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礼拝説教

「ペトロの三度否み」
ゼカリヤ書 13章7~9節
マタイによる福音書 26章31~35、69~75節

小堀 康彦牧師

1.ペトロ自身が語ったこと
 2021年最初の主の日の礼拝を捧げています。これからイースターまで、マタイによる福音書から御言葉を受けてまいります。マタイによる福音書に戻りますのは10月11日以来となります。今朝与えられております御言葉は26章31節以下です。
 最後の晩餐の時にイエス様は聖餐を制定されましたけれど、その後イエス様は弟子たちに対して「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」と告げられました。するとペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言います。それに対して、イエス様は「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と告げました。勿論、ペトロは黙っていません。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と答えました。
 それから、イエス様一行はゲツセマネに行き、イエス様は祈られます。そこに、イスカリオテのユダに案内されて、イエス様を捕らえる者たちが来ます。イエス様は捕らえられ、大祭司カイアファの屋敷に連れて行かれます。その時弟子たちは皆逃げましたが、ペトロはイエス様の後を追って行きます。そして、その大祭司の屋敷の庭に入り込んだペトロは、イエス様の預言通り、三度イエス様のことを「知らない」と言ってしまいます。すると、鶏が鳴く。ペトロはイエス様に予告された言葉を思い起こし、激しく泣きました。
 とても有名な話です。そして、とても愛されてきた話です。皆さんも何度もこの場面の説教を聞いてこられただろうと思います。この話を聞く人は皆、このペトロに自分を重ねるようにして聞いたのでしょう。このようにイエス様を三度知らないと言ったペトロでさえも赦され、再びイエス様の弟子として召し出され、キリストの教会の中心的な者として仕え、用いられた。ここに、イエス様の「赦しの福音」というものがはっきり現れています。
 ペトロは一人でイエス様の後について行き、大祭司の屋敷の中庭にまで行ったのですから、ペトロがイエス様を三度「知らない」と言ったこの出来事は、ペトロだけが知る出来事です。他の弟子たちは誰もその場にいなかったのです。しかし、この出来事はどの福音書にも記されています。きっと、福音書が記された時、キリストの教会の誰もがこの話を知っていたのだろうと思います。それはペトロ自身がこの出来事を話したからでしょう。彼は、この出来事を誰にも話さずに隠しておこうとはしなかった。彼は何度も何度もこの話をしたのだと思います。イエス様の福音を語る時、「イエス様を見捨てて裏切った私が、こうして皆さんの前に立ってイエス様の福音を語っている。それは私が赦されたからです。それでも愛されていたからです。ですから、あなたも愛されている。赦されている。決して見捨てられることはない。イエス様を信じて欲しい。」そう語り続けたからなのだと思います。

2.既に赦されている
イエス様は最後の晩餐において、パンを弟子たちに与えながら「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と告げられました。そして、杯を取って「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と告げられました。ここでイエス様は聖餐を制定されのでありますが、この時イエス様の中には、何よりも目の前にいる弟子たちを、これから自分が十字架に架かることによって与えられる罪の赦しに与らせるという思いがあったのではないかと思います。何故なら、この時イエス様は、イスカリオテのユダの裏切りも、自分が捕らえられる時に弟子たちが皆逃げてしまうことも、ペトロが自分を三度「知らない」と言うことも、すべて御存知だったからです。すべてを知った上で、弟子たちをこのパンと杯に与らせました。この時弟子たちは、パンと杯に与ることがイエス様による罪の赦しに与ることだということがよく分かっていなかったのではないかと思います。弟子たちはこの時まだ、「自分は赦されなければならない者である」ということがよく分かっていなかったからです。
 その「よく分かっていなかった」ということが、イエス様とペトロとのやり取りにはっきり表れています。「弟子たちが皆自分につまずくこと」そして「ペトロが今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うこと」をイエス様は御存知でした。その上で、既に赦しておられた。更にイエス様は、御自身が復活されてガリラヤに行き、再び弟子たちを召し出し、全世界に福音を宣べ伝えていくことを命じることも御存知でした。しかし、それはペトロも他の弟子たちも知りません。ですから、イエス様に「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」と言われれば、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」と反論し、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われれば、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と言ったのです。この言葉はペトロの言葉として記されているわけですけれど、35節の最後に「弟子たちも皆、同じように言った。」とありますから、このペトロの言葉は弟子たちの代表として記されていると考えて良いでしょう。弟子たちは皆、自分はイエス様を見捨てて逃げるようなことは決してしないと思っていたのです。この時の思いに嘘はなかったと思います。でも、逃げてしまうのです。ペトロや弟子たちが特に弱い人だったわけではないでしょう。聖書はここで、私共人間の弱さをはっきり記しているのです。「私は大丈夫。」そんなことは誰も言えません。でも、ここでもっと大切なことは、それでも弟子たちは赦されていたということです。イエス様はすべてを御存知の上で、既に赦しておられたということです。

3.本気だったのだけれど
 ペトロと他の弟子たちが、「わたしは決してつまずきません。」と言ったり、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と言ったのは、口先だけではなかったでしょう。ペトロも他の弟子たちも本気で、本当にそう思ったのです。でもダメだった。実際に、イエス様を捕らえようとして大勢の者が剣や棒を手にして自分たちを取り囲むと、とても刃向かうことなんて出来なかった。この時、イエス様を捕らえるために来た人々の人数については、ただ「大勢」としか聖書は記していません。ですからはっきりとは分からないのですけれど、私は100人以上はいたと思います。イエス様には11人の弟子たちが一緒にいるわけです。イエス様を捕らえる時に、この弟子たちが何の抵抗もしないと考える方が不自然です。当然、弟子たちの抵抗があることを前提としてイエス様を捕らえに来たはずです。そうすると、抵抗する人数の10倍くらいの数を備えるというのが常識的数字です。2倍や3倍の人数なら、抵抗する者たちを相手にしているうちに取り逃がしてしまうかもしれません。10倍以上の圧倒的な人数で臨んだはずです。ですからこの時、100人を超える人たちが手に手に剣を持ち、棒を持ち、迫ってきた。それを見たら、弟子たちは逃げるしかなかった。蜘蛛の子を散らすように逃げたのでしょう。弟子たちは逃げました。イエス様を見捨てて逃げました。56節にはっきりそう記されています。人間の本気なんてものは、いかに当てにならないものであるかと思わされます。
 しかし、ペトロだけは、逃げた後でイエス様の後を追ったのです。58節には「ペトロは遠く離れてイエスに従い、」とあります。遠く離れてですけれど、ペトロは「イエス様に従った」のです。そして、大祭司の屋敷の中庭にまで入って行きました。事の成り行きを見るためです。ここまででも大変な勇気がいることだったと思います。ところがその時、「一人の女中が近寄ってきて、『あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた』と言った。」(69節)のです。ペトロはそれを打ち消し、「何のことを言っているのか、わたしには分からない。」と言いました。それは、とぼけてやり過ごそうとして、とっさに出た言葉だったと思います。何しろ、場所は大祭司の屋敷の中庭です。自分がイエス様の弟子と分かれば、すぐに捕らえられてしまうのは間違いありません。ペトロは門の方に場所を変えました。きっと、すぐに逃げられる所に移動したということでしょう。ところが、そこでも他の女中が「この人はナザレのイエスと一緒にいました。」と周りの人々に言い始めたのです。ペトロはきっぱりと「そんな人は知らない。」と誓って言いました。しかし、しばらくすると他の人々にも「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」と言われ、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない。」と誓い始めました。「言葉遣いで分かる」というのは「ガリラヤ訛り」があったということでしょう。ガリラヤはエルサレムから見れば辺境の地です。そして、エルサレムの人が聞けばすぐに分かる「ガリラヤ訛り」があった。それを指摘され、ペトロはもう言い訳出来ない所に追い込まれました。
 ここでペトロの否定の仕方が、どんどん強くなっていくのが分かります。最初は、ちょっととぼけて「何のことを言っているのか分からない。」と言うところから始まり、次はきっぱりと「神様に誓って、そんな人は知らない。」と言い、最後は呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない。」と誓った。呪いの言葉を口にしながらというのは、「わたしが言うことが嘘なら、呪われてもよい。」とか、或いは「イエスなんて知らない。そんな奴は呪われたらいい。」といった言い方ではなかったかと思います。三という数字は完全数ですから、聖書に「三度」と書いてあるということは、ペトロが単に三回「知らない」と言ったという以上に、否定出来ないほどに完全に、決して言い逃れが出来ないほど徹底的に、イエス様を「知らない」と言ったということです。一回目の「何のことを言っているのか分からない。」と言ってとぼけてやり過ごす程度のことではなくて、呪いの言葉を口にするほどに徹底的に「知らない」と、イエス様との関係を否定したというのです。ペトロは自分の方からイエス様との関係を切ったのです。
 ひどい話です。ペトロはイエス様の一番弟子です。その一番弟子が、イエス様との関係を否定した。呪いの言葉さえ口にしながら否定した。本当にひどい話です。しかし、この話はここでは終わらない。ただのひどい話では終わらないのです。

4.そして鶏が鳴いた
 ペトロが三度目に知らないと言った時、鶏が鳴きました。75節を見ましょう。「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」とあります。ペトロは、鶏の鳴く声を聞いて、数時間前にイエス様が言われた言葉を思い出したのです。そして、「激しく泣いた」のです。皆さん、この涙がどんな涙だと思われますか。涙には色んな涙があります。
 この涙は、「大切なイエス様、大好きなイエス様を裏切ってしまった。自分の身が可愛いからと、大切な人を裏切ってしまった。何ということをしてしまったのか。何と自分は情けない者であるか。」という、自分の情けない姿を思い知らされての涙だったのでしょうか。勿論、そのような思いがペテロの心に湧き上がってきたことは間違いないでしょう。しかし、もっと大切な、もっと決定的なことがあるのです。それは、イエス様は自分がそのように三度知らないと言うことを知っておられたということ。そのことをペトロは思ったのです。あの時イエス様は知っておられた。それなのにイエス様は、「そんなことを言ってはダメだ。」とか、「そんなことを言わないように頑張れ。」とは言われなかった。もし、そう言われていれば、ペトロはイエス様の期待に応えられなかった自分の不甲斐なさに崩れるしかなかったでしょう。しかし、イエス様はただ「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」とだけ言われた。ペトロはこの時はっきり分かったのです。我が身を守るために、イエス様を三度知らないとまで言ってしまうわたしを、イエス様は知っておられた。そして、そのわたしを受け入れてくれていた。赦してくださっていた。あの最後の晩餐のパンと杯は、わたしのために与えられたものだったということを、ペトロはこの時知ったのです。自分の弱さ、愚かさを知らされ、しかしそれでも赦し、愛してくださっているイエス様に出会ったのです。ペトロはイエス様の愛に触れたのです。そして、涙するしかなかった。 私共は、自分の間違い、弱さ、愚かさ、不甲斐なさ、醜さに気付いても、落胆し、情けなくなり、自暴自棄になって涙することは中々無いのではないでしょうか。しかし、そのような私をそれでも愛し、受け入れ、励ましてくれている方に出会う時、私共は泣くしかない。涙が溢れる。止めようもなく溢れてくる。それが、悔い改めの涙というものです。
 ルカによる福音書は、同じ記事を記しているところで、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」という言葉を加えています(ルカによる福音書22章61節)。実際に、イエス様とペトロが目の合う位置関係にいたかどうかは分かりません。イエス様は大祭司の屋敷の建物の中で、ペトロは中庭ですから、多分、実際に二人の視線が合うことはなかったと思います。しかしペトロは、鶏が鳴いて、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われたイエス様の言葉を思い出した時、イエス様に見つめられていたことがはっきり分かった。イエス様の眼差しに出会った。そのイエス様の眼差しは、ペトロを責めるのではなく、ペトロに怒っているのでもなく、ペトロを慈しみ、知らないと言ったペトロを悲しんでいる眼差しだった。私もこのイエス様の眼差しを知っています。私共はみんなこの眼差しに出会った。そして、涙して、この方をもう悲しませないで生きていこう、そう思ったのではないですか。

5.復活のイエス様と共に
 この話は、ここでもまだ終わっていません。復活されたイエス様が、ペトロと弟子たちとガリラヤで出会うのです。そして、あの大いなる御命令、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章19~20節)を、ペトロを始めとする弟子たちにお与えになった。イエス様は、三度イエス様を知らないと言い、呪いの言葉さえも口にしてイエス様との関係を否定したペトロでさえ、すべてを赦して、御自分の弟子として、福音を宣べ伝えていくという最も大切な務めを与えました。「わたしを裏切った罪滅ぼしとして、この役割を十分果たしたら、そうしたら裏切った罪も赦してやろう。」ということではありません。もう赦されているのです。三度知らないと言う前から、ペトロは赦されていたのです。赦しが先行していたのです。赦しが先行するという言い方は少し分かりにくいかもしれません。別の言い方をすれば、イエス様の愛が先行している、イエス様の恵みが先行しているのです。そのことを知らされたペトロは立ち直り、やり直したのです。私共も同じです。それでも愛されている、赦されている、受け入れられている。このことに気付く時、私共は喜びと感謝とをもってやり直すことが出来るのです。
 この時、弟子たちはもう、「自分たちは出来る」「自分たちの力でやっていこう」、そんな風には思いませんでした。自分たちがどんなに力が無いか、意気地が無いか、嫌というほど知らされたからです。でも、ペトロや他の弟子たちには穏やかな自信がありました。それは、イエス様が「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束してくださったからです。イエス様が共にいてくださる。自分たちはそのイエス様の御業に仕える。イエス様が自分たちの道を開いてくださり、イエス様が出来事を起こしてくださる。だから大丈夫。それは、信仰による穏やかな自信とでも言うべきものです。

6.切っても切れない
最後にもう一つだけ確認したいと思います。ペトロは三度イエス様を知らないと言いました。それは、イエス様のことを「知らない」と言うことによって、つまりペトロの方からイエス様との関係を否定し、拒否したなら、ペトロとイエス様との関係は切れてしまうものなのかどうかということです。これは、私共とイエス様との関係でも同じことです。
 私共はイエス様を信じ、イエス様と共に生きていこうと思って、洗礼を受けたはずです。その時、どれ程神様・イエス様のことを分かっていたかどうか、それは大した問題ではありません。洗礼を受ける時によく分かっている人なんていないのですから。問題は、洗礼という神様との契約が、「イエス様のことなど知らない。」と自分から否定することによって反故になってしまうのかということです。聖書は全体を通して、神様は一度結ばれた契約を反故にすることはなさらないと告げています。たとえ、私共の方からそう言ったとしても、無効には決してなさらない。どんなひどいことを言って神様を否定しても、それでも赦しを受けて、何度でもやり直すことが出来る。それが私共の信仰の歩みです。ペトロの場合は自分の身が危なかったのだから情状酌量の余地がある。しかし、特に理由も無いのに神様から勝手に離れていくのは、不信仰以外の何ものでもない。それは赦されない。そう思われる方もおられるかもしれません。しかし誰が、この人は情状酌量の余地があるとか、この人には無いとか、決めることが出来るのでしょう。そんなことを決められる人などどこにもいません。神様との契約は切っても切れないのです。ただ、人間の側で勝手に切ったつもりになる人が時々出てくるというだけのことです。そういう人は、「私が信じると決めて洗礼を受けたのだから、私が知らないと言ったら、それでお終い。」と考えているのかもしれません。しかし、私共は自分で神様を選んだのではなくて、神様が私共を選んでくださったのです。ペトロにしても、その他の弟子たちにしても、自分からイエス様の弟子になった者は一人もいません。みんなイエス様に選ばれ、召し出されて、弟子となりました。この神様の選びの事実に、私共の救いの確かさの根拠があります。私共の洗礼も信仰も同じことです。神様の選びによって与えられたものです。ですから、私共と神様・イエス様との関係は、切っても切れない、そういう関係なのです。だから、何度でもやり直せますし、何度でも立ち帰ることが出来るのです。まことにありがたいことです。神様の関係としての信仰というものを、私の神様を信じる気持ちなどというものに矮小化してはなりません。
 私共は今から聖餐に与りますけれど、それに与る者は「洗礼を受けている者」です。神様と契約を結んでいるからです。「私はこんなにちゃんと神様を信じています。」と言われても、人の心の中を見通すことなど誰にも出来ません。洗礼という神様との契約を結んだ者は、今の自分の心の状態がどうであれ、イエス様に赦され、愛されています。そして、立ち帰って、神様と共なる歩みへと招かれています。その招きに応える者として聖餐に与り、ここから共に歩んでまいりたいと思います。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、2021年最初の主の日の礼拝を御前に捧げさせてくださいました。感謝します。ペトロの三度否みの出来事を通して、それでも愛され、赦され、受け入れていただいております恵みを改めて知らされました。感謝します。どうか、私共がこの恵みの中を健やかに、神の子・僕として歩んでいけますよう、上からの支えと導きを心からお願い申し上げます。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年1月3日]