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礼拝説教

「信じる者に救いをもたらす福音」
ハバクク書 2章1~4節
ローマの信徒への手紙 1章16~17節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝与えられております御言葉はローマの信徒への手紙1章の16節・17節の二節だけです。随分短いなと思われた方もおられるかもしれません。しかし、この二節はローマの信徒への手紙全体を要約していると言っても良い所です。研究者の多くは、18節から入っていく本論の結論を既にここで述べていると言います。このローマの信徒への手紙には、キリスト教全体の教理の筋道が明確に記されておりますけれど、その中心にあるのは今朝与えられている1章16・17節に記されていることです。このことを1章18節以下において、パウロは諄々と説いていきます。ですから、ここに記されていることをきちんと弁えれば、この後に記されていることは、このことを前提としていたり、あるいはこのことを目指して論じていることですから、とてもよく分かります。分かりづらい所は、ここに戻って考えてみたら良いのです。逆に、この二節の理解が間違っていますと、この後パウロが論じていることが、何を言おうとしているのかさっぱり分からない、ということになってしまいます。それほどにこの所は大切です。ですから、丁寧に順に見てまいりましょう。

2.福音を恥としない
 まずパウロは「わたしは福音を恥としない。」と告げます。パウロはキリスト教の伝道者なのですから当たり前ではないか、と思われるでしょう。確かに当たり前です。福音を恥としていて伝道出来るはずがありません。しかし、どうしてパウロは敢えて否定的な「恥としない」という言い方をしたのか。それには理由が二つあると思います。一つは、何かを否定することによって、その反対のことを強調するという修辞法(=レトリック)を用いているということです。例えば、ちょっとたとえとしては良くないかもしれませんが、ある人が「わたしは馬鹿じゃない。」と言った場合、その人は単に自分は馬鹿ではないと言っているのではなくて、「わたしは結構賢いんだぞ。」と言っているのでしょう。それと同じように、パウロが「わたしは福音を恥としない。」と言ったのは、「恥としない」と言いたいのではなくて、「恥」の反対である「誇り」ということを告げている。つまり、「わたしは福音を誇りとしている。」と言っているわけです。ここで直接「誇り」という言葉は使われていませんけれど、言いたいことはそういうことでしょう。パウロは手紙の中で「誇り」とか「誇る」という言葉を40回くらい使っています。彼にとって、誇りはとても大切なものでした。それはパウロに限ったことではないでしょう。何を誇りとするのか、それによって私共はどう生きるのかということが決まってしまうからです。藤沢周平の時代小説ではありませんが、その人が武士であることを誇りとするならば、武士として生きる、武士道に殉じて生きるということになりましょう。パウロは福音を誇りとしました。ですから、福音に相応しくない歩みはしない、福音に相応しく生きる、それがパウロにとってとても大切なことだったのです。それは私共にとっても同じだろうと思います。パウロは、その福音を誇りとして生きるということが、「信仰に生きる」、しかも「福音を信じる信仰に生きる」ということだと言っているのです。では、「福音を信じる信仰に生きる」とはどういうことなのか。それについてはまた後で触れます。
 さて、もう一つの「わたしは福音を恥としない。」とパウロが告げる理由。それは、福音が恥とされていたからです。誰に恥とされていたかと言いますと、ユダヤ人やギリシャ人によってです。ユダヤ人にしてみれば、律法を守って神様の御前に自ら正しい人となって初めて神様に救われるのであって、ただ信じれば救われるなどという「福音」は、とんでもない教えだ。そのようなことを信じるユダヤ人がいるなんて信じられない。そんな教えを広げる者など赦せない。パウロは人々からそのように考えられ、対応されていました。使徒言行録に記されているように、パウロはユダヤ人たちから迫害されたのです。彼が福音を告げる故にです。しかし、パウロは「わたしは福音を恥としない。」と告げたのです。ギリシャ人たちも福音を恥としました。使徒言行録17章に記されておりますように、アテネでパウロが伝道した時、彼がイエス様の復活の話を始めた途端にギリシャ人たちは、「その話は、いずれ聞くことにする。」と対応しました。「いずれ」という時は二度と来ません。彼らはパウロが語る福音があまりに馬鹿馬鹿しく、荒唐無稽な話だとあしらったのです。しかし、パウロは「わたしは福音を恥としない。」、福音はわたしの喜び、わたしの誇りだと告げたのです。

3.救いをもたらす神の力
 パウロが恥としない、誇りとする福音とはどういうものであるかと言いますと、神の御子であるキリストが天から来られ、イエス様として生まれ、私共に代わって一切の罪の裁きを受けて十字架の上で処刑された。そして、三日目に復活された。この方を我が主・我が神と信じるだけで、一切の罪を赦され、神の子としていただき、永遠の命に与る。これが福音です。この福音は、ユダヤ人からもギリシャ人からも相手にされていないけれども、もしこれを信じ、受け入れるならば、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、皆必ず救われる。何故なら、この福音は神の力によって与えられたものであり、この福音による救いは神の力によるからです。福音は人間の力によってもたらされたものではありません。イエス様を天から降されたのは、神様です。イエス様を十字架に架けて私共の身代わりとされたのは、神様です。そして、イエス様を死人の中から甦らさせたのは、神様です。このように、福音は神様によって与えられました。そして、その福音によって私共を救い、新しい命に生きる者にしてくださるのも、ただ神様の御力によります。私共の努力や能力や力によって救いを得ようとするのは福音ではありませんし、そんなことは出来ません。
 人間は、人種や民族や社会階層など様々なもので人と人を区別し、分断していきます。そして、自分たちは特別だと思いたがります。しかし、そのようなものは神様の御前では全く意味がありません。ユダヤ人は自分たちだけが神の民であり、律法を守るという業によって自分たちだけが救われると考えていました。そして、ギリシャ人たちは自分たちの知性は特別優れており、その認識によって救いに至ると考えました。ギリシャ語を話さない人たちを未開人として見下していたのです。しかし、そのような小賢しい人間の知性や善き業によって、本当に人間は救いに与れるのでしょうか。パウロはここで「信じる者すべてに救いをもたらす」と言いますが、この手紙を書いたパウロは旧約聖書に親しんでおりました。その彼が「救い」と言う場合、それは「命」と言い換えても良いものでした。神様に救われるとは、神様に命を与えられるということです。ですから、この言葉は「信じる者すべてに命をもたらす」という意味でもあります。そもそも、私共の認識なり善き業というものには、それほどの力があるのかということです。命をもたらすことが出来るのかということです。そのような力は、私共にはありません。救いは神様から来る。神様だけが、この天と地を造られた全能の父なる神様だけが、私共を救い、私共に新しい命、この朽ちてしまう肉体の命を超えたまことの命を与えることが出来ます。神様以外に、それを出来る方はいません。そして、この全能の父なる神様の御前では、ユダヤ人もギリシャ人も何の違いもありません。どちらも神様に造られた者であり、ただの罪人でしかないからです。ここでギリシャ人と言われているのは、異邦人という意味です。ユダヤ人以外の者という意味です。ですから、ここにすべての人種・民族・国民が入ることになります。ですから、私共日本人もここに含まれます。イエス様を信じるならば皆、全能の父なる神様の御力によって救われます。罪を赦され、神様の子とされ、永遠の命に与ります。ありがたいことです。

4.神の義、福音の再発見
 パウロは次に、「福音には、神の義が啓示されている」と告げます。この理解が決定的に大事です。皆さんは、「神の義」という言葉からどんなことを思われるでしょうか。「義」とは正しいということですから、すぐに思いつくのは、「神様は正しい方で、正しくない者を裁かれる」ということではないかと思います。それはその通りなのです。しかし、そうすると、ここで言われている「福音には、神の義が啓示されている」とは、どういうことになるでしょうか。福音とは、ただイエス様を我が主・我が神と信じるだけで救われるということです。それと罪人を裁く「神の義」とは、すんなり繋がるでしょうか。この「神の義」と「福音」の関係において悩み、苦闘し、そして遂にこの御言葉の本当の意味を再発見した人がいます。それが宗教改革者マルチン・ルターです。今、再発見と申しましたのは、この「神の義」の理解はルターが初めて発見したものではないからです。そもそもパウロはそのことを弁えて、このローマの信徒への手紙を書いていたわけです。ところが、ローマ・カトリック教会がそのことを見失ってしまった。それをルターが1500年後に発見した。だから、再発見なのです。
 ルターについて少しお話ししますと、彼は1483年に、鉱山業に従事していた父の次男として、旧東ドイツのザクセン地方で生まれました。18歳で法律家になるためにエアフルト大学に入ります。500年前ですから、もう大変なエリートですね。彼の父は、息子が法律家になって、地上での栄達を得ることを願っていたわけです。しかし、四年後に大学へ向かったルターは、エアフルト近郊の草原で激しい雷雨に遭います。そして、すぐそばに雷が落ちました。彼は恐怖におののき、「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから!」と叫んだといいます。そして、彼は修道院に入らなければならないと思います。しかし、ルターの両親は修道院に入ることには大反対でした。彼はその反対を振り切ってエアフルトの聖アウグスチノ修道会に入りました。この修道士時代に、ルターは聖書を深く読むようになります。多分、彼は修道院に入るまで聖書などおおよそ読んだこともなかったのではないかと思います。まだ印刷された聖書はありません。大きな写本の聖書が、教会や修道院にあるだけでした。大変貴重なものでしたから、持ち出せないように鎖でつないであったのです。彼は司祭の叙階を受けました。しかしルターは、どれだけ熱心に修道生活を送り、祈りを捧げても、心の平安が得られないと感じていました。それは、どんなに真面目に、熱心に修道生活をし、罪を悔い改めても、次から次に心の中に湧いてくる罪の思いを断つことが出来なかったからです。彼は、自分を裁く「神の義」に脅えていたのです。彼は学びを続け、聖書博士となり、ヴィッテンベルク大学で聖書注解の講座を受け持つことになりました。そこで彼はローマの信徒への手紙の「神の義」と格闘しなければなりませんでした。どんなに禁欲的な生活をしても、出来る限り善き業に励んでも、神様の御前で「自分は正しい」と言うことが出来ない。彼は苦しみ続けます。平安が得られないのです。自分は神様の前に義としていただける者だという確信が生まれないのです。普通なら、修道僧として真面目に戒律に従って生活していれば、自分は正しい者だと思いそうなものですけれど、彼はそう思えなかった。一点の曇りも無き義人として神様の御前に立てない自分がいるわけです。彼は聖書と格闘しながら、この自らの罪と神の義の狭間で苦闘するのです。そして遂に、突然、全く新しい理解を与えられます。それは、天からの光のように彼の心に差し込み、彼の心の闇をすべて打ち払い、全き平安と救いの確信を与えました。彼はこの時、「神の義とは、罪人を信仰によって義としてくださる義なのだ。ただ信仰によって義としてくださる、神様の恵みに満ちた義。それが福音に啓示された神の義なのだ。」という理解を与えられたのです。この経験は、彼が聖書の研究をしていた塔で起きたので「塔の体験」と呼ばれています。これが、信仰によって義と認められる、つまり「信仰義認」と呼ばれる教理となりました。
「福音には、神の義が啓示されている」この一句をめぐって、ルターの前に恵みに満ちた福音の世界が広がったのです。罪人を裁く神様の前で脅えて、ただただ罪を犯さないようにとおどおどして生きるのではなく、ルターの言葉で言えば「大胆に罪を犯せ。しかし、更に大胆に悔い改めよ。」という、実に自由な、喜びと感謝に満ちた神様との交わりの中に生きる信仰、福音主義信仰が立ち上がっていったのです。この言葉が私は大好きなのですが、勿論これは「大胆に罪を犯せ」に力点があるわけではありません。罪を犯すことを推奨しているわけではありません。当然です。どんなに正しく歩もうとしても、罪を犯すのが私共です。そこで、私共は「更に大胆に悔い改める」のです。そこで私共は赦され、神の子として新しくされるのです。これはローマ・カトリック教会が教える、「信仰と善き行いによって救われる」という教えと鋭く対立することとなり、宗教改革という世界史的出来事へと繋がっていきました。私共の教会は、勿論、このルターの「ただ信仰によって、罪人を義人(正しい人)と認めてくださる神様の義」が「福音に啓示された」というところに立っているわけです。日本基督教団信仰告白では「ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。」というところに言い表されている信仰です。

5.信仰によって生きる
神の義は福音に啓示されていますが、それが実現されるのは「初めから終わりまで信仰を通して」だとパウロは告げます。罪人を義人と見なしてくださり、一切の罪を赦してくださるということは、すべて信仰によってだと言うのです。信仰抜きにこの恵みに与るのではありません。信仰が無ければ、そもそもこの福音が分かりません。福音を感謝して受け取ることが出来ません。ですから、信仰が無ければ始まりません。そして、信仰をもってこの救いの恵みを受け取ったなら、後は善い業に励んで、良い人になって、救いに与りましょうということでもありません。徹頭徹尾、信仰によってです。ただ恵みを受け続けていく。赦しに与り続けるのです。
 信仰者の歩みというものは、一度信じたから、後は神の国まで何事もなく平穏に歩んでいけるというようなものではありません。この地上にある限り、私共の歩みには、様々な試練と誘惑が付いてきます。そこで、私共は熱心に、何とか頑張って、試練や誘惑を乗り越えようとするわけです。勿論、一生懸命になって頑張るということ自体が悪いわけではありません。しかし、私共が神様によって義とされたのはただ信仰によってです。それは、最初から最後までそうなのです。試練の苦しみが続くこともありましょう。誘惑に負けることもありましょう。そこでどうするのか。どこかで、真面目に頑張っているならば神様が守ってくださる、と考え始めてしまう。しかし、救いはただ信仰によって与えられるのです。私共がこれだけ良いことをしたからとか、そんなことは一切問題とされません。しかも、信仰は聖霊なる神様が私共に与えてくださるものですから、これも神様の恵みです。そして、信仰によって歩むことも、聖霊なる神様の御手の中でのことです。ですから、私共は安心して既に救いに与った者として、御国に向かっての歩みを為していけば良いのです。
 「正しい者は信仰によって生きる」とは旧約のハバクク書2章4節の引用ですけれど、神様は既に旧約において、イエス様の十字架・復活によって与えられる福音を指し示していた、とパウロは言っているわけです。つまり、信仰によって正しい者としていただいた者は、信仰によって生きる。信仰によって神様との交わりに生き、信仰によって神様が与える命に生きるのです。初めに申しました「福音を信じる信仰に生きる」ということは、このことです。自分の中に救いの拠り所を求めることなく、自分の正しさなど少しも頼りにすることなく、自分が何者かであるかのように思い上がることもなく、ただ神様が愛してくださり、赦してくださり、救ってくださり、命をくださった、この恵みに生きる。ただ神様の恵みです。この神様の恵みの中に生き切る。感謝をもって生き切る。それが、神様に選ばれ、信仰を与えられたキリスト者の歩みというものです。

 祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、ローマの信徒への手紙の御言葉によって、「罪人をただ信仰をもって義としてくださる」あなた様の義について改めて心に刻ませてくださいました。ありがとうございます。私共は、あなた様の御前に立って誇るべきところなど何一つありません。しかし、そのような私共をあなた様は愛してくださり、ただイエス様の十字架によりあなた様の子としてくださいました。どうか、私共をこの恵みの中に留まり続けさせ、信仰から信仰へと歩ませてください。福音を喜び、福音を誇りとして、福音に相応しい歩みを御前に為させてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年6月6日]