリストを信じることによって、変えられたということです。性格が変わったとか、生き方が変わったとか、それぞれが様々なところで変わるのですけれど、共通して変わったところ、変えられたところがあります。それは、生きる意味や目的、そして希望が変わったということです。喜びや誇りも変わります。つまり、人間としての根本が変わるのです。勿論、それが傍目にも明らかな方もあるでしょうし、見た目にはよく分からないという方もいるでしょう。しかし、すべてのキリスト者はここにおいて、信仰が与えられる前と後では、はっきりと変えられるものなのです。
使徒パウロはこのことを、自分自身のこととしてこう告げております。フィリピの信徒への手紙3章5~8節です。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」イエス様に出会うまでのパウロは、生粋のユダヤ人としてその生まれを誇り、律法を守ることを誇り、自分は神様の御前に正しい者であると誇っておりました。ユダヤ人のエリートである自覚と誇りを持っていました。そして、彼はその誇りの故にキリスト教徒を迫害していました。しかし、イエス様に出会い、イエス様の救いに与り、自分が誇りとしていたそれらのものは「塵あくた」だ、ゴミだ、何の価値もないものだ、そう思うようになったというのです。
イエス様の救いに与る前、私共もそうでした。目に見える何かを誇りとして、自分はなかなかの者だと思っていた。そう思わなければ自分に自信が持てないし、誇ることが何もないなんて惨め過ぎるからです。しかし、イエス様というお方と出会って、無理して「自分はこんなに価値のある者だ」と自分に言い聞かせ、誇る必要などないと知りました。なぜなら、神様が、イエス様が、自分を徹底的に愛してくだっていることを知ったからです。神様が私を愛してくださっているのは、自分がこれだけ頑張ったからでもなく、業績を残したからでもなく、優しいからでもなく、能力があるからでもなく、真面目だからでもなく、勿論、容姿が美しいからでもない。何の条件もなく、神様は私を徹底的に愛してくださっている。そのことを知らされたのです。だから、もう鎧を着る必要はなくなったのです。この神様の愛を知らされた者が、キリスト者です。そして、この神様の愛を知れば人は変わるのです。神様の愛の中に生かされている平安の中で、その根本から変わるのです。生きる意味や目的、そして希望も喜びも誇りも変わるのです。
3.為すべきことはただ一つ:目標を目指して走る
そして、そのように変わってしまったキリスト者の歩みを貫くものがあります。それをパウロは、13節bで「為すべきことはただ一つ」だと告げるのです。これはドキッとさせられる言葉です。私共は、あれもやらなければ、これもやらなければ、まだあのことも終わっていない、そんな風に心を乱しながら日々の生活をしているでしょう。仕事をしていても、家事をしていても、そうです。牧師だって例外ではありません。私などは、いつでもお尻に火がついたような状態で、やらなければならないことに追われています。そのような私共に、聖書は「為すべきことはただ一つ」だと告げるのです。そして、そのただ一つのこととは「目標を目指してひたすら走ること」だと告げるのです。
私共の人生には「目標」があるのです。キリスト者は、この目標を与えられた者なのです。目標がなければ、私共は走ることはしません。しかし、キリスト者は目標を与えられました。それは、目に見える何かを手に入れるというような目標ではありません。イエス様を知る前にも、私共はその時々に取りあえずの目標を持っていたでしょう。子どもや青年ならば、受験や就職ということでしょうか。結婚すれば子育て、仕事をすればその仕事における目標というものもあるでしょう。しかし、それは取りあえずの目標です。聖書が告げる目標は、すべてのキリスト者に生きる意味や希望が与えられる目標、人生のすべてをそこに向けて歩んで行く目標です。それは11節に「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」とありますように、「復活に達する」ということです。これが、イエス様によって救われたすべてのキリスト者に与えられた、この地上の生涯を貫く目標です。この召天者名簿にある方々は、この目標を与えられて地上の馳せ場を走り抜いた者たちなのです。
キリスト教信仰というものは、その救いに与った者たちを「走らせる」ものなのです。じっとしたままでいられなくするのです。しかし、宗教というのはもっと穏やかで、静かで、何事があっても動ぜず、明鏡止水の境地に至るものなのではないか。そんなイメージを持っている人もいるかもしれません。そのように思っている人には、キリスト教は期待外れになります。或いはそのようなキリスト者もいるのかもしれませんけれど、私は知りません。イエス様に救われたキリスト者は、復活という目標に向かって走り出す。この走りは短距離走ではありません。自分の地上の生涯が閉じられるまで走り続けるのです。勿論、肉体的に走るわけではありません。心がいつもそこに向かっている。その希望に生かされているということです。この目標に向かって人生を走り抜いていくのです。
そしてパウロは、その走り方を「賞を得る」ような走りだと言います。学校の運動会でも、オリンピックでも、賞を与えられるのは1番から3番までとか、他の人との競争に勝った人だけです。しかし、この「復活に与る」という賞は、他の人と競って勝った者に与えられる賞ではありません。復活という目標を目指して人生という馳せ場を走り切った、すべての人に与えられる賞です。自分以外の人と比べて、自分の方が速いとか、遠くまで来たといって競うものではありません。この戦いは、自分自身、或いは自分自信の罪と戦うものです。この自らの罪との戦いという日々の歩みが、復活という目標を目指して走るということなのです。
4.苦しみに与って
さて、ここにはもう一つ、私共の信仰の常識に反するようなことが記されています。10節です。「その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、」と告げられています。私共は、神様を信じて、神様に祈って、信仰者として歩むならば、辛いこと・困難なこと・苦しいことには遭わない。そう思っているところがあるかもしれません。しかし、イエス様の一番弟子のペトロは殉教しましたし、この手紙を書いたパウロも殉教したと言われています。何よりも、イエス様御自身が、十字架の上で死なれたのです。ということは、キリスト教というものは、それを信じても、辛いこと・困難なこと・苦しいことには遭わないということを約束するものではないということです。パウロは、キリストの「苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら」と言うのですから、困難はある。苦難もある。悲しいこともある。しかし、復活を目指して走る中で出遭う苦難・困難・悲しみは、私共がキリストと一つにされていることを意味するのです。キリストは十字架の上で死なれ、三日目に復活されました。十字架無しの復活はありません。この名簿に記された方の生涯も、いつも順風満帆であったわけではありません。辛いこと・困難なこと・苦しいこともあったでしょう。しかし、たとえそうであっても、いや、そうであればこそ、私共は復活の恵みに与ることになるのです。
5.まだ得ていないから
パウロという人は、自分の書いた手紙が聖書に収められているほどの人ですから、大変偉い人であるに違いありません。もっとも、パウロ自身は自分が書いた手紙が聖書に収められるとは考えてはいなかったでしょうけれど。二千年のキリスト教の歴史の中で、立派な人はたくさん現れました。しかし、聖書を越えるほどに立派な人、偉大な思想家が現れたことはありません。皆、聖書に基づいて生き、思索した人々です。その意味でも、パウロという人は大変な人なのですけれど、その彼が12節「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」と告げています。つまり彼は、「もう自分は完全になったとか、もう復活したとか、そんなことは全くない。」と言っているわけです。キリスト教では、信仰がどんどん深くなっていき、その結果、完全な人になるということは決してありません。パウロでさえそうなのですから、私共は皆そうです。皆、赦された罪人でしかないからです。例外はありません。皆、欠けがあるのです。罪を犯すのです。
ただ、時々勘違いする人が出てきます。「私は完全に罪を犯さないほどに浄くなった。」とか言う人が出てきます。この手紙が書かれたフィリピの教会にもそのような人が現れたようです。それでパウロは、「私はそんなことはない。捕らえようと努め続けているだけだ。」と言って、この地上において自分たちの救いが完成するというような考え方は、完全に勘違いなのだと告げたのです。この名簿に記されている人々も、皆、復活を目指してこの地上での歩みを為しましたけれど、皆、欠け多き人々でした。近くで生活されていた遺族の方々は、よく知っておられると思います。しかし、欠けがあろうと、なお罪を犯そうと、それでも目標を目指して走り抜いた者は、必ず復活という恵みに与ります。それがキリスト者に与えられる救いの完成です。それが与えられるのは終末の時、イエス様が再び来られる時です。こう言っても良いでしょう。私共は、地上の歩みにおいて復活という目標を目指して走るけれども、それはこの地上の生涯において達成することが出来ない。しかし、この地上の生涯をこの目標を目指して走り抜いた者は、皆、復活の恵みに与ることになるのです。
6.後ろのものを忘れて
復活という目標を目指して走る時、私共は「後ろのものを忘れて」走ります。後ろのものとは、イエス様の救いに与る前に心引かれていたものであったり、大切だと思っていたものであったり、誇りとしていたものです。それらのものが、自分が救われるためには何の役にも立たない、復活に至るのには全く意味がないということを知ったのですから、再びそれらに心引かれないように生きなさいと言うのです。パウロにとっての「自分の誇り」は、自分がユダヤ人であり、律法を守る者だということでした。その誇りの故に、ユダヤ人以外を汚れた者として見下し、律法を軽んじていると言ってキリスト者たちを迫害していたのです。この「自分の誇り」というものは、私共にしてみれば、真面目に生きてきたとか、こんな仕事をやり遂げたとかというようなことになるでしょうか。或いは、最近「日本人としての誇りを持て」などという言葉も聞きます。しかし、私はこう考えています。私共が日本人であるということは、事実であって、特に誇りとするようなことではないのではないか。といいますのも、自分は〇〇である、△△を成し遂げたという誇り、つまり「自分の誇り」というものですが、これはそれを持っていない人、或いはそれと違う人に対して、見下したり、排除したりする心を働かせてしまうことがしばしばあるからです。ナショナリズムというものはその典型です。私は日本人ですから、日本か好きですし、良い国だと思います。日本の風景を見ていると心が和みます。それは当たり前のことでしょう。そもそも、私は他の国に住んだことがありません。それなのに、日本人じゃない人を見下したり、排除したり、差別したりするのは間違いでしょう。聖書は「誇る者は主を誇れ」と教えています。自分の持っている何かを誇るのではなくて、私を愛してくださっている神様・イエス様を誇るのです。それが、後ろのものを忘れて走るということです。
7.捕らえられている
では、どうしてキリスト者は復活という目標を目指して走り続けるのでしょうか。別に走らなくても良いじゃないかと思われる人もいるでしょう。正直に申しますと、私にもよく分からないのです。別に「走り続けなければいけない」と思っているわけでもありません。気が付いたら、走っていた。そんな感じなです。そもそも、この「復活を目指して走る」というのは、よく考えると変な言い方です。だって、復活は私共が努力して手に入れることが出来るものではないわけです。しかも、この地上の生涯においてはそれを手に入れることが出来るわけでもありません。とするならば、どうしてそれを求めて走り続けるのか。別に走らなくても良いじゃないか。そのように考える人もいるでしょう。しかし、キリスト者は走るのです。
パウロは12節でその理由をこう告げています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」自分がキリスト・イエスに捕らえられている。これなのです。イエス様に救われたということは、イエス様に出会ってしまったわけです。神様など全く無視して生きていたにもかかわらず、私が神の子とされて新しい命に生き、復活の命に与ることが出来るように、私のために十字架の上で自らの命を捨てられた方がいた。主イエス・キリストです。私はこれほどの愛を知りませんでした。これほど徹底した、これほど激しい、これほど深い、これほど広い、これほど優しい愛を受けたことはなかった。皆さんの中に、「イエス様以外に、自分のために死んでくれた人がいた」という人がいるでしょうか。私にはいません。愚かで、身勝手で、傲慢な私のために、命を捨ててまで愛してくださったお方。それが主イエス・キリストという方です。この方の愛を知った時、私もまた、この方を愛する者になってしまったのです。この方をもう悲しませたくない、この方と一緒に生きていこう、そう思ったのです。それがパウロが言う「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」ということです。召天者名簿にある人々は皆、このイエス様の愛・神の愛を知り、この愛に生かされ、この愛と共に生きた人たちです。そして、このキリストとの愛の交わりは、私共に永遠というものへの眼差しを与えます。キリストが永遠に生きたもうお方だからです。復活を目指して歩むとは、この永遠への眼差しを与えられた者として生きるということなのです。
私は伝道者になって34年になります。先ほども申し上げましたけれど、いつでもお尻に火がついたような状態で、次から次へと締め切りに追われながら生きてきました。それはのんびり歩いてきたような日々ではありませんでした。いつも走っているような日々でした。今もそうです。私にはそれ以外に生きようがなかった。キリストに捕らえられてしまったからです。キリストを愛しているからです。神様の御業に仕えることこそ、何よりの喜びだからです。先に召された愛する兄弟姉妹もまた、そうだったのです。
8.知られている
詩編の詩人はこう歌いました。56編9節「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」この祈りは代々の聖徒たちの祈りです。この詩編の詩人は、具体的には分かりませんけれど、とても苦しい、困難な状況にあったのでしょう。この本当に困り果てた状況のただ中で、詩編の詩人は神様の御前に立ち、訴えるのです。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」あなたは御存知ではありませんか。私がどんなに苦しいか、どんなにひどい目に遭っているか、あなたはすべて御存知ではないですか。私の流した涙を、一粒残らずあなたの革袋に入れてください。あなたが知っておられる、それが私の支えです。慰めなのです。あなたが知ってくださっているから、あなたは必ずその全能の御手をもって、私の敵を退けてくださるでしょう。私を救ってくださるでしょう。56編12節「神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。」とあります。私が信頼するのは、あなただけです。あなたは必ず救いの御業を為してくださいます。そのことを私は信じています。その日を私は待ち望みます。主よ、憐れんでください。代々の聖徒たちは、そう祈りつつこの地上の生涯を歩み通したのです。
すべてを御存知であり、全能の力を持ち、私共を徹底的に愛してくださっている神様。この方を信頼して、私共の愛する兄弟姉妹は、この地上の生涯を走り抜いて行かれました。私共の肉体の死を超えて、主なる神様の御支配は永遠に変わることがありません。今、先に天に召された愛する者たちを覚え、眼差しを天に向けたいと思います。そして、この神様との交わりを与えられたことを感謝して、共に祈りを捧げましょう。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今日、あなた様は私共に、この地上にあってあなた様への信仰を与えられ、今はあなた様の御許に召された、愛する者たちを覚え、礼拝を捧げさせてくださいました。感謝します。皆、あなた様に愛され、あなた様によって変えられ、復活を目指してこの地上の生涯を走り抜いて行きました。どうか、私共もまた、先に召された方々と同じように、しっかりと自分の人生の目標を見据えて、右にも左にも逸れることなく、一筋にこの道を歩ませてください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2020年10月25日]