1.はじめに
今朝は7月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を聞きます。士師記16章、士師サムソンの話です。6月の最後の主の日は富山地区の交換講壇でしたので、士師記15章からサムソンの話を聞いたのは5月の最後の主の日で、2ヶ月前になります。その前は2月の最後の主の日でした。サムソンについては今日で3回目になりますけれど、随分間が空いてしまいましたので、少し振り返ってみましょう。
サムソンの話は士師記13章から始まります。サムソンが生まれた時代、イスラエルはペリシテ人の支配の下にありました。そのような中で、サムソンはイスラエル十二部族の一つであるダン族に生まれました。母が彼を身ごもった時、主の使いが来て「その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」(士師記13章5節)と告げられます。ナジル人というのは、民数記の6章に記されておりますが、特別な誓願を立てて、神様に献身した人です。酒を飲まず、死体に近づかず、頭にかみそりを当てないことになっていました。普通は、自分から神様に誓願を立ててナジル人となるわけですけれど、サムソンの場合は生まれる前からナジル人でした。
そして14章。彼はペリシテ人の女性に恋をして、結婚します。両親は大反対でした。しかし、その反対を押し切って結婚します。その結婚式の時、サムソンは、決して解けない「なぞかけ」をペリシテ人に出し、麻の衣30着と着替えの衣30着を賭けるのです。ペリシテ人は、そのなぞが解けないので、結婚相手の女性を「夫を言いくるめて、なぞの意味を聞き出せ。そうしないと、家に火を放って家族もろとも焼き殺す。」と脅します。彼女は夫サムソンに7日間にわたって泣きすがり、なぞの意味を明かすようにせがみます。7日間というのは当時の結婚式の期間です。そして、遂に7日目にサムソンは妻に明かしてしまいます。妻から答えを聞いたペリシテ人が正解したので、麻の衣30着と着替えの衣30着を賭けていたサムソンは、それを与えなければなりません。サムソンはペリシテ人の町であるアシュケロンに行って、30人を打ち殺し、衣をはぎ取り、なぞを解いた者に与えたのです。結婚式は滅茶苦茶になってしまいました。
そして15章。サムソンはしばらくしてこの妻の所に行きます。当時の結婚の形は「通い婚」でした。ところが彼女の父は、あんなことがあったのでもうこの結婚は破談したと思い、「娘は別の人に嫁がせた。」と言います。サムソンは怒ります。そして今度は300頭のジャッカルを捕まえて、その尻尾を結んでそこに松明を付けました。ジャッカルは尻尾に火がついたと思い、暴れ回ります。そして、ペリシテ人の麦畑・ぶどう畑・オリーブ畑を燃やしてしまいました。当然ペリシテ人は怒ります。このサムソンの妻と父の家に火を放って焼き殺し、更に3000人の軍勢を整えてサムソンがいるユダに上って来ます。ユダの人たちは、何が起きたのか分かりません。サムソンはおとなしくユダの人たちに捕らえられ、ペリシテ人に引き渡されました。ところがサムソンがペリシテ人の所に来ると、彼を縛っていた縄はほどけてしまいます。サムソンは、落ちていたろばのあご骨を拾い、それでペリシテ人1000人を打ち殺してしまいました。
2.これでも士師か
サムソンは生まれる前からナジル人だったのですが、死体に近づいてはならないはずなのに、たくさんのペリシテ人を殺します。はたしてこれがナジル人なのか。神様の御心に従ってイスラエルを導く士師なのか。とてもそうとは思えない。やることが子供じみている。そう思われる方も多いと思います。彼は確かに強いのです。桁違いに強いのです。圧倒的に強いのです。しかし、他の士師のようにイスラエルの人々の上に立って、軍隊を整えてイスラエルの敵に対峙し、これを打ち破るというようなことは全くしません。彼はいつでも一匹狼です。単独行動です。イスラエルのスーパーヒーローと言えば言えなくはありません。ある人は「イスラエルの人たちは痛快なサムソンのこのような話が大好きだったのだろう。」と言います。確かに、大好きだったろうと思います。しかし、彼は士師としてどうなのでしょう。聖書は、サムソンの生き方を通していったい何を語ろうとしているのか。このことを聞き取らなければ、聖書を読んだことにはなりません。
今朝与えられている16章。そんなことがあって、サムソンはペリシテ人の町ガザに行きます。そして、遊女の所に行きます(1節)。士師が遊女の所に入る。これも「どうなの?」と思います。サムソンが自分たちの町に入ったことを知ったガザの人たちは、一晩中彼を取り囲み、夜明けに殺そうとします。ところが、サムソンは夜中に起きて、町の門の扉と門柱をつかんで引き抜き、肩に担いで山の上に運び上げました。どうして山の上まで運んだのかは全く分かりません。あまり意味があるとは思えません。しかし、サムソンにとんでもない力があることを示すことにはなったでしょう。でも、これも子どもっぽい気がします。
3.サムソンとデリラ
そして彼は、デリラという女性に恋をします。また女性かと思われる方もいるでしょう。サムソンの話は、どれも女性がらみです。皆さんも昔、「サムソンとデリラ」という映画を見たことがおありでしょう。これはもう70年も前の映画ですが、私も50年くらい前に見たことがあります。聖書の話とは知らず、とてつもない力持ちだけれども女性に弱い英雄の話だと思って見た覚えがあります。
サムソンが恋をしたデリラですが、彼女はペリシテ人ではなかったかと思います。ペリシテ人は彼女に、サムソンの怪力の秘密を聞き出すように言います。勿論、ただではありません。ペリシテの領主一人につき、銀1100枚を与えると約束します。「ペリシテ人の領主たち」というのは、当時ペリシテには栄えていた町が5つありました。ペリシテの5つの星と呼ばれておりました。ですから、このペリシテの領主というのは、このペリシテの5つの都市国家の領主と考えてよいでしょう。ですから、デリラに提示された報奨金は、全部で5500枚の銀ということになります。3000年以上前のお金を現在の金額に換算するというのは、かなり無理がありますけれど、敢えてするならば1千万円以上にはなるのではないかと思います。更に言えば、ペリシテ人は先にサムソンの妻とその親の家に火を付けて殺していますから、暗に「我々の言うことを聞かなければ、分かっているな、お前の命もないぞ。」という無言の圧力もあったのではないかと思います。ですから、デリラがサムソンに怪力の秘密を聞き出そうとしたことは、仕方がなかったといいますか、他に選択肢はなかったと思います。サムソンがデリラに恋をしていたように、デリラもサムソンに対して同じ思いをもっていたならば別ですが、どうもそうではなかったようです。
サムソンもさすがに、たとえ恋しいデリラの頼みであっても、そう簡単に自分の怪力の秘密を言うわけにはいきません。サムソンは三回嘘を言います。一回目は「乾いていない新しい弓弦7本で縛ればいい。」と言い、二回目は「一度も使っていない新しい縄でしっかり縛ればいい。」と言い、三回目は「髪の毛7房を機織りの縦糸と共に織り込めばいい。」と言いました。デリラは、その度に言われたとおりにするのですが、サムソンの力は無くなりません。そしてデリラは遂にサムソンにこう言うのです。15節「あなたの心はわたしにはないのに、どうしてお前を愛しているなどと言えるのですか。もう三回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった。」これを来る日も来る日も言われるのです。彼は「それに耐えきれず死にそうに」になったと聖書は記します。そして、サムソンはついにデリラにその秘密を話してしまうのです。17節です。「わたしは母の胎内にいたときからナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、わたしの力は抜けて、わたしは弱くなり、並の人間のようになってしまう。」ナジル人というのは、死体に近づかない、酒を飲まないということもセットであるのですけれど、それについては触れていません。それがどうしてなのかは、よく分かりません。しかしここで、サムソンは自分がナジル人であり、神様の御力によって驚くべき怪力が与えられているということは受け止めていたということが分かります。そして、デリラはサムソンが寝ている間に彼の髪の毛をそらせます。そして、ペリシテ人が来て、彼を捕らえ、彼は両目をえぐられ、ガザに連れて行かれ、青銅の足かせをはめられ、牢屋に囚われの身となります。そして、粉ひきを毎日させられることになってしまいました。遂に、ペリシテ人は無敵のサムソンを捕らえることに成功したのです。デリラは銀5500枚を手にしました。
4.髪の毛が問題なのではなく
ここでよく弁えておかなければならないことは、これはサムソンの髪の毛に不思議な力が宿っていたという話ではない、ということです。そうではなくて、ナジル人であったサムソンが、自分と神様との関係よりも、デリラとの関係を重んじてしまったということです。サムソンは好きになった女性の言葉に弱い。まことに弱い。何とか気を引こうとして、神様と自分との関係よりも、女性の方を大切にしてしまった。それがここでの一番の問題なのです。サムソンはデリラに対して、単純に「これはわたしと神様との関係だから、あなたには関わりのないこと。もうその事については話してくれるな。」そう言って退ければ、それで終わりだったのではないでしょうか。それでもしつこく聞いてくるならば、「あなたとの関係はこれで終わりだ。」と言えば良かったのかもしれません。しかし、そうは言えなかった。それが出来ないサムソンでした。何としてもデリラの気を引きたかったのですね。
それにしても、サムソンはデリラがこんなにしつこく聞いてくることに疑問を持たなかったのでしょうか。お馬鹿というべきか、純情というべきか、サムソンはデリラを少しも疑っていないように見えます。それほどまでにデリラに熱を上げてしまっていたということなのかもしれません。「だから、男はしょうもないのよ。」という婦人たちの声が聞こえてきそうです。確かにしょうもないのです。愚かと言えば愚かであるに違いありません。
しかし、大切なのはここからです。22節に「しかし、彼の髪の毛はそられた後、また伸び始めていた。」と記されています。髪の毛が伸びるまで、どのくらいの期間、彼が牢につながれていたのかは分かりません。しかし、目が見えなくなり、毎日、牢の中で粉ひきをさせられる。その日々の中で、サムソンの中で何かが起きた。聖書はそれについては何も記していません。けれども、私は、この日々の中でサムソンの中に、真実に神様の御前に立つということが起きたのではないかと思います。それまでサムソンは、自分の思いのままに、神様が与えてくれた怪力を使って、ペリシテ人にやりたい放題にやってきました。それは気持ちの良いことでした。自分が特別な者であり、とんでもない怪力を与えられている。それは気持ちの良いことでした。しかし、いつしかそれが当たり前のことになっていたのではないかと思います。彼は、生まれる前から神様にささげられたナジル人でした。そのため両親は、彼が生まれる前から酒を飲まず、この子が神様に選ばれた子として、神様の御心に適って歩むことを願い、祈り、育んできました。しかし、サムソンはそれもまた当たり前のことだと思い、特に感謝することさえなかったのではないでしょうか。しかし、目が見えなくなり、牢に囚われの身となり、今までの様々なことを思い起こしたことでしょう。そして、父や母に幼い時から聞かされてきた話を思い出したかもしれません。自分が生まれる前からナジル人であるとはどういうことなのか。神様は、自分に何をさせようとして驚くべき怪力を与えられたのか。そのことを思い巡らしたに違いありません。そして、自分の愚かさに気付いた。神様の御心のために生きよう。そのような思いが彼の中に生まれたのではないかと思うのです。つまり、悔い改めです。神様、両親への感謝と共に、神様の御業に仕えるという明確な自覚もなく歩んで来たことに対しての悔いが、彼の心に湧き上がってきたに違いありません。
5.わたしを思い起こしてください
ペリシテ人の領主たちが、ペリシテ人の神であるダゴンの神に盛大ないけにえをささげ、喜び祝っていた時、サムソンが呼ばれます。彼こそペリシテ人の最大の戦利品であり、これを見せ物にすることによって、自分たちの勝利を喜び、祝い、楽しもうというわけです。サムソンは牢から出されます。そして、人々の前に出されて笑いものにされます。サムソンは口々に嘲られたことでしょう。「お前の怪力はどうした。」「目が見えないのか。」「お前の神は何をしてくれる。お前の神様に助けてもらえ。」「お前があのサムソンなのか。嘘だろう。」「お前の力を見せてみろ。」色んな言葉が浴びせられたと思います。その時、サムソンは自分の手を引いていた若者に、「わたしを引いて、この建物を支えている柱に触らせてくれ。寄りかかりたい。」と頼みます。この建物は、ダゴンの神にいけにえをささげたというのですから、ダゴンの神の神殿であったかもしれません。建物の中は人であふれかえり、3000人もの男女がいた、と聖書は記します。皆が、囚われの身となったサムソンを見せ物にし、あざけり笑っていました。
その時、サムソンは主に祈りました。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与えてください。」(28節)この祈りは、サムソンが神様の御許に立ち帰ったことを示す祈りです。「わたしを思い起こしてください」という祈りは、神様の恵みと憐れみが当然と思っている者の口から出る祈りではありません。彼は、自分の怪力が、ただただ神様の御力によることを悟り、神様の憐れみの中で再び神様の御業の道具として用いられることを願い、求めたのです。神様はこのサムソンの祈りを聞いてくださいました。サムソンは建物を支えている2本の柱を左右に押しました。全力で押しました。神様が与えてくださる驚くべき怪力をもって押しました。この時サムソンは、「わたしの命はペリシテ人と共に絶えればよい。」と言って、建物は崩れ落ちます。そこにいた多くのペリシテ人は死にました。サムソンが生きている間に殺した者の数より、この時死んだ者の数の方が多かった、と聖書は記します。サムソンは神様に立ち帰り、再び神様に力を与えられ、神殿を崩壊させるという大変なことをして、命を絶ちました。
6.サムソンが私共に教えること
このサムソンの話から、私共は今朝、以下の4つのことを受け止めたいと思います。
①神様の恵みを当たり前としてはならない =感謝すべし
私共は、自分の能力や置かれている状況を、当たり前のこととして受け取っていることが多いと思います。しかしそれは、神様の御心、憐れみ、そして両親をはじめ多くの人たちの配慮・気遣い・守り・支えというものがあって初めて備えられたものであるということです。サムソンはそのことが分からずに、若い時から調子に乗っていたところがあったと思います。神様の憐れみと恵みに対して感謝することを忘れる時、人は調子に乗ります。そして、道を誤ってしまう。ですから、何より感謝することを忘れてはなりません。神様に対する、周りの人々に対する感謝です。
②神様との関係を第一とする
サムソンは神様との関係よりも、デリラとの関係を大切にしてしまい、遂には力を失い、ペリシテ人に目をえぐられ、囚われの身となってしまいました。この時、サムソンにとってデリラが偶像になってしまっていたのでしょう。デリラの心をつなぎ止めることが出来るのならば、何を失っても良いと思うほどだったのでしょう。どんなものでも、或いは人でも、偶像になり得ます。私共にとって神様より大事なものが出来てしまえば、それが偶像となります。一番大切なのは神様。このことを忘れてはなりません。十戒の第一の戒めです。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」この戒めと共に生きる私共です。
③何度でも悔い改めて神様の許に立ち帰る
サムソンは目が見えなくなった牢の中で悔い改めました。悔い改めるのに「遅すぎる」ということはありません。何度でも何度でも、悔い改めて神様の御許に帰りましょう。神様は放蕩息子を迎えた父親のように、御許に立ち帰る者を、必ず「我が子よ、よく戻って来た。」と言って迎え入れてくださいます。神様から離れてしまったことを悔やむなら、「主よ、わたしを思い起こしてください。」と祈り、神様の御許に立ち帰りましょう。そのことを神様は何よりも喜んでくださいます。
④神様の御計画の中にある
最後に、士師サムソンの歩みは神様の御計画の中にあったということを確認して終わります。13章において、サムソンが生まれる前、両親は神の使いによって、「彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」と告げられました。ペリシテ人の支配からイスラエルが開放されるのは、サムソンの時代から100年ほど後のダビデ王の時代になってからです。サムソンはダビデ王を指し示す者として歩んだということです。更に言えば、彼は主イエス・キリストをも指し示しています。自らの命を捨てて敵を滅ぼした姿は、十字架のイエス様の姿を指し示します。人々に罵られ、嘲られ、自らの命を捨てて、神様の御業を為されたイエス様です。イエス様は十字架において、すべての罪と悪と死を自らの死と共に滅ぼされました。サムソンは、ダビデ王を、そして主イエス・キリストを指し示す者として立てられ、用いられました。それこそが、サムソンの最も大きな役割でした。サムソンはそのようなことは考えていなかったでしょうし、分からなかったでしょう。しかし、彼の思いを超えて、神様は御業のためにサムソンを用いられました。私共もまた、私共の意識を超え、思いを超えて、神様の御計画の中で御業の為に用いられ、役割を果たしていく者とされているのです。欠けがあろうと、しょうもないと言われるような者であったとしてもです。私共の思いを超えた、神様の救いの御計画があるのです。そのことを信じて、この一週間も、健やかに、御国への歩みを為してまいりたいと心から願うものです。
お祈りいたします。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、士師サムソンの物語を通して、私共の歩みがあなた様の御計画の中にあることを、改めて教えてくださいました。ありがとうございます。あなた様の知恵はあまりにも大きく、深く、私共はそれを知り尽くすことは出来ません。たとえ自分の思い通りに事が進んでいかない時でも、あなた様の御心・御計画があることを信じて、安んじて一日一日歩ませてください。何よりもあなた様を第一として、たとえ過ちを犯しても、あなた様の御前に立ち帰り、あなた様と共なる歩みを為していくことが出来ますように。そして、私共の唇に、いつもあなた様に対しての感謝、また周りの人々に対しての感謝の言葉と祈りとを備えてください。思い上がりの罪から解き放ってください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2021年7月25日]