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礼拝説教

「分け隔てされない神」
歴代誌下 14章7~11節
ローマの信徒への手紙 2章1~16節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝与えられている御言葉は、先週と同じローマの信徒への手紙2章1~16節です。先週は、ユダヤ人もギリシャ人も、何を行ったか、どのように生きたか、そのことによって神様に裁かれるのだ。その人がユダヤ人であるか、ギリシャ人であるかということによって神様に救われるかどうかが決まるものではない。そして、何を行ってきたかということになれば、ユダヤ人もギリシャ人も神様の御前においては、自分は正しい者だと誇れる者はいないのだとパウロは告げていることを見ました。今日はそのことを更にはっきりと、神様は人を分け隔てしない、依怙贔屓(えこひいき)しない、と告げます。
 神様は公平な方である。これは神様が私共を裁くお方である以上、絶対に確保されなければならないことです。公平さは、裁きというものに対して根本的に求められているものです。それは、人間の社会における裁きにしても同じことでしょう。裁判官が依怙贔屓をしているということになれば、その裁判に対しての信頼は失われます。果ては、誰もその裁判の結果に従わないということになってしまい、社会の秩序が保持されなくなってしまうでしょう。神様は人間を裁く時に依怙贔屓されます。そんなことになりますと、一体誰が神様を愛し、信頼し、御心に従っていこうと思うでしょう。ですから、神様は真実な方であり、公正、公平な方であるということは、とても大切なことです。

2.ローマの教会内の事情
ここでパウロは、「ユダヤ人とギリシャ人に対して神様の裁きは公平です。」と告げているわけですが、この場合のギリシャ人というのは、内容的にはユダヤ人以外のすべての異邦人と考えて良いと思います。どうして、パウロはユダヤ人とギリシャ人に対して神様は分け隔てしない、公平だと告げたのか。それは、この手紙を受け取ったローマの教会の事情というものが背景にあったと考えられます。この手紙はローマの教会に宛てた手紙ですから、この手紙を読んだのはローマの教会の人たちであり、キリスト者でした。そのローマの教会の中で、残念なことですけれど、ユダヤ人とギリシャ人とが対立するという事態が起きていたのです。これはローマの教会だけの特殊事情ではありません。生まれたばかりのキリストの教会全体の問題でした。これと無縁の教会はありませんでした。キリストの教会の最初の信徒たちはみんなユダヤ人たちでした。十二使徒はユダヤ人でしたし、パウロもユダヤ人です。使徒言行録に記されているように、パウロが伝道した時もまずその町のユダヤ教の会堂に行ってイエス様の福音を宣べ伝えました。その後、キリスト教がローマ帝国内に伝わっていく中で、異邦人キリスト者の数が増えていきます。そして、異邦人キリスト者が多かったアンティオキアの教会からパウロたちが異邦人伝道のために遣わされ、異邦人キリスト者はどんどん多くなっていきました。  ユダヤ人キリスト者は、キリスト者になったのですけれど、ユダヤ教の考え方、習慣といったものをきれいに捨てていたわけではありませんでした。彼らはユダヤ教からキリスト教に改宗したという意識は無かったと思います。ユダヤ教の中には、ファリサイ派やサドカイ派といったグループが幾つもありました。その中の一つとしての「ナザレ派」になった。キリスト者は、イエス様がナザレ人でしたので「ナザレ派」と呼ばれていました。ですから、ユダヤ人キリスト者たちは、律法を守らなければ救われない、割礼を受けなければダメだ、汚れた物を食べてはいけない、と主張したわけです。一方、そのようなことに頓着しないギリシャ人キリスト者との間で対立が生じました。私共はクリスマスやイースターの礼拝後などに愛餐会をしていますけれど、初代教会においては毎週愛餐会がされていたようです。その時に、ユダヤ人キリスト者とギリシャ人キリスト者が一緒に同じものを食べるということが出来ない。そんな事態になっていたのです。
 自分が正しいと考える時、自分と違う考えの者に対して攻撃し、そこに対立が生まれる。それは人間の心の習慣として、どの時代、どの地域においても起きるものです。それが民族という単位であれば、民族主義による対立ということになります。これは文化的対立においても起きますし、どのような共同体の中においても起きます。キリストの教会も例外ではありませんでした。しかし、これを仕方のないことだと諦めてしまえば、キリストの体としての教会は、言っていることとやっていることが違うということになって、神様の愛を伝え、それを証ししていくことは出来ません。ですから、パウロはこの問題を正面から取り上げて、神様は分け隔てされる方ではない。それなのにどうしてあなたがたは、神様がそうされないのに、自分たちだけは正しいとか、自分たちだけは救われるなんて考えるのですか。それは違う、と言っているわけです。
 これは本当に難しい問題です。牧師とて、この問題と無縁ではありません。牧師は、これが本当のことだ、真実なことだと信じて伝道しているわけです。そこで違ったことを主張されれば、「ああそうですか。」と言って済ますことが出来ない。そこでしばしば対立というものが生じます。キリスト教には幾つもの教派がありますけれど、それはこうして生まれてきたのでしょう。ただ、その問題はここでパウロが問題にしていることと全く同じではありません。 

3.律法の有無にかかわらず
 パウロがここで問題にするのは、イエス様を信じ、イエス様の十字架によって一切の罪を赦していただき、新しく神の子としていただいたのに、どうしてイエス様抜きに自分たちの正しさ、自分たちの正統性を主張するのですか、ということです。「イエス様抜きに」ということが問題なのです。
 ユダヤ人たちは「自分たちは律法を持っている」ということを誇りとし、それを知らない異邦人たちを見下していました。 それに対してパウロは11節以下で、「神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」と告げます。これはほとんど説明する必要はないでしょう。神様はユダヤ人もギリシャ人も分け隔てしません。律法を知っているユダヤ人は、その律法に従って裁かれる。律法を聞いているだけ、知っているだけでは意味がない。その律法に従って生きるのでなければ、律法を実行しなければ意味がない。律法を実行することによって神様の御前に正しいとされる。一方、ギリシャ人たちはモーセの十戒に代表される律法を知りません。でも、たとえ知らなくてもそれを自然に行っている人はいるわけです。例えば、十戒の第五の戒めに「父と母とを敬え」とありますけれど、律法に記されているからというのではなくて、そうするのが当然だと思ってそのようにしている人はいるわけです。何もユダヤ人だけが父と母を敬っているわけではありません。第6の戒め「殺すな」にしてもそうですし、第7の戒め「姦淫するな」も第8の戒め「盗むな」もそうです。ユダヤ人だけが、殺したり、姦淫したり、盗んだりすることが悪いことだと知っているわけではありません。律法を知らなくても、当然のこととして「そのようなことはしない」という人はいるわけです。そのような人を、ユダヤ人ではないから、律法を知らないからという理由で神様は評価しないなんてことはない、とパウロは言うのです。 そして15節で、「こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」と言います。ここで良心という言葉が出てきます。ユダヤ人のように律法は知らなくても、人間には「良心」というものがあって、自ずと「これはいけない」とか「こうすべきである」ということを知っている。それに従って生きている者と、律法を知っていてそれに従って生きている者と、どこが違うのか。同じではないかと言うのです。
 1章18節以下の御言葉を受けた時に、「一般啓示」あるいは「自然啓示」というものと、「特殊啓示」というものについてお話ししました。一般啓示・自然啓示というものは、私共自身を含めて、この自然界は神様が造られ、支配しておられますから、そこには神様の創造の御力のしるし、神様が永遠なるお方であることのしるしに満ちている。それなのに、人間や獣や這うものに似せた像を神様として拝むとは、何と神様に対して失礼なことか。弁解の余地はない、とパウロが告げた所です。一般啓示・自然啓示の中にこの「良心」というものもあるとパウロは言っているわけです。この良心に従って、愛と寛容の心をもって誠実に生きている人は沢山いるわけです。また、悪いことをした時に、良心の呵責というものも起きましょう。この良心というものが、神の御前における人間のありようを明確に示しているとまでは言えないにしても、善と悪に対してある程度の感受性をもって私共に備わっているとは言えるだろうと思います。

4.キリスト者だけが正しいわけではない
ただここで、私共がはっきり弁えていなければならないことがあります。それは、ここでパウロが、ユダヤ人だけが正しいわけではないと言ったように、同じことがキリスト者にも言えるということです。キリスト者はイエス様を知っている。神様の愛を知っている。だからキリスト者が言ったり行ったりすることは正しい。しかし、キリストを知らない人の言ったり行ったりすることは正しくない。そんなことは、全く言えないということです。キリスト者は神の愛を知っているからといって、神の愛に生きているかといえば、そうとは言い切れないでしょう。逆にキリスト者でなくても、愛と寛容に満ちた素晴らしい人はいくらでもいます。勿論、キリスト者として素晴らしい人もいます。逆に、キリスト者ではない人にもひどい人はいますし、キリスト者にもひどい人はいます。
 1、2年前に、世界で最も影響力のある国の大統領に対して「あれでもキリスト者なのか。どうなっているのか。」そんな問いを何人かの方から受けたことがあります。キリスト者として、彼の言動はあり得ない。その人はそう思われたのでしょう。そう言いたくなる気持ちは分からないではありません。しかし、キリスト者にも色々いますし、キリスト者じゃなくても色々いるわけです。十把一絡げで、キリスト者ならばこう考える、こう行動する、こんな発言はしない。そんな風には、簡単には言えません。キリスト者の政治家の中にだって、ある国の女性の首相で、本当にキリスト者として信仰的にものを考え、リーダーシップを執っている政治家もいます。私はこの方を尊敬していますけれど、キリスト者の政治家にだって色々いるわけです。キリスト者ではない政治家にも、立派な方はいくらでもいます。そして、神様は人を分け隔てなさらないのです。何故なら、どの人も神様が造り、神様が愛している者だからです。神様は正しい人は正しい人として評価し、正しくない人は正しくない人として評価します。
 しかし、ここで人は完全に良心に従って生きることが出来るのかという問いが出てくるでしょう。或いは、この良心というものについて、どの時代・どの地域・どの文化においても完全に一致するような普遍的なものなのかという問いも出てきましょう。これは中々難しい問題ですが、私はこう考えています。良心というものは、それほど厳密に人間の言動について、普遍的に規定するものではないように私には思えます。「殺すな」「盗むな」といった原則的な所においてはかなり普遍性があると思いますけれど、実際の言動となりますと、時代や文化に大きく左右される、振れ幅が結構大きいのではないかと思っています。そして、この良心の声を聞き分ける、聞き取る感受性ということについて言えば、相当な個人差がありましょう。ということは、ユダヤ人の誰も律法を完全に守ることが出来ないように、ギリシャ人の中で完全に良心に従って生きていると言える人はいない。そういうことになるのではないかと思います。

5.キリスト・イエスを通して
 では、どういうことになるのでしょうか。それが16節に記されていることです。16節「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」とありますが、「そのこと」というのは、今まで述べてきました、神様がユダヤ人もギリシャ人も分け隔てなく裁かれる(11節)ということ、神様が各々の行いに従って報われる(6節)ということです。そのことが明らかになる。それは「キリスト・イエスを通して裁かれる日」、つまり最後の審判の時だというのです。しかも、その時には「人々の隠れた事柄」も裁かれると言われます。私共は表面上の見える所、表に現れたことだけではなくて、誰も知らない、本人さえも知らない、ただ神様だけが知っておられる「隠された事」さえも明るみに出されて、裁かれるというのです。とすれば、いったい誰が救われるというのでしょうか。ユダヤ人もギリシャ人も、一体誰が救われるというのでしょうか。
 ここで注目すべきは、「わたしの福音の告げるとおり」と言われていることです。確かに、パウロがここで告げているのは、最後の審判の時のことです。この時の神様の裁きは、「わたしの福音の告げるとおり」そして「キリスト・イエスを通して」なされると告げられています。確かに神様は各々の行いによって、分け隔てなく、公平に裁かれます。しかし、それは「わたしの福音の告げるとおり」、「キリスト・イエスを通して」なされます。ということは、律法を知っていながら、それを完全に行うことが出来ないユダヤ人も、良心がありながら、完全のその良心に従って生きることが出来ないギリシャ人も、最後の審判においてただ滅びるしかないのかといえば、そうではないということです。神様は、ただ信仰によって、主イエス・キリストの救いの御業を通して私共を裁かれます。つまり、イエス様によって救われる。そして、そこにはユダヤ人もギリシャ人も、何の分け隔てもない。そうパウロは言うのです。このイエス様に救われた。このことを横に置いて、ユダヤ人だ、ギリシャ人だ、律法があるの、良心があるの、そんなことを言って自らを大したものだと思ってどうするのか。ただイエス様です。この方によって救われた。この方によって、最後の審判の時も安んじて御前に立つことが許されている。それがすべてなのではないか。自らが大したものだと思い違いしてはならない。ユダヤ人もギリシャ人も、ただの罪人です。そのことを、あなたがたはイエス様の救いに与って、はっきりと示されたではないか。それなのに、どうして今になってもまだ、ユダヤ人だ、ギリシャ人だと言い合っているのか。それは愚かなことではないか。そう、パウロは告げているのです。

6.自らの愚かさから解き放たれて
本当に私共は愚かなのです。その愚かさは自らを誇るということと結びつき、キリストの十字架によって示された神様の愛さえ分からなくさせてしまう程です。神様の公平ささえも見失わせさせてしまうほどのものです。私共はどんな些細な理由でも良いから、自分は特別だと思いたいのです。確かに、神様は私共一人一人を特別に扱ってくださいます。私共は一人一人が特別です。その特別さとは、あの1匹と99匹の羊のたとえに示されているような意味においてです。神様は99匹の羊を置いてまで、迷い出た1匹の羊である私を追い求めてくださり、招いてくださり、神様の子としてくださいました。私共は神様から見て全く特別な存在です。しかしその特別性は、他の人と比べて特別だという話ではありません。1匹の羊は、他の99匹に比べて特別に価値があったわけではありません。神様にとってはどの1匹も、それぞれが特別なのです。愛とはそういうものでしょう。お父さんとお母さんが、自分の長男と次男、長女と次女を比べて、だれが一番大切だ、だれが特別か、そんな話はしないのと同じです。私共はイエス様に救われ、神様の子とされた特別な者です。ですから、他の人と比べてどうだこうだと言う愚かさを捨てるのです。私共はもうそんな所に生きることを止めるように召されたからです。神様は私を愛してくださっている。そして、隣にいる人も愛されている。あの人もこの人も愛されている。素敵なことです。
 私共は幼い時から、人と比べるということが心の習慣になって育ってきました。ですから、中々この心の習慣から抜けられない、これを捨てられない。そういう所があるかもしれません。しかし、ここに私共の愚かさが最もはっきり現れているのです。皆さん、今この礼拝の中で、全く人と比べるということをしていないでしょう。この礼拝の中で、私共は完全に人と比べるということから開放されている。それは、神様の御前に立つ時、私共は人と比べるという愚かさから解放されるからです。そして、ここに神の国のしるしが現れています。神の国においては、人と比べてああだこうだということなどあるはずがありません。全く公平なのです。  神様の公平性というものは、ここにおいて明らかになります。地上の出来事に目を奪われている限り、これは分かりません。今年も梅雨前線が活発になって、先週からあちこちで水害が起きています。富山県は今のところ、幸いなことに守られています。このこと一つとっても、被災した方々と私共の間には、何とも言えない不公平さがあります。私共は才能や境遇のどれをとっても、平等だとはとても言えません。そこに目を向けて不満を挙げれば切りがないでしょう。神様の愛による公平性は、この最後の裁きの日を見上げて、神様の御前に立つ。ここにおいて初めてはっきり分かることなのでしょう。私共は神様に愛されている。イエス様に救われて、神の子としていただいた特別な者です。そのことを知らさせた者として、この新しい一週も、主と共に、主の御前を、御国に向かってしっかり歩んでまいりたいと思うのです。

B> 祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉によって、私共の愚かさをはっきり示してくださいました。ありがとうございます。正しいお方は、ただあなた様だけです。自らの正しさを掲げて対立するような愚かさから、どうか私共を解き放ってください。私共が、分け隔てなさらないあなた様の愛と真実と公平さに信頼して、あなた様が与えてくださった地上の生涯を、御言葉に従って、御国に向かってしっかり歩んで行くことが出来ますよう、聖霊なる神様の守りと支えと導きをお願いいたします。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年7月11日]