1.はじめに
今朝私共は、ペンテコステの出来事を記念して礼拝を捧げています。私共の教会においては、クリスマス、イースターと並んで大切な記念日、祭りの日です。そうは言っても、ペンテコステはイースターやクリスマスに比べますと、印象が薄いという感じは拭えません。一つには、クリスマスにはその前に一ヶ月ほどのアドベント(待降節)の期間があり、イースターにはその前に40日ものレント(四旬節・受難節)の期間があります。それぞれ長い備えの時があってクリスマスやイースターを迎えるわけですけれど、ペンテコステにはそれがありません。イースターの7つ後の主の日がペンテコステですから、イースターを祝って少し経つとペンテコステ、そんな感じなのかもしれません。
ペンテコステは聖霊が弟子たちに降った日ですけれども、ペンテコステという言葉には元々はそのような特別な意味はありません。これは旧約の時代からある祭りで、過越の祭りから50日目に行われる祭りということで、「50番目」という意味の「ペンテコステ」という言葉が当てられただけです。このペンテコステは、旧約における三大巡礼の祭りの一つでした。この祭りの時には巡礼してエルサレムの神殿に詣でるように、と律法で定められていた祭りです。この三大巡礼祭りというのは、過越の祭りとペンテコステ(これは七週の祭り、あるいは五旬祭とも言います)、それと仮庵の祭りでした。過越の祭りはイスラエルがエジプトから脱出する際の出来事を記念するものであり、七週の祭り(ペンテコステの祭り)は小麦の収穫の感謝の時であると同時に、十戒が与えられた日として祝われておりました。そして、仮庵の祭りは、現在の暦ですと9月か10月に行われるものですが、秋の収穫感謝であるとともに、出エジプトの時にテント(仮庵)で生活しながら荒野を旅したことを思い起こす祭りでした。仮の庵を作ってそこで過ごすという祭りです。この三つの内の二つがキリスト教に受け継がれました。過越の祭りがイースターとなり、七週の祭りがペンンテコステとなって受け継がれているわけです。イエス様が十字架にお架かりになったのが、過越の祭りのために大勢の人々がエルサレムに来ていた時であり、聖霊が弟子たちに注がれたのが、七週の祭りのために大勢の巡礼の人々がエルサレムに集まっていた時でした。それは偶然ではなく、神様の御計画、意図というものがあったからです。このペンテコステの日から、神様は御自身の救いの御業を全世界に向けて広めていかれます。聖霊なる神様による救いの御業の出発点となったのが、このペンテコステでした。ですから、ペンテコステの出来事は現在に至るまで継続中なのです。
2.ペンテコステの出来事(1)
ペンテコステの出来事は、使徒言行録2章に記されております。まず、このペンテコステの日に起きた出来事を振り返ってみましょう。
まず、弟子たちに聖霊が降りました。この聖霊が降ったという出来事を使徒言行録は独特な言葉で表現します。1~3節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」と記します。激しい風が吹いてきたのではありません。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」たのです。音が聞こえたのです。また、炎が一人一人の上にとどまったのでもありません。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」のです。「炎のような舌」というのは、ちょっとイメージするのに困難を感じるでしょう。この場面の絵がたくさん描かれてきましたが、その絵の多くは、弟子たちの上に火の玉のようなものが留まっているように描いています。画家たちも「炎のような舌」というのは描きづらかったのだと思います。私は、この場面を視覚的なイメージで捉えなくて良いと思っています。「風」とか「炎」というのは、旧約以来「聖霊」を表すイメージとして用いられてきました。ですから、単純に「聖霊が弟子たちに降った」ということを告げているのだと思います。そして「舌」というのは、この日に起きた出来事を指し示しているのでしょう。つまり、聖書が告げようとしているのは、4節の「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」ということです。
この日は世界中から巡礼者がエルサレムに集まるペンテコステの祭りの日でしたから、色んな国々からユダヤ人たちが集まってきていました。当時ユダヤ人は全ローマ帝国中に、更にはローマ帝国を越えて、広い地域にユダヤ人共同体を作って住んでいました。当然、その土地で生まれ育ったユダヤ人もいます。或いは、異邦人からユダヤ教に改宗した人もいたでしょう。ペンテコステの祭りにはエルサレム巡礼が求められていましたから、そのような所からも大勢のユダヤ人たちが集まって来ていたわけです。9節以下に、どこから来たのか、その地方や地域や国の名前が列挙されています。それは、当時の全世界と言っても良いほどの、様々な地域から人々が集まって来ていたことを示しています。そしてその人々が、聖霊が降ったイエス様の弟子たちが「めいめいが生まれた故郷の言葉」で話すのを聞いたのです。何を聞いたかと言いますと、11節に「神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」とありますから、弟子たちが語ったことは「神の偉大な業」です。これは具体的には、14節以下にペトロの説教として記されています。ペトロは、主イエス・キリストの十字架と復活、そして昇天によって現された神様の救いの御業を語りました。「ほんの五十日前に、このエルサレムで十字架に架けられて殺されたイエス様。しかし、イエス様はそれで終わらなかった。三日目に復活され、それから天に上げられた。そして、今、わたしたちに聖霊を注いでくださった。実にあのイエス様こそ、メシア、キリスト、救い主です。だから、悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」そうペトロは語りました。これがキリスト教会最初の説教です。キリストの教会が二千年間語り伝えてきたことは、この時弟子たちが語ったことと内容は全く変わりません。弟子たちはこのペンテコステの日に、イエス様の福音を宣べ伝え始めたのです。
3.ペンテコステの出来事(2)
そして、41節には「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」と記されています。三千人に洗礼を授けるのは中々大変だったと思いますが、私もそんな大変な思いをしてみたいと思います。これまでもイエス様の弟子たちは12人の使徒だけではありませんでした。女性の弟子たちもいたのですから。しかし、三千人というのは爆発的な増加であるに違いありません。このベンテコステの日に起きた大切なことは、弟子たちが様々な国の言葉で神様の偉大な救いの業を語ったということだけではなくて、それを受け入れてキリスト者になる者が大勢起こされたということです。それで、この日がキリストの教会が誕生した日、教会の誕生日と言われているわけです。
もう一つ、このペンテコステの日に起きたことがあります。それは、弟子たちが変えられたということです。イエス様の福音を、神様の偉大な救いの御業を、恐れることなく語り伝える者となったということです。イエス様が捕らえられた時には、イエス様を捨てて逃げてしまった弟子たちでした。しかし彼らは、このペンテコステの日から誰も恐れることなく、大胆にイエス様の福音を宣べ伝える者となりました。「イエスの名によって語るな。」と脅され、囚われの身となっても、彼らは語ることを止めませんでした。彼らは、聖霊なる神様によって変えられたのです。
4.継続している聖霊の御業
このペンテコステの日に起きた三つのこと。①弟子たちが様々な国の言葉でイエス様の救いの御業を語り伝える。②それを受け入れて、洗礼を受ける者が起こされる。③弟子たちがイエス様の福音を恐れることなく大胆に語る。この三つのことは、ペンテコステの日だけに起きた出来事ではありません。ペンテコステの日以来、ずっと起き続けていることです。聖霊は降り続けています。これはとても大切なことです。私共はペンテコステ記念礼拝を捧げているわけですけれど、それは二千年前に弟子たちに聖霊が降ったことをただ思い起こすということではなくて、聖霊はずっと降り続け、今も私共の上に降り続けていることを確認する。それが、私共がペンテコステを記念するということなのです。
このペンテコステの出来事を記念する礼拝の中で、ICU高校や青山学院高校では、色んな国から来ている生徒、或いは色んな国からの帰国子女の人たちに、その国の言葉で同じ聖書の一節を読んでもらうということをしているそうです。良いアイディアだと思いました。ペンテコステの出来事が今も継続中であるということは、そういうことです。今日も世界中で、色んな国で、色んな言語で、ペンテコステの出来事が覚えられ、父と子と聖霊なる神様の御名が誉め讃えられています。今日は残念ながら私共の教会では受洗者が与えられていませんが、世界中では最初のペンテコステの日に洗礼を受けた3千人をはるかに超える人たちが洗礼を受けているはずです。毎週70万人程度が洗礼を受けませんと、世界中で22億人のキリスト者になりません。ペテコステの出来事、聖霊が降るという出来事は、今も世界中で、そして私共の上にも起き続けているのです。
5.聖霊の御業(1)イエスは主なり
それは、今朝与えられております御言葉からもはっきり分かります。コリントの信徒への手紙一12章1~3節にこうあります。「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」私共は「イエスは主なり」と告白して洗礼を受けました。それは聖霊を受けたからです。みんな聖霊を注がれているのです。信仰が与えられるものであるとはそういうことです。聖霊が注がれ、信仰が与えられるのです。誰も、聖霊によらなければ「イエスは主なり」との信仰が与えられることはないからです。信仰が与えられた者には、必ず聖霊が与えられているのです。
しかし、聖霊が与えられるというのは、洗礼を受けた者だけに与えられているというものではありません。勿論、「イエスは主なり」と告白する信仰は、聖霊なる神様によって与えられたものです。しかし、それだけが聖霊なる神様のお働きではありません。聖霊なる神様のお働き、お導きというものは、もっと広く、日常的なことの中に溢れています。私共が教会に集うようになったのも、お祈りするのも、讃美歌を歌うのも、自分の歩みを振り返って「神様、ありがとうございます。」と言えるのも、みんな聖霊なる神様のお働きの中での出来事です。聖霊なる神様は、私共が意識しないような、何気ない日々の歩みの中で確かに、いつでも働いてくださっています。私共は、何でも自分が決め、自分の意思で行っていると考えがちですけれど、実に神様との関係においては、すべては聖霊なる神様の御業なのです。私共は、ものの言えない偶像を神だと思い、拝んでいました。その根っこにあるのは、自分の人生は自分のもの、自分が人生の主人、自分が善悪の基準、自分の損得がすべてという考えです。自分中心と言いますか、もっとはっきり言えば自分が神様になっていた、自分が偶像そのものだったのです。しかし、今は違います。本当の神様に出会って、このお方に造られ、このお方に愛されていることを知りました。そして、何のために生きるのか、生かされているのか、どこに向かって生きているのかを知らされました。本当にありがたいことです。
どうも私は最近、説教の中ですぐに「本当にありがたいことです」と言ってしまうのですけれど、この「ありがたいことだ」という思いもまた、聖霊なる神様によって与えられているものなのだと思います。イエス様を知るまで、私はいつも不平や不満で心が一杯になっていました。今も不平や不満が全くないとは言いませんけれど、それで心が一杯になって周りの人に当たり散らすなんてことはなくなりました。これはただ年のせいということではなくて、聖霊なる神様の守りの中にあるのだと思い、まことにありがたいことだと思います。
6.聖霊の御業(2)賜物・務め・働きを与える三位一体の神
続いてパウロはこう言います。4~6節「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」ここで、同じような言い方が三回繰り返されています。
「賜物」「務め」「働き」と、与えられるものが言い換えられています。賜物というのは、私共に与えられている能力のようなものをイメージしていただいて良いと思います。しかし、そう言いますと必ず、「私は何の賜物もない。」と言う人が出てきます。それは、この賜物ということに関して、人の目を引くような、人と比べて特別に優れている、そんな能力をイメージしてしまうからではないかと思います。勿論、人によってはそのような賜物を与えられている人もいるでしょう。しかし、この賜物というのは、聖霊なる神様が与えてくださった賜物ですから、それは本来、人と比べるようなものではありません。与えられたものなのですから、自慢するものでもありません。これはとても大切な点です。どんなに素敵な賜物を与えられていても、それを誇り始めますと、決して神様の栄光を現すことは出来ません。自分の栄光を求めるという間違いを犯してしまいます。
聖霊が与えてくださる賜物は、誰にでも必ず与えられています。自分では気付いていなくても、必ず与えられています。簡単な例を挙げて考えてみましょう。話すことが好きな人と、比較的無口な人がいたとします。こんなものは賜物ではないと思われるかもしれませんけれど、これはどちらも優れた賜物にもなります。その鍵は、次の「務め」との関係で決まります。この「務め」と訳されている言葉は直訳すれば「仕えること」という言葉です。誰に仕えるかといえば、勿論、神様に仕える、人に仕える、教会に仕えるということでしょう。この「仕えること」と結ばれる時、話すことが好きなことも無口なことも、とても優れた賜物となります。神様に仕えて自分を用いていただこうとする時、人に仕える為に心を開いていく時、話すことの好きな人は周りの人たちを明るく元気にするでしょうし、無口な人は聞き上手ということにもなりましょう。しかし、この「仕える」ということと結ばれませんと、話すのが好きなのは、ただうるさく、人をイライラさせるだけとなりましょう。また、無口なことは、ただ周りの人を暗くさせるだけということにもなりかねません。賜物は、神様に仕え、人に仕え、教会に仕えるということと結び合わされて、神様の御業のために「働く」ということになります。
聖書はここで、「賜物」「務め」「働き」を与えられるのは「同じ霊」「同じ主」「同じ神」だと告げています。お気付きになられたでしょうか、ここで「同じ霊」つまり聖霊、「同じ主」つまり主イエス・キリスト、「同じ神」つまり父なる神です。実にここで、父・子・聖霊という三位一体の神様によって私共に「賜物」「務め」が与えられ、それが「働き」として遂行されていく、と聖書は告げているのです。どこまでも聖霊が、主イエス・キリストが、父なる神様が、です。「私が、私が」「自分が、自分が」ではありません。三位一体のただ独りの神様が、私共にそれぞれ相応しい賜物を与え、それを用い、御業を為していってくださいます。そこに、キリストの体としての教会が建っていきます。それは実に麗しいものです。神様の御臨在と神様の栄光を現すものだからです。
7.聖霊の御業(3)全体の益となる
そして、7節で「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」と告げます。私共に聖霊の賜物が与えられて、聖霊なる神様の働きが現れるのは、教会全体の益となるためです。私がどう思われるのか、評価されるのか、賞賛を受けるのか。そんなことは少しも問題ではありません。「私が」ではありません。「栄光はただ神に」です。神様が聖霊を注ぎ、賜物を与え、それを用いてくださり、神様の御業が前進していく。それが、聖霊なる神様が弟子たちの上に降ったことによって始まったことです。神様はそのために、それぞれの地においてこの救いに与る者たちを召し集め、その御業に仕える教会をお建てになりました。そこに集う者たちには、みんな賜物が与えられています。自分でそれに気が付いていようといまいと、聖霊によって賜物を与えられていない人は一人もおりません。そして、その賜物は、それぞれの教会、そしてキリストの体としての全体教会、その全体の益となるために与えられており、用いられていきます。
それは、互いに組み合わされていくというイメージをもって語ることも出来るでしょう。これも大切な点です。聖霊なる神様によって与えられた賜物は、他の人の賜物と組み合わされて、より良く仕え、より神様の御業を為していくことが出来るのです。どんな素敵な賜物も、一人で出来ることは大したことではありません。そもそも、独りでやろう、独りで出来ると思う所に、傲慢があり、思い違いがあります。そもそも、神様の御業は愛の交わりの中で為されていくものだからです。互いに組み合わされていく中で、自分が、自分がという思いは砕かれていきます。そして、聖霊なる神様は、すべての者に謙遜という賜物を与えてくださいます。「ただ神にのみ栄光あれ」です。ここに、私共の思いと業とが一つにされていく道があります。
今日はペンテコステです。自分に与えられている聖霊の賜物が何であるかに思いを巡らし、それを神様に捧げ、神と教会と人に仕える者として用いられていくことを求め、共に祈りを合わせたいと思います。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、ペンテコステの出来事を思い起こさせ、今も私共に聖霊なる神様が臨んでくださり、私共一人一人に信仰を与え、賜物を与え、あなた様の御業に仕える者としてくださっていることを教えてくださいました。そして、聖霊なる神様の御業の中で一日一日を歩ませていただいていることを知らされました。まことにありがたく感謝いたします。どうか、私共をあなた様の御業の道具として、存分に用いていってください。この教会を、あなた様の栄光を現す群れとしていってください。この地に、いよいよ深く、広く、豊かに、あなた様の救いの御業が宣べ伝えられて行きますように。それを信じる者たちが起こされていきますように。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2021年5月23日]