1.はじめに
先週の水曜日からレント、受難節に入りました。レントと言いますのは、イースターの前、主の日を除く40日の期間を指します。最後の一週間が受難週となります。既に4世紀にはレントを守る習慣があったようです。中世においては、この期間は飲酒や音曲や結婚式も禁じられました。そういうことで、このレントに入る直前に、飲めや歌えやのカーニバルが行われるようになったわけです。私共はこのレントの期間に受難週祈祷会を持ちますが、他には特別なことをするわけではありません。しかし、改めてイエス様の御受難を覚え、悔い改めつつ歩む期間と考えています。
今年のレントの期間は、順に読み進めてまいりますマタイによる福音書の、総督ピラトによって十字架につけられることが決められる裁判の場面から始めて十字架・復活に至るまでの場面から御言葉を受けてまいります。このイエス様が十字架へと歩んで行かれるところではっきり示されているのは、私共の罪です。イエス様以外に正しい者は出てきません。私共は、イエス様以外の者たちの姿に自分の姿を重ねないではおられません。
2.ピラト
先週は、この裁判における総督ピラトについて見てまいりました。使徒信条において「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、…」とあるが故に、ピラトの名前は二千年経っても世界中で毎週、何億という人々によって口ずさまれ、まことに不名誉な形でその名が残ってしまいました。彼は特に極悪非道の人であったわけではありません。しかし、イエス様の十字架を最後に決定した責任者であったが故に、名前が残りました。その名前は、イエス様の十字架・復活の出来事が歴史的出来事であることを示す、日付の役割を果たしているとも申しました。ピラトは、イエス様を十字架につけたくはなかったのですけれど、人々の叫び声に負けて、結局、十字架につけることを決めてしまったわけです。このピラトの姿が自分とは無関係であると言い切れる人はいないでありましょう。ローマから遣わされた総督という官僚として、ここで騒動にでもなれば、総督としての失態となります。統治能力に対する評価が下がります。ピラトは、イエス様が十字架につけられるような罪を犯してはいないことは分かっていました。でも、十字架につけて事が収まるのならば、それで良い。そう思ったのでしょう。彼はローマの法をもって裁くことを貫けなかった弱さがありました。狡かった、卑怯だったとも言えるでしょう。でも、私共の誰が、偉そうに彼を責めたりすることが出来るでしょう。私は、彼の姿に自分の姿がどうしても重なるのです。自ら進んで喜んで行うわけではないにしても、自分の立場を守るために、言わなければならないことを言わなかったり、しなければならないことをしなかったりする。これに心当たりのない人はいないでしょう。
3.祭司長・長老たち
祭司長たちや長老たちは、積極的にイエス様を殺すために働きました。一番悪いのは彼らだとも言えましょう。イエス様を政治的犯罪者に仕立てて、「ユダヤ人の王と称している」「反乱を企てている」とピラトに訴えました。十字架につけるためです。その心にあるのは「ねたみ」でした(18節)。そして、ピラトが「バラバ・イエス」と「メシアといわれるイエス」のどちらを釈放してほしいのかと人々に問うた時、「祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。」(20節)のです。実にひどい話です。
しかしこの時、祭司長・長老たちは、自分たちがしていることが悪いこと、間違っていることだとは思ってもいなかったでしょう。自分たちがしていることが正しいと思っているから、こんなひどいことだって出来たのです。本当にひどいことは、自分たちは正しいと思っている人によって行われるものなのです。祭司長・長老たちは、自分たちが神の民の代表であると思っていました。彼らは、神様から与えられたエルサレム神殿を中心としたユダヤ教、そしてそれに基づくユダヤ社会を守ろうとした。そのどこがいけないというのか。たとえその根底に「ねたみ」の心があったとしても、ユダヤ教とユダヤ社会の秩序を乱しているイエスを、自分たちが亡き者にしないで誰がするのか。誰がユダヤ教を守るのか。誰がこのユダヤ社会を守るのか。彼らはそう思って、このイエス様殺しを考え、実行したのでしょう。勿論、それは御心に適ったことではありませんでした。でも、もしイエス様が本当の神の御子でなかったならば、偽預言者のような者であったならどうだったのでしょうか。彼らのしたことは正当化されるのでしょうか。いいえ、たとえそうであったとしても、それは決して許されないことなのです。人は自分がしたことによって裁かれるのであって、やってもいないことによって裁かれるようなことは、断じてあってはならないことだからです。私共も自分が正しいと思っている時、その時こそよくよく気をつけなければならないのでしょう。そして、「本当に正しい方はイエス様しかおられない」、このことを心にしっかり刻んでおきましょう。
4.群衆
次に群衆です。彼らはピラトに「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」と問われた時、「バラバを」と言いました。そして、「メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか。」と問われると、「十字架につけろ」と言いました。更に、「いったいどんな悪事を働いたというのか。」と問われると、「十字架につけろ」とますます激しく叫び続けました。ピラトは、結局この叫び声に負けて、イエス様を十字架につけることにしたのです。ピラトにこの決定をさせたのは、最終的には群衆の「十字架につけろ」という叫び声でした。
彼らの中のすべてではないでしょうが、ほんの数日前にイエス様がエルサレムに入城した時に「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(21章9節)と叫んで迎えた人も中にはいたでしょう。どうしてこの時群衆は、イエス様を「十字架につけろ」と叫び続けたのでしょう。祭司長たちや長老たちは、何と言って群衆を説得したのでしょうか。聖書に書いてありませんので、はっきりとは分かりません。けれども、想像することは出来ます。きっと祭司長たちは、「お前たちがメシアではないかと期待していたイエスは、見てみろ、縄で縛られ、なんにも出来やしない。本当のメシアなら、こんなことはあるはずがない。天の軍勢をもって、ローマをやっつけるはずだ。このざまは何だ。お前たちは騙されたのだ。あいつは偽物だ。神様を、メシアをかたった大嘘つきだ。」そんな風に言ったのではないでしょうか。群衆はメシアを待っていましたし、イエス様に期待していた者もいたでしょう。そうであればこそ、「違っていた」との思いは、「騙された」との思いに変化し、激しい憎しみがイエス様に向けられたのではないでしょうか。この背後には明らかにサタンが働いていた、と私は思います。
何が本当なのかも分からず、大勢の人が興奮して雪崩を打ったように進んでいく。群集心理というのでしょうか。理性的な言葉を無力にするような、激しい感情の渦の中に人々を巻き込んで事が進んでいく時、私共は警戒しなければならないと思います。先日アメリカで起きた、国会占拠事件を思い起こします。その熱気の渦に巻き込まれたら、冷静に判断することなど出来なくなってしまう、そのような狂気がこの場を支配していたのでしょう。ピラトは「いったいどんな悪事を働いたというのか。」と群衆に問うているのですから、彼は冷静です。それに対する群衆の答えは「十字架につけろ」「十字架につけろ」という叫び声の嵐でした。狂っています。人間の罪とサタンの囁きが、このように人々を狂気に巻き込んでいくということを、私共は弁えていなければなりません。神様の御心に従っていくというのは、このような冷静さを失った感情が激しく渦巻く狂気とは無縁だと思います。このような狂気がイエス様を十字架につけたということを、私共は忘れてはなりません。
5.バラバ・イエス
さて、イエス様とどちらを釈放してほしいのかとピラトが群衆に問うたのは「バラバ・イエスという評判の囚人」でした。皆さんも気付かれたと思いますが、この「バラバ・イエス」という名前は、口語訳では単に「バラバ」となっていました。バラバとイエス様が同じ名前だったということです。イエスという名前は、元々はへブル語ではヨシュア記の「ヨシュア」ですから、ユダヤ人の間では珍しい名前ではありませんでした。ですから、バラバの名前がイエスであっても少しも不思議ではありません。キリスト教の時代になって、イエス様と同じ名前を付けるのは畏れ多いということで、この名前を付ける人はいなくなりました。でも、イエス様の時代には珍しい名前ではありませんでした。「バラバ」というのは「バル(息子)」と「アッバ(父)」から出来ている言葉、「バルアッバ」から「バラバ」となった言葉で、「父の子」という意味です。これは、名前というよりも通称、あだ名のようなもので、本名はイエスだったのでしょう。古い写本には「バラバ」とだけ記されているものと、「バラバ・イエス」と記されているものの両方がありますけれど、混同しないように「イエス」を消して、ただの「バラバ」にしたのではないかと考えられています。つまり、元々は「バラバ・イエス」であったと考えられ、新共同訳ではこちらを採用したわけです。
このバラバ・イエスがどういう者であったのか、マタイによる福音書では「評判の囚人」となっておりますが、これは「みんなが知っている、有名な囚人」ということです。他の福音書では、マルコによる福音書には「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たち」の一人(15章7節)とあり、ルカによる福音書には「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」(23章19節)と記されており、ヨハネによる福音書には「強盗であった」(18章40節)とあります。これらの記述から判断するに、バラバ・イエスという人は「暴動を起こし、殺人を犯し、強盗もした有名な囚人」ということになるでしょう。ある人々は、この暴動は反ローマの暴動であったと考えます。ローマに支配されていたエルサレムにおける暴動といえば、そういうことになるのだろうと思います。ですから、革命家バラバ、或いは民族解放者バラバと言う人もいます。そうであったかもしれません。
6.どちらを釈放してほしいか
そのような事を思うと、ピラトが「バラバ・イエスか、メシアといわれるイエスか」と問うたのは、中々意味深いものがあったと思います。ローマに対して暴動を起こし、殺人も犯したバラバ・イエスか、それとも病人をいやし、神の言葉を語り、悪霊を追い出したメシア・イエスか、どちらを取るのか、とピラトは言ったわけです。そして、祭司長たち・長老たち・群衆はバラバ・イエスを選んだ。理由は、イエス様を殺すためということですけれど、もっと言えば、彼らはバラバ・イエスの方が自分たちにとって大事だ、こっちの方が良い、そう考えたからでしょう。バラバ・イエスの方が、分かりやすいのです。バラバ・イエスが提示するのは、ローマからの解放、この世の自由と富。一方、メシア・イエスが提示するのは、神様との交わり、神の国、神様の愛です。聖書はここで、「人はこの目に見える幸を求め、見えない神様を求めるものではない」、そう告げているのではないでしょうか。勿論、私共が求めるものはイエス様によって与えられる神の愛、罪の赦し、神の子としての命です。それは、私共が神様の憐れみによって、そのような者へと導かれ、変えていただいたからです。しかし、「神様ではなく、目に見える幸を求める」、それが罪人としての人間の姿です。それは、創世記3章に記されている、アダムが神様によって食べてはならないと禁じられていた木の実を食べてしまったことに、はっきり示されています。目の前の美味しそうな木の実の誘惑に負けて、神様が食べてはいけないと言われた木の実を食べてしまった。美味しそうだったからです。これが神様の示す人間の罪の姿なのです。
ここで群衆の叫び声によって、ピラトはバラバを釈放し、イエス様を十字架につけることにしました。しかし、その事によって十字架に架けられて死ぬはずだったバラバは突然、解放されることになりました。そして、このバラバこそ、十字架に架けられて裁かれるはずであったにも拘わらず、一切の罪を赦されてしまった私共の姿なのです。バラバはここで何もしていません。ただ、イエス様が十字架に架けられることになった故に、その身代わりとして釈放されてしまったのです。バラバは、自分の意思とは関係無く、イエス様の十字架の救いを目に見えるあり方で、その存在をもってはっきりと示す者となったのです。
7.ピラトの妻
ここにもう一人の人が出ています。ピラトの妻です。彼女はローマ皇帝の孫に当たり、クラウディア・プロクレという名であり、後にキリスト者になったと伝えられています。この裁判の時、このピラトの妻が夫ピラトに「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」と伝言しました(27章19節)。ピラトの妻が見た夢がどのようなものであったかは分かりません。ただ、マタイによる福音書において、夢は神様の御心を示す手段として描かれています。例えば、イエス様がお生まれになる時、父ヨセフは、主の天使が夢に現れて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(1章20節)と告げられ、マリアを妻に迎え入れました。また、イエス様に黄金・乳香・没薬を献げた東方の学者たちは「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(2章12節)とあり、更に、主の天使が夢でヨセフに現れ、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。」(2章13節)と言いました。ですから、この時ピラトの妻に示された夢も、神様からのお告げであったと考えて良いのではないかと思います。
しかし、残念なことに、ピラトはこの妻の忠告に従うことはしませんでした。ピラトはそうしたいとは思ったのですけれど、結局、そうはしませんでした。「だから妻の言うことは聞いた方が良い。」と言いたいわけではありません。聖書は、神様はこのようなあり方でピラトに忠告されたのだと告げているのでしょう。私共が罪を犯しそうになった時、神様は色んな形で、そうしないようにという忠告を与え、障害を与えられます。私共が罪を犯してしまう時、私共はその忠告を無視したり、或いは与えられた障害を「敢えて」乗り越えて罪を犯してしまう。明らかな罪を私共が犯すとは、そういうことなのではないかと思うのです。ですから、私共はこのような神様の忠告に心の耳を開いて、ちゃんと聞かなければいけない。また、私共の周りに起きる出来事の中に、神様の導きを見なければいけない。そう思うのです。
8.その血は我々と子孫に
ピラトは群衆のどんどん大きくなる「十字架につけろ」という叫び声を前に、イエス様を十字架につけることを決めました。その時、彼は水を持って来させ、群衆の前で手を洗って見せ、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」と言い放ちます。この「手を洗う」というパフォーマンスは、ユダヤ人のやり方でした。ローマの習慣ではありません。これは、自分はこのことには関係していないということを示すものです。問題は、この時の民の答えです。25節「その血の責任は、我々と子孫にある。」この言葉は、後にユダヤ人問題という重大な問題を引き起こすことになりました。「ユダヤ人はイエス様を殺した民であり、その責任は子孫も負わなければならない。」そう言ってキリスト者やキリスト教社会において、長い間ユダヤ人たちは差別され、迫害され、果てはナチスによる600万人にも及ぶユダヤ人大虐殺、ホロコーストという出来事にまで至ったのです。これは、まさに狂気の為せる業でした。しかし、これに携わった者の多くは、国家のために、民族のために、良いことをしていると思い込んでいたのです。日本人キリスト者にとって、このユダヤ人問題はあまりピンと来ないといいますか、身近な問題ではないかもしれません。それはユダヤ人に会ったことがない人も多いのですから、仕方がないのかもしれません。しかし、欧米の教会において、これは長い間キリスト教会が犯し続けてきた問題であり、避けて通ることの出来ない問題です。そして、このユダヤ人問題の根っこに、この言葉をどう理解するかということがあるのです。
この言葉は、直訳すると「その人の血はわたしたちとわたしたちの子孫の上に」となります。責任という言葉はありません。「その人の血」とは、イエス様の血、イエス様の十字架の血です。これが私の上に、そして私の子孫の上にとはどういうことなのか。イエス様が誰であるかも、イエス様の十字架が何であるかも彼らは分からなかった。だから、イエス様を「十字架につけろ」と叫び続けたわけです。この言葉を言ったユダヤ人たちはそんなつもりはなかったでしょうけれど、聖書という文脈の中でこの言葉が意味することは、イエス様の十字架の血を我が身に受けるということは、イエス様の十字架の赦しに与るということ以外にありません。つまり、彼らは「自分も子孫もイエス様の十字架の赦しに与る。」と宣言したということなのです。これは、まことに不思議なことです。彼らはそんなつもりはありませんでした。しかし、そうなのです。そしてこのことは、この時の群衆に限らず、祭司長も長老もバラバもピラトも、そしてその子孫も、つまり異邦人を含めたすべての罪人の上にイエス様の十字架の血は注がれるという、イエス様の十字架による完全な救いを告げているのです。すべての異邦人の上にキリストの救いは及ぶと言いながら、ユダヤ人の上には及ばない。そんなことがあるはずがありません。普通に考えれば当たり前のことです。しかし、この当たり前のことが、当たり前でなくなってしまう。聖書読みの聖書知らずになってしまう。そういう事があるのです。
祭司長たちや長老たちと同じ間違いをしてしまう私共なのです。ですから、自らを正しい者だなどと決して思い違いをせず、「主よ憐れみ給え」と祈りつつ、十字架の主を誉め讃えながら、共に御国に向かって歩んでまいりたいと思います。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、イエス様を十字架につけることが決定されたピラトによる裁判の場面の御言葉から、私共がいかにあなた様を見上げることなく、目先の自分の利益ばかりに囚われているかを知らされました。また、あなた様の言葉には耳を閉じ、サタンの囁きに簡単に従ってしまう者であることをも知らされました。それでもあなた様は、御言葉と出来事をもって私共を導いてくださいます。イエス様の十字架の尊い血潮をもって、私共の一切の罪を洗い、あなた様の子・僕としてくださいました。どうか、私共をこの恵みの中に留まらせ、十字架のイエス様を誉め讃えつつ歩ませてください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2021年2月21日]