日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「主イエスの葬り」
申命記 21章22~23節
マタイによる福音書 27章57~66節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日から受難週に入ります。週報にありますように、火・水・木と、昼と夜にそれぞれ受難週祈祷会が持たれます。教会員の方の奨励もあります。ぜひ、この祈祷会に出て、来週のイースターを迎えていただきたいと思います。
 今朝与えられている御言葉は、イエス様の葬りの場面です。先週私共は、イエス様が十字架の上で死なれた場面から御言葉を受けました。そして来週は、イエス様が復活された場面から御言葉を受けます。私共は毎年この時期に、イエス様の十字架の場面と復活の場面から御言葉を受けます。しかし、イエス様が葬られる場面から御言葉を受けることは、あまり多くないのではないかと思います。しかし、ここにも神様の御心がはっきり現れています。
 イエス様の十字架の死が私共の死と結ばれたものであり、イエス様の復活が私共の復活と結ばれるものであるならば、イエス様の葬りもまた、私共や私共の愛する者の葬りと無関係なものであるはずがありません。私共はこのことを御言葉からしっかり受け止めたいと思うのです。

2.十字架に架けられた者の葬り
 イエス様は十字架の上で亡くなりました。犯罪人として処刑されたわけです。このような犯罪人の死体はどのように処理されていたか。それには三つのパターンがあったようです。一つは、家族が引き取りを願い出て、それが受け入れられる場合。しかし、犯罪人の処刑は見せしめという意味合いがありましたので、これはあまり認められなかったようです。もう一つは、犯罪人用の墓穴に投げ込まれるというものです。犯罪人用の墓穴には覆いはありませんでした。ですから、動物や鳥に食べられるにまかせるものでした。そしてもう一つは、エルサレム郊外にあるヒンノムの谷という焼却場に投げ捨てられるというものです。このヒンノムの谷、これをゲーヒンノムと言いますが、これが転じてゲヘナ(地獄)という言葉になりました。ここに投げ捨てられる。この三つのどれかでした。しかし、イエス様の葬られ方は、そのどれとも違いました。
また、先ほどお読みいたしました申命記21章22~23節には、「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。」とありました。イエス様は実に「神に呪われた者」として死なれました。それは、すべての罪人の裁きを、すべての人に代わって我が身に受けられたからです。すべての者の神様の裁きを、我が身にお受けになった。それは、「神様に呪われた者」そのものでした。祭司長やファリサイ派の人々が、自分たちの手で処刑する「石打の刑」というあり方ではなく、ローマによる十字架に架けての処刑にこだわったのも、イエス様を「神に呪われた者」として処刑する、ここに理由があったのでしょう。そして、ここにはもう一つ、「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。」とも命じられていました。

3.アリマタヤのヨセフ
 イエス様が十字架に架けられて息を引き取ったのは、午後の3時でした。エルサレムにおけるこの時期の日没は午後7時頃です。日没と共に日付けが変わりますので、「その日のうちに埋める」ためには時間がありません。しかも、この日は金曜日でした。日没から安息日が始まります。イエス様を葬るためには4時間しか時間は残されていませんでした。ピラトに遺体を引き取る願いを出して、それが許可されて、十字架から遺体を降ろして、墓に運んで、墓に納める。その一連のことをするために、たった4時間しかありません。そもそも、イエス様の家族が遺体の引き取りを願っても、総督ピラトには会うことも出来ず、門前払いだったでしょう。イエス様はガリラヤのナザレの人なのですから、エルサレムに墓を持っているはずがありません。ですから、イエス様の遺体は、もう犯罪者用の墓に投げ込まれるか、ヒンノムの谷の焼却場に投げ捨てられるしかありませんでした。
 ところがです。ここに一人の人が現れました。アリマタヤ出身のヨセフです。マタイによる福音書には、彼は「金持ち」(57節)であったと記されています。また、マルコによる福音書には、「身分の高い議員」(15章43節)であったと記されています。彼はイエス様を信じる弟子でしたけれども、今までそのことを公にしていなかったのでしょう。彼はイエス様を死刑にすることを決めたユダヤの議会(サンヘドリン)の議員でした。ルカによる福音書によると、彼は「同僚の決議や行動には同意しなかった」(23章51節)とあります。多分彼は、同意はしなかったのでしょうけれども、強く反対したわけでもなかった。言わば「隠れ信者」のような人だったということでしょう。しかし、この時彼は敢然と立ち上がります。彼は総督ピラトのもとに行き、イエス様の遺体を渡してくれるように願い出たのです。イエス様の遺体を引き取るということは、自分がイエス様の弟子であることを公然と言い表すことと同じです。彼はユダヤ社会において、地位も名誉も富もありました。そのすべてを失うことになるかもしれないのです。しかし、彼はピラトに申し出ました。イエス様の十字架を見ながら、彼の中に「自分はイエス様を裏切ってしまった。あの時、もっときちんと反対していれば。自分は何と不甲斐ない者なのか。」といった思いが大きくなっていったのでしょう。そして、このような行動に出たのでしょう。ピラトはその願いを許可します。これは、彼が高い身分の議員だったからでしょう。イエス様の家族が願い出たとしても、ピラトに会うことさえも出来なかったでしょう。
 ヨハネによる福音書には、この時もう一人の「隠れ信者」であったニコデモが、「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ(約30㎏)ばかり持って来た」(19章39節)と記されています。彼も議員でした。
 そして、アリマタヤのヨセフは、イエス様の遺体をゴルゴタの丘の近くにあった「自分の新しい墓」(60節)に納めました。彼は金持ちでしたから、僕も大勢いたでしょう。彼の僕たちによってイエス様の遺体は十字架から降ろされ、速やかに墓に運ばれ、納められた。だから、日没に間に合ったのです。
 アリマタヤのヨセフとニコデモ。71人の議員のうち2人がイエス様の弟子でした。この二人がいなければ、イエス様の遺体が墓に葬られることはありませんでした。ここに、神様の大いなる御計画、神様の御業というものを見ることが出来るでしょう。確かに、彼らは「隠れ信者」としてではなくて、イエス様が議会で裁かれた時にイエス様の死刑に反対し、信仰を公然と言い表しているべきであったという批判は出来るでしょう。しかし、神様の御計画の中では、そのようなはっきりしない、ちっともしっかりしない信仰者であっても、神様は時を与え、為すべきことを与え、用いられます。立派な信仰者だけが神様に用いられるわけではありません。そもそも、この時「立派な信仰者」など、一人もいなかったのです。十二弟子は皆逃げてしまっていたし、イエス様に従ってきていた婦人たちは、イエス様の十字架を遠くから見守るのが精一杯でした。それは、私共とて同じです。自分は立派な信仰者だと胸を張れる人など、一人もいません。しかし、神様は私共を用いてくださる。そして、用いられていく中で、有るか無きかの信仰が強められ、確かにされていくのです。
 また、イエス様の葬りの時にアリマタヤのヨセフが現れ、イエス様の葬りが為されたように、私共の愛する者の葬りも、私共の葬りも、神様は必要のすべてを備えてくださることを信じて良いのです。実際、神様はすべてを備えてくださいます。

4.アリマタヤのヨセフの墓
 さて、アリマタヤのヨセフは自分の墓をイエス様の墓として提供しました。彼は金持ちでしたから、普通の人の墓に比べれば、それ立派な墓だったのでしょう。それは自分のため、或いは自分の家族のために用意していたものでした。イエス様の時代の墓は、私共がイメージする墓とはだいぶ違います。イエス様の時代の墓は、横穴です。土を縦に掘ったものではありませんし、遺体に土をかぶせたりもしません。その意味では、土葬でもありません。斜面に横穴を掘って、そこに遺体を納める。一つの穴に一体だけということでもありません。大きな穴ならば、3体、5体とそこに納めます。この時イエス様が納められた墓は、アリマタヤのヨセフが自分か家族のために用意していた、まだ誰も使ったことのないものでした。アリマタヤのヨセフは、この時、自分が出来る精一杯のことをしました。時間があれば、もっと色々なことが出来たかもしれません。しかし、信仰による業というものは、その時、その瞬間に、自分の出来る精一杯のことをするしかありません。それが不十分なものであったとしても、神様はそれを喜んで受け取ってくださるのです。
 このアリマタヤのヨセフの墓は、神様にどのように用いられたでしょうか。アリマタヤのヨセフの墓は、何と栄光に輝くイエス様の「復活の場」とされたのです。彼が墓を提供した時、そこまで考えていたわけではないでしょう。彼はただイエス様のために墓を提供しただけです。しかし、神様はその墓を、死を記念する場ではなく、死が打ち破られたことを記念する場としてくださったのです。私共が神様に捧げる信仰の業とは、そういうものです。自分が捧げることが出来るものなど、本当に取るに足らないものです。しかし、そんなことはどうでも良いのです。神様は、私共が捧げた取るに足らないものに、私共の思いを超えた意味を与えて祝福し、驚くべきあり方で用いてくださる。それが私共の神様のなさりようなのです。
 そして、イエス様の墓が栄光に輝く復活の場となったということは、私共の墓もやがてそうなるということです。イエス様の復活という出来事が起きるまで、墓とは死を憶える場所でした。しかし、イエス様の復活の場となることによって、私共の墓もまた、やがて与えられる復活の命を憶える場、神様の御前において相まみえる時へと思いを馳せる場となったのです。天を見上げる場となったのです。

  5.婦人たち
 イエス様が十字架に架けられた時、遠くで見守ることしか出来なかった婦人たちはどうしたでしょう。彼女たちは、イエス様が納められるアリマタヤのヨセフの墓までついて行きました。そして、イエス様の遺体が墓に納められ、その入り口に大きな石が転がされ、アリマタヤのヨセフたちが立ち去った後も、彼女たちはそこをすぐに立ち去りませんでした。「墓の方を向いて座っていた」(61節)と聖書は記します。
 その時の彼女たちの思いは、愛するイエス様が死んでしまったことに、ただただ悲しく、寂しく、嘆くしかなかったのでしょう。彼女たちはイエス様や弟子たちに食事や洗濯といったお世話をするというあり方で、イエス様と一緒にいました。ですから、「イエス様にもっとこうしてあげたかった、ああしてあげたかった。」そんな思いも心に浮かんだことでしょう。ルカによる福音書は、彼女たちが復活の朝、「明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」(24章1節)と記しています。ですから、この時「日が暮れたら安息日だから、今日の帰りに香料を買っておかなきゃ。」とも思ったはずです。弟子たちならこの場にいても、「香料を買っておかなきゃ。」とは全く思わなかったでしょう。彼女たちはただただイエス様の死を嘆き、悲しんだのです。
弟子たちはイエス様が葬られた時にもその場にいませんでした。イエス様が十字架で死んだ時、彼女たちと弟子たちとでは、嘆きの種類が違っていたのではないかと思います。弟子たちはイエス様に召命を受け、イエス様に従いました。彼らはイエス様に期待し、イエス様に自分の将来を、自分自身を賭けていた。イエス様が支配する世界が来ると信じ、期待し、従ってきた。しかし、そのイエス様が捕らえられ、死んでしまった。その時、弟子たちは自分の将来が閉ざされたような、自分の生きる希望を失ったような、そんな絶望感を味わったのではないでしょうか。そして、部屋に閉じこもった。何をする気も起きなかったし、イエス様の弟子として捕らえられるかもしれないことにも脅えていた。しかし、彼女たちは、将来がどうのこうの、理想がどうのこうのというよりも、今、現に目の前で愛するイエス様が死んでしまったことに対して、ただただ悲しく、嘆いていた。
 どっちが良いとか悪いとかいう話ではありません。どちらも神様の御業に用いられることになります。しかし、両者には違いがある。イエス様との関わりにおいては、どちらも大切なのですが、この時弟子たちがここにはおらず、彼女たちだけがいたということは、紛れもない事実でした。そして、このことが復活のイエス様と彼女たちが最初に出会うことになった理由でした。彼女たちはイエス様が葬られる所にまでついて行き、そして安息日が終わると、朝早くに墓に向かった。そして、復活のイエス様に出会ったのです。

6.祭司長たちとファリサイ派の人々
 62節以下には、準備の日の翌日、つまり安息日である土曜日ですが、この日に祭司長たちとファリサイ派の人々がビラトのところに行って、「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」と言ったと記しています。ピラトは、彼らに指図されるのが面白くありませんから、「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかり見晴らせるがよい。」と答えました。そこで、祭司長たちは自分たちの番兵をイエス様の墓の前に立たせて見張りをさせ、墓の石に封印まで付けたのです。
 彼らは、イエス様が復活するかもしれないと思っていたわけではありません。しかし、イエス様の弟子たちがイエス様の遺体を盗んで、「復活した」と言いふらすことを警戒したのです。実に念入りです。彼らは安息日であるにもかかわらず、このことを言うためにピラトのところに出向いたのです。安息日は、彼らにとって、決して何もしてはいけない日でした。その最も大切な安息日規定を破ってさえも、異邦人であるピラトと会い、イエス様の墓に番兵をつけたのです。
 これで完璧なはずでした。イエス様は墓の中で朽ちていく。イエス様に従った者たちもこれで諦めて大人しくなるだろう。彼らはそう思っていたはずです。しかし、墓は開かれました。こちらからではなく、墓の中からです。人間の力によってではなく、神様の力によってです。イエス様を墓に閉じ込めておくことは出来ませんでした。何故なら、イエス様はまことの神の御子だったからです。

7.主イエスの陰府降り
 イエス様が十字架に架けられて息を引き取ったのが金曜日の午後3時。そして復活されたのは日曜日の夜明け頃でした。ちなみに、今日のエルサレムの日の出の時刻は6時30分頃です。では、イエス様は土曜日には何をされていたのか。勿論、遺体は墓の中にあったことでしょう。福音書は、この土曜日については何も記していません。ただ、ペトロの手紙一3章18~20節に「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」とあります。いわゆる、「イエスの陰府降り」と言われることです。使徒信条においても、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」とあります。イエス様は金曜日に十字架に架けられ、死んで葬られ、三日目に復活される前に何をされたのか。イエス様は陰府に行かれた。陰府とは、死んだ者たちが行く所です。そこに行って何をされたか。宣教された。つまり、伝道されたというのです。ということは、イエス様を知らずに死んでしまった者たちにも、悔い改めて、イエス様の救いを受け入れる可能性が陰府において残されているということになります。
 私の母は、晩年にこの教会で洗礼を受け、葬りの式もここで行い、この教会の納骨堂に遺骨が納められています。しかし、父は洗礼を受けることなく地上での生涯を閉じました。私が伝道者として生きている姿を、喜んでいた父でした。この父がどうなるのか、考えないわけにはいきません。皆さんにも、信仰を持たずに地上の生涯を閉じた家族がいるでしょう。その人たちはどうなるのか。この問いを持たない日本人キリスト者はいないと思います。しかし、中世以来ずっとキリスト教国であったヨーロッパにおいて、この問題が神学の中で真剣に問われたことはありませんでした。神学者の家族も友人も皆キリスト者なのですから、考える必要が無かったからです。神学の伝統は大切です。しかし、日本においてキリスト者として生きる私共は、それで十分ではありません。私はこの「イエスの陰府降り」ということを、積極的に受け止めてよいと思っています。神様の憐れみは、イエス様の救いは、陰府にまで及ぶ。そう信じてよいのです。その意味でも、「人は死んだらオシマイ」ではないのです。神様の救いは、私共の想像力さえ及ばないほどに大きいのです。時々、火葬にしたら復活するときの体はどうなるのか、と心配する人がいます。しかし、復活は、無から全宇宙を作られる神様の全能の力による再創造ですから、全く心配することはありません。神様がすべてを為してくださいます。
 この慈愛に満ちた全能の神様に、共に祈りを捧げましょう。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、あなた様はイエス様が葬られた場面から御言葉を与えてくださいました。イエス様の葬りもまた、あなた様の御支配と御配慮の中にあったことを知らされました。そのあなた様の御支配と御配慮は、私共の人生のすべての所に満ちています。ありがとうございます。そして、イエス様の遺体を納めた墓が復活の場となりました。私共にもその救いの道筋が備えられていることを感謝します。私共の愛する者で、イエス様を知らずに地上に生涯を閉じて陰府に行った者たちにも、イエス様は宣教してくださいました。感謝します。どうか私共に、あなた様の恵みに感謝して、あなた様に仕え、あなた様に捧げる歩みを為さしめてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年3月28日]