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礼拝説教

「約束の真実」
士師記 11章1~11節、29~40節
ローマの信徒への手紙 3章21~26節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は1月最後の主の日ですので、旧約の士師記から御言葉を受けてまいります。前回士師記から御言葉を受けましたのは、12月27日の主の日でした。士師記9章から、士師ギデオンの息子アビメレクの過ちを通して、まことの王は主なる神様しかおられないことを心に刻みました。士師ギデオンの息子のアビメレクが他の70人の息子たちを殺して自ら王となるのですが、当然そのようなあり方で王になっても、きちんと治まるわけがありません。内戦状態になり、その戦いの最中、アビメレクは人々が逃げ込んだ塔に火を放とうとして塔に近づいた時、一人の女性が挽き臼の石をアビメレクに向かって放ち、それに当たってアビメレクは死にます。士師は神の民のまことの王であられる神様によって立てられなければ、神の民を治めることは出来ません。聖書が語る神の民の歴史の中心は、いつもそこにあります。神の民は神様によって導かれ、神様と共に歩む民です。神様抜きに歩むことは出来ない民、許されない民なのです。
 その後10章には、トラという士師が立てられ23年間イスラエルを裁いたこと、その後ヤイルという士師が立てられ22年間イスラエルを裁いたことが記されています。この二人については、とても短い記述があるだけです。二人の特別な賜物や業績は何も記されていません。けれど、この二人の士師に導かれた45年間、イスラエルは平和だったのでしょう。平和である、それは本当に幸いなことです。神様に立てられた指導者である士師によって神様の御心に従って神の民が歩んでいる時、そこには平和があるということなのでしょう。
 しかし、この二人の士師の後、イスラエルは再び「主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。彼らは主を捨て、主に仕えなかった。」(10章6節)のです。バアルとアシュトレトだけではありません。カナン地方にとどまらず、近隣のすべての民族の神々を拝んだ、と聖書は告げます。これほど多くの神様を拝んだ時代はそんなにないと思うほどに、イスラエルは神様から離れてしまったのです。そして、神様はアンモン人がギレアドを攻めるという懲らしめを与えられました。その時立てられた士師がエフタでした。今日は、このエフタを巡る御言葉です。

2.エフタが立てられる
11章は1節「ギレアドの人エフタは、勇者であった。彼は遊女の子で、父親はギレアドである。」と始まっています。少しややこしいのですが、ここで「ギレアド」という言葉が2回出てきます。始めの「ギレアド」は地方の名前です。そして、後の「ギレアド」はエフタの父親の名前です。ここで「ギレアド」と呼ばれる地方がどの辺のことなのか確認しておきましょう。聖書の巻末の地図3を見ていただきますと、ヨルダン川の東の地域であることが分かります。そして、アンモン人というのは更にその東に住んでいた人々です。
 エフタは遊女の子でした。それ故、ギレアドの妻が産んだ子どもたちによって、エフタはギレアドの家から追い出されてしまいます。そして、彼はトブの地に落ち着きます。その彼のもとにはならず者が集まり、エフタは彼らと共に行動しました。これは多分、エフタとその一党が盗賊の類いをしていたということなのだと思います。エフタは盗賊の頭領になったのです。しかも、エフタの一党はかなり大がかりなものではなかったかと思います。数人で行う「追いはぎ」のようなものではなくて、何十人或いは何百人という所帯だったのでしょう。そして、彼はこの一帯では相当に有名になった。エフタとその一味は強い。そのような評判も立ったのでしょう。
 だから、ギレアドの人々がアンモン人から戦争を仕掛けられた時、ギレアドの長老たちはエフタを連れ戻そうとし、自分たちの指揮官になってくれるように頼みに来たのです。勿論、エフタとしてみれば「自分を遊女の子だと言ってのけ者にし、父の家から追い出しておいて、今更勝手なことを言うな。」と思うわけです。しかし、長老たちは「アンモン人と戦って勝ったなら、自分たちの頭になっていただきます。」と言うのです。しかも、10節に「主がわたしたちの一問一答の証人です。わたしたちは必ずあなたのお言葉どおりにいたします。」とあるように、ギレアドの長老たちは神様を証人として誓いました。そこで、エフタは彼らの指揮官としてギレアドに戻りました。
 ここで思わされますことは、神様はその人の生まれとか、身分とか、何をやってきたかとか、そんなことには一切関係なく、御自分の業に仕える者をお選びになり、お立てになるということです。エフタはギレアドを追われた時、腹を立てたでしょう。将来への見通しもなく、自暴自棄、やけくそ、投げやりになったこともあるでしょう。自分の生まれた境遇を恨んだこともあったかもしれません。ギレアドの人たちを憎んだこともあったでしょう。しかし、神様はエフタに故郷に戻る道を、士師として歩む道を備えていてくださいました。これは、誰に対しても言えることでしょう。勿論、誰もが士師になるわけではありません。しかし、エフタと同じように、神様の御手の中に私共の明日はあります。ですから、やけにならず、置かれた場においてやれることをやっていく。そうすれば、神様によって道は開かれていくということなのでしょう。

3.エフタの誓い
いよいよ、アンモン人との戦いの時が来ました。29節に「主の霊がエフタに臨んだ。」とあります。これが、決定的に大切なことです。エフタは、聖霊なる神様の御臨在のもとでアンモン人との戦いに臨んだのです。主が共におられ、導いてくださるのですから、負けるわけがありません。結果は、イスラエルの大勝利でした。エフタに率いられたギレアドの人々はアンモン人を徹底的に撃つことが出来、アンモン人たちはイスラエルに屈服しました。
 ただこの時エフタは、神様にする必要のない誓いを立ててしまいました。30~31節です。「エフタは主に誓いを立てて言った。『もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。』」という誓いです。どうして、彼はこんな誓いを立ててしまったのでしょうか。エフタにしてみれば、自分の人生が決まってしまう一世一代の大勝負です。何としても勝たなければなりませんでした。何として勝ちたかった。ここで勝たせていただけるならば、何でもささげよう。エフタはそういう思いの中で、この誓いを口にしてしまったのだと思います。しかし、このような誓いは必要だったのでしょうか。まずはっきりさせておかなければならないことは、エフタはこの誓いによって神様の力を頂いてアンモン人に勝利したのではないということです。エフタの上には主の霊が臨んだのですから、このような誓いをしなくても、神様の御力を信じて、導きを信じて、ただ自分の為せる精一杯のことをすれば、エフタはアンモン人に必ず勝利したはずなのです。ですから、エフタはただ神様を信頼すれば良かったのです。この誓いはしなくても良い誓い、もっとはっきり言えば、しない方が良かった誓いだった。更に言えば、してはならない誓いだったのです。
 エフタの思いは分かります。私共も、ついこのような祈りをしてしまうことがあると思います。私も、娘が妻のお腹にいる時、妻の卵巣嚢腫が見つかり、手術をするということがありました。手術までは、近くの医院の先生に「盲腸の手術くらいのものです。」と言われていました。ところが、いざ手術のために大学病院に行きますと、手術をするお医者さんから「厳しい手術になります。母体を優先しますので、お腹の子は諦めてください。」と言われました。その夜、私は「どうか、妻を助けてください。お腹の子を助けてください。次の子がもう与えられなくても良いですから、どうか助けてください。私の生涯のすべてをあなたに捧げていきますから、助けてください。」そう祈っていました。その祈りは聞かれ、娘は無事に生まれました。しかし、二人目が与えられることはありませんでした。次の子はもう与えられなくても良いですからと言ってしまったのですから、仕方がありません。その時はとにかく必死だったのです。必死に祈って、祈り疲れて眠ってしまいました。気が付いたら朝でした。こういうことは、人生で2回しか経験していませんけれど、その一回がこの時でした。

4.神様は人間のいけにえを求めない
 エフタの気持は分かるのです。必死だったのです。でも、この誓いは違う。聖書が示す信仰のあり方ではない。私はそう思います。
 エフタはアンモン人に勝利しました。そして家に帰ります。34~35節「エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。『ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。』」エフタが家に帰ると、何とエフタの一人娘が迎えに出て来たのです。エフタは神様に「わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」と約束していました。エフタは、何という誓いを神様にしてしまったのか、と後悔します。そしてエフタの娘ですが、36~38節「彼女は言った。『父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。』彼女は更に言った。『わたしにこうさせていただきたいのです。二か月の間、わたしを自由にしてください。わたしは友達と共に出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです。』彼は『行くがよい』と言って、娘を二か月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しんだ。」とあります。そして、39節「二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。」というのです。まことに痛ましい出来事です。その痛ましさの故に、この出来事は人々の心に残ることになりました。  皆さんはこの話を読んで、何とも釈然としない、スッキリしない思いを持たれたのではないかと思います。ここを読んで、神様の御心はこういうことか、すんなり分かったという人はいないでしょう。ここで様々な問いが出てきます。一つは、神様はこのようなことを喜ばれたのだろうか、というものです。答えは明確です。神様はこのような「いけにえ」(人身御供)を決してお喜びにはなりません。それは旧約聖書に何ヶ所も記されています。その中の二つを今読んでみます。レビ記18章21節には、「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレクの神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」とあります。また、詩編106編37~38節には「彼らは息子や娘を悪霊に対するいけにえとし、無実なものの血を流した。カナンの偶像のいけにえとなった息子や娘の血はこの地を汚した。」とあります。その他にも何ヶ所もあります。子どもを「いけにえ」としてささげる。それはカナンの宗教において行われておりました。しかし、旧約において人間を「いけにえ」としてささげることは、固く禁じられていました。それを行う者は悪霊に仕える者、異教の神々に仕える者であって、この行為は神様が最も忌むことでした。旧約において教えられているのは、動物の献げ物です。動物の命と人間の命は全く違います。この時、エフタは神様が最も忌み嫌われること、誓ってはならないことを神様に誓ってしまったのです。

5.間違った誓い
 では、エフタは本当に自分の娘を手にかけて、いけにえとして、焼き尽くす献げ物として神様にささげたのでしょうか。
 これについては、二つの理解があります。一つは、文字通り焼き尽くす献げ物としてささげたという理解です。もう一つは、彼女は自分が死ぬことではなくて、処女であることを嘆き悲しんだということが何度も告げられていることから、彼女は生涯幕屋において神様に仕える者としてささげられたという理解です。どちらの理解も可能だと思います。旧約全体から見れば、後者の理解、生涯幕屋において神様に仕える者としてささげられたと理解する方が良いのではないかと思います。
 しかし、この話のポイントはそこにあるのではありません。エフタがしてはならない誓いを神様にしてしまったということです。誓うこと自体が間違いだとは言いません。私共は洗礼を受ける時、結婚する時、教会の牧師として立てられる時等々、神様の御前で誓うわけです。そして、その誓いに対しては、私共は誠実でなければならないことは言うまでもありません。しかし、その神様の御前における誓約は、自分の今後の歩みについてであり、自分自身を神様にささげるということであって、たとえ自分の子であっても、自分のためにささげるなどいうことは御門違いもいいとこです。この時、もし自分を迎えに出て来たのが召使いであったなら、彼はこれほど心を痛めたでしょうか。召使いなら良いけれど、自分の娘だから心を痛めたということならば、それも変な話です。問題は、自分以外の者の命をささげて神様から良きものを得ようとすること自体の過ち、問題性。それがこのような悲惨な結末を迎えることになったのだということなのです。

6.既に御子がささげられている
 そもそも、神様に誓うということは、「これこれをささげますから、これこれをしてください。」或いは「これこれをしてくれたら、これこれをささげます。」というものではありません。このような誓いは、十戒の第三の戒め「主の御名をみだりに唱えてはならない。」に反することです。神様を自分の願いの為に利用することになるからです。イエス様が、マタイによる福音書5章33~37節で「誓ってはならない」と言われたのは、そういう意味です。エフタは士師でした。しかし、それでもこのような間違いを犯すのです。私共は、どのような歩みを神様の御前にささげていくのか、私共が献げ物をささげるとはどういうことなのか。改めて心に刻んでおきたいと思うのです。
 そもそも私共が神様にささげるというのは、神様の恵みの御業に触れ、神様の愛に触れ、感謝の献げ物がささげられるということです。エフタは旧約ですから、まだイエス様を知りません。しかし、私共は知っています。イエス様の十字架を知っています。パウロはローマの信徒への手紙3章24~25節において「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」と告げました。イエス様の十字架は、私共の罪の贖いの供え物です。旧約においてささげられていた贖いの供え物は動物でした。ですから、それは不完全なものでした。しかし、全く罪のない、完全な人間であられたイエス様が、神の子羊として、私共の身代わりとして、完全な罪の贖いの犠牲として十字架にお架かりになりました。それ故、私共の一切の罪は完全に贖われ、赦され、私共は神の子とされました。ですから、もう誰も犠牲にならなくて良いのです。罪の裁きは済んだからです。すべての支払いは済んでいるからです。ですから、私共はただ感謝をもって、神様の御業に存分に用いていただくために自らをささげる。それが、神様が一番喜ばれることなのです。

7.約束の真実
 今日の説教題は「約束の真実」です。この説教題を見て、士師記11章のエフタの話を読んでこられた方は、今朝の説教は「エフタのように、たとえ自分の娘であっても、神様と約束した以上、献げなければならない。神様との約束はそのように真実でなければならない。」というメッセージだろうか、と思った方もおられるかもしれません。しかし、聖書はそのようなメッセージを私共に告げているのではありません。説教題にある約束とは「神様の約束」です。「神様の約束の真実」なのです。
 神様がアブラハムと結ばれた約束。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」(創世記12章2節)と神様はアブラハムに約束されました。神様はこの約束の故に、高齢になったアブラハムとサラからイサクを生まれさせ、イサクからヤコブ、ヤコブからイスラエルの十二部族の祖となる息子たちが生まれました。彼らはエジプトに行き、奴隷になってしまいます。そして、エジプトで奴隷であったイスラエルを、神様はモーセを立てて、アブラハムと約束した約束の地へと導き上り、ヨシュアによってヨルダン川を渡って約束の地に住まわせます。イスラエルはそれにもかかわらず、その地の神々を拝み、主なる神様から何度も離れていきました。しかし、その度に士師を起こし、再び神様の御許に立ち帰らせました。今朝の御言葉に記されている士師エフタの出来事も、この神様の約束の真実の中での出来事です。この神様の約束の真実は、遂には主イエス・キリストの十字架・復活へと繋がっていき、最後には終末における神の国の完成に至ります。この神様の「約束の真実」。どんなことがあっても、どんなに時間がかかっても、神の民の救いを完成へと導き続けてくださる。これが神様の約束の真実です。そして、この神様の約束の真実を記しているのが聖書なのです。ですから、この神様の約束の真実の中で、聖書の一つ一つの出来事や話は受け取られていかなければなりません。それが聖書全体の中で、それぞれの箇所を受け止めていくということです。主の日の度に与えられる聖書の箇所を、細かな断片としてだけ読んでいくと、聖書全体が見えなくなって分からなくなります。エフタはこのような誓いをしなければ良かったのです。ただ神様を信頼して、自分の為すべきことを為していけば良かったのです。しかし、エフタにはそれが出来ませんでした。神様を信頼出来なかったのです。それがここでの本当の問題だったのです。
 今朝の士師エフタの話は、誤った誓いによって娘を犠牲にしなければならなかった痛ましい話です。けれど、実は、この話は「父なる神様が、我が子を十字架にお架けになって、約束の真実を示される」ことを指し示し、イエス様の十字架の預言となっています。(これと同じ構造になっているのが、創世記22章に記されているアブラハムのイサク奉献の出来事です。)このエフタと娘のこの話を透かして見ると、イエス様の十字架が浮かび上がってくるのではないでしょうか。エフタの間違った誓いの出来事を通してさえも、神様は私共にイエス様の救いの出来事を告げます。そして、決して揺らぐことのない自らの約束の真実を教えてくださいます。ありがたいことです。
 この神様の約束の中で私共は生かされています。その恵みに感謝しつつ、ただ感謝をもって、自分自身を神様にささげて、神様の御業に存分に用いていただく者として、この一週も御国に向かっての確かな歩みを御前に為してまいりたいと願うものです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、士師エフタの誤った誓いの出来事を通して、私共があなた様の約束の真実の中に生かされていることを、改めて心に受け止めさせてくださいました。心から感謝いたします。私共には、既にイエス様が与えられており、その尊い血潮をもって罪を赦され、あなた様の子としていただいております。私共もエフタのように誤ることがありましょう。しかし、どうかその度に御言葉によって立ち帰らせてくださり、あなた様に自分自身を捧げる者として、御国に向かっての歩みを止めることなく、右にも左にもそれることがありませんよう、上からの御導きを心からお願いいたします。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年1月31日]