1.はじめに
まだクリスマスの余韻の中にありますけれど、今日は12月の最後の主の日ですので旧約の士師記から御言葉を受けます。11月の最後の主の日からアドベントに入り、11月は士師記からの御言葉は受けませんでした。また10月の最後の主の日は召天者記念礼拝でしたので、前回士師記から御言葉を受けましたのは10月18日のことでした。もう2ヶ月以上間が空きましたので、忘れておられる方も多いかと思いますので、少し振り返ってみましょう。
士師記の6章から士師ギデオンの話が記されています。そして士師記の中でも最も有名な出来事の一つ、ギデオンが300人の兵をもって13万5千人のミディアン人に勝利したという出来事がありました。それが前々回の話でした。そして前回は、そのギデオンが晩年に過ちを犯したという話でした。長きにわたってミディアン人に支配されていたイスラエルの民にとって、ミディアン人を撃退し、イスラエルをミディアン人の支配から解放したギデオンはまさに英雄でした。イスラエルの民はギデオンに、自分たちの王になってくれるよう求めます。しかし、ギデオンは一応これを退けました。ここまでは良かったのですが、彼は民から金を差し出させて金のエフォドを作ったのです。エフォドというのは祭司が着る衣装ですけれど、金で出来たこのエフォドは20kgくらいありました。これは着たというよりも、飾ったのではないかと思います。そしてギデオンはこれを自分の町に置きます。ギデオンの所に来た人はこの金のエフォドを拝むという偶像礼拝が行われるようになってしまったのです。
ギデオンは口では王となることを拒みましたけれど、実際には王のような生活をするようになります。確かにギデオンの時代、40年間はミディアン人が攻めてくることもなく、平穏な時が続きました。しかし、士師ギデオンには息子が70人いたと聖書は記します。男の子だけが生まれるわけはありませんから、娘も生まれたはずです。ですから、ギデオンは子どもを百数十人は作ったということになります。どれだけの側女がいたのかと思います。百人くらいいたのではないでしょうか。そんな生活は、普通の人には出来ません。ギデオンは、実際には王様のような生活をしていたのでしょう。そして、ギデオンは死にます。
2.息子アビメレク①~神様の選びによらず~
今日の御言葉は、そのギデオンが死んだ後の話です。彼には息子が70人いました。この70という数字が正確であったかは分かりません。5節には「エルバアル(これはギデオンのことです)の子七十人を一つの石の上で殺した。」とありますが、殺したのは同じギデオンの子であるアビメレクでした。しかし、末の子であるヨタムは身を隠して生き残っています。ですから、殺されたギデオンの息子が70人であったのならば、ギデオンの子は72人いたことになります。或いは、ギデオンの息子が70人であったならば、殺された息子は68人であったことになります。
いずれにせよ、70人の息子がいれば跡目相続がややこしいことになるのは、誰にでも想像がつきます。ここでアビメレクという息子が、他の息子を皆殺しにするという大変なことをしでかしたのです。このアビメレクという名前の意味は「我が父は王である」という意味です。この名前を付けたのはギデオンですから、ギデオンは本当に自分は王ではないと考えていたかどうか、怪しいところです。なぜ、アビメレクがこのような行動に出たのか。単純に自分こそが王になるのに相応しいと思った。自分はイスラエルの王になるのだという野心を持っていた。そういうことなのだろうと思います。
しかし、ここではっきりしておかなければならないことは、神の民であるイスラエルの王は神様であるということです。この後、士師の時代が終わってサウルがイスラエルの初代の王となり、2代目にダビデが王となって、その後ダビデ王朝が続くことになります。しかし、サウルにしても、ダビデにしても、王となるのは神様の選びによってです。自分から王になりたいと言って王になったわけではありません。また、ダビデ王朝にしても「神様によって立てられ、守られていくと神様に約束された王朝」です。自分で兵力を集め、その力で王となるということは、神の民であるイスラエルにおいてはあってはならないことでした。それは、神様が王であるということと、真っ向から対立するあり方だからです。その後のイスラエルの歴史を見ますと、ダビデ、ソロモンの後でイスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。そして、南ユダ王国はダビデ王朝が続きますが、北のイスラエル王国は強い者が王になるということで、クーデターにつぐクーデターが続きます。そして、北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされ、その後北イスラエル王国の10部族は歴史上から消えていきます。失われた10部族とも言われます。残ったのは南ユダ王国のユダ族とベニヤミン族だけです。これが現在にまで続くユダヤ人です。そのようなことを考えましても、「神様によって選ばれ、立てられる」ということでなければ、神の民を指導する者とはなり得ないし、なってはならない。神様はそれを許さない、ということなのでしょう。
しかし、アビメレクにはそのような発想、神様の御前に畏れるところがありません。神の民でないのであれば、力と謀略によって王の地位を奪い取るのは当たり前のことなのでしょう。しかし、イスラエルにおいては、そうであってはなりません。神の民だからです。アビメレクは、その点から考えても全くイスラエル的ではありませんし、信仰において王というものが何であるのかも分かっていない。そういう人だったのだと思います。
ちなみに、キリスト教会においては、現在でもこの「神様の選びによって立てられる」ということ抜きに、教師・牧師が立てられることはありません。それぞれの教派によって、教師・牧師が立てられる手続きに違いはあっても、「神様によって選ばれた者が立てられる」という点においては、全く同じです。間違っても、職業の一つとして牧師になることを選択するのではありませんし、牧師の子だから跡取りのように牧師になるということでもありません。これは中々分かりにくいことかもしれませんけれど、これが崩れたら教会が教会ではなくなってしまうような、決して崩してはならない大切な点だと私は思っています。
3.息子アビメレク②~異教の神によって~
アビメレクは、自分の母方のおじたちがいるシケムに行きます。シケムは古い町です。アブラハムの時代にまで遡ります。ヨセフがエジプトからその遺体をヨシュアによって運ばれて埋められたのがシケムでした。また、ヨシュアが全イスラエルの民と再契約をしたのがシケムでした。シケムはイスラエルの中心的な町の一つでした。しかし、ギデオンが出て以来、中心地はギデオンの町オフラに移ってしまいました。アビメレクは自分の母の町であり、力のある町シケムの人にこう言ったのです。2節「あなたたちにとって、エルバアルの息子七十人全部に治められるのと、一人の息子に治められるのと、どちらが得か。ただしわたしが、あなたたちの骨であり肉だということを心に留めよ。」エルバアルというのはギデオンのことです。「ギデオンの息子70人全部に治められる」というのは、70人で合議制で決めていくというようなことではなくて、私以外の70人の他の息子たちの誰かに治められるということです。それがあなたがたの望みですか。それとも私に治めて欲しいですか。私の母はシケムの町の者です。私はあなたたちと同じです。兄弟です。そう言ったわけです。そう言われて、シケムの人たちはアビメレクに心が傾きました。
ここで問題なのは、4節にありますように、シケムの町の人たちは「バアル・ベリトの神殿から銀七十をとってアビメレクに渡」したということです。バアル・ベリトの神殿というのは、8章の33節に「ギデオンが死ぬと、イスラエル人々はまたも多くのバアルに従って姦淫し(つまり偶像礼拝に走り)、バアル・ベリトを自分たちの神とした。」と記されています。つまり、シケムの町の人たちは異教の神の神殿である、バアル・ベリトの神殿から軍資金をアビメレクに渡したということです。つまり、アビメレクを実際に支援したのはバアルの神であり、バアルの神殿であったということです。イスラエルの神、ヤーウェではなかったということです。シケムの町の人々はそれほどまでに、バアル信仰に傾いていたということです。
そして、アビメレクはそれを資金にして「命知らずのならず者」を雇ったのです。そしてオフラ、ギデオンの町にやって来て、ギデオンの家に押しかけ、70人の息子たちを「一つの石の上で殺した」のです。わざわざ「一つの石の上で殺した」と記されているのは、この70人の息子たちはバアルに捧げられた犠牲ということだったのかもしれません。しかし、何と凄惨なことをしたのでしょう。しかし、アビメレクが雇った数名のならず者でギデオンの息子70名を皆殺しに出来るはずがありません。当然、シケムの人たちが加勢したと考えるのが自然です。まことに凄惨な出来事ですが、このようなことは歴史の中ではよく起こることですし、これが「神無き世界」の現実です。
そして、アビメレクはシケムで王となったのです。全イスラエルの王ではありません。しかし、イスラエル最初の王です。しかし聖書は、アビメレクをイスラエル最初の王とは全く考えていません。6節を見ますと「シケムのすべての首長とベト・ミロの全員が集まり、赴いて、シケムの石柱のあるテレビンの木の傍らでアビメレクを王とした。」とあります。アビメレクを王に推したのは、シケムの首長たち、そしてベト・ミロの全員でした。「ベト・ミロ」というのは諸説ありますけれど、「盛り土をした小高い丘」のことで、ここに神殿があったと考えらています。バアル・ベリトの神殿です。つまりアビメレクは、シケムの人たちとバアルの祭司たちによって推されて王となったのです。全イスラエルの王ではありません。しかし、シケムの町は力のある町でしたので、ここを拠点にアビメレクの勢力は大きくなっていったと考えられます。
4.息子ヨタム
アビメレクによって70名のギデオンの息子たちが殺された時、末の息子ヨタムだけは身を隠して、殺されることを免れました。そして、アビメレクが王になったことを聞くと、彼はゲリジム山の山頂から、7節から15節までに記されている預言といいますか、呪いの言葉と言っても良いような言葉を大声で、シケムに届けとばかりに叫んだのです。このゲリジム山はシケムの町の裏山のようなもので、町からは400メートル程の高さの山です。
ヨタムが告げたのはこういう言葉です。8~15節「木々が、だれかに油を注いで、自分たちの王にしようとして、まずオリーブの木に頼んだ。『王になってください。』オリーブの木は言った。『神と人に誉れを与える、わたしの油を捨てて、木々に向かって手を振りに、行ったりするものですか。』木々は、いちじくの木に頼んだ。『それではあなたが女王になってください。』いちじくの木は言った。『わたしの甘くて味のよい実を捨てて、木々に向かって手を振りに、行ったりするものですか。』木々は、ぶどうの木に頼んだ。『それではあなたが女王になってください。』ぶどうの木は言った。『神と人を喜ばせる、わたしのぶどう酒を捨てて、木々に向かって手を振りに、行ったりするものですか。』そこですべての木は茨に頼んだ。『それではあなたが王になってください。』茨は木々に言った。『もしあなたたちが誠意のある者で、わたしに油を注いで王とするなら、来て、わたしの陰に身を寄せなさい。そうでないなら、この茨から、火が出て、レバノンの杉を焼き尽くします。』」
ここで「木々」にたとえられているのはシケムの町の人々です。「茨」にたとえられているのがアビメレクです。オリーブの木、いちちじくの木、ぶどうの木は、アビメレクに殺されたギデオンの息子たちを指しているのでしょう。ギデオンの息子たちには有能で王となるのに相応しい者たちがいた。しかし、何も実を付けず、傷つけることしか出来ない茨のようなアビメレクが王となった。そして、この茨から出た火が焼き尽くすだろう。これはアビメレクとシケムの滅びの預言であり、呪いの言葉でもあります。ヨタムは逃げてベエルに住みました。ベエルというのはずっと南の地域にある町で、そこまではアビメレクの手も及ばないところでした。神様はこのヨタムの言葉を実現されました。その事が21節以下、9章終わりまで記されています。
5.仲違い
シケムの人々に推されて王となったアビメレクでした。22節には「アビメレクは三年間イスラエルを支配下においていた」とあります。しかし、そこからシケムの人たちとアビメレクの関係は崩れていきました。聖書はそれを23節で「神はアビメレクとシケムの首長の間に、険悪な空気を送り込まれたので、シケムの首長たちはアビメレクを裏切ることになった。」と記しています。神様が動かれたのです。「険悪な空気」と訳されている言葉は、最近出ました聖書協会共同訳では「悪い霊」と訳されています。この方がはっきりして良い訳だと思います。シケムの人々もアビメレクも、利害で結びついた関係です。互いに相手を尊敬し、信頼しているわけではありません。そこに神様は「悪い霊」、つまり悪霊を送りました。悪霊というのは、私共の持っている欲を刺激して、人と人との関係を崩していく、そういう働きをします。これは、聖霊なる神様の働きと正反対です。まず、シケムの人たちがアビメレクを裏切ります。アビメレクを待ち伏せる者を置き、彼らに旅人を襲わせました。治安を悪化させ、アビメレクの評判を落とそうとしたのでしょう。シケムの人々にしてみれば、せっかくアビメレクを王にしてやったのに、自分たちを治める者がギデオンからアビメレクに変わっただけで、大して見返りもないということで不満が募ってきていたのではないかと思います。
そして、「エベドの子ガアル」という者が悪霊に用いられて、シケムの人々の自尊心をくすぐります。彼はシケムの人々に信用されます。そして、宴会の席で「アビメレクを嘲った」のです。その時、こう言ったと聖書は記します。28~29節です。「エベドの子ガアルは言った。『アビメレクとは何者か、その彼に仕えなければならないとすると、我々シケムの者も何者だろうか。彼はエルバアルの子、ゼブルがその役人で、彼らはシケムの父ハモルの人々に仕える者ではなかったか。なぜ我々が彼に仕えなければならないのか。この民がわたしの手に託されるなら、わたしはアビメレクを片づけてやるのに。』」ヨシュアに征服される以前の古いシケム、それはヒビ人の首長ハモルの町でした。ヤコブはハモルの息子から土地を買い、祭壇を築きました。シケムはイスラエルに支配されるような町ではなかった。エベドの子ガアルはシケムの人たちの自尊心に訴えて、「誇り高きハモルの子孫が、どうしてギデオンの息子のアビメレクに仕えることがあろう。わたしに兵を与えてくれれば、アビメレクなどさっさと片付けてみせる。」そう言ったのです。
アビメレクによって遣わされ、シケムの町を任されていたゼブルは、これを聞くとすぐにアビメレクにご注進します。「シケムがあなたに背こうとしています。」これを聞いたアビメレクは兵を率いてシケムに行き、これと戦い、これを制圧し、民を殺し、町を破壊し尽くしました。45節には「塩をまいた」と記されておりますが、これは「再建されることがないように」という徹底的な破壊の意思を示す行為です。そして、地下壕に逃げた者たちに対しては火を放ち、千人を殺しました。
アビメレクはそこでとどまらず、テベツの町を攻め、制圧しました。町の人は塔の屋上に逃げました。そこで彼が塔に火を放とうして近づいた時、女の人が投げた挽き臼の石が彼の頭に当たります。彼は女に殺されたと言われるのが嫌で、従者に剣で自分を刺させ、死にました。こうして、アビメレクもシケムの人々も、みんな滅びました。
6.まことの王は主なる神
このアビメレクの記事には、何とも胸が痛む、凄惨な出来事が次々と記されています。説教の備えをしながら、ここに福音があるのかと思いました。確かに、ここには神様の恵みの御業がはっきりと記されているわけではありません。しかし、ここで告げられている主題ははっきりしています。それは、この歴史の主は神様であるということです。自分の欲に引きずられて事を起こして、それがどんなに上手く行くように見えたとしても、神様の選びがなければ、それは必ず滅びるということです。この歴史の主が神様であることを証しする民として立てられているのが神の民なのです。
このアビメレクの一連の出来事の原因は何なのか。聖書はこう告げています。ヤコブの手紙4章1節「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」まことにその通りです。アビメレクだけではありません。いつの時代でも、どの国においても、欲に引きずられた争いが続いています。では、私共の内から全く欲が無くならなければ平和にならないのでしょうか。私共の中から欲が無くなるということがあるでしょうか。生きている以上、私共の内から欲が全く無くなるということはないでしょう。しかし、私共の中にある「欲」がどのような欲なのか、それが大事なのだと思います。私は、「聖なる欲望」というものがあると思っています。それは、自分が得をすることを求める「欲」ではなくて、神様の御心が成ることをひたすら願い求める「欲」です。神様の御業の道具として用いられることが、私共の願いであり、望みであり、喜びとなる欲です。
最後に4節の「世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」は、誤解しかねないので説明します。「世の友」というのは、この世と同じ価値観を持ち、この世が求めるものを自分も求め、神様の御心など関係なく生きる人のことです。アビメレクのような人です。それは救われる前の私共の姿です。しかし、信仰を与えられ、神の子とされ、神様と共に生きる者とされた私共にとって、あの以前の姿に戻ることは出来ません。求めること、願うこと、美しいこと、喜びとすることが、イエス様によって変えられたからです。私共はイエス様に「友よ」と呼んでいただける者とされました。ここに私共の誇りと喜びがあります。勿論、私共は「世の人々の友」です。しかし、神様の敵となるような、世の友にはなり得ないのです。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、士師ギデオンの息子アビメレクの歩みを通して、人間の罪と愚かさをはっきり示してくださいました。この世界の主、王はただ一人、あなた様だけです。私共が自らを王とするような罪から救い出され、ただあなた様の御業にお仕えする者として頂いたこと、あなた様の御心が成ることを何よりも喜び、願い、求める者として頂いたことを感謝します。どうか聖霊なる神様の導きの中で、この歩みをいよいよ確かにしていくことが出来ますよう、お守りください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2020年12月27日]