1.はじめに
アドベント第2週に入りました。今年はコロナ禍の中、「子どものクリスマス会」は行いませんが、午前と午後に行われるクリスマス記念礼拝の間に、CSの子どもたちのページェントとトーンチャイムの演奏を予定しています。子どもたちの土曜練習も始まっています。今年は見る方は教会の方しかおりませんので、午前の礼拝に出る方は祝会はありませんけど少し残られて、また午後の礼拝に出る方は少し早く来られて、ぜひ見ていただければと思います。
今朝与えられた御言葉であるイザヤ書11章にはキリストの誕生の預言が告げられています。イザヤは紀元前7~8世紀の預言者です。ですからイザヤの預言からイエス様の誕生まで、実に700年もの間、イスラエルの民は救い主を待ち続けたのです。それだけではありません。イエス様がお生まれになり、十字架に架かり、三日目に復活され、40日後に天に昇られて以来、2000年にわたってキリストの教会はイエス様が再び来られることを待ち続けてきました。イザヤの時から言えば、2700年もの間待ち続けてきた。そして、今も待っています。気が遠くなるような長さです。それでも待っている。それが神の民です。アドベントを迎えるたびに、私はこのことを改めて思うのです。半年、一年、二年の間だけ待つという話ではありません。何千年もの間待ち続ける。そこには何かがなければなりません。何かがあるはずです。何もなくて、何千年もの間待ち続けるなど出来るはずがありません。その神の民の持っている何かとは、希望です。今朝は、この私共に与えられている希望について御言葉を受けていきたいと思います。
2.エッサイの切り株から
イザヤ書11章1節はこう始まります。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」ここで「株」と訳されております言葉は「切り株」のことです。讃美歌21の248番でも「エッサイの根より 生いいでたる、預言によりて 伝えられし バラは咲きぬ。…」と歌われている、とても有名な御言葉です。旧約における代表的なキリスト預言の御言葉です。エッサイというのはダビデ王の父です。ダビデ王はエッサイの息子です。ダビデは全イスラエルの王となり、ダビデ王朝が始まりました。しかし、大木が切り倒されて切り株だけになってしまうように、このダビデ王朝は滅びる。けれども、やがてその切り株から一つの芽が萌えいでて、若枝に成長する。つまり、滅んだかのように見えたダビデ王朝であるが、やがてダビデの子孫から「まことの王」、キリストが生まれる。そうイザヤは預言したのです。神様はダビデに対して「あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と約束されました。サムエル記下7章16節に記されていることです。この約束が反故にされることはない。神様の約束は必ず実現する。神様は真実な方です。神様の契約は永遠の契約です。神の民はこの神様の真実を信頼するが故に、待ち続けたのです。
イザヤがこの預言を告げたのは、アッシリア帝国によって北のイスラエル王国が滅び、南のユダ王国にまでその圧迫が及んで、エルサレムも風前のともしびとなった時期であったと考えられています。人々はエジプトに援軍を求めて、何とかアッシリアによって滅ぼされるのを免れようとします。しかし、イザヤはこの時「ただ神にのみ依り頼め」と告げました。神様の御支配、神様の力、神様の真実を証言する者として立てられているのが神の民だからです。この時神様を依り頼まないで、いつ神様に依り頼むのか。しかし、南ユダ王国の王も、エルサレムの人々も、イザヤの声に耳を貸そうとはしませんでした。遂にイザヤは、南ユダ王国の滅び、ダビデ王朝の滅亡を告げるのです。このような言葉など、南ユダ王国の人々は誰も聞きたくはありませんでした。だが、イザヤは告げた。でも、もしダビデ王朝が滅ぼされて終わってしまうのであれば、神様の真実はどこにあるのでしょう。神様はダビデ王に「あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と約束されたのです。神様は約束を破られる方なのでしょうか。そうではありません。だから「エッサイの根より」なのです。たとえダビデ王朝は滅んだとしても、まことの王、メシアが来る。それはダビデの子孫から誕生する。切り株から若枝が育つように、一度完全に滅んだかのように見えたとしても、それで終わらない。イザヤはそう告げました。イザヤによって告げられたこの預言が成就することによって、ダビデに対する神様の約束が真実であることが証明されるのです。
イザヤがこの預言をした時、南ユダ王国は何とかアッシリアによる滅亡は免れましたが、アッシリアの支配のもとに存続が許されていたに過ぎませんでした。それから150年後、アッシリアの次に興ったバビロンによって南ユダ王国は滅ぼされ、ダビデ王朝は滅びました。紀元前587年のことです。その後、そのバビロンはペルシャによって滅び、ペルシャはアレキサンダー大王によって滅び、次はセレウコス朝シリアによって、そしてその後はローマによってこの地域は支配されます。イザヤの時代からイエス様の時代まで、ユダヤ人はずっと大きな国によって支配され続けました。その間、彼らは待ち続けたのです。ダビデの子孫から誕生するメシア、キリストを待ち続けたのです。
3.主を畏れ敬う正義
そのダビデの子孫として生まれるはずのメシア、キリストはどんな方なのでしょうか。イザヤはこう告げました。2~5節「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。」一つ一つ見ていくいとまは今はありませんが、ここで預言されているメシア、キリストの特徴は、第一に「まことに主を畏れる方」であり、第二に「まことの正義の方」であるということです。
第一の「まことに主を畏れる方」の「主を畏れる」とは、神様を怖がってビクビクしているという意味ではありません。神様を神様として畏れ敬うということです。聖書的にはこれが知恵の始めです。どんなに知識があっても、万巻の書を読み、どんなに賢いと言われる人であっても、どんなに斬新な見方、考え方をすることが出来る人であっても、神様を畏れ敬うことを知らなければ、聖書の言うところの「知恵のある者」とはなりません。そのような者はただ小賢しく、傲慢で、神様から最も遠い愚か者でしかありません。神様を畏れ敬う者は、神様の御心を知り、これに従って生きる者です。また、神様がすべてを御存知であり、すべてを支配しておられることを弁えています。ですから、たとえ自分の思い通りにならなくても、それを受け入れます。イエス様は神様を畏れ敬い、神様の心を御自分の心とされました。それ故、十字架にお架かりになりました。それが神様の永遠の救いの御計画であることを知っておられたからです。これがまことの知恵に満ちた方のありようなのです。現代の日本においては、この賢さと愚かさが、ちょうど正反対になってはいないでしょうか。聖書の語る賢さは愚かで、聖書の語る愚かさが賢いとなってはいないでしょうか。それは、根本に「神様を畏れ敬う」ということが抜け落ちているからでしょう。
第二の「まことの正義の方」ということですが、これは「公平」「真実」「愛」ということと分けることは出来ません。多くの場合、私共の考える正義は「自分の正義」でしかないのではないかと思います。「自分の正義」とは、自分にとって都合の良い正義ということです。これは、相手にとっては全く正義ではありません。不利益を被るからです。正義が対立するわけです。例えば、国益などという言葉と共に用いられる正義、正しさなどは、まさにそれでしょう。だから、争いが絶えないのです。人と人も、国と国も、同じことです。みんな自分が得をしたいのです。損をしたくない。しかし、それを正義と言って良いのでしょうか。正義が相手を傷つける刃でしかないとすれば、聖書の告げる正義とはほど遠いものです。ここで告げられる正義は、公平と真実と愛とに結ばれているものです。「神様の正義」を示されたイエス様は、自らの十字架の血潮によって一切の罪を贖われました。しかも、この救いに与るのに、良い人も悪い人もありません。ユダヤ人も異邦人もありません。社会階級も性別も年令も関係ありません。すべての者がこの救いに与ることが出来るのです。ここに徹底した公平性が貫かれています。そして、自らの命を捨ててまで救おうとする愛と真実が徹底されています。ここに神様の正義があります。
このまことに神様を畏れ敬い、神様の正義を現された方として、主イエス・キリストが来られたのです。
4.世界の再創造
このイザヤの預言は、確かに主イエス・キリストの誕生・十字架・復活・昇天によって実現されました。しかし、イザヤが告げているのは、それだけで終わっていません。その先のことも告げているのです。それが6~8節に告げられていることです。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」皆さんはこの言葉を聞いて、どう感じられるでしょうか。「そんなことは起きるはずがないじゃないか。」と思われるのではないでしょうか。狼と羊がいれば、羊は狼に食べられてしまうだろう。豹と子山羊がいれば子山羊は豹に食べられてしまう。若いライオンと子牛も同じです。ところが、そうはならないとイザヤは告げるのです。これは私共が目にしている自然界において通常起きていることとは明らかに違います。ここでイザヤは、この自然界、この現実世界が変貌する。この世界が新しく再創造された、新しい世界のことを告げているのです。そして、それを導くのは6節に「小さい子供がそれらを導く」とあるように、「子供」です。これは主イエス・キリストを指しているのでしょう。主イエス・キリストによって導かれる世界の再創造、終末における新しい世界の到来、神の国の完成を指し示しています。9節「わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」とは、まさに完成された神の国を指し示しています。このイザヤの預言には、主イエス・キリストの到来と、更にそれによってもたらされる神の国の完成も告げられています。私共は今、その日を待ち望みつつ歩んでいるのです。
5.信仰による喜びと平和によってもたらされる希望
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の最後にこう告げました。15章13節です。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」この言葉は、ローマの信徒への手紙の本文の最後の言葉です。14節以下はこの手紙の「挨拶」に入ります。新約聖書の中で最も長い手紙であり、最も体系的にキリストの福音を記していると言われているローマの信徒への手紙の最後に記されているのは、希望なのです。気が遠くなるほど長い間、旧約の民が救い主を待ち続けたのも、キリストの教会がイエス様の再臨を待ち続けているのも、この希望があるからです。
その希望とは、「信仰によって得られるあらゆる喜びと平和」とで満たされることによって与えられる希望です。聖書の告げる希望には、根拠があります。何となく漠然と持っているような希望で、人は何千年も待ち続けることなど出来るはずもありません。この希望において大切なのは、「信仰によって与えられる喜びと平和」です。これが希望の根拠なのです。これが無ければ、どんなに長くても、どんなに困難な時代でも待ち続けることが出来る、強靱で強烈な希望を保持することは出来ません。では、この「信仰によって与えられる喜びと平和」とは何のことなのでしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架によって与えられた、一切の罪を赦され、神の子とされ、永遠の命に与る者とされた喜びです。7節にある「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださった」という喜びです。そして、神様との間に与えられた平和です。神様に向かって「父よ」呼ぶことの出来る親しい交わりです。私共は既にこれを与えられています。
この「信仰によって与えられる喜び」を「自分が願っていることが叶えられる喜び」と受け止めますと、そうなる場合もそうならない場合もあるわけで、とても強靱で強烈な希望の根拠とはなりません。勿論、困難な時にそれが取り除かれるようにと祈るのは当然のことです。神の民はいつもそのように祈ってきました。しかし、自分の望み、自分の願いというものがたとえ叶えられないとしても、私共に強靱で強烈な希望の根拠が、既に与えられています。主イエス・キリストです。この方によって与えられた救いの恵みです。福音です。この方によって与えられた喜びと平和です。イエス様を抜きに希望を語っても、それは地上における希望に過ぎません。そしてそれは、景気の動向や病気や事故によって、あっという間にしぼんでしまうでしょう。聖書が私共に告げている希望は、そんなものを根拠とはしていませんし、そんな脆弱なものではありません。そうではなくて、イエス様によって既に与えられている神様との和解、罪の赦し、神の子の身分、永遠の命という救いの事実です。私共はこれに既に与っています。「信仰によって与えられる喜びと平和」を与えられている。だから、どんな時でも、いつまでも、イエス様が再び来られるのを希望を持って待つことが出来るのです。
6.神の真実
もう一つ、この希望の根拠を挙げるとすれば、それは神の真実です。イザヤを通して告げられたメシア、キリストは、イエス様として生まれ、十字架にお架かりになって救いの御業を為してくださいました。神様は約束を忘れていなかった。これは、旧約において他の箇所でも繰り返し告げられていることです。神様がイスラエルをエジプトの奴隷の状態から救い出されたのは、神様がイスラエルの父祖アブラハムとの約束を思い返されたからです。神様は御自分が約束されたことを決して反故にはされません。
パウロがこの手紙を書いた時、ユダヤの民のほとんどはイエス様を信じようとはしませんでした。そうすると、神様は神の民であるユダヤ人を見捨てたのか。もしそうであるならば、私共とていつ神様に見捨てられるか分からないということになってしまうでしょう。パウロは、そんなことは断じてない、そう告げるのです。8節で「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、」と告げているように、神様はイザヤを通して約束されたことを果たすために、ダビデの子孫として、ユダヤ人としてイエス様を生まれさせました。神様の真実はここに現れています。
しかし、それはユダヤ人の救いのためだけではありませんでした。9節「異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。」とあるように、異邦人もまた救われるためです。イザヤは11章10節で「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」と告げました。イザヤはユダヤ人の救いだけを預言したのではないのです。「エッサイの根はすべての民の旗印となる」つまり、イエス様はすべての民の救いの旗印となる。すべての民がイエス様によって救われる。そう預言していたのです。その預言が成就され、キリストの教会には、ユダヤ人も異邦人も、どの国の者もどの民族も分け隔てなく集い、イエス様の救いに与るのです。
7.忍耐と慰めの神の民として
更に、この希望は「忍耐と慰め」と一つになっています。4節bに「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」とあり、5節に「忍耐と慰めの源である神」とあるとおりです。私共の信仰の歩みは、忍耐と切り離すことは出来ません。しかし、私共が忍耐する前に、神様が忍耐し続けられたのです。それは、旧約の歴史が、神の民が神様から繰り返し離反しても神様は忍耐深く赦し続けた歴史であったことに示されています。神様は、何度も何度も自分を裏切り、自分から離れていく神の民に対して、その罪を赦し、忍耐し、これを慰め、導き続けられました。この「慰める」という言葉は「励ます」とも訳すことが出来る言葉です。神様は神の民を、何度も何度も神の民として再び立ち上がることが出来るように慰め、励まし、神様との約束に生きる民とし続けてくださった。私共が忍耐する以前に、神様が忍耐してくださった。そして、遂に時至り、救い主イエス・キリストを与えてくださったのです。
私共の神様は「忍耐と慰めの神」であり「希望の神」です。この神様によって救われた私共は、この神様に従って生きる者とされます。つまり、忍耐し、慰め、希望を持って歩む民となるということです。このローマの信徒への手紙が書かれた時、ローマの教会にはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者がおりました。残念なことに、この二つのグループは反目していました。ユダヤ人と異邦人という垣根を越えられないでいたのです。しかしパウロは、7節で「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」と告げるのです。イエス様の十字架によって神様に受け入れていただいたのだから、あなたがたも互いに受け入れなさい。それが、忍耐と慰めの神、希望の神によって救われた新しい神の民の歩みなのだと告げたのです。
アメリカの大統領選挙において、アメリカの社会の中にある分断がクローズアップされました。しかし、この分断・対立・格差・差別という現実は、何時の時代にも、どのような国や地域においてもありましたし、今もあります。本当に世界はどこで一つになれるのだろうかと思います。しかし、神の民であるキリストの教会は、忍耐と慰めをもって和解の務めを続けてきたし、これからもしていかなければなりません。希望を持ってです。
私共は今から聖餐に与ります。この聖餐にこそ、私共の一致と希望があります。この聖餐に与り、忍耐と慰めを持って、希望の中、完全な和解と一致が与えられる神の国の到来を待ち望みつつ歩んでまいりたいと思います。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝あなた様は、一度約束されたことを決して忘れることのない真実な方であることを教えてくださいました。イエス様は再び来ると約束してくださいました。私共はその約束を信じて、その日を待ち望みつつ歩んでいます。この世界には、分断があり、対立があり、格差があり、差別があります。しかし、そのすべてが神の国においては解決されています。罪人に過ぎない私共が、赦され、あなた様の子どもとしていただいているのですから。そこに私共の希望があります。ですから、現実の困難さに飲み込まれることなく、忍耐と希望を持って歩ませてください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2020年12月6日]