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礼拝説教

「主イエスの十字架」
イザヤ書 53章1~5節
マタイによる福音書 27章37~44節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
主の御受難の場面の御言葉を受けながら、受難節、レントの時を歩んでいます。私共が共々に読み進めておりますのはマタイによる福音書でありますが、イエス様が十字架につけられるこの受難の場面において、聖書はイエス様の状態、有り様についてはほとんど何も語っていません。十字架につけられたイエス様の悲惨な姿を描き出そうとはしていないのです。今朝与えられた御言葉においても、「十字架につけられた」としか記されておりません。しかし、イエス様の十字架を取り巻く状況、十字架のイエス様に対する周りの人々の態度と言葉はしっかり記されています。聖書は、十字架のイエス様に対する人々の態度と言葉を記すことによって私共人間の罪をはっきりと描き出すと共に、彼らの思いを超えて、その彼らの言葉がイエス様とは誰であるのか、このイエス様の十字架とは何なのかを示すことになっているという、まことに不思議なことを記しています。これは偶然そうなったということではありません。イエス様の十字架は実に神様による救いの御業であったが故に、これに関わる者たちは、自分の思いを超えて神様の救いの御業を明らかにし、指し示すことになってしまったということなのです。
 前回は、ローマの兵士たちとキレネ人シモンについて見ました。今日は、ピラト、二人の強盗、そこを通りかかった人々、そして祭司長・律法学者・長老たちについて見てまいりたいと思います。

2.「ユダヤ人の王イエス」
 イエス様が十字架につけられたとき、イエス様の頭の上に罪状書きが掲げられました。その罪状書きには「これはユダヤ人の王イエスである」と記されておりました。このように記すように命じたのは、総督ピラトでした。ヨハネによる福音書19章20節以下には、この罪状書きは「ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」とあります。ヘブライ語は当然、ユダヤ人が読みます。ラテン語はローマ帝国の西の公用語ですし、ギリシャ語はローマ帝国の東の公用語です。つまり、この時エルサレムに来ていたすべての人々、そしてまた、当時考えられておりました全世界の人々が読むことが出来るようにこの罪状書きは記されたということです。
 更に、ヨハネによる福音書はこう続きます。19章21~22節「ユダヤ人の祭司長たちがピラトに『「ユダヤ人の王」と書かず、「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書いてください。』と言った。しかし、ピラトは、『わたしが書いたものは、書いたままにしておけ』と答えた。」とあります。つまり、祭司長たちはイエス様の罪状書きに「ユダヤ人の王」と記されることが嫌だったのです。彼らは、それはとんでもないことだと思った。彼らにしてみれば、イエス様が「ユダヤ人の王」であるはずがない、ユダヤ人のまことの王は天地を造られた神様だからです。これを認めるということは、イエス様がメシア、キリストであることを認めることと同じであり、イエス様が神様であることを示すことになってしまうからです。ですから彼らは「『ユダヤ人の王』と自称した」と書き直してくれるようにピラトに申し出たわけです。自称しただけなら、イエス様はただの人間であり、身の程をわきまえない、神様を冒瀆した者ということになります。祭司長たちにすれば、これが正しい罪状書きでした。しかしピラトは、罪状書きを祭司長たちが言うように書き直すことはしませんでした。多分、ピラトは単純に祭司長たちの言う通りにしたくなかったのでしょう。ピラトにしてみれば、自分はこの男を釈放したかったのに、祭司長たちが群衆をたきつけて「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫び続けさせた。ピラトはこの声に負けて、イエス様を十字架につけることにしてしまったのです。このことがピラトとしては大変面白くなかった。ローマから遣わされている総督である自分が、ローマに支配されているユダヤ人たちの「十字架につけろ」という叫び声に従わされたからです。その上、罪状書きまで言われた通りにするなんて、ピラトには屈辱以外の何ものでもなかった。だから、彼としては皮肉のつもりで「これがお前たちの王だ」と罪状書きに記した。もっと言えば、祭司長たちへの嫌がらせのつもりで、祭司長たちが嫌がることを百も承知で、あえて罪状書きは「ユダヤ人の王」にしたのです。ピラトにしてみれば「ユダヤ人の王」でも「『ユダヤ人の王』と自称した」でも、どっちでも良かったのです。
 しかし、このことによってこの罪状書きが、十字架に架けられたイエス様とは誰か、それは「ユダヤ人の王」であり、「神様」であるということを示す看板、名札、ネームプレートになってしまったのです。勿論、ピラトはそんなつもりなど全くありませんでした。しかし、そうなってしまいました。私共はイエス様の十字架といえば、縦の棒と横の棒が直角に交わったデザインを思い浮かべるでしょう。これが一番シンプルな十字架です。しかし、東方教会の十字架には、必ず縦の棒に横の棒が三つ付いています。この横棒は、上から、短い、長い、短いという順になっています。一番上の小さな横棒は、この罪状書きを示しています。次の長い横棒はイエス様の手が釘で打ち付けられた横棒です。そして、三番目の小さな横棒は、イエス様の足が釘で打ち付けられた足台です。このように、イエス様の十字架が思い起こされるたびに、この罪状書きは、イエス様が誰であるかをすべての人々に分かるように記したネームプレートになったのです。

3.二人の強盗 ~罪人と共に~
 さて、イエス様の十字架は、一本だけぽつんと立てられたわけではありません。38節には「イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。」とあります。本当はイエス様の所に、バラバがつけられるはずでした。しかし、バラバは解放され、イエス様が十字架につけられることになりました。イエス様つけられた十字架は、何も特別な十字架であったわけではありません。イエス様の右と左に強盗が十字架につけられましたが、その十字架とイエス様の十字架は同じ十字架でした。十字架という処刑の方法はとても残酷なもので、十字架につけられてもすぐに死ぬことはありません。マルコによる福音書によれば、イエス様が十字架につけられたのは午前9時、息を引き取ったのは午後3時でした。ですから、イエス様は6時間もの間、十字架の上で苦しみ続けられたということになります。しかし、この息を引き取るまでの時間は、十字架で処刑された人の中で決して長い方ではありませんでした。長い人は、息を引き取るまで丸一日、或いは二日、三日とかかりました。だから、十字架は残酷な処刑方法だったのです。息を引き取るまで長く痛み、苦しみ続ける処刑方法だったからです。
 34節には「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。」とあります。この「苦いものを混ぜたぶどう酒」というのは、痛みを和らげる薬物が入っていたと考えられています。しかし、イエス様はそれを飲みませんでした。それは、十字架の苦しみを死に至るまで味わい尽くそうとされたということです。痛いこと、苦しいことは誰でも嫌です。私も嫌です。しかし、イエス様は死に至るまでの痛みと苦しみを最後まで味わい尽くそうとされました。それは、すべての死に行く者と最後まで共にあろうとされたからです。死ぬ時、人は独りです。しかし、イエス様はその最後の時まで私共と共におられる。イエス様がそう決められたのです。それが、「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲もうとされなかった」イエス様のお心です。
 そして、何よりもこの三本の十字架は、イエス様がどんな罪人をも見捨てず、最後まで、死に至るまで共にいてくださるということを示しています。この時、イエス様の右と左に十字架につけられた二人の強盗は、そんな風には考えていなかったでしょう。イエス様と一緒に十字架につけられたのは、たまたま、偶然であり、そこに意味があるなど考えもしなかったでしょう。けれども、彼らがイエス様と共に十字架につけられることによって、イエス様はどんな罪人をも見捨てず、自ら同じ痛みと苦しみとを味わいながら、最後の時まで共におられるお方だということを、具体的な姿で示すことになりました。二人の強盗は、自分の思いを超えて、イエス様の十字架の恵みを指し示す者として用いられたのです。不思議なことです。しかし、これが神様の御業というものなのです。

4.通りかかった人々 ~愛の神の子~
 イエス様が受けた十字架という処刑方法は、見せしめに行われるものでした。いわゆる公開処刑です。民主国家において、今時、公開処刑をする国はありません。しかし、長い歴史の中ではこの公開処刑の方が一般的だったと思います。公開処刑ですから、これを見に来る者がいるわけです。その人々の中には、ピラトの前で「十字架につけよ」と叫んだ人もいたでしょう。聖書は、「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。」と記しています。「頭を振りながら」ですから、興奮して、指を指しながら、大声で言ったのでしょう。40節「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
 人々は「神の子のイメージ」を持っていました。それは「神様のイメージ」とも重なります。そのイメージとは、神の子はどんな困難な状況も打ち破り、とても不可能と思えることさえも実現することが出来る方であるというものでした。勿論、これは間違いではありません。神様そして神の子の持つ大切な一つの側面であるとは思います。神様は天地を造られた全能のお方なのですから、どんなことでもお出来になります。しかし、この「全能性」というものだけで聖書の神様を捉えることは出来ません。そこには、決定的に欠けているものがあります。それは愛です。使徒信条において私共は、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と告白しています。神様は、ただ全能であるだけではありません。父なる神様です。それは、第一義的にはイエス・キリストの父ということでありますけれど、それにとどまらず、私共の父となってくださったお方です。つまり、私共を「我が子」として扱われる、「父」なるお方として私共を愛してくださっているお方だということです。全能だけれども愛が無いのであれば、私共は神様にただただ怯えるしかありません。何をされるか分かったもんじゃないからです。そのような力だけの神様を、私共はどうして愛することが出来ましょう。しかし、聖書の神様は天地のすべてを造られた全能のお方であり、同時に私共を愛しておられるお方なのです。しかも、その独り子を与えるほどに愛しておられる。ですから、私共は安んじて神様を愛し、信頼することが出来るのでしょう。
 彼らはイエス様に向かって「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」と言いました。彼らは自分で何を言っているのか分からないのです。もし、神の子が十字架から降りて来たなら、真っ先に裁かれ、滅ぼされるのは自分たちです。神の子をののしり、あざけり、侮辱しているのですから。もし、イエス様が「愛の神の子」ではなく、ただ「全能の神の子」であったなら、彼らが赦されるはずがありません。もし、「愛の無い全能の力だけがある神の子」だったなら、イエス様は十字架から降りたかもしれません。しかし、そうなれば、私共も含めて、人間は誰も救われないことになります。だから、イエス様はそれをされませんでした。それは、イエス様が「愛なる神様の御子」であられるからです。そして、十字架から降りてしまえば、罪人をも愛し、赦し、新しい命に生きるようにと招かれる「愛なる神様」の御心に反してしまうからです。

5.通りかかった人々 ~もし、神の子なら~
更に、この「もし、神の子なら」という言い方。これはマタイによる福音書4章において、イエス様が荒れ野で悪魔に誘惑されたときに、悪魔が語った言葉を思い起こさせます。悪魔はイエス様を誘惑したとき、こう言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」そして更に、神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と言いました。これらは、私共には誘惑にはなりません。私共には石をパンにする力などありませんから、これは誘惑として成立しません。イエス様だから、これが誘惑になりました。そしてこの荒野の誘惑のとき、イエス様は聖書の言葉をもって悪魔を退けられました。しかし、この十字架の上で、最後にして最大の誘惑を、悪魔は人々の口を通してイエス様に仕掛けたのです。この時人々は、自分が悪魔の誘惑に加担しているなどと考えてもいなかったでしょう。しかし、人は簡単に悪魔にそそのかされてしまうものなのです。私共はそのことをよく弁えていたいと思います。
 この時、イエス様に十字架から降りることが出来る力が無ければ、この人々の言葉は誘惑にはなりません。しかし、イエス様は全能の神の御子であられましたから、これは実にすさまじい誘惑であったに違いありません。イエス様は痛みの極限の中で、十字架から降りてしまえば楽になるという誘惑と戦い、勝利されました。悪魔の目的は神様の救いの御業を邪魔することです。ですから、イエス様が十字架から降りてしまえば悪魔の勝ちです。イエス様と悪魔との最後の戦いがこの十字架の上でなされた。そして、イエス様はその誘惑も退けられました。イエス様は悪魔に勝利されました。イエス様は十字架から降りないことによって悪魔の誘惑を退け、私共のために、私共に代わって罪の裁きを身に負われ、御自身が愛の神の御子であることを示されたのです。イエス様は悪魔の誘惑には負けません。ですから、私共は悪魔の誘惑にさらされたとき、イエス様に守っていただけば良いのです。私共は自分だけで悪魔と戦えば必ず負けます。悪魔の方が賢く、強いのです。しかし、イエス様は勝利されます。イエス様に守っていただきましょう。

6.祭司長・律法学者・長老たち ~他人は救ったのに、自分を救えない~
 悪魔は祭司長・律法学者・長老たちの口を通しても、イエス様を誘惑しました。彼らはイエス様に対してこう言って侮辱しました。42~43節「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」ここには、人間の傲慢と無知と罪とがはっきり現れています。そして、そのことによって、イエス様とはどのようなお方なのかが示されています。
 まず「他人は救ったのに、自分は救えない。」です。他人を救う力があるのならば、その力をまず自分の救いのために使うのは当然のことだと彼らは考えました。ここに、自分の尺度で神様を測ろうとする傲慢と愚かさがあります。彼らには神様の愛が分かりませんでした。神様の愛は、「他人を救うために、自分を救わない。」のです。罪人の身代わりとなられたからです。しかし、そのような愛は人間の想像をはるかに超えたものでした。イエス様の十字架に出会うまで、人類はこのような「愛」を知りませんでした。私共も知りませんでした。自分の力は、まず自分のために使うのが当たり前。余力があれば、他人のために少しは使うかもしれません。ところが、イエス様は自分が十字架から降りるために、御自分の力を使わないのです。そんな馬鹿な話はない。確かに、人間ならばそうなのです。人間は自分が一番大事だからです。しかし、イエス様は違いました。イエス様は罪人を救うために御自分の命を捨てられたのです。これがイエス様の愛、神様の愛なのです。イエス様はただの人間ではなかった。イエス様は愛の神の御子でした。
 彼らは更に言いました。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」何という傲慢でしょう。しかし、何々をしてくれたなら信じてやろうという態度を、人はよく神様に対してしているのではないでしょうか。自分の願いを叶えてくれるなら、自分の思いを遂げさせてくれるのならば、信じてやろう。しかしこれでは、神様は私共の願いを叶えるための召使いになってしまいます。神様と人間、主人と僕の関係が逆転しています。この逆転した関係が偶像礼拝というものです。偶像礼拝の根っこは、私共の心の一番深い所にある罪であり、神様を神様と思わず、神様を崇めることを知らず、「信じてやろう」という傲慢と結びついています。
 そもそも「信じてやろう」とは、どういうことでしょう。ここには、神様の御前におけるへりくだりもひざまずく思いもありません。神様に救いを求める、「打ち砕かれ悔いる心」はありません。神様から一番遠い思いです。しかし、彼らは祭司長であり、律法学者であり、民の長老たちでした。人々を信仰において導く立場の人々でした。そして、自分は立派な信仰を持っていると自負していた人たちでした。私は牧師として、自分の中にこのような心がないかどうか、吟味することが求められているのだと思います。

7.強盗もののしった
最後に、十字架につけられた二人の強盗が出てきます。44節「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」とあります。イエス様は、十字架につけられるほどの大きな罪を犯した強盗にまでののしられました。実に、イエス様はこの十字架の上で、すべての人にののしられたのです。これほど人々にののしられた人がいたでしょうか。大抵は、ののしる人がいれば、逆に擁護する人も少しはいるものです。しかし、十字架のイエス様には一人もおりませんでした。宗教家から一般の人々から犯罪人に至るまで、一斉にイエス様をののしったのです。しかし、このことこそが、イエス様の救いはどこまで及ぶかということを示しています。イエス様が十字架につけられたとき、イエス様の御前にぬかずいた者は一人もいなかった。しかし、十字架のイエス様をののしり、あざけり、侮辱した者のために、彼らを救うために、彼らの罪が赦されるために、彼らの身代わりとしてイエス様は十字架にお架かりになりました。ルカによる福音書はこのことを更に明確に、十字架の上でのイエス様の言葉として記しています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(23章34節)
 私共もそうでした。自分が何をしているのかも知らずに、自分を造り、愛してくださっている神様に感謝することさえ無く、自分の人生は自分のためにあると思って生きていました。自分の力は自分のものであり、自分のために使うことしか考えませんでした。しかし、そのような私共のために、イエス様は十字架に架かってくださったのです。そのことを知らされ、今は十字架のイエス様の御前にぬかずく者としていただきました。本当にありがたいことです。そして、イエス様が私のために十字架に架かってくださったのですから、今、イエス様をあなどり、ののしり、無視している、私共の周りにいるあの人この人のためにも、イエス様は十字架に架かってくださったはずです。今朝、このことをしっかり心に刻ませていただきたいと思うのです。イエス様の十字架による救いは、私のために、そして私が出会うすべての人のために備えられています。その人が、どんなにイエス様など関係ないと思って生きていたとしてもです。イエス様はその人を愛しておられます。それは本当のことです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、イエス様の十字架の御姿を心に刻ませていただき、感謝します。神の御子をあざけり、ののしり、殺すという最も罪深い行為さえも用いて、あなた様は私共の救いを成就されました。これは人間の思いをはるかに超えており、ただその愛の広さ、深さに感謝するばかりです。そのあなた様の愛と赦しと招きは、すべての人々に及んでいます。しかし、まだそのことを知らない者が、私共の周りに大勢います。どうか、その人々にあなた様の御心を携えていく者として、私共を清めて用いてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年3月14日]