1.はじめに
ローマの信徒への手紙を読み進めています。先週は16~17節から御言葉を受けました。「福音には神の義が啓示されている」という17節の御言葉において、マルチン・ルターが、「神の義」とは罪人を裁くだけではなくて、罪人を義としてくださるという義なのだということを再発見し、それが宗教改革へと繋がったということを見ました。16~17節は、18節から始まる本論の、結論のようなものだとも申しました。そしていよいよ本論に入るわけですが、今日の所の小見出しは「人類の罪」とあります。パウロはいきなり、罪を語ります。しかも、「彼らには弁解の余地がありません。」という厳しい言葉で、罪を告発します。この罪の告発は、小見出しに「人類の罪」とあるように、パウロは、「あの人は」「この人は」という個人的な話をしているのではありません。そうではなくて、パウロは普遍的な、すべての人に当てはまる罪の姿を告げています。しかも、この罪についての叙述は3章20節まで続きます。
ある方と話をしていましたら、「どうも私はローマの信徒への手紙が好きではない。罪の話ばっかりで、読んでいて気が滅入る。」と言われました。その方はキリスト教の中学・高校にいた時に、「毎日の礼拝でローマの信徒への手紙がずっと続いて、毎日、罪・罪・罪と言われて嫌になった。」というトラウマがあるということでした。それを聞きまして、確かに3章20節までの間、これからずっと罪の話をしなければいけないのですけれど、この方のようなトラウマにならないように、「牧師は罪・罪・罪ばっかり言っている。」と思われないように御言葉を語っていかなければならないと思わされています。きっと、多分、おそらく大丈夫だと思います。
それは、パウロが罪を告げる時、彼は必ず「キリストの御前で」「キリストの救いの中で」「キリストの福音に照らされて」告げているからです。キリストの救いと無関係に罪を語ることはありません。それは、イエス様の十字架と復活の恵みの中においてしか、私共は罪をきちんと見ることが出来ないからです。それは、私共がイエス様を知らなかった時に、自分の罪もよく分からなかったことを思えば分かるでしょう。キリストの救いの光に照らされれば、そしてその光が強ければ強いほど、照らし出される自分の罪は濃い影となって現れます。そして、自らの罪を知れば知るほど、神様に赦されていることの恵みは大きく、はっきり、圧倒的に迫ってきます。パウロは罪を語りながら、圧倒的なキリストの福音の恵みの中にいます。私共もそのような、圧倒的な福音の恵みの中に生かされている幸いを、共に味わいたいと思っています。
2.不信心と不義
今朝与えられている御言葉を見てみましょう。18節には、日本語の翻訳にはありませんけれど、ギリシャ語の本文には「なぜならば」という接続詞があって18節が始まっています。つまり、17節「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」とあって、「なぜならば」すべての人が神様の怒りの対象となっているからだ、というわけです。「イエス様の十字架と復活によって、イエス様を信じる者は神の子とされ、一切の罪が赦される」という福音には、罪人を正しい者として認める、神様の正しさが現れていて、それを受け取るのはただ信仰によってだ。「なぜならば」すべての人は神様の怒りを受けなければならない者だからだ、というのです。
18節でパウロは、「人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」と告げます。「不信心」というのは、神様を神様としない、本当の神様を崇めず、従おうとしない人間の存在の有り様です。神様との関係における、最も根本的な間違い、歪み、的外れな有り様のことです。パウロは、ユダヤ教のファリサイ派の人間として一見実に信心深かったわけですけれど、完全に的を外した不信心な者でした。自分の善き業によって救われると思い、イエス様を送ってくださった神様の愛と憐れみを受け取ることが出来なかった。そんなものは必要ないと思っていたからです。自分を頼っていたからです。それで救われると考えていました。完全に的を外していたわけです。これが、ここで言われている「不信心」です。そして「不義」ですが、これは私共が考える所の「悪い行い」と考えて良いでしょう。この不信心や不義と自分は関係ない。そう言い切れる人はいないでしょう。では、そのような私共はどうなるのでしょうか。
3.神の怒り
パウロは、「あらゆる不信心と不義に対して神様は怒りを現される」と言います。つまり、この神様の怒りから誰も逃れられないと言うのです。これは脅しではありません。最初に「あなたはこのままでは、神様の怒りを買い、裁かれ、滅びます。」そう言って不安を煽って、恐れさせて、相手をとことん追い詰めて、それから「だから、イエス様を信じなさい。そうすれば救われます。」という話にもっていこうとしているのではありません。カルトと呼ばれる宗教がやっているのは、ほとんどこのやり方です。パウロもそれと同じ手を使おうとしているのなら、それは福音を伝えるあり方として、間違っています。そこで伝えられるのは、福音ではないからです。喜びの訪れではなく、不安と恐れだからです。では、なぜパウロは人間の不信心と不義とを告げ、神の怒りが下ることを告げたのでしょうか。
ここがとても大事な所です。パウロがここで神様の怒りを告げたのは、実に、この神様の怒りは既に徹底的に現されたからです。それはイエス様の上にです。それがイエス様の十字架です。イエス様がこのすべての人の不信心と不義に対しての怒りを受けられた。十字架の上で徹底的に受けられた。ですからパウロは、すべての人間の不信心と不義とを告げなければなりませんでした。これを告げなければ、福音を伝えることは出来ないからです。神様の怒りと裁きがない所では、イエス様の救いもありません。救いとは、救われるとは、神様の怒りから、神様の裁きから、救われることだからです。
4.被造物に現れている神の性質
神様についてはみんなが知っている、知っているのに、知ることが出来るのに、神様を無視して生きている、だから、人間は神様の御前で「弁解の余地はない」とパウロは告げるのです。どうして、そんなことが言えるのか。パウロは19~20節で、「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」と言います。これは要するに、神様が造られた世界・自然を見れば、神様が永遠の方であり、全能の力のある方であることは分かる、と言っているわけです。
これを神学の言葉では「自然啓示」「一般啓示」と言います。皆さんの中には、夜空の星を見るのが好きな方もおられるでしょう。その星の光が何億年前の光だと言われれば、何とも壮大な宇宙の広さ、大きさ、そして時間の長さを思わされるわけです。私共の人生など、ほんの瞬きほどの時間でしかない。地球もそれらの星の一つでしかないわけですから、本当に自分の小ささを思わされるでしょう。それは立山に登っても同じでしょう。これらを造られた神様の力の大きさ、そして神様が永遠のお方だということが分かるでしょう、とパウロは言うわけです。それは、宇宙の大自然だけではなくて、自分自身という存在を見ても思わされることです。私共は意識しないのに呼吸をし、心臓は動いています。髪の毛は伸びますし、傷口は塞がっていきます。どんなメカニズムでそうなっているのか全く知らなくても、そうなっています。私共はどうしてそうなるのか知らないのですから、この体を自分で造ったなどとは言えるはずもありません。この自分の体の不思議を思う時、自分を造られた方がいる、と思うでしょう。それが神様です。宇宙のことをギリシャ語で「コスモス」と言います。そして、人間の体を、小さな宇宙=「ミクロ コスモス」と言います。自分を造り、世界・宇宙を造られた全能の神、永遠の神。この認識はこの宇宙や世界を見れば、自分の体を見れば分かる。なのに、どうしてその神様に感謝し、その神様を崇めないのか。この不信心には弁解の余地がない、とパウロは言うのです。
確かに、言われてみればそうかもしれないけれど、教会に来て、天地を造られた全能の神様、永遠の神様がおられるということを教えてもらうまで、私共はそんなことをあまり考えなかったのではないでしょうか。ですから、いきなり「弁解の余地はない」と言われると、つい「そうかもしれないけれど」と言って反論したくなるのではないかと思います。私共は、はっきりと神様はこういう方だと分からなくても、漠然と、自分に命を与えてくれ、一日一日守ってくださっている神様に対して、感謝をして生きていたということはあるのではないかと思います。そして、良心にしたがって生きるという歩みをしてきたという自負もあるかもしれません。この良心というものも、神様が与えてくださった一般啓示の一つと考えられます。
しかし、自然啓示・一般啓示だけで、神様について知るべきことがすべて分かるかといいますと、それは難しいでしょう。神様の愛や神様は真実な方であるということは、イエス様の十字架と復活の恵みについて知ることによってしか分かりません。そこで、聖書という特別な啓示、これを特殊啓示とも言いますが、これが必要なわけです。
しかし、パウロは全人類を断罪したいわけではないのです。もう少し進んでみましょう。
5.偶像礼拝
パウロは、21~23節「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」と告げます。
ここでパウロは、偶像礼拝こそ人間の不信心と不義とが生みだしたものであり、これこそ最も忌むべきことであり、それをしてきた者たちは「弁解の余地はない」と言うのです。何となく、神様がいる、神様に感謝することは良いことだと知っている人ほど、様々な偶像を拝んでしまうということはあるでしょう。これは、日本人の宗教心として「信心深い」思いを持っている人です。しかし、どんなに信心深くても、本当の神様との関係が健やかになるということはありません。天地を造られた神様と被造物を一緒くたにしてしまうという、的外れなことになってしまうからです。これは、世界中のどの地域にも、どの時代にもある、いわゆる自然宗教のあり方です。人間の力をはるかに超えた自然の力を神の力と考え、自然を神として崇める。その自然も神様に造られたものに過ぎないのですけれども、その自然を神としてしまう。或いは、その自然の一部を神としてしまう。ここには人間・鳥・獣・這うものしか記されていませんけれど、太陽も月も星も山も大木も滝も大きな石も神様のように拝まれるわけです。しかし、20節にありますように、神様は目に見えないお方です。それを見えるものと取り替えてしまう。それは、神様をおとしめることです。パウロは、それは神様の怒りを招くだけだと言うのです。
この偶像礼拝というものは、言葉は悪いかもしれませんけれど、その本質において自分の願いを叶えるためのものです。偶像の本当の姿は、実は自分自身なのです。自分が神になってしまう。自分を超える存在に対しての、漠然とした畏れの念はあるでしょう。しかし、それを敬うというよりも、何とかその力を自分の願いや思いを叶えるために利用しようとする、ということがあるでしょう。偶像は言葉を持ちませんから、そこにあるのは人間の思いだけです。五穀豊穣であれ、家内安全であれ、商売繁盛であれ、こちらの願いを叶えてくれるならば、対象は何でもいいのでしょう。それは残念なことに、神様との愛の交わり、信頼の交わりとはほど遠いあり方です。神様が人間に求めておられることとは全く違うわけです。
皆さん、お祭りは何であんなに盛り上がると思いますか。それは楽しいからでしょう。神輿を担ぐのも、夜店で買い物をするのも、楽しいんです。でも、そのお祭りで拝まれている神様の名前さえも知らない。楽しいのが悪いわけではありません。しかし、祭りの中心が神様ではなくて自分になっている。ここに偶像礼拝の姿が現れているのではないでしょうか。
6.人間のあるべき姿 = 神様を崇め、感謝する
では、パウロが言っている神様との健やかな関係、私共の本来のあるべき姿とはどういうものなのでしょうか。それは、21節で「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず」と言っているのですから、その反対のこと、つまり、「神様を知り、神様を崇め、神様に感謝すること」が、本来の人間の有り様、神様の御前における人間の有り様だというのです。それが、私共を御自分に似た者として造られた神様が私共に求め、期待していたものでした。しかし私共は、自然を通して、或いは私共のこの体において、神様が自らの永遠の存在と全能の力を現してくださっていたにもかかわらず、それを無視して、偶像礼拝にふけってしまった。神様を知らず、それ故神様を崇めることもなく、神様に感謝することもなかった。本来、神様が誉め讃えられ、崇められ、栄光を受けるべきでした。それを被造物であるつまらないものに与えてしまった。それが「愚か者」であるということです。しかし、人間はその愚かさを知らず、自分たちは賢い者であると思い違いをしていました。今もそうです。何をもって賢いと言い、愚かと言うのか。それは、自分が何者であるかを知っているかどうかです。自分が造られたものであり、有限なものであり、私を造られた方がおられる、永遠な方がおられるということを知っているかどうか、そしてその方を崇めているかどうかということです。これを知らなければ、何も知らないのと同じです。科学が進歩し、宇宙の謎や人体の謎が明らかにされたとしても、自分が何者であるかを知らないのであれば、それは、どんなに精巧な地図を作ってみても、自分がどこにいるのか知らなければその地図は役には立ちません。それと同じです。
しかし、私共はまことの神様を知りました。「神様を知る」とは、神様がいることが漠然と分かったというようなことではなくて、神様を神様として崇め、礼拝するというあり方で知るということです。「滅びることのない神の栄光」を神様に帰するということです。「栄光はただ神に」です。私共は神様を知りました。天地を造られた神様がどれほど私を愛してくださっているかを知りました。イエス様と出会ったからです。天地を造られた神様が私を造ってくださり、食べ物を与えてくださり、家族を与えてくださり、仕事を与えてくださり、すべてを導いてくださっていることを知りました。そして何よりも、イエス様を我が主・我が神と信じるだけで、一切の罪を赦していただき、神の子としていただきました。神様に向かって「父よ」と呼ぶことを許されました。その恵みの中で、私共は神様を畏れ、敬い、崇め、誉め讃え、感謝しつつ生きる者とされました。実に、神様の御前にある、あるべき姿を回復させていただきつつ歩む者とされたわけです。まことにありがたいことです。
7.弁解の余地はない
何度も申し上げますが、パウロは、ここで私共を断罪しようとしているわけではありません。確かにパウロは、神様の創造の御業の中で生かされているのにそのことを知らず、目に見える被造物を拝むという愚かなことをしている、人間の罪を指摘します。これに対する神様の怒りを告げます。弁解の余地はありません。パウロはここで、人間に対しての神様の怒り、神様の裁きの普遍性を告げています。しかし、そのことは同時に、だからすべての者が救いを必要としているということを、そしてすべての人はキリストの救いへと招かれているということを示しているのです。
この手紙の14~15節で、パウロは、すべての人に対しての責任がある、それは福音を告げ知らせることだ、と告げました。そして16~17節において、日本語では訳されていませんが「なぜならば」とあって、「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」と告げます。そして、18節の冒頭にも日本語では訳されていませんが「なぜならば」とあって、「人間のあらゆる不信心と不義に対して、神様の怒りが現れる。」と繋がっています。つまりパウロは、自分は救われた者として高い所にいて、イエス様を知らずに罪の中にいる人たちを見下し、断罪しているのではないのです。そんな人ならどうして伝道が出来ましょう。神様の愛を伝えることが出来ましょう。パウロは、なお罪の暗闇の中にいる人々を何とか救いたい。それが自分の使命であり、神様の御前における責任なのだ、と言っているのです。そして、福音にはその力があるのです。
パウロは自分もまた罪人の一人であったとはっきり自覚しています。「弁解の余地はない」というのは、過去の自分自身に対する言葉ではないかと私には思えるのです。弁解の余地のない罪人。しかし私は救われた。罪人である私を救うために、イエス様は来られた。イエス様は、この罪人のために身代わりとなって十字架にお架かりになった。ただ信じるだけで、その罪は赦され、救われる。すべての罪人がこの救いに招かれている。この福音をどうして伝えないでいられよう。そうパウロは言っているのです。弁解の余地がない罪人とは、イエス様の救いへと招かれている罪人ということです。福音を必要としている人ということです。私共もそうでした。だから、招くのです。イエス様が招いているからです。自分では気付いていないでしょうが、福音を必要としていない人なんて一人もいません。私共もパウロのように、イエス様の救いへと人々を招いていきたい。自分の家族を、友人を、招いていきたい。その神様の御業に用いられることを喜び、誇りとする者として歩んでまいりたいと思うのです。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、偶像礼拝に陥ってしまう、人類の罪について教えてくださいました。私共もその罪の中にありましたが、あなた様はその暗闇から私共を救い出してくださいました。イエス様の救いに与らせ、あなた様の御光の中を歩む者としてくださいました。ありがたく、感謝いたします。どうか、この救いの恵みを周りの人々に伝えていくことが出来ますよう、私共を用いてください。すべての者の唇に、あなた様の御名が誉め讃えられますように。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2021年6月13日]