日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「心に施された割礼」
エレミヤ書 9章22~25節
ローマの信徒への手紙 2章17~29節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
共々にローマの信徒への手紙を読み進めております。ローマの信徒への手紙は、名前が示しておりますように、ローマの教会の人々に宛てて記された手紙です。多分、この手紙はローマの教会の人々が集まっている所で読み上げられたことでしょう。短い手紙ではありませんから、一回で読み終えたかは分かりません。何回かに分けて礼拝の中で読まれたのかもしれません。あるいは、一度だけではなくて何度も読まれたかもしれません。いずれにせよ、この手紙を読んだ人、読み上げられるのを聞いた人はローマの教会の人々、つまりキリスト者です。ですから、今朝与えられております御言葉の小見出しは「ユダヤ人と律法」となっていますけれど、パウロはここでユダヤ人一般を論じているのではなくて、ローマにいるユダヤ人キリスト者に対して語っているわけです。このことは、この手紙を読んでいく場合、きちんと弁えておかなければならないことです。
 パウロは、いつかローマの教会に行って、イスパニアへの伝道の援助をしてもらいたいと思ってこの手紙を書いています。そこで、自分が宣べ伝えている福音はこういうものです、とローマの教会の人々に伝えているわけです。ローマの教会の人々がこれを読んで、「この福音のためならば、私たちもパウロの伝道に喜んで協力しよう。」と思ってもらわないと困るわけです。つまり、ローマの教会の人々を怒らせるつもりなど毛頭無いことは明らかです。勿論、だからといってローマの教会に忖度して、自分の伝えている福音の真理を曲げるつもりはありません。そんなことをしては意味がありません。しかし、今朝与えられている所において、パウロは相当激しくユダヤ人を批判しています。ここまで批判したら、ローマのユダヤ人キリスト者とパウロとの関係は完全に破綻してしまうのではないかと思うほどです。これは前回見ました2章の始めからそうです。パウロはどうしてそんなことを記すのか。それは、この問題を横に置いて福音は語れない。福音の筋道を明確にすることは出来ない。そうパウロが考えていたからでしょう。

2.ユダヤ人の誇り:割礼と律法
 ユダヤ人の誇り。それは、自分は神様に選ばれた特別な民、神の民であるということでした。そのユダヤ人の、神の民としてのアイデンティティーを確保し、保証していると考えられていたのが、割礼と律法でした。自分は割礼を受けた者だ。自分は律法を知っている。それがユダヤ人の誇りでした。自分たちは他の民族とは違うと胸を張って言える根拠。それが割礼と律法でした。
 割礼は、創世記の17章において、アブラハムが神様との契約を結んだしるしとして与えられたものです。男性の性器の先の皮の一部を切り取るというものですが、これは男子が生まれると8日目に行うことになっていました。生まれたばかりの赤ちゃんですから、大泣きしたに違いありません。割礼を受けた者であるということは、アブラハムの契約を受け継ぐ者であることを意味し、更に律法を保持しているということは、モーセの契約を受け継ぐ者であるということです。この二つがユダヤ人にとって、自分たちが特別な民、神様との契約に生きる神の民であるということの保証であり、ユダヤ人の誇りの源でした。ちなみに、イスラム教においても割礼は行われます。イスラム教では、ユダヤ教はアブラハムと神様との契約がモーセの律法において歪められたものと考え、自分たちこそがアブラハムの契約を正しく受け継ぐ者だと考えます。ですから、そのしるしとしての割礼は受け継いでいるわけです。
 パウロはここで、17~20節「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。」と言います。これを聞いたユダヤ人キリスト者は、「その通り」と思ったことでしょう。自分たちユダヤ人は律法を持ち、神様の御心を知っている。何が神様に喜ばれるかを知っている。何をしてはいけないかも知っている。他の民族はそのことを知らない。だから、私たちが教えてやらなければいけない。他の民はみんな無知な者たちだ。だから救われない。そう思っていました。
 当時のローマの社会において、宗教と言えば自然宗教の多神教です。風の神、雨の神、海の神、知恵の神、学問の神、酒の神、美の神、豊作の神等々、山ほどの神様がおりました。これは日本人の感覚に近いものです。このような中にあって、ユダヤ人は特異な存在でした。彼らは偶像礼拝をしませんから、その土地、その町、その地域のお祭りにも参加しません。ですから、ローマ・ギリシャの人々からユダヤ人が何と思われていたかというと、「宗教心の無い者たち」と言われていました。ユダヤ人はギリシャ人を無知な者たちだとさげすんでいましたけれど、ギリシャ・ローマの人々もまたユダヤ人を信仰心の無い者と見ていたということです。さらに、ユダヤ人は毎週土曜日の安息日には仕事をしないわけですから、怠け者だと軽蔑されていました。ちなみに、ローマ帝国においてユダヤ人はローマの市民権を持つようになりますが、しかしユダヤ人はローマ兵にならなくても良いという待遇を受けていました。理由は簡単です。ローマ兵として軍事行動をしていても、安息日になると何もしないわけですから、そんな者が軍隊の中にいたら、とても軍事行動は出来ません。そういうわけで、ユダヤ人は当時の社会の中で、極めて特異な存在ではあったわけです。ですから、自分たちは「無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負」していても、そんな人たちに教えを請いに来る者などはそういるはずもありません。ユダヤ教はユダヤ民族の宗教という壁を越えることは出来ませんでした。もっと正確に言いますと、ユダヤ教徒であるということがユダヤ人であるということだったのです。

3.エルサレム会議にて
使徒たちはじめ最初のキリスト教の伝道者たちはユダヤ人でした。彼らが伝道していくと、ユダヤ人の中にイエス様をメシア、キリストと信じる者たちが出ます。そして使徒たちは、ユダヤ人だけではなくて異邦人にもキリストの福音を伝えていきます。そして、異邦人キリスト者が生まれます。このユダヤ人とギリシャ人に代表される異邦人という、今まで全く交わることのなかった人々が、共にイエス様の救いに与った者として一つのキリストの教会を形作ることになったのです。そこで問題になったのが、割礼と律法でした。これは生まれたばかりのキリストの教会における、最も大きな問題でした。
 この手紙が書かれる6、7年前、紀元後48年に、エルサレムにおいて使徒たちや伝道者といったキリストの教会の主だった者たちが集まり、会議が開かれました。その時の様子が使徒言行録15章に記されています。これを通常、エルサレム会議と言います。キリストの教会最初の、全教会の会議でした。この会議の主な目的は、ユダヤ人キリスト者たちが主張していた「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきだ。」ということと、パウロやバルナバといった異邦人伝道を行ってきた者たちが主張していた「主イエスの恵みによって救われたのだから、異邦人に割礼や律法を守ることを求めるべきではない。」ということ、この二つの主張が教会の中で真っ向から衝突したからです。それで、キリスト教全体としてこの問題を扱い、何としても調整しなければならなかったのです。今、この会議について丁寧に見る時間はありませんが、この会議の結果、「異邦人キリスト者には割礼は求めない」ということが決められました。しかし、このように決まるには決まったのですが、実際にはユダヤ人キリスト者たちがその主張を完全に取り下げることはなかったようです。その後、紀元後70年にローマ軍によってエルサレムが陥落し、ユダヤ人の国がこの地上から姿を消します。それに伴ってユダヤ人キリスト者の影響はキリストの教会から次第になくなっていったと考えられます。しかし、パウロの時代には、まだまだ大した力を持っていたと考えて良いでしょう。ユダヤ人キリスト者の中心はエルサレム教会です。すべての教会の母なる教会です。ここから来た人々が「割礼を受け、律法を守らなければならない。」と言えば、影響は小さくなかった。ですから、どうしてもパウロはこの問題を避けることが出来なかったのです。キリストの福音を語る場合、この問題を避けることは出来ませんでした。そして、この問題を扱うことによって、いよいよキリストの福音の筋道を明確にしたいとパウロは考えたのでしょう。

4.悔い改めへと導くために
パウロは21節以下でこう告げます。「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。」律法を誇りとしているユダヤ人キリスト者に対して、真っ向から「あなたはその律法に従って生きているのですか」と問うているわけです。これを聞いたユダヤ人キリスト者は、腹を立てたかもしれません。「ちゃんと守っているに決まっているだろう。私たちを馬鹿にするのもいい加減にしろ。」そう思った人もいたと思います。それほどに、このパウロの言葉はユダヤ人の心を逆なでするものだったと思います。  パウロは、ここで本当に難しいことに挑戦しています。それは、ユダヤ人キリスト者たちをこの手紙において悔い改めに導くという試みです。相手の間違っていることを指摘して、それで相手が悔い改めてくれるのならば苦労はしません。しかし、そんなことはめったに起きません。自分は正しいと思っているのですから、「それは間違っている」と言われても、簡単に「そうですね」なんて言えるはずがありません。それどころか、自分が大切にしていることを否定されれば傷つきますし、腹が立ちますし、ほとんど反射的に相手の言葉に耳を塞ぎ、逆に相手を攻撃しようと身構える。それが普通です。相手の言っていることがたとえ正しかったとしてもです。顔を合わせて話をしても難しいのですから、ここでも、そうだったかもしれません。もう既にエルサレム会議においてキリスト教会としての見解ははっきりしているのです。しかし、それが中々受け入れられない。ユダヤ人としての誇りを捨てられない。ユダヤ人キリスト者にしてみれば、当然のことだったのでしょう。
 ここで注目すべきことは、パウロはここで語調を変えて「あなたは」と語りかけていることです。ユダヤ人キリスト者というクループに対して語りかけているのではありません。この手紙が読み上げられのを聞いている「あなた」です。「あなたは」どうなのか。そうパウロは問うのです。あなたは律法を持っていることを誇りとしているけれども、本当にそれに従って生きていると言い切れるのですか。神様の御前に立ってそう言えるのですか。そうパウロは問うのです。悔い改めというものは、神様の御前においてしか起きません。パウロは「あなたは」と問うことによって、何とか共に神様の御前に立とう、そう促しているのでしょう。パウロはこのユダヤ人キリスト者たちの思いをよく分かっていたのです。彼自身、イエス様に救われる前は、ユダヤ人の中のユダヤ人、誰よりも律法を守ることを大切にしていたファリサイ派の人間だったからです。その元ファリサイ派であったパウロから見れば、ユダヤ人キリスト者たちの律法を守る態度は、何とも不徹底なものにしか見えなかったのかもしれません。不十分な所はイエス様の十字架で赦されるから大丈夫とでも言うのか。それでは、イエス様の十字架はほんの付け足しでしかないではないか。イエス様の十字架はそんなものなのか。そうじゃないだろう。根こそぎ変えられたのではないか。律法も割礼も意味を失うほどに、徹底的に変えられたのではないか。イエス様の十字架によって、誇りも、喜びも、目指すことも、生かされている意味も、根本から変えられたのではないのか。イエス様の十字架の前で変えられたのではないか。パウロは変えられました。パウロは、「あなた」もそうではないのか、そう問うているのです。

5.心に施された割礼
 更にパウロは、割礼も問題にします。 25節以下です。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。」割礼を受けているといっても、律法を完全に守らないのであれば、割礼を受けていることにどれほどの意味があるのか。逆に、割礼を受けていなくても、律法を守っているならば、割礼を受けた者と同じではないか。肉体に割礼の傷を持っている者がユダヤ人なのではない。そこまで明言するのです。目に見えるユダヤ人の誇りはどうなるのでしょう。はっきり言えば、そんなものは要らない。そうパウロは言うのです。
 29節「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。」心に施された割礼。神様との契約のしるしは心に施される。これは、神様の御前に悔い改めて、洗礼を受けたことを指しているのでしょう。洗礼を受けたかどうか、それは外から見ても分かりません。心に施された割礼だからです。つまり、キリスト者こそが本当のユダヤ人、本当の神の民なのだと告げているのです。洗礼こそが本当の割礼なのだ。あなたがたもこれに与ったではないか。それなのに、どうして今になっても肉の割礼にこだわるのか。そうパウロは言うのです。このパウロの主張を受け入れるためには、どうしても悔い改めに導かれるしかありません。神様の御前に、自分には何も正しいところなどない者として、ただ神様の御前に憐れみを求める者として立つしかありません。自分はユダヤ人であり、割礼を受けた者であり、律法を守って生きてきた者である。そのようなプライドなどかなぐり捨てて、神様の御前に立つ。イエス様の十字架の前に立つ。キリスト者はみんなそのようにして洗礼を受けたはずなのです。しかし、律法も割礼も捨てられず、自分はユダヤ人だ、ユダヤ人だけが救われるというところから出られない。
 私共キリスト者だって同じです。自分は本当に何もない。ただの罪人。ただイエス様の十字架によって、ただ神様の憐れみによって救われた。そう信じて洗礼を受けた。それなのに、いつの間にか自分の真面目さや、信仰心や、聖書の知識を増やすことによって、自分が何者かであるかのような思い違いをしてしまう。これは完全な勘違いです。このような勘違いを一番犯しやすいキリスト者は誰か。それは、何といっても牧師でしょう。たくさんの本を読み、毎週説教し、みんなから先生と呼ばれ続ける中で、勘違いする。神様の御前に立てば何もない者でしかないことを忘れてしまう。勿論、牧師だけではありません。みんな勘違いするのです。ユダヤ人キリスト者たちが勘違いしたように、人は勘違いするものなのです。自分は正しい、自分は良い人だ、自分はやるべきことをきちんとやっている。そのように人に認められたいし、自分でもそう思いたいのです。そう思いたくない人なんていないでしょう。それが私共に勘違いを起こさせるのです。それは確かに自然な心の動きです。しかし、自然な心の動きであるということは、罪人の心の動きであるということです。私共にとって大切なことは、自然なことであることではなくて、キリストの御前に立つということです。そこにおいてしか悔い改めは起きませんし、そこにおいてしか人は新しくなることが出来ないからです。自然な心の動きの中で悔い改めは起きません。

6.神からの誉れに生きる
 今日与えられた御言葉の最後の所で、パウロは「その誉れは人からではなく、神から来るのです。」と言います。この勘違いのことを「人からの誉れ」だと言い、神様だけを頼り、神様の御前に何もない者として立ち続ける者は「神から来る誉れ」に生きると言っているのです。人は、周りの人に「大した者だ」と思われたいですし、何よりも自分で「大した者だ」と思いたいのです。しかし、まことのユダヤ人、まことの神の民は、もうそんなものは要らない者とされたのです。イエス様によって救われ、徹底的に神様に愛されていることを知ったからです。神の子とされたからです。神様との親しい交わりの中に生きる者になったからです。もうそんなものは要らない。なくても大丈夫。だって、神様がすべてを知ってくださっているからです。神様が分け隔てなく私を見てくださっているからです。そして、愛してくださっている。もうそれで十分。これがキリスト者のすべてなのではないか。パウロは、ユダヤ人キリスト者を「一緒にここに立とう。」「共にイエス様の十字架によって救われたのだから、ここに立つしかないではないか。」と招いているのです。
 私共は今朝、このパウロの招きに応えるように促されています。この御言葉はパウロがユダヤ人キリスト者に向かって言っていることであって、自分は日本人だから関係ないと読んでしまえば、聖書は神の言葉として私共に語りかけてきません。神の言葉が聞こえません。しかし、それでは聖書を読んだことにはなりません。聖書が神の言葉として聞こえるためには、聖書の言葉を自分に向けて語られている言葉として聞かなければなりません。パウロがユダヤ人キリスト者に求めた悔い改め。自らを誇ることや人に評価されることからも自由になるように求めたことが、今朝、私に求められていることだと聞き取れるかどうかです。パウロが「あなたはどうか」と問うたところに立つかどうかです。ここに立つ時、私共は「主よ、憐れんでください。私には何もありません。愚かで、罪に満ち、そうであるにも拘わらず自分は大した者だと勘違いする者です。ただ、あなた様の憐れみだけが、私を生かします。どうか憐れんでください。」そう祈るしかありません。そして、そこに立ち続けることによって、キリスト者はキリスト者であり続けるのです。

お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝あなた様は御言葉によって、人からの誇りではなく、あなた様が与えてくださる誇りに生きるように招いてくださいました。どうかこの招きに応えて、あなた様に愛され、罪赦され、神の子としていただいている、この救いの恵みの中にしっかり立たせてください。私共は勘違いしてしまうのです。愚かな罪人だからです。自分は大した者だと思いたいのです。どうか、そのような思いから私共を解き放ち、ただ信仰によってあなた様の眼差しの中で貴いものとされていることを、感謝と喜びとをもって受け止めさせてください。どうぞ主よ、私共を憐れんでください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年7月18日]