1.はじめに
今日からアドベントに入ります。今週の土曜日に行われる予定だった富山市民クリスマスや刑務所のクリスマスは、今年は休会となりました。コロナ禍のためです。また、火曜日に名古屋で執行されます按手礼ですが、これは秋の教団の正教師試験(これも一会場に集まることは難しいと判断され、全科目レポート提出となりました。そして、面接はリモートで行われました。)に合格された方がここで按手を受け、正教師となります。私もそうでしたが、正教師試験を受験する補教師の方々の背後には、合格することを願い、祈っている教会があります。正教師にならなければ、洗礼・聖餐の執行が出来ないからです。「先生が正教師になったら受洗します。」と言う求道者が待っている者もいます。按手礼は、正教師の誕生というまことに喜ばしい場です。そして、全体教会である日本基督教団がキリストの体であることが明らかにされる場であり、教会がその権能を行使する場です。教会以外に、教師を生み出すことは出来ないからです。この正教師の按手礼というのは、その場にいる正教師がみんな出てきて、按手を受ける教師の頭に手を置いて祈るわけです。一人の頭に手を置けるのは5、6人ですけれど、数十人の牧師が出席していますから、手が届かない牧師は前の人の肩に手を置いて、数珠つなぎのようになります。ぎゅうぎゅう詰めです。今回、コロナ禍の中で、そのような通常のあり方で良いのかという議論がありました。結論としては、その時はみんな喋るわけではないので良いのではないかということになりました。当然、按手礼の後の茶話会は無しということになりました。私も車で行って、食事もせずに戻ってくることにしています。今まで普通に行われていたことが一つ一つ、コロナ禍の中での対応を求められています。感染の第三波が来たのではないかと言われ、都会では医療機関の逼迫した状況が報道されています。そういう状況にあって、私共は2020年のアドベントを迎えました。
2.救いは近づいている
そのような私共に今朝与えられたのは、ローマの信徒への手紙13章の「救いは近づいている」という御言葉です。経済が回らない。コロナの感染が世界中で治まらない。そのような状況にあって、聖書は私共に告げるのです。「救いは近づいている」と。しかしそれは、12節a「夜は更け、日は近づいた。」というあり方においてです。夜明けが近づいて東の空が明るくなってきたということではありません。夜は更けているのです。イメージとしては、深夜の午前2時とか3時でしょう。真っ暗です。でも、夜明けは確実に近づいている。この闇はいつまでも続かないことを、私共は知っているからです。やがてイエス様が再び来られることを知っているからです。
私共はイエス様を「我が主・我が神」と信じて、一切の罪を赦され、神様の子としていただき、救われました。しかし、まだその救いが完成されたわけではありません。ですから、言わなくて良いこと、或いは言ってはならないことを言ってしまったりする。そんなつもりではないけれども、近しい者を傷つけてしまう。そういう事がある。しかし、やがて私共の救いは完成します。それが夜明けです。闇の夜が明けて、全き光であられる神様の御前にすべての闇が退き、神様の完全な御支配が現れる。神の国の完成です。その日が近づいている。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている。夜は更け、日は近づいた。」と告げられているように、少なくとも、私共が救われた時よりも、私共に信仰が与えられた時よりも近づいている。それは確実なことです。昨日より今日の方が、一日分近づいてる。去年より今年の方が、一年分近づいてる。それは確かなことでしょう。私共はややもすると、夜が更けたような深い闇の中を歩んでいるうちに、イエス様が来られるその日に向かって自分が生かされているのだということを忘れてしまいます。しかし、聖書の御言葉は、繰り返し繰り返し、そのことを私共に思い起こさせるのです。
それが、私共が生かされている「今という時」です。聖書は11節a「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。」と告げます。キリストを知らない人は、この「今という時」がどんな時なのかを知りません。しかし、すべてのキリスト者は知っているのです。この「今という時」は、現代の世界情勢における「今という時」ではありません。また、世界史的に「今という時」がどんな意味を持つのかということでもありません。キリスト者は時事評論家でも、政治評論家でも、文明評論家でもありません。ですから、そんなことは分かりません。また、そのようなことについて信仰に基づいた一定の見解がキリスト者にはあるということでもありません。しかし、私共はイエス様に救われた者として、世のどのような見識ある人たちであろうとも全く知らない、「今という時」を知っています。それは、イエス様が再び来られる日に向かって一日一日と近づいていっている時だということです。今とはそういう時なのです。
アドベントとは、ラテン語の「advenio」:「来る、到来する」の名詞「adventus」が語源です。何が来るのかと言えば、再臨のイエス様です。キリストの教会は、イエス様が再び来られる日を待ち望む「今という時」を知っている者として、そのことを心に刻む時として、毎年クリスマスの前の4回の主の日を含む期間を「アドベント」として守ってきました。
3.品位を持って
では、イエス様が再び来られることを知っている者として歩む私共は、日々どのように歩めば良いのでしょうか。聖書は13節「品位をもって歩もう」と告げます。口語訳では「つつましく歩こう」と訳されていました。私はこの訳には違和感がありました。「つつましく」という言葉を辞書で調べますと「(1)動作や様子が、おとなしく遠慮深げであるさま。(2)暮らしなどが質素で、贅沢をしないさま。」とあります。これは聖書がここで告げていることと、ちょっと違うと思います。新共同訳では「品位をもって」と訳しました。しかし、これもどうかなと思います。「品位」という言葉は辞書では「人や事物にそなわっている気高さや上品さ。」とあります。ちょっとこれも誤解されないかと心配します。勿論、おとなしく遠慮深げであることも、暮らしが質素であることも、気高く上品であることも、キリスト者の姿として悪いとは思いません。しかし、聖書がここで告げていることとは少し違います。聖書がここで告げているのは「良い姿で」「美しい姿で」歩こうということです。何が美しく、何が良い姿なのかと言えば、それは「相応しい姿で」ということです。相応しい立ち振る舞いが出来る。それが美しいのです。そして、その相応しくということは、私共キリスト者にとっては、イエス様が再び来られることを知っている者として「相応しい姿で」ということです。イエス様が来られるのです。そのことを知っているのです。だから、その時に本当に価値のあるものは何なのか、その事をよく弁えた者として相応しく生きるのです。見えるものはすべて過ぎ去り、滅んでいきます。しかし、イエス様が来られる時にもなお、価値あるものとして残るものがある。それは信仰であり、希望であり、愛です。だから、それが大切なのです。私共はその事を知っている。だから、それを本当に大切にするんです。自分のプライドや名誉や財産や欲を満たすことは、過ぎ去るものです。消えていくものです。この「過ぎ去るもの」と、「いつまでも残るもの」とを弁えて、それに相応しく立ち振る舞う。
聖書はそれを具体的に13節b「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」と言います。別に、宴会はいけない、禁酒しなければいけないと言っているのではありません。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」というものは、自分を欲で振り回し、自分を見失わせるものだと言われているのす。それは美しくないのです。酔っ払って家に帰ってきたお父さんの姿を見て、美しいと思う人はいないでしょう。みっともないと思う。それがたまたまならば、こういう時もあるかで済むでしょうけれど、これが毎日のようになりますと、飲酒運転とか、DVとか、もっと大変なことの引き金となるでしょう。聖書は14節b「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」と告げるのです。この「肉」には「罪」という意味があります。つまり、自分の欲を満たすことを第一とすると、自分の罪に心を用いて、神様に心を向けなくなってしまう。それは、イエス様が再び来られることを待ち望んで歩む者には相応しくない、美しくないということなのです。人にどう見られるかではありません。そうではなくて、今という時を弁え、それに相応しく、為すべき務めに励む、美しいキリスト者でありたい。私はそう思うのです。
4.主イエス・キリストを身にまとい
このようなキリスト者の歩みについて、聖書は14節a「主イエス・キリストを身にまといなさい。」と告げます。素敵な言葉です。「キリストを身にまとう」。本当にそうありたいと思います。これこそ美しいキリスト者の姿でしょう。キリストを身にまとう。口語訳では「キリストを着る」と訳されていました。この言葉には二つの面があります。
第一には、キリストに覆っていただくということでしょう。まことに罪深い私共の姿を、イエス様の十字架によってすっぽり覆っていただいて、神様が、私共を罪赦された者、神の子として見てくださる。その神様の御前における救いの現実を示している言葉です。ガラテヤの信徒への手紙3章26~27節ではそのような意味として使われています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」はそのことを指しています。
しかし、このローマ13章14節で告げられているのは、もう一つの側面です。それは、キリストに救われた者として相応しい歩みを御前に為していくということです。12節b「だから、闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着けましょう。」と言われていることです。キリストをまとう、キリストを着るとは、光の武具を身に着けるということです。光の「武具」ですから、戦うための装いということです。では何と戦うのかといえば、罪と戦う、悪しき霊力と戦うということでしょう。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」といった闇の業を捨てるために戦うということです。光の武具を身に着けて、キリストを身にまとって、光の業に生きるのです。洗礼を受けて、キリストに包まれて一切の罪を覆っていただいた者は、キリストをまとった者として、光の業に生きる。この第一のことと第二のことを分けることは出来ません。キリストの十字架によって、一切の罪を赦していただきながら、まるでそんなことが無かったかのように、イエス様の救いに与る前と同じように、自分の欲に引きずられて、自分の欲を満たすためだけに生きる。そんなことは出来るはずがない。なぜなら、それはイエス様の十字架を無駄にすることだからです。
5.アウグスチヌスの回心
この聖書の箇所は、アウグスチヌスが回心する時に読んだ聖書の箇所として有名な所です。西方教会において最も偉大な神学者は誰かと問われれば、多くの人がアウグスチヌスの名を挙げるでしょう。宗教改革時代、改革者たちもローマ・カトリック教会の人々も、自分たちの正しさの根拠として一番多く挙げていたのがアウグスチヌスでした。彼は4世紀から5世紀にかけての神学者です。彼は神学的自伝といわれる『告白録』という本を書きました。その中に記されているのですが、彼は19歳から28歳までの9年間、演劇やスポーツなどに情熱を傾け、友人仲間としばしば馬鹿騒ぎをしていました。18歳の時からある女性と同棲を始め、子どもまでもうけましたが、この女性と別れています。哲学の世界に引かれ、また宗教に関しては、当時キリスト教と人気を二分していたマニ教という宗教の信徒となっていました。さらに、占星術にも興味を持っていました。こう見て来ますと、教会がダメと言うことを全部やったみたいな青年期を彼は過ごしていたわけです。しかし、熱心なキリスト教徒だった母モニカの粘り強い祈りと願いがありました。また親友の突然の死と病の床での洗礼(今の病床洗礼です)などがあり、キリスト教徒との出会いもありました。そしてある時、「取って読め」という子どもたちの歌う声が外から聞こえて来た。これを神の啓示の声として彼は聞くのです。そして、聖書を手に取って読んだ。それがこの箇所でした。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」彼はこの言葉に打たれました。そして、回心するのです。彼は、ミラノのアンブロシウスという司教から洗礼を受けました。32才の時です。彼は才能豊かな青年でしたが、それまで自分の生きるべき道が見つからなかったのでしょう。そして、聖書の言葉に打たれて回心した。それは、不思議な神様の御業としか言いようのないことでした。その後、彼はキリストを身にまとった者として生き直し、北アフリカのヒッポの司教として牧会し、伝道し、教会を指導し、異端と戦い、多くの書を残して、76才で天に召されて行きました。彼の眼差しは、回心の時以来、御国へと向けられていたことでしょう。
6.終わりの日を目指して
旧約において、やはり御国を見て預言をした人がいます。イザヤです。彼はイザヤ書1章1節にありますように、「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ」の時代、約40年にわたって預言者として神様の言葉を伝えました。イザヤ書の1章から39章がその時代に預言された言葉と考えられています。この時代はアッシリアが台頭し、メソポタミアから中東にかけて、更にはエジプトまで支配する、世界で初めての世界帝国を建てていく時代です。このアッシリアによって、紀元前722年に北イスラエル王国の都サマリアが陥落します。その勢いは南のユダ王国に及ぼうとしていました。当時、南ユダ王国の都エルサレムには不法がはびこり、孤児や寡婦といった弱い者たちは守られることもなく、捨てられていました。この国家存亡の危機という時代にあって、人々は自分の利益ばかりを追い求め、貧富の差は拡大し、社会正義は失われ、神殿礼拝は形式化し、異教が蔓延していました。神の民としての体(てい)をなさなくなっていたのです。イザヤは悔い改めることを告げます。そうしなければ神様の裁きの前に滅びると告げます。しかし、王も民もイザヤの言葉を聞こうとはしません。そして、遂にアッシリアのセンナケリブによってエルサレムは包囲され、風前のともしびとなります。この時、奇跡的にエルサレムは陥落することを免れます。そして、名ばかりの独立を維持します。しかし、エルサレムの支配者たちの有りようは何も変わりませんでした。
そのような中で、イザヤは「終わりの日」の幻を神様から与えられたのです。神の民の体を失ったエルサレム。しかし、「終わりの日」には世界中から人々が来て、神殿に向かう。主の教えが、御言葉が、エルサレムから告げられるようになる。そして2章4節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」と告げます。イザヤの目の前に広がっているのは、強大な武力によって踏みにじられたエルサレムの姿です。しかし、そのイザヤに「終わりの日」の幻が神様によって見せられたのです。これは、主イエス・キリストが再び来られることによって与えられる神の国の姿でしょう。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」という言葉は、国連本部に刻まれているそうです。国と国が争い、強大な武力を持つ者が世界を支配する。それが歴史の現実なのかもしれません。それ故、軍備を拡張する競争、軍拡競争が果てしなく続く。イザヤの眼は、その結果アッシリアに破れた祖国を見ている。しかし、神様がイザヤに見せたもう一つのビジョン、幻がある。それがこれです。「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。」そんな時代は来ない。そう思ったなら、国連は意味を失ってしまいます。そして、なおこの状況の中で希望を持って生きるということが、人間には出来なくなってしまうでしょう。希望が無ければ、人は、人類は生きられない。
私共は現実の歴史のただ中に生きています。ですから、否応なく悲惨な現実が目に飛び込んできます。しかし、私共はそれだけを見ているのではありません。それでもなお、やがて「終わりの日」が来る。その日を待ち望みつつ、その日に向かって、今という時を生きる。それがキリスト者です。それが毎年毎年、どんな時でも、戦争があっても、地震があっても、疫病が流行っても、まさにコロナの感染が厳しくなってきても、アドベント(=来る)という時をキリストの教会が守ってきた意味なのです。
7.光の中を歩もう
イザヤは5節「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」と告げました。それは、まだ闇が覆っている。しかし、主のもとには光がある。歴史を支配し導かれる神様が、「終わりの日」を備えてくださっている。その神様の御支配のもとから、光が来る。希望の光が差し込んでくる。その光の中を歩もうと告げるのです。この「主の光の中を歩もう」は、パウロが告げた「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」と重なります。闇が覆う現実がすべてではないことを私共は知っています。既にイエス様の救いに与ったからです。イエス様が再び来られることを知っているからです。そのような者として、キリストをまとって、今という時を歩んでまいりたいと思います。
今日は、この後、一人の姉妹が私共の群れに加わる転入式が行われます。嬉しいことです。共に御国を目指して歩む者として、祈り合い、支え合い、励ましあって、光の中を歩んでまいりたいと願うものです。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
アドベント第一の主の日、あなた様はイエス様が再び来られる日を待ち望みながら、今という時を生きるようにと教えてくださいました。ありがとうございます。日々の歩みの中で暗いニュースにばかり囲まれ、いつまでこのような状況が続くのだろうかと不安になる私共です。しかし、私共にはあなた様が備えてくださった明日があります。「終わりの日」があります。イエス様が再び来られます。その日を目指して、イエス様を身にまとい、イエス様の救いに与った者として相応しく、肉に心を用いるのではなく、あなた様の御業に仕えることに心を使って、健やかに御前を歩む者であらしめてください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2020年11月29日]