1.はじめに
マタイによる福音書を読み進めながら御言葉を受けています。イエス様が十字架にお架かりになった日の出来事です。イエス様は弟子たちと最後の晩餐をし、それからゲツセマネに行く途中で弟子たちがつまづくことを予告されました。それから、ゲツセマネで祈られ、そこでイスカリオテのユダに手引きされ祭司長や民の長老たちによって遣わされた大勢の群衆によって捕らえられました。今朝与えられている御言葉は、その後イエス様が大祭司カイアファの屋敷に連れて行かれて、最高法院のメンバーによって裁かれた場面です。
この時、大祭司の屋敷には「最高法院の全員」が集まっていたというのですから、これが前もって準備されたものであったことが分かります。最高法院と訳されておりますのは、サンヘドリンと言いまして、ローマから自治を認められていた71人によって構成されていたユダヤの議会です。議長は大祭司でした。ローマは、軍事と税金を取り立てること以外は、ほとんどこの最高法院に委ねていたと言って良いでしょう。今までイエス様は、律法学者たちやファリサイ派・サドカイ派の人々としばしば論争されましたけれど、その集大成と言いますか、その結論がここにあると言って良いと思います。ここで大祭司はイエス様に「お前は神の子、メシアなのか。」(63節)と問いました。この時のイエス様の裁判の焦点は、この問いにすべてかかっていたと言って良いでしょう。
2.人間が神様を裁く倒錯
この裁判の決定的な特徴は、人間が神様であるイエス様を裁いているという点にあります。人間が神様を裁く。これは完全な倒錯です。神様と人間の関係が逆転しています。神様が人間を裁くのであって、人間が神様を裁くなんてあり得ないことです。しかし、そのあり得ないことが起きているのが、このイエス様の裁判の場面なのです。この後の総督ビラトによる裁判においても同じことが言えます。人間が神を裁く。勿論、大祭司にしても最高法院の議員たちにしても、自分たちが神様を裁いているなんて考えてもいません。イエス様をただの人間だと思っています。だから、裁判をして処刑することにしたのです。確かに、人間が神様を裁くなどということは、原理的にはあり得ないことです。しかし、このようなことが二千年前のイエス様に対してだけ起きたことなのかどうか、私共はよく考えてみる必要があるかと思います。
そもそも、どうして大祭司や最高法院の人たちはイエス様を裁こうとしたのでしょう。それはエルサレム神殿を中心としたユダヤ教の教えやそのあり方に対して、イエス様が否定的だったからです。当時のユダヤ教と同じことを言っていたのならば、イエス様は彼らからこのように敵対視されることはなかったはずです。でも、ただ否定しているだけならば、彼らはこれほどイエス様を敵対視することはなかったでしょう。イエス様が大きな影響力を持ってきたから、人々がイエス様のことを噂し、イエス様への期待が高まってきたから、彼らはイエス様を無視することが出来なくなったのでしょう。イエス様への人々の期待とは、イエス様が救い主、メシアではないかという期待です。実際、イエス様は様々な奇跡をなさいました。中風の者を立ち上がらせ、目の見えない者の目を開き、嵐を静め、男だけで五千人の人たちにパンを与え、死んだ者を生き返らせました。そして人々は、イエス様がエルサレムに入る時に「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と叫んで迎えました。このまま放っておいたらどうなるのか。イエス様をメシアとして担いで暴動が起きるかもしれない。それは勿論、ユダヤを支配するローマに対する暴動ということです。ひょっとすると、暴動では済まずに、反乱にまで発展するかもしれない。或いは、その矛先は反ローマというだけではなくて、律法学者や祭司といった神殿貴族たちに対しても向けられるかもしれない。そんなことを彼らは恐れたのではないかと思います。ローマ帝国の統治の仕方は、征服した民族や国に対してとても寛容です。大幅に自治を認め、その民族や地域の宗教・習俗には口を出しません。ただ、反乱に対してだけは全く寛容ではありませんでした。徹底的に叩きます。その町や民族が二度と立ち上がれないほどに徹底的に叩く。大祭司や最高法院の議員たちはそれを恐れたのかもしれません。ヨハネによる福音書11章50節に、大祭司カイアファが最高法院の人たちに向かってこう告げたことが記されています。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、厄介なイエス様を殺すことによってユダヤを守る、神殿を中心としたユダヤ教のシステム全体を守る、ユダヤ人社会を守る。彼らはこれを目的としていたということです。
3.不当な裁判① ~神殿再建を巡って~
今朝の聖書の箇所の小見出しは、「最高法院で裁判を受ける」とありますけれど、ここでなされたのは、とても「裁判」と呼べるようなものではありませんでした。この裁判は全く不当で、不正で、驚くべきものでした。そもそも、罪状がないのです。この人はこのような罪を犯した、それで裁判にかけるというのでなければ、裁判そのものが成立しません。しかしイエス様には、捕らえられた時も、裁判にかけられた時も、罪状がないのです。罪状がない裁判なんて、私共の常識からすれば成立しません。第二に、口伝律法には、日没後に裁判を開いてはならないと規定されていました。第三に、偽証を求めています。偽証を求める裁判なんてないでしょう。これは明らかに十戒の第九の戒め「あなたは隣人について、偽証してはならない」に反しています。このようなものは、とても裁判と呼べるものではありません。これはイエス様を殺すための口実を作るために開かれたものです。イエス様を殺す。それは最初から決まっていて、その理由をつけるための裁判でした。聖書にははっきり「死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。」(59節)とあります。つまり、イエス様には死刑にされるような理由は全くなかったけれど、死刑にするために裁判のようなことがここで行われたということです。
偽の証人は何人も現れました。しかし、証言が一致しない。偽の証言ですから、よっぽど口裏を合わせていないと一致することはありません。申命記19章15節には、「二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」とあり、一人だけの証言では採用されないことが律法に明記されています。三千年以上前から、ユダヤにおいては複数の証言によらなければ証拠とはならないと規定されました。これは凄いことだと思います。しかしこの場合、そもそもが不当で不正な裁判なのに、複数の証人がいなければ採用しないというところは守るというのは、手続きだけは正当な形を取り、形だけでも正義を装わなければならなかったということなのでしょう。そして、最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」(61節)と告げました。この言葉は、ヨハネによる福音書の宮清めの場面(2章19節)でイエス様が、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われたことを指しているのでしょう。しかしこれも、「わたしは神殿を壊すつもりだ。」と言われたのではありませんし、人々に「神殿を壊せ。」と促しているわけでもありません。イエス様はここで、「壊しても三日で建て直してみせる」と言われたのであって、御自身の力を告げているだけです。この時人々は、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか。」と言うのですが、聖書は「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(2章21節)と説明しています。つまり、イエス様は十字架の上で死んで、三日目に復活し、その事によって、この目に見える神殿を必要としない、新しい神の民を立てると言われたのです。しかし、この目に見えるエルサレム神殿において犠牲を献げることが礼拝の中心と考えていた彼らには、そのようなことは分かるはずもありません。仮にも「神殿を壊して」などと言うこと自体がとんでもないことであって、彼らには、イエス様が信仰の秩序、社会の秩序を壊そうとするテロリストのように思えたのでしょう。
イエス様は、神殿を壊すなどということは微塵も考えておられませんでした。何故なら、それは放っておいても、やがて崩れ倒れるからです。形あるものは、必ず倒れ、崩れていくのです。エルサレム神殿はこの時からおよそ40年後、紀元後70年にローマ軍によって瓦礫の山となってしまいます。やがて崩れるエルサレム神殿のことなど、イエス様は始めから問題にされなかったのです。しかし、大祭司たちにとっては、決して聞き捨てに出来ないことだったのでしょう。それほどまでに、彼らにとっては神殿が大切だったのです。自分たちの権威の源泉であり、信仰の拠り所だったからです。しかし、イエス様の十字架と復活によって始まる新しい神の民は、目に見える神殿を必要としません。いつでも、どこでも、インマヌエル(=神、我らと共にいます)の恵みに生きる民なのです。
4.不当な裁判② ~お前は誰か~
大祭司は、「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」(62節)とイエス様に告げます。イエス様は黙っておられました。偽の証言が次々となされるわけですが、それが偽の証言であることは、大祭司もイエス様も知っているわけです。ですから、「どうなのか」と言われても答えようがありません。イエス様はゲツセマネの祈りにおいて、御自身が十字架に架けられることが父なる神様の御心であると受け止められましたので、命乞いをするつもりも、言い逃れをするつもりもありませんでした。ですから、黙っておられました。それは預言者イザヤが、「屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」(イザヤ書53章7節)と預言した言葉を思い起こします。
そして遂に大祭司は、最も大切な、核心に迫ることを問います。それが63節「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」という問いです。この問いは、イエス様に関する、最も重大な問いです。しかし、この時大祭司カイアファは、イエス様から本当に答えを聞きたかったわけではありませんでした。もし、この問いに対してイエス様が「そうだ」と答えれば、「これは神を名乗る不届き者、神様を汚す者」と断じて死刑にすることが出来ます。また「違う」と答えれば、民衆の中でイエス様をメシアだと期待している者たちの期待を裏切らせることになります。命乞いをする惨めなイエス様の姿を人々の前で曝させることも考えていたのではないかと思います。これで神殿の権威に逆らう者に対して、示しがつくというものです。大祭司にとって、答えはどちらでも良かったのです。この問いは、イエス様に対しての罠でした。
ここで私は気になることがあります。それは、大祭司が「生ける神に誓って答えよ」と言ってイエス様に迫っていることです。大祭司は、イエス様を罠に陥れるためにこのように問い、これに答えさせるために「生ける神」を出してきたのです。これは十戒の第三の戒め「主の名をみだりに唱えてはならない」に反しています。この戒めは、神様を自分のために利用することを禁じているのです。彼は大祭司です。神殿における執り成しの礼拝を司っている者です。しかし、この時彼には、神様の御前に立つこと、神様の御名を用いることへの畏れがありません。ここに、当時のユダヤ教の形骸化、最も深い罪を見るような思いがします。神様を自分の正しさ、自分の権威付けのために利用している。しかし、そのことに自分も周りも気が付いていません。
5.不当な裁判③ ~それはあなたが言ったことです~
この大祭司の問いに対して、イエス様はこのようにお答えになりました。64節「それは、あなたが言ったことです。」これは、肯定しているのか否定しているのか、どう受け取れば良いのか分からないような答えです。口語訳聖書から新共同訳聖書に変わった時に、私が最も戸惑った箇所の一つです。口語訳では「あなたの言うとおりである。」と訳されておりました。新改訳も同じです。一方、2年前に出ました聖書協会共同訳は、新共同訳と同じです。この所をギリシャ語で確認すると、直訳すると「あなたは言った」としか記されていません。イエス様の意図としては、口語訳や新改訳が訳しているように「あなたの言うとおり」と肯定しているのだと思います。と言いますのは、これに続けてイエス様は「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」と告げます。これはダニエル書を引用して、神の子・メシアの再臨の預言を告げているわけです。そして、この「人の子」とはわたしのことだ、そうイエス様は告げていると読んで良いでしょう。そのイエス様の意図は大祭司にも通じました。だから、大祭司はこのイエス様の答えを聞いて、65~66節「服を引き裂きながら言った。『神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。』」と言ったのでしょう。大祭司と最高法院の議員たちには通じたのです。
それにしても、どうしてイエス様はこのような言い方をされたのか。そこにはやはり意味があると思います。それは、このイエス様が誰であるかという問いは、イエス様に問うのではなくて、イエス様から問われることなのではないかと思うのです。イエス様が誰であるのか。この問いは、16章においてイエス様が弟子たちに対して、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われたものです。そして、この時ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えました。イエス様が誰であるのか、神の子なのか、メシアなのか。これは聖書において、キリスト教において、最も重大な、核心的、中心的な問いです。これにどう答えるのか。それが信仰告白というものです。この問いにどう答えるかによって、私共の信仰が、私共の人生が決まってしまう。そういう決定的な問いです。しかし、この問いに対してイエス様御自身が「わたしはメシアである」「わたしは神の子である」と直接的に答えている所はありません。そのようにしか読めないという答え方をしている所は幾つもあります。今日の箇所もその一つです。しかし、直接的にイエス様が自分の口で「わたしはメシアである」とか「わたしは神の御子である」と言われている所はありません。何故なら、この「イエス様は神の御子、メシアです。」というイエス様に対する信仰告白は、イエス様の前に立つ私共がしなければならないことだからです。イエス様に聞いても、イエス様が私共に答えることはありません。逆に、「あなたはどう言うか。」「あなたはどう告白するのか。」そうイエス様から問われるのです。
大祭司は、この自らがイエス様に対して為した「お前は神の子、メシアなのか。」に対して、別の言葉で答えています。「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。」が大祭司の答えでした。つまり、イエス様は神様を冒瀆する、神の御子を僭称する、不敬な者、死刑にされるべき者だというのが大祭司の答えであり、最高法院の議員たちの答えでした。だから、イエス様を十字架に架けることにしたのです。イエス様を殺して、自分を守ったのです。
6.倒錯の罪に陥らないために
ここでもう一度、最初に申し上げました「この裁判の決定的な特徴は、人間が神様であるイエス様を裁いているという点にある。人間が神様を裁くという完全な倒錯がここにある。」というところに戻って考えてみましょう。何故、大祭司や最高法院の議員たちは神の御子であるイエス様を裁くという、最も大いなる罪を犯してしまったのでしょうか。それは、自分が持っている神様のイメージや神様の御心というものと、イエス様が告げる神様の御心とが全く違っていたからでしょう。大祭司や最高法院の議員たちは聖書をよく知っていました。しかし、イエス様を受け入れることが出来ませんでした。それどころか、67~68節では「イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った。」とあります。「言い当ててみろ」とは、「預言してみろ」という言葉です。イエス様を嘲弄したのです。神の御子に対して、何ということをするのでしょう。
しかし、この姿が私共と無縁だと言えるでしょうか。神様の御心と私のイメージや私の願いが違うということは大いにあることでしょう。その時私共は、自分のイメージや願いの方を優先し、こんなことを神様が求めるはずがない、こうなることが神様の御心であるはずだ、神様はこのようなお方だ、と決めつけてしまってはいないでしょうか。もしそうであるならば、私共は大祭司たちと少しも変わらないということになりかねません。神様の御心でないことを、神様の御心だと勘違いしてしまうことになるでしょう。人間は間違いを犯すものです。しかし、少しでもこのような過ちに陥らないために、今、二つのことを申し上げたいと思います。
第一に、御言葉に新しく聞くということです。長い信仰生活をすればするほど、「聖書のここは、こう言っている。キリスト教とはこういうものだ。」といった具合に、聖書の言葉や福音の真理が新しく聞こえなくなる、当たり前のことのようになってくるということが起きます。これは必ず起きます。しかし、これが問題なのです。聖書の言葉は「神の言葉」です。ですから、私共の小さな頭で分かり切ることなどあり得ません。聖書を少しでも深く広く読んでみますと、聖書の言葉が今までと全く違った響きを持ってくるということが起きます。それが聖書を新しく聞くということです。その営みの中で神様の御姿はいつも新しくなり、神様の御声はいつも新しく響くことでしょう。信仰において、見えなかったことがそのたびに新しく見えてくることが起きます。これが大切なのです。変わっていく、変わり続けていくのです。それが、生ける神様との交わりに生きるということです。神様は生きて働いておられるお方ですから、いつも私共のイメージを壊し、破っていってくださるのです。
第二に、私共は神様に裁かれるべき罪人であることを肝に銘じるということです。イエス様の十字架の御前に立つ時、私共は自分が何者であるかを知らされます。このお方の血潮によって罪を贖われた者だということです。つまり、人様に偉そうなことを言える者ではないということです。勿論、神の子・僕としての喜びと誇りはあります。しかし、それはイエス様によって与えていただいたものですから、偉そうにすることなど誰にも出来はしません。大祭司も律法学者たちも、いつの間にか、自分は正しく偉い者だと勘違いしてしまったのでしょう。キリスト者だって同じ間違いを犯さないとは限りません。ですから、十字架を見上げていきましょう。私共が決して思い上がった者とならないためにです。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、イエス様が最高法院において、大祭司たちによって裁かれる場面の御言葉を通して、私共が神様を裁くような過ちに陥らないようにと御言葉をくださいました。ありがとうございます。どうか私共が、イエス様の十字架の御前に立って、あなた様こそ神の御子、私のただ独りの主と告白しつつ、あなた様に救われた者として健やかに御国への歩みを為していくことが出来ますよう、聖霊なる神様の守りと導きを心からお願い申し上げます。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2021年1月24日]