1.はじめに
今日は子どもたちが一番前に座って一緒に礼拝をしています。前にはたくさんの花が飾られています。テーブルにある花は子どもたちが生けました。礼拝の後で、お隣のまちなか病院に子どもたちと一緒に届けます。今日は花の日礼拝です。花の日礼拝というのは、この花のように、子どもたちが心も体も信仰も健やかに成長していくことを願って捧げられる礼拝です。キリスト教の「子どもの日」のようなものです。165年くらい前にアメリカの教会で始まりました。花の日は6月の第二日曜日なのですけれど、日本ではこの時期は咲いている花が少ないので、5月に行っている教会もあります。私たちの教会では6月の第三日曜日に行っています。でも、6月の第三日曜日は父の日でもあります。この父の日も、100年ほど前のアメリカの教会から始まりました。そういうことで、今日は花の日であり父の日でもあるということで、御言葉を受けてまいりたいと思います。
2.父なる神様
私たちは「天の父なる神様」と神様に呼びかけてお祈りします。勿論、神様に呼びかける言葉はこれだけではありません。たくさんあります。でも、この呼びかけが代表的な呼びかけです。神様は天におられますから「天の」と言います、そして私たちの「父」「お父さん」となってくださいましたから「父なる神様」と呼びます。でも僕には、私には、家に「お父さん」がいるのに天にもいるのと思いますか? 当たり前のことですが、家にいるお父さんと、天におられる神様であるお父さんとは、同じではありません。家にいるお父さんは人間ですし、天におられるお父さんは神様です。天と地のすべてを造られたただ独りの神様です。
じゃあ、どうして天の神様を「お父さん」と呼ぶのでしょう。どうして「お母さん」じゃないのでしょう。これは中々難しい問題ですが、一番の理由は、イエス様が神様に向かって「父よ」と呼んで良い、呼びなさい、と私共に言われたからです。天の神様の本当の子どもは、イエス様だけです。ですからイエス様はお祈りする時に、神様に向かって「父よ」と呼びかけておられました。イエス様は神様の独り子ですから当然です。イエス様がそのように神様に呼びかけるのは分かります。でも、どうして私たちも神様に向かって「父よ」「お父さん」と呼べるのでしょう。それは、イエス様を信じて洗礼を受けた人はみんな、イエス様と一つに繋がるからです。神様の独り子であるイエス様と私たちが一つに結ばれます。ですから、イエス様のお父さんは私たちのお父さんになりました。そして、イエス様は私たちに、「神様を父と呼んで良い。そう呼びなさい。」と言われました。
これはとっても不思議なことであり、とっても素敵なことです。神様を「お父さん」と呼ぶということは、私たちは神様の子どもだということでしょう。「お父さん」と呼ぶのは子どもだけです。どんなに良く知っている人であっても、近所のおじさんを「お父さん」と呼ぶことはありません。つまり、神様をお父さんと呼べる、呼んでいいということは、私たちが神様の子どもとされたからです。神様が私たちを自分の子どもとして見てくださっているからなのです。
3.お父さんの愛
ところで、皆さんは家にいるお父さんが好きですか。大好きという人もいるでしょうし、そうでもないという人もいるかもしれません。小さいお友だちは、大好きと言うでしょう。ちょっと大きくなって中学生くらいになると、中々「大好き」とは言えないかもしれません。でも、とっても大切な人であることは間違いないでしょう。そして、お父さんもみんなのことをとっても大切に思っています。
みんながお父さんを大好きと思ったり、大切だなと思うのはどんな時でしょう。誕生日にプレゼントをくれる時? 一緒に遊んでくれる時? どこか遊びに連れて行ってくれる時? いやいや、そんな特別な時じゃなくても、いつでも大好きだし、とっても大切だと思っている。そういう人もいるでしょう。でも、いちいちうるさくて、面倒くさい、と思っている人もいるかもしれません。
私のお父さんは、もう25年前に亡くなりました。76歳でした。私は四人兄弟の末っ子で、あまりお父さんに叱られたことがありません。お母さんにはしょっちゅう叱られていましたけれど、お父さんに叱られた覚えがあまりありません。お母さんが私を叱っていると、お父さんは「まあ、そんなに怒りなさんな。ごめんなさいって言ってるんだから。そのくらいにしてあげなさい。」と言ってくれたりしました。お母さんは「いつもお父さんはヤッチャン(私のこと)には甘いんだから。」なんて言っていました。でも、一度だけそのお父さんが私にとても怒ったことがありました。それは、私が中学生の頃だったでしょうか、お父さんに対して「あんたは間違っている。」と言った時でした。何に対して「間違っている」と言ったのか、もう覚えていません。その時、お父さんは私が「間違っている」と言ったことに対してではなくて、私がお父さんに対して「あんたは」と言ったことに対して、本当に激しく怒ったのです。「父親に向かって、あんたとは何だ。その口の利き方は子どもが父親に向かって言う言葉ではない。何様だと思っている。」と言って、本当に顔を真っ赤にして怒りました。本当に怖かったです。いつも叱られたことのないお父さんに、大声で叱られて、しゅーんとなってしまったことを覚えています。お父さんはいつも子どもたちのために、一生懸命働いてくれているわけです。食べることができるのも、着ることができるのも、住む所があるのも、お父さんが一生懸命働いてくれるお陰です。でも、それが当たり前だと思って、お父さんに感謝することもなかったのですね。こっぴどく叱られて、初めてその事に少し気が付いたのでした。
4.罪なる人間
天の父なる神様はどうでしょう。神様は天と地のすべてを造られ、私たちを造ってくださいました。お父さんもお母さんも兄弟も友だちも、水も空気も太陽も食べ物も、みんな神様が造ってくださり、そのお陰で私たちは毎日生きることが出来ています。でも、私たちはそのことを少しも考えず、それらがあるのは当たり前で、神様に対して感謝することを忘れてしまっていました。神様のことを考えることさえ忘れてしまっていました。それは、神様に対して、とってもとっても失礼なことですね。
そして人間は、「自分がしたいことをする」「自分の欲を満たす」、それが当然のこと、そう考えるようになってしまいました。神様がしてはいけないということをしても平気になってしまったんです。何がしてはいけないことなのか、何が悪いことなのか、それもよく分からなくなってしまったんです。良いこと、悪いこと、それを決めることが出来るのは神様です。でも、神様のことなんて考えもしないものですから、結局、「自分が得をすることは良いこと、自分が損をすることは悪いこと」、「自分が気分の良いことは良いこと、気分が悪いことは悪いこと」、「自分がしたいことはする、したくないことはしない」、そんな風になってしまいました。たとえ悪いことであっても、人が見ていなければ、誰にも分からなければやってもかまわない。自分がしたいことをすれば良い。そんな風に考え、行動するようになってしまったのです。
しかし、神様が私たちに求めているのは、喜んで神様の御心に適うように歩もうとすることです。それは、誰も見ていなくても、してはいけないことはしないということです。お財布が落ちていたら、交番に届けます。当たり前のことです。でも、それが当たり前ではない人もいます。しかし、神様は見ておられますし、すべてを御存知です。
5.神様は放っておく
さて、神様は悪いことをしてしまった人をどうするでしょうか。聖書は、そのような人を神様は裁かれ、滅ぼされると教えます。どんな小さな悪いことも、神様は見逃すことはされません。しかし、神様はその裁きをいつでもすぐになさるとは限りません。しばらく放っておくということもされます。それは、悪いことをした人をすぐに裁いていたら、みんな滅んで誰もいなくなってしまうからです。
今日与えられているローマの信徒への手紙には、1章24節「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、」とあり、26節「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。」とあります。この「まかせる」というのは、要するに神様は放っておかれたということです。出エジプト記7章3~4節には、「わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。」とあります。神様がわざわざエジプトの王の心をかたくなにするというのは、変ですね。一方ではモーセによって奇跡を起こし、イスラエルの民を去らせよとエジプト王に迫ることを命じる。しかし、一方ではエジプト王の心をかたくなにして、イスラエルの民を去らせないようにする。これは、全く矛盾しています。この神様のなさりようは、エジプト王の心をかたくななままに「放っておく」ということなのです。こう言っても良いと思います。神様は放っておくというあり方で、待っておられる。神様の御心に気付いて、悔い改めて、新しく生き直すことを待っておられる。神様は無理強いはされないのです。
でも、放ってなんかいないで、すぐに「そんなことをしちゃダメだ。」と教えてくれれば良いのにとも思います。どうして、神様は放っておかれるのでしょう。それは、第一には、神様は私たちの自由を大変大事なものと思われているからです。そして、第二に、人間が強情だからです。神様に「それは間違っている。」と教えてもらっても、「私が悪かったです。赦してください。」と簡単にはならないことを神様は良く知っておられるからです。私がお父さんから、「父親に向かって、あんたとは何だ。その口の利き方は子どもが父親に向かって言う言葉ではない。」と言われた時、私はすぐに「そうだ、その通りだ。」と思ったかといいますと、そう簡単にはなりませんでした。「何言ってんだ。自分が間違っているくせに。」と思ったんですね。確かに内心、自分が悪かったとは少しは思っているんです。でも、そう簡単に「ごめんなさい」とはならない。今思いますと、その時の私は、いわゆる反抗期だったんでしょう。
反抗期というものは誰にでもあります。自分でも良く分からないけれど、お父さんやお母さんに反抗してしまう。お父さんやお母さんに注意されるのもイヤ。そんな時があるんですね。そういう時期、お父さんとお母さんはどうするかと言いますと、しばらく放っておくのです。そういう時に真っ向からぶつかりますと、大変な親子喧嘩になってしまいますから、しばらく放っておくんですね。この反抗期というのは、そんなに長くは続きません。一年くらいです。この放っておくというのは、お父さんやお母さんには中々忍耐のいることですけれど、この時期は仕方がありません。いつもと同じように、食事の準備をし、洗濯をしてあげながら、放っておく。これも一つの愛情の形なのです。
人間と神様との関係で言えば、人間は神様に対してずっと反抗期なんでしょうね。それでも神様は待っておられる。放っておかれる。気が付くのを待っておられる。勿論、何もしないで放っておかれるのではありません。イエス様の十字架・復活という救いの御業を為してくださり、ただ信じるだけですべての罪を赦し、神の子とし、永遠の命を与える道を備えて、待ってくださっている。ここに来なさい。ごめんなさいと正直に言いなさい。そうすれば、すべてを赦します。そういう思いで、神様は待ってくださっています。みんな赦されます。みんな神様を「天の父なる神様」と呼ぶことが出来る者にしていただけます。神様はその日を待ち続けておられるのです。
6.家のお父さんと天のお父さん
今日は、家にいるお父さんと天におられるお父さんの話をしました。家にいるお父さんは、いつも子どもたちにとって一番良いようにと考えています。そのために、一生懸命働いてくれています。ですから、お父さんを大切にして、感謝していきましょう。また、天のお父さんも同じです。天のお父さんは、私たちのお父さんもお母さんも兄弟も友だちも、水も空気も太陽も食べ物も、私たちが必要なものは全部造ってくださいました。そのお陰で私たちは毎日生きることが出来ています。ですから、この方を畏れ、敬い、この方の御心を聖書から学んで、喜んで従っていきましょう。神様はみんながいつ戻っても来ても良いように、待ってくださっています。
最後に、一つだけ確認して終わりましょう。天の父なる神様は、みんなの家のお父さんに似ているから、「天のお父さん」なのではありません。その逆だと思います。家のお父さんは、天のお父さまである神様を知ることによって、本当のお父さんとはどういう者でなければならないかを教えられ、示され、そのような者になろうとしていくのです。神様が家のお父さんに似ているのではなくて、家のお父さんが天の父なる神様に似た者となるように示されていくのです。神様の御前に、人間として良いこと、正しいことを子どもたちに教えるのは、家のお父さんの大切な責任です。そして、それを十分に果たしていくためには、家のお父さんにも信仰が与えられ、祈りをもって子どもたちを育んでいかなければなりません。そうでなければ、十戒の第五の戒め「あなたの父と母を敬え」を全うすることは出来ません。子どもに敬われるべき父・母になっていかなければなりません。神様を畏れ、敬うということはこういうことだということを、身をもって示していく責任が親にはあるのです。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今日は、子どもたちと共に、花の日・父の日の礼拝を御前に捧げることが出来ました。ありがとうございます。どうか、この子どもたちが、あなた様の愛の御手の中で、心も体も信仰も健やかに育まれていきますように。どうか、あなた様の子・僕としての歩みを備えていってください。それぞれの家庭を祝福してください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2021年6月20日]