1.はじめに
今朝は富山地区の交換講壇ということで、私が高岡教会に遣わされてまいりました。風間先生は富山新庄教会へ行かれています。富山鹿島町教会の講壇は吉川光太郎先生が守ってくださっています。
今朝、私共が心にしっかり受け止めたい御言葉は、コロサイの信徒への手紙2章12節の御言葉です。「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」というこの御言葉には、私共が救われたとはどういうことなのか、それが明確に示されています。聖書が告げている救いとはどういうものなのでしょうか。それには色々な側面があり、様々な表現の仕方があるでしょう。使徒信条では「罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。」と告白し、私共の救いをこの三つの言葉で言い表しています。それはまことにその通りなのでありますが、ここで「これを忘れてはいけない」「これを外してはいけない」という重要なポイントがあります。それは、「罪の赦し」にしても、「身体のよみがえり」にしても、「永遠の生命」にしても、イエス様との関わり抜きに考えることは出来ないということです。イエス様との関わり抜きの救いなど聖書は告げておりません。イエス様との関わり抜きの「罪の赦し」など、何をやっても赦されるのだから勝手気ままに生きれば良いという、自堕落な人間にお墨付きを与えるだけでありましょう。イエス様との関わり抜きの「身体のよみがえり」など、ゾンビと何が違うでしょう。イエス様との関わり抜きの「永遠の生命」など、地獄と何が違いましょう。「罪の赦し」「身体のよみがえり」「永遠の生命」が私共の救いとなるのは、実にイエス様と私共との間に抜き差しならぬ関係が与えられたからです。それが、私共が「洗礼によって、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられた」という出来事です。そして、ここに私共に与えられている救いの現実があります。
2.洗礼によって
まず、「洗礼によって」と言われていることに注目しましょう。
牧師がよく受ける質問にこういうものがあります。「イエス様の救いに与るには、洗礼を受けなければならないのですか。」という問いです。このような問いは、キリスト者の家庭に育った人、教会学校に長く通っている中学生や高校生から、よく受けます。意外と思われるかもしれませんが、成人して教会に来た方からはこのような問いを聞くことはあまりありません。多分、そういう人はどこかで覚悟を決めて来ているところがあるからなのだろうと思います。しかし、親に連れられて、物心がつく前から教会に来ていたというような人にとっては、洗礼を受ける、あるいは信仰告白をすることによって、自覚的なキリスト者になるわけです。そこで、本当に自分はキリスト者として生きていけるのだろうかという戸惑いがあって、このような問いが出てくるのだろうと思います。皆さんならこの問いにどう答えるでしょうか。この問いについての正しい答えなどというものはないでしょうけれど、私はこのような問いに対しては、最初に「洗礼を受けたくないの?」と尋ねます。問いには、問いで答えます。それによって、その問いがどういう思いから出ているのかをきちんと受け止めなければならないからです。「別にそういうわけじゃないけれど、どうして受けなければいけないのか、よく分からない。」というような、洗礼への戸惑いがある人に対しては、丁寧に答えなければなりません。あるいは、「信仰というのは、自分が心で信じていれば良いのであって、別に洗礼を受ける必要はないのではないか。」と考えている場合もあります。そのような人にも丁寧に、洗礼がどうして必要なのか、その理由をきちんと伝えなければなりません。洗礼には、とてもとても重大な意味があるからです。
第一に、洗礼はイエス様が受けるようにとお定めになったことだということです。人間が決めた慣習のようなものではありません。イエス様御自身も洗礼を受けられ、罪人である私共の所に来てくださって、私共が神様の子となる道をこの洗礼によって与えてくださったということです。イエス様を信じているのに、イエス様がお決めになったことに従わないというのは、変なことでしょう。
第二に、洗礼は神様の選びによる神様の御業です。洗礼を受けようかと思うこと自体、既に神様に招かれているということです。この神様の招きに応えるのが、洗礼を受ける、小児洗礼を受けていた者ならば信仰告白をする、ということです。信仰の歩みは、自分の信仰心や真面目さによって保持出来るようなものではありません。神様が守り、支え、導いてくださらなければ、とても信仰の歩みを続けることは出来ません。これからの歩みを神様が導いてくださることに信頼して、委ねて、安心してキリスト者としての歩みを始めるために洗礼を受けたら良いのです。
第三に、洗礼を受けることによって、私共はイエス様と永遠に結び合わされるということです。これは不思議なことであり、中々説明し切れるものではありません。けれど、ここに洗礼の本当の意味があります。神様の独り子であるイエス様と結び合わされるから、私共はイエス様の父であられる天地を造られた神様の子どもとされ、神様に対して「父よ」と呼べる者になるということです。教会学校に来ていて、神様に対して「天のお父さま」と何のてらいもなく呼べる子は、さっさと洗礼を受けたら良いと私は思います。それは、神様に向かって「父よ」と呼べるということは、既に「神様の御子であるイエス・キリストの霊」である聖霊が与えられているということだからです。
第四に、イエス様と一つにされるということは、目に見える所においては、キリストの体である教会のメンバーとなって、キリストの愛の交わりを形作る一員になるということです。教会というものは、イエス様を信じる者たちが集っている交わりですけれど、その交わりのただ中にイエス様が御臨在してくださいます。イエス様は、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節)と約束してくださいました。「イエス様はどこにいるの?」と問われたならば、「ここにおられる。」そう言い切れる交わりを形作る者となる。教会というものは、この洗礼によって長い歴史を貫いて一つに結ばれています。私共は具体的な〇〇牧師から洗礼を受けたわけですが、その牧師もまた牧師から洗礼を受けました。そのようにたどっていきますと、今、世界中に22億人のキリスト者がいるのですけれど、そのすべての人が使徒たちまでたどっていくことが出来ます。
洗礼の意義を語り始めたら、それこそ幾ら時間があっても足りませんので、この辺でやめておきます。まとめますと、第一に、洗礼はイエス様が定められたものである。第二に、洗礼は神様の選びに基づく神様の救いの御業である。第三に、洗礼によって私共はイエス様と一つに結び合わされる。第四に、洗礼によって私共はキリストの体である教会のメンバーとなり、世界中のキリスト者は使徒たちまで遡って一つである。このような恵みに与ることが洗礼なのですから、安心して洗礼を受けたら良いのです。
3.キリストと共に葬られ
さて、聖書はまず、私共は「洗礼によって、キリストと共に葬られた」と告げます。私共は洗礼を受けた時に心臓が止まったわけではありません。見たところでは、洗礼を受ける前と後では、特に変わった所があるようには見えません。しかし、聖書は「キリストと共に葬られた」と告げます。それは、洗礼を受ける前の自分が死んだということです。神様を知らず、それ故神様に造られたことも愛されていることも知らず、自分の人生は自分のものだと思っていた私は死んだ。まことの神様を知らず、この方に感謝することも知らなかった私は死んだ。この世の諸々の霊力の支配下にあり、偶像を拝み、この世の価値観にどっぷり浸かっていた私は死んだ。罪の奴隷であった私、神様に敵対していた私は十字架のイエス様と共に死んだのです。洗礼はキリストと私共を一つに結び合わせますから、キリストの十字架の死と私共は一つされ、古い自分は十字架のイエス様と共に死んだのです。イエス様の十字架は、私の十字架となったのです。
それは、神様の裁きを受ける罪人としての私が十字架の上で処刑され、裁かれ、死んだということです。14節で「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」と言われています。これは、罪の中にいた私共には例外なく、神様の御前に犯し続けていたその罪や罪状を記したリストがある。それは負債の証書のようなものです。この証書がある限り、私共はその負債を支払わなければなりませんし、罪の裁きを受けなければなりません。しかし、その証書は破棄されました。イエス様の十字架に釘付けにされ、もう効力の無いものとなりました。私共の一切の罪が赦されたとは、そういうことです。私共の罪状リスト、負債証書はイエス様の十字架によって無効にされ、破棄されたのです。ですから、もう私共は神様に裁かれることに怯えでビクビクして生きる者ではなくなりました。私共は自由な者とされたのです。
洗礼は、元々は全身を水の中に浸すあり方で行われました。これを「全身礼」と言います。水の中に頭まですっぽり入れられたままであるならば、人は死んでしまいます。私共が現在行っている、頭に水をかける「滴礼」(水滴の滴で、滴礼)ではこのことがあまりはっきりしていませんけれど、洗礼を受けるということは、何よりもまず古い自分に死ぬということを意味しているのです。そして、死んだ以上、洗礼を受ける前の悪い習慣に染まっていた私や、自分は大したものだと思い込む私、神様を軽んじる不遜で傲慢な私は死んだのです。
4.キリストと共に復活した
そして次に、私共は洗礼によって「キリストと共に復活させられた」と告げます。しかし、私共がイエス様と同じ復活の体をもって復活させられるのは、終末の時でしょう。ところが、聖書は「復活させられた」と告げます。もう私共は復活した、と告げるのです。私共は洗礼によってキリストと結び合わされました。ですから、キリストが復活されたのだから、私共も共に、既に復活させられた者なのだというのです。それは、私共は既に復活の命に与って生きているということです。これが救われたということです。これは目に見えるあり方で確認出来るものではありません。しかし、本当のことです。これは私共の「信仰による認識」とでも言うべきものです。このことさえはっきり分かれば、私共に怖いものなど何もありません。使徒たちが迫害を恐れず、ひるまず、たとえ殉教しようとも主の福音を伝え続けることが出来た秘密がここにあります。
昨年から全世界が新型コロナウイルスの感染で大変なことになっています。幸いなことに、富山はそれ程深刻な状況にならずに、今に至っております。けれど、いつどうなるかは誰にも分かりません。しかし、飲食業・交通業・観光業の方々は、富山でもとても大変な状況にあります。何とか感染拡大が鎮まるよう、皆さんも日々祈っておられることでしょう。新型コロナウイルスに対しては、油断せずに適切に対応していく必要がありますけれど、無闇に恐れることはありません。何故なら新型コロナウイルスは、私共の肉体の命には影響がありますけれど、復活の命、永遠の命には何の影響も及ぼすことは出来ないからです。このことをしっかり弁えておきたいと思います。
キリストと共に復活した者にとって、自分の人生の主人は最早、自分ではなくなりました。イエス様、神様が私共の人生の主人となった。私共はキリストのものとされました。悪しき霊の支配、サタンの支配から解き放たれ、生きる場所を神様の御支配のもとに移されました。私共は既に神の国に生き始めているのです。自分の願いや自分の思いを達成することが私の人生の目的ではなくなりました。上にあるもの、天にある神様の御支配、神の国を求めて生きる者にされたのです。
イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(つまり、食べるもの、着るもの、生活に必要なものすべて)はみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書6章33節)と告げられました。イエス様を知らなかった時、私共はそれらを求め、それが満たされれば幸いになると思い込んでいました。私もそうでした。勉強して、良い大学に入って、良い仕事に就いて、たくさん稼いで、きれいな人と結婚して、出世して。それが幸せであり、それが成功するということだと思い込んでいました。それ以外の価値というものを知らなかったからです。実に愚かなことでした。勿論、それらが必要ではないということではありません。しかし、イエス様に救われて、神の国に生き始め、それは第一に求めなければならないものではないことを知りました。ここに、復活の命に生き始めた私共の、新しい命の有り様があります。
5.神の力を信じて
イエス様の救いに与る前、私共は何を頼りに生きていたでしょうか。自分の力、自分の能力、自分の真面目さ、自分の努力を頼りにし、それによって自分の道を開いていこうとしていたのではないでしょうか。しかし、聖書は「キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて」と告げます。キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられた者は、頼りにすべきもの、信頼すべきものが変わったのです。自分を頼るのではなくて、自分を信じるのではなくて、神様を頼り、神様を信じる者になりました。何故なら、自分の力で自分を救うことは出来ないことを、はっきり示されたからです。全能の父なる神様の御力を知らされたからです。天の父なる神様は、イエス様を死人の中から復活させられました。その御力によって私共も造られ、生かされ、新しい者にしていただきました。神の子としていただきました。勿論、真面目に努力すること、為すべきことを誠実に為していくことは大切なことです。しかし、その自分の力や努力ではどうにもならないことが人生にはあります。不慮の事故、病気、人間関係のトラブル、そして愛する者の死であり、自分自身の死です。
このような出来事を避けることは誰にも出来ません。イエス様の救いに与るまで、そのようなことに出遭うと、私共は生きる希望と力を失い、神も仏もあるものかとヤケになったりしていました。しかし、今は違います。苦しい時、悲しい時、辛い時、私共には祈ることが与えられています。「祈ればすべてが上手くいく」と言うつもりはありません。しかしそれでも、祈ることを知ったということは大変な違いです。私共が祈り、頼る方は、死人の中からイエス様を復活させられた方です。不可能を可能にすることが出来る方です。この方は、私共を徹底的に愛してくださっています。この方の御手の中にある出来事であり、御手の中にある私なのだから、このお方が何とかしてくださる。そう信じて、その困難な日々を、希望を失わずに、絶望に支配されることなく歩み通すことが出来るのでしょう。そして実際、その困難な時は永遠に続くわけではありません。私共の願った形ではないにしても、必ず、そのような辛い、困難な時は終わります。そして、そのような山を一つ二つと越えていく度に、神様は本当に私を愛してくださり、生きて働いてくださっていることを知らされます。そして、父なる神様に対する信頼はいよいよ強く、確かなものとされていくのでしょう。
6.キリストの勝利の凱旋パレードに連なる者
そのような私共の歩みを、聖書は驚くべき表現でこう語りました。15節です。「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」ここでイメージされているのは、当時の凱旋パレードです。戦争に勝利した将軍は、捕虜たちを連れて、兵士たちと共にパレードをしました。ヨーロッパに残っている凱旋門というのは、この凱旋パレードのために造られたものです。町中の者が、国中の者が、このパレードを見に来て、将軍を讃えるのです。戦いの勝利を喜び祝うのです。この凱旋パレードこそ、将軍の最も華々しい、誇りに満ちた、喜びの瞬間でした。このイメージの中で、イエス様は戦いに勝利した凱旋将軍です。そして、「もろもろの支配と権威」、それはこの世を支配しているかのように見える諸々の霊です。彼らはイエス様との戦いに破れて、完全に武装解除され、縄につながれて捕虜となっています。彼らはイエス様の復活の勝利の前に、最早何の力も無くなってしまいました。富も力も名声も権力も、そして死も、最早何の力も無く、私共を支配することは出来ません。私共はその歓喜の凱旋パレードの列に加わり、勝利の行進をしているのです。
私共にとって良いことも悪いことも含めて、私共は実に様々な誘惑に出会います。時々それに負けてしまうことがあります。人によっては、しょっちゅう負けてしまうかもしれません。しかし、私共はそれらの支配を受けることは決してありません。私共は既にキリストのものとされているからです。罪の私はキリストと共に十字架の上に死に、神の子としての私がキリストと共に復活させられたからです。
私はこんなイメージを持ちます。このイエス様の凱旋パレードは、天の御国へと続いている。そのパレードを見ると、代々の聖徒たちがいて、私共が先に天に送った信仰の先達の顔があります。その顔は喜びに輝いています。そして、私共もこのパレードのしんがりを歩いている。横を見ると、愛する同信の友がおり、同労の者たちがいる。そして、後ろを見るとずっと向こうまで、私共の信仰の子孫たちが続いている。みんな、勝利の喜びに輝いた顔をしています。ありがたいことです。私共はこのイエス様の凱旋パレードに参加しています。それが救われたということです。
祈ります。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
私共は今朝、「イエス様と共に葬られ、イエス様と共に復活させられた者」であることを御言葉によって知らされました。まことにありがたく、感謝いたします。この地上にあっては、様々な困難が次から次へと私共を襲います。しかし、あなた様の私共への愛は決して揺らぐことはありません。ですから、私共が信仰の眼差しをしっかり天に向けて、イエス様が再び来られる日に完成される私共の救いの栄光を仰ぎ望みつつ、あなた様が与えてくださる信仰・希望・愛をもって、一日一日をあなた様と共に、あなた様の御前を、御国に向かって歩んで行くことが出来ますように。どうか、ここから始まります新しい一週の歩みをお守りください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2021年6月27日 高岡教会礼拝(富山地区交換講壇)および富山鹿島町教会夕礼拝]