1.はじめに
アドベント第三の主の日を迎えています。来週の主の日にはクリスマス記念礼拝が行われ、24日にはキャンドル・サービスが行われます。週報にありますように、クリスマス記念礼拝もキャンドル・サービスも、召天者記念礼拝の時と同じく、それぞれ二回行います。コロナ禍の中での、やむを得ない工夫です。会堂いっぱいの人たちと賛美を捧げたいのですが、それは現在の状況では難しいと判断しました。東京・神奈川・大阪などでは、礼拝の中で賛美することを止めたり、キャンドル・サービス自体を中止する教会もあるようです。海外では、集まって礼拝すること自体が禁じられている所もあります。また、クリスマスに向けて少しでも良い状態にしようと、今は厳しい処置をとっている国もあります。富山市はそういことはありませんけれど、やはり密になることは避けなければなりません。あまり気にしないようにと思いつつも、今日は何人感染者が出たかということがつい気になってしまいます。そのような中で、私共はクリスマスを迎えようとしています。
2.なぜクリスマスを喜び祝うのか
改めて、私共はどうしてクリスマスを喜び祝うのでしょうか。世界中がコロナ禍で大変なのだから、今年くらいクリスマスを祝うのは止めにしてはどうか。そのように考える人も、教会の外には結構いるだろうと思います。もっとも、クリスマスを喜び祝うといえば、お酒と御馳走を食べてパーティーをするものだと考えている人にとっては、今年はクリスマスをお祝いするのを自粛するというのは当然のことでしょう。しかし、クリスマスを喜び祝わないということは、私共には考えられないことです。勿論、喜び祝う仕方は工夫しなければなりません。ですから、今年は祝会は行いません。けれども、クリスマスを喜び祝わないということは、私共には出来ません。なぜなら、イエス様が来られた故に私共は救われたからです。イエス様が来られた故に、私共は神様を父と呼ぶことが出来る、新しい命に生きる者とされたからです。このことを喜び祝わずに、何を喜ぶというのでしょう。誰が何と言っても、私共はクリスマスを喜び祝わないではおれません。
クリスマスはイエス様がお生まれになったことを記念する日です。そんなことは子どもでも知っています。しかし、なぜイエス様がお生まれになったことを喜び祝うのか。子どもたちならば、サンタクロースが来るからということかもしれません。あるいは、神様の御子の誕生日なのだから祝う、そういうことなのかもしれません。しかし、私共がイエス様が来られたのを喜び祝うのは、「私の救い」ということと直結しています。私がイエス様に救われていなければ、クリスマスはたくさんある年中行事の一つ、楽しいイベントの一つでしかないでしょう。それなら、今年は自粛しましょうということでも少しもかまわないのです。宴会が一つ減るだけです。でも、私共にとってはそんなことではないでしょう。私はクリスマスが来るたびに、クリスマスを心から喜び祝えることを本当に嬉しく思うのです。私共はまだアドベントの日々を歩んでいるのですけれど、既に毎日がクリスマスです。週報にありますように、先週・先々週と訪問聖餐をしました。今は教会に来られない方を訪ねて、一緒にクリスマスの讃美歌を歌い、御言葉に聞き、聖餐に与りました。「メリー・クリスマス」という挨拶もしました。刑務所に行っても受刑者の方々とクリスマスの讃美歌を歌い、クリスマスの喜びの御言葉を受けました。昨日も教会学校の子どもたちやお母さんたちが来て、土曜練習をしていました。ページェントの練習をしたり、トーンチャイムの練習をしたり、皆さんへのプレゼントを作ったり、賑やかに過ごしていました。
私がキリスト者になったばかりの頃、正直なところよく分からなかったのがこのアドベントというものでした。アドベントという言葉も聞いたことがありませんでした。教会の玄関に飾られるアドベント・クランツを不思議そうに見ていると、教会員のお子さんで私と同じ位の年令の女の子が、これはアドベント・クランツと言ってクリスマス前の4回の日曜日ごとに、一本づつろうそくに火を点けていくものだと教えてくれました。でも、やっぱりアドベントというものはよく分かりませんでした。クリスマスというのは、イエス様の誕生日なのだから12月25日だけお祝いするものだと思っていたからです。アドベントに入ると教会の人たちはリースを飾り、毎週のように〇〇会のクリスマスが行われる。クリスマスカードの準備をしたり、教会に届いたクリスマスカードが掲示されたり、ウキウキした感じで教会全体がクリスマス一色になっていく。どうして一ヶ月も前から、クリスマス、クリスマスと言っているのか、さっぱり分かりませんでした。しかし、今はよく分かります。そして、そのことを本当に嬉しく、ありがたいことだと思っています。確かにクリスマスはまだ来ていません。でも、既にその喜びの中に生きている。このアドベントを生きる私共の命の有りようこそ、イエス様が再び来られるのを待ち望みながら、既にその喜びに生き始めているキリスト者の命の有りようそのものだからです。
3.ローマの信徒への手紙の挨拶
さて、今朝与えられております御言葉、ローマの信徒への手紙1章1~7節は、ローマの信徒への手紙の挨拶の部分です。ローマの信徒への手紙は、新約聖書の中で最も教理的に整っている、信仰の筋道を明確に記している手紙と言われています。この手紙は、使徒パウロが、まだ行ったことのないローマの教会に対して、自己紹介のために書いた手紙と言っても良いでしょう。自分はこのように福音を信じ、宣べ伝えている者ですと言って、パウロが自分の信仰を整った形で記しているものです。その理由は、彼はローマに行って、ローマの教会から援助を受けて、イスパニアに伝道しに行きたいと願っていた。イスパニアというのは現在のスペインです。当時の人々にとっては、地の果てと考えられていました。そこまで伝道していきたい、それがパウロの願いでした。そのためには、ローマの教会の人々に伝道者として信用してもらわなければなりません。そういうわけで、ローマの信徒への手紙は大変整った教理を言い表している手紙となっています。
この冒頭の挨拶の言葉は、ただのご機嫌伺いの言葉ではなくて、ローマの信徒への手紙の内容を大変コンパクトな形で言い表している、そういう所です。ですから、とても一回の説教で語り尽くすことなど出来ないものです。今日は、そこから何点か大切な言葉に注目しながら、アドベントを歩む私共にとって必要な御言葉を受けてまいりたいと思います。
4.神の福音
第一に注目するのは1節の「神の福音」という言葉です。福音というのは、私共が信じ、それによって救いに与っている、神様が与えてくださった「喜びの知らせ」です。私共の信仰内容そのものと言っても良いでしょう。この福音は、私共が造り出したり、考え出したりしたものではなく、神様が永遠の救いの御計画の中で実現し、私共に伝えてくださったものです。ですから「神の福音」なのです。そして、この「神の福音」は、何よりも「御子に関するものです」と聖書は告げます。御子、すなわち主イエス・キリストです。主イエス・キリストというお方を無視して、この方を離れて、この方と無関係に「神の福音」はありません。
私共がそれを信じ、受け入れるだけで救われると約束された「神の福音」とは、主イエス・キリストが私共のために、私共に代わって、一切の罪の裁きを引き受けて、十字架の上で死なれたということ。そして、私共の初穂として死者の中からよみがえらされ、三日目に復活され、私共に永遠の命の道を開いてくださったということです。私共は、ただこのことを信じ、感謝をもって受け入れるだけで、神様は私共の一切の罪を赦してくださいます。神の子としてくださいます。永遠の命に与る者となります。これが「神の福音」です。何とありがたい知らせでしょう。この福音はどこまでも御子に関するものです。この福音は私共の努力や熱心や信心深さによって成立するのではありません。私共の努力や熱心や信心深さによって、つまり神様の側のことではなくて私共の側のことによって福音が成立するのであれば、それは「神の福音」ではありません。この福音は、私共の側の何ものによっても成立しません。つまり、私共の性別・教養・富・性格・能力・国籍・民族・家柄・年令、その他あらゆるものによって条件付けられることはありません。それが「神の福音」です。ただ、神様によって為されたイエス様の救いの御業を信じ、受け入れるだけで救われる。それが「神の福音」です。
5.肉によれば、霊によれば
第二に「肉によれば」「霊によれば」ということに注目しましょう。
神の福音は御子に関するものなのですが、主イエス・キリストの救いの御業の前提となっていることが二つあります。一つはイエス・キリストは完全な人であるということ、そしてもう一つは、イエス・キリストが完全な神であることです。
「肉によればダビデの子孫から生まれ」というのは、イエス様は完全な人間としてマリアから生まれたということです。私共と同じように飲んで食べ、排泄する。傷つけば痛いし、血も流れます。私共と同じです。ただ、罪を犯すことはありませんでした。神様の心を御自分の心とされ、神様と一つであられました。
そして、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」とありますが、これは、復活してイエス様は神の子となったということではありません。そうであれば、イエス様は復活するまではただの人間であったけれども、復活して神の子とされたということになってしまいます。聖書が告げているのは、そういうことではありません。キリストは天地が造られる前から、父なる神様と共におられた神の独り子です。その神の独り子である方が、乙女マリアから完全な人間として、イエス様として生まれた。これがクリスマスの出来事です。クリスマスは日本語では降誕祭と言いますが、まさに天から降って来られて誕生された、それがイエス様です。しかし、イエス様が神の御子であるということは、天使からみ告を受けたマリアとヨセフ以外には、誰にも分かりませんでした。そして、この人間となられた神の御子が十字架にお架かりになり、三日目に復活された。十字架は神の御子が私共を救うために為してくださった決定的な出来事でした。しかし、十字架で死んで終わりであったならば、イエス様が神の御子であることは隠されたままだったことでしょう。弟子たちはイエス様が十字架に架けられた時に、散り散りに逃げました。復活がなければ、それで終わりでした。そうであれば、十字架によって私共の一切の罪が赦されたということも隠されたままであったことでしょう。しかし、イエス様は復活されました。この復活の出来事によって、弟子たちに始まりすべての人に、イエス様が神様の御子であることが分かった、明らかにされました。それが「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」ということです。
では、なぜ神の御子が人間として生まれてこなければならなかったのでしょうか。それは、私共を救うため、私共の罪の裁きを我が身に負われるためでした。完全な人間となることによって、すべての人間の代表として十字架にお架かりになるためでした。私共人間は皆罪人ですから、私共の誰かが十字架に架かったとしても、それは自分の罪の裁きを受けるだけであって、他の者の身代わりとして、他の人の罪の裁きを担うことなどは出来ません。誰にも出来ません。ただ、神の御子だけが、全く罪が無く、神様の裁きを受ける必要の全く無い方だけが、私共の身代わりとなることが出来た。実に神の御子であるキリストは、私共のために十字架にお架かりになるために、イエス様としてクリスマスにお生まれになったのです。クリスマスの喜びは、十字架の出来事と離れたところにはありません。クリスマスの祝いは、イエス様のお誕生日のパーティーということとは少し違うのです。私の罪が赦された。滅ぶしかない私、その私が神様と共に生きる者とされた。この救いの出来事の始まりがクリスマスなのです。
6.預言による約束
パウロは2節で「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」と言っています。これが第三に注目すべき点です。パウロがこの手紙を書いた時、まだ新約聖書はありませんから、聖書というのは旧約聖書のことです。つまり、この主イエス・キリストという救い主の誕生は、旧約聖書に記され、預言されていたとパウロは告げているわけです。これはとても大切なことです。イエス様が来られて、その十字架・復活によって私共に救いがもたらされた。このことは偶然、たまたま、神様の気まぐれによって起きた出来事ではありません。イエス様による救いは、神様の永遠の御計画の中で与えられたものです。その証拠として、旧約聖書の中に預言されているのです。
イザヤ書は預言書の代表的なものですが、クリスマスの時期に必ず読まれるのが、先ほどお読みいたしましたイザヤ書7章14節の言葉です。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」この箇所は、小見出しにも「インマヌエル預言」とありますように、乙女が身ごもって「インマヌエル」と呼ばれる男の子が生まれると預言されているわけです。インマヌエルというのは「インマ:共に」「ヌ:我ら」「エル:神」ということで、「神、我らと共にいます」という意味です。神様が共にいてくださることの「しるし」として、乙女から男の子が生まれるとイザヤは預言しました。この「おとめ」と訳されている言葉が、処女を意味するのか、未婚の女性を意味するのか、議論があります。しかし、この預言が為されたのは今から2700年も前のことです。当時、未婚であるということと処女であるということは、実質同じ意味であったと思います。現代とは違います。これが乙女マリアからのイエス様の誕生を預言していると、キリストの教会はその最初の時から受け止めてきました。ですから、マタイによる福音書1章において、イエス様の誕生を記した直後に、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」と記されているわけです。
インマヌエル、神我らと共にいます、という出来事が、イエス様の誕生によって実現しました。それは、まさに神の御子であるキリストが天から降り、完全な人間としてお生まれになったということです。しかし、それだけではありません。このイエス様がどんな時でも、どんな状況の時でも、私共と共にいてくださり、生きて働いてくださる方として来られたということでもあります。
7.神に愛され、召され、聖なる者とされて
イエス様の誕生が旧約に預言されていることであり、神様の永遠の救いの御計画の中での出来事であるとするならば、私共がこの救いに与るということも、神様の永遠の救いの御計画の中での出来事であると考えて良いのです。そのことをパウロは1節「召されて」という言葉で言い表しています。これが第四の点です。
パウロはイエス様に出会って救いに与りましたが、それは彼が熱心に、一心不乱に救いを求め続けた結果ではありませんでした。彼は、イエス様の救いに与ろうなどとはこれっぽちも考えておりませんでした。彼は熱心なユダヤ教徒であり、イエス様を十字架に架けたファリサイ派の一人として、キリスト者を迫害していました。彼はキリスト者を捕らえるためにダマスコに行く途中、復活されたイエス様に出会ってしまうのです。使徒言行録9章に記されている出来事です。3~6節「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』」パウロは目が見えなくなり、手を引かれてダマスコに連れて行かれました。そこで主から遣わされたアナニアというキリスト者によって目が開かれ、パウロはイエス様を信じる者へと変えられたのです。これが、パウロが「召されて」という言葉によって言い表している出来事です。パウロは何もしていないのです。ただ神様が出来事を起こし、イエス様を信じる者としてくださった。
私共もそうです。皆神様に召されて、信仰を与えられました。パウロは自分だけが神様に召された者であるなどとは考えていません。キリスト者はみんな神様に召された者なのです。私共が今ここにいる。それは神様に召されたからです。パウロはローマの教会の人々を、7節「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」と呼んでいます。神様に召されたということは、神様に愛されているということです。神様は私共を愛するが故に、私共を救いに与らせようとして、召してくださいました。神様の私共への愛は、この「召してくださった」という出来事に現れています。ここに、私共が神様の愛を確信することが出来る根拠があります。神様は、私共が良い人だから、能力があるから、信仰深いから召し出したのではありません。私共を愛してくださるが故に、私共を召し出してくださったのです。私共のどこに神様に愛される値打ちがあるというのでしょうか。私共の中にそんなものはありません。何一つありません。神様は、私共が愛される値打ちがある者だから愛してくださるのではありません。値打ちなど全くない。それでもなお愛してくださる。愛する独り子を十字架にお架けになるほどに愛してくださる。それが神様の愛です。この愛の故に私共は神様によって召され、キリスト者となり、救いに与ったのです。ありがたいことです。この神様の愛に生かされていることを心から感謝して、御子の御降誕を喜び祝い、御子が再び来られる日を待ち望みつつ歩んでまいりたいと思います。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉をもって、私共があなた様に愛され、召され、救いに与っていることを新しく心に刻ませてくださいました。あなた様の永遠の救いの御計画の中で、私共はこの救いに与りました。そのために、御子は完全な人となって乙女マリアから生まれ、私共に代わって十字架についてくださいました。ありがとうございます。この恵みの中に生き切ることが出来るように、私共に聖霊を注ぎ、信仰を与え、喜びと感謝とをもって御国への道を歩ませてください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2020年12月13日]