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礼拝説教

「信仰の父アブラハム」
創世記 15章1~6節
ローマの信徒への手紙 4章1~12節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を読み進めています。先週は3章の後半の御言葉を受けました。そこでパウロは、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる。」「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる。」と告げました。これが福音です。イエス様が私のために罪を償う供え物となって、十字架の上で死んでくださった。この御業によって、神様との交わりが与えられたことを、ただ感謝をもって受け取る。ただそれだけで救われる。これが「信仰によって義とされる、義と認められる」という、いわゆる「信仰義認」と呼ばれる福音、その中核にある教理です。先週与えられた御言葉、ローマの信徒への手紙3章21節からの所では、この福音の筋道が述べられていました。
 今朝与えられております4章1節以下の所では、この福音の証人としてアブラハムを挙げてパウロは論じていきます。ただ信仰によって義とされるという福音の筋道は、パウロが勝手に言い出したものではなく、3章21節で言われているように「律法と預言者によって立証されて」いることだからです。「律法と預言者によって」というのは、現代の私共の言い方では言えば「聖書によって」ということです。パウロの時代、「聖書」という言葉はありませんでした。勿論、「新約聖書」「旧約聖書」という言い方もありません。そもそも、新約聖書がありませんでしたから、新約に対しての旧約という言葉もありませんでした。聖書は旧約の部分しかなく、それを呼ぶにしても「聖書」という言い方はありませんでした。では、どう言っていたかと申しますと、「律法と預言者」あるいは「律法と預言」、もっと丁寧に言う場合は「律法と預言と詩」と言われていました。パウロは「ただ信仰によって救われる」という福音の筋道は、「律法と預言者によって立証されて」いる、つまり旧約聖書において既に示されている、そう言っているわけです。ユダヤ人キリスト者たちは「律法を守るという善き業によらなければ救われない。」と主張していたわけですが、その根拠も「律法と預言者」、つまり旧約聖書でした。ですから、パウロはユダヤ人キリスト者たちを説得するためには、同じ土俵に立って論じなければならないと考え、旧約における最も重要な人、この人からユダヤ人は始まったと考えられているアブラハムを例に挙げて論じているわけです。

2.アブラハム ①
 ユダヤ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫であるということを、自分たちが特別な民であることの根拠としていました。そして、アブラハムの子孫であることを何よりも誇りとしていました。アブラハムは、単にユダヤ人の先祖の一人ではありません。この人から神の民は始まったと考えられている人です。色々考えてみたのですが、日本人の中にはユダヤ人におけるアブラハムに対応するような人を思い浮かべることはちょっと出来ませんでした。この人から日本人が始まった、日本人を考える時にはこの人から始めなければいけない、そういう人はいません。ですから、ユダヤ人がどれほどアブラハムを大事にし、誇りとしていたかということが、私共にはピンと来ない所があるかもしれません。
アブラハムの話は創世記12章から始まります。神様に召し出されたアブラハム(初めはアブラムという名で、後に神様と契約をして割礼を命じられた時にアブラハムと名乗るように神様に言われるのですが、ここではアブラハムで統一します)でしたが、彼は神様からこの時にこう告げられます。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12章1~3節)この神様の言葉に従って、彼は旅立ったのです。この時アブラハム75歳、妻のサラは65歳でした。アブラハムの生涯はずっと旅でした。アブラハムは遊牧民でしたから、生涯が旅あったということ自体は不思議ではないかもしれません。しかし、彼は自分を召し出してくださった神様の言葉によって旅をし、神様と共に歩み続けるという神の民の原型がアブラハムから始まりました。そして、アブラハム100歳、サラ90歳で息子イサクが与えられました。神様に召し出されてから25年後です。そして、そのイサクからヤコブが生まれ、このヤコブから12人の息子が生まれて、これがイスラエルの十二部族となっていくわけです。ですから、アブラハム、イサク、ヤコブという神の民の父祖の先頭に、神様から召し出され、神様の約束を信じて神様と共に歩んだアブラハムがいるわけです。
 ちなみに、アブラハムにはサラとの間の子イサクの他に、女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルがいました。このイシュマエルを祖先として信じているのがアラブ人です。ですから、アブラハムはユダヤ人だけではなくてアラブ人の父祖でもあります。アラブ人は、ユダヤ教によって歪められたアブラハムの宗教をムハマンドが糺すことによって、神様がアブラハムに啓示されたことを正しく受け継いだのが自分たちイスラム教徒であると考えています。

3.アブラハム ②
 ユダヤ人にとってアブラハムは完全無欠な信仰者です。神様の前に罪を犯さず、正しい行いを為し続け、神様に義とされた人と受け止められていました。しかし、聖書はアブラハムをそのような人としては記していません。後で出てくるダビデにしてもそうです。聖書には完全に正しい人など一人も出て来ません。そんな人は存在しないからです。そんな人は絵空事の中の人であって、現実の人ではないからです。ここでイエス様のことを思われた方がいるかもしれませんが、イエス様は神の独り子、神様そのものですから、ただの人間とは違います。イエス様は罪を犯しませんでした。
 さて、アブラハムは神様の召し出しによって旅立ちました。神様はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と約束されました。ところが、アブラハムには子供がおりませんでした。この神様の約束は、アブラハムに子供が与えられなければ実現することはありません。しかし、アブラハムも妻のサラも既に年をとっています。普通に考えれば、もう子供など出来るはずもありません。神様は最初の約束の後も、アブラハムに対して「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」(創世記13章16節)と告げられました。しかし、一向にアブラハムとサラとの間に子供が与えられる気配はありませんでした。
 そして、先ほどお読みいたしました創世記の15章になります。神様はアブラハムに幻の中で臨んでこう言われました。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(創世記15章1節)この時、アブラハムは自分に子供が与えられるということ、自分の子孫が増え広がるということを信じることが出来ませんでした。ですから彼は神様にこう言ったのです。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」このエリエゼルというのは、アブラハムの僕の名前です。アブラハムは信じられなかったのです。しかし、これに対しての神様の答えは、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」というものでした。そして神様は、アブラハムを外に連れ出して言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われたのです。この言葉を受けて、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と聖書は告げているのです。この言葉をパウロは引用しています。ここに、アブラハムも善き業によって神様に義とされたのではなくて、だだ神様の言葉を信じた、神様の恵みの御業を信じた、それによって神様に義とされたと聖書は告げているではないか。そうパウロは言うのです。
 この後で神様はアブラハムと契約を結びます。しかし、アブラハムはこの神様の言葉をずっと信じ続けたかと言いますと、やっぱり信じられなくなるんです。アブラハムは高齢となった妻サラとの間には子供は出来ません。しかし、若い女奴隷ハガルとの間にならば子供が出来るかもしれない。これは妻サラが言いだしたことでした。アブラハムは妻サラの言葉に従い、ハガルとの間に子どもをもうけました。それがイシュマエルです。アブラハムが86歳の時でした。しかし、神様はアブラハムが99歳の時に現れます。そして、神様はアブラハムと契約をし、契約のしるしとして割礼を受けることを命じられました。この時、神様は「(妻サラによって)あなたに男の子を与えよう。」(創世記17章16節)と告げるのです。この時、アブラハムはどうしたかと言いますと、ひれ伏しながら「笑った」のです。理由は「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」と思ったからです。つまり、神様の言葉が信じられず、馬鹿馬鹿しく思って笑ったのです。しかし、神様は「その男の子と永遠の契約を結ぶ。」と告げ、その名をイサクと名付けるようにと命じられました。これは創世記17章に記されていることです。しかし、有名なのは創世記18章の方でしょう。神様の3人の使いがアブラハムの所に来て、「来年の今ごろ、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」と告げます。それを聞いてサラはひそかに笑いました。しかし、神の使いはその笑いを見逃しません。「主に不可能なことがあろうか。」とサラに告げます。サラは「わたしは笑いませんでした。」としらを切りますが、主の使いは「いや、あなたは確かに笑った。」と告げる場面です。この有名な創世記18章だけですと、妻のサラだけが笑ったようですけれど、そんなことはありません。その前の17章でアブラハムも笑ったのです。信じられなかったからです。
 そしてアブラハム100歳、妻サラ90歳の時に生まれたのがイサクでした。このイサクという名前の意味は「笑い」です。神様の御業を信じられずに笑ったアブラハムとサラでしたが、神様は実際に男の子を与え、「喜びの笑い」を与えてくださったのです。そして、このイサクからヤコブ、ヤコブから12人の息子たちが生まれ、イスラエルの十二部族となっていったわけです。ユダヤ人というのは、このイスラエル十二部族の一つである「ユダ族」の人たちのことです。

  4.アブラハムの信仰
 さて、パウロは今朝与えられた御言葉において、1節「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは」と言います。ユダヤ人にとって、アブラハムは文字通りのご先祖様です。血によって繋がっている先祖、しかもこの人から自分たち民族が始まっていくという大切な人でした。そして、パウロは続けます。2~3節「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。」と告げます。これは、今見て来ましたように、アブラハムが自分に子どもが与えられると信じることが出来なくなっていた時に、神様はアブラハムに空の星を見せて「あなたの子孫はこのようになる。」と言われ、この言葉を受けて「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」わけです。神様は、アブラハムがただ神様の約束を受け入れ、信じた。そのことをもって、アブラハムを義とされた。正しい者として認められたと言っているわけです。ここでパウロは、「アブラハムは律法を守って正しい人だったから神様に義とされたのではないでしょう。」と言っているわけです。
 ユダヤ人はアブラハムを信仰の父、神の民の父祖として尊敬していたわけですが、彼らはアブラハムが神様の御前に完全に正しい人として歩んで、神様に義とされたと理解しておりました。しかし、律法が与えられるのはモーセの時です。アブラハムはモーセの時よりも何百年も前の人ですから、そもそも律法を守ると言っても律法が無いのですから、それを守った正しい人であるということに無理があります。パウロは「アブラハムが義とされたのは律法を守ったからではないでしょう。信仰によって義とされたと聖書に記されているではありませんか。信仰によって義とされるというのは、アブラハムの時からずっと神様の御心だったのです。」と言っているわけです。
 ここで、確かに聖書は「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と告げているけれども、この時のアブラハムの信仰は「とても信じられないようなことを信じる」という本当に大した信仰だった、だから神様に義とされたのだ、と思われる方もいるかもしれません。これは、信仰も自分の善き業と考えているわけです。しかし、先ほどアブラハムの歩みを見ましたけれど、神様の言葉をいつでもどんな時でも信じきっていたわけではありませんでした。そもそも、アブラハムの信仰とは、神様が与えると約束してくださった恵みをただ受け取る。そういうものでした。私共の信仰もそうです。イエス様によって備えられた救いの恵みをただ感謝して受け取るだけです。そして、その信仰だって、いつも揺らぐことのないようなものではありません。しかし、たとえそうであっても、アブラハムを信仰によって義とされた神様は、私共の有るか無きかの信仰さえも受け取ってくださり、私共の一切の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。

5.報酬ではなく恵みとして
 更にパウロは、4~5節で「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」と告げます。アブラハムが神様によって義とされたのは、立派な行いをして、その報酬として与えられたものではありません。報酬とはどうしても支払われなければならないものです。ですから、善き業によって当然受け取るべきものとして救いがあるとすれば、神様が私共に対して当然支払わなければならない負債、負い目を負うことになります。神様は善き業を為す私共を義としなければいけないことになる。そして私共は、「これだけ良いことを私はしたぞ。さあ、私を義とせよ。」と偉そうに神様の御前に立つことになります。これは、全く変です。パウロはユダヤ人キリスト者たちに、「あなたがたが言っていることは、そういうことなんですよ。おかしいでしょう。変でしょう。」そう言っているわけです。
 イエス様によって与えられた神様の恵みとは、「不信心な者を義とされる」ほどのものです。アブラハムの信仰だって「不信心」と言われても仕方がないような点がありました。しかし、それでも神様はアブラハムを義とされたのです。そうであるならば、どうして不信心な者と言わざるを得ない私共が義とされないことがありましょう。私共の信仰は、神様の御前に立って「主よ、信じます。不信仰な私をお赦しください。」と言うしかないような者です。しかし、たとえそうであっても、私共は赦され、生かされ、愛され、とこしえの命に生きる者とされた。これが福音です。何とありがたいことでしょう。

6.ダビデの場合
パウロは、次にダビデを信仰によって罪を赦された証人として立てます。6~8節「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。』」この7節8節の引用は詩編32編の1節2節です。私共が礼拝の中で、罪の告白として交読している言葉で言えば、「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」となります。ダビデは、バトシェバと姦淫を犯し、バトシェバの夫ウリヤを激しい戦場に送って戦死させてしまうわけです。とんでもない話です。しかし、ダビデはその時、神様の裁きよって滅ぼされたか。滅ぼされませんでした。それどころか、ダビデは神様に罪を赦していただいたのです。その後ダビデは心を入れ替えて善い業に励んだから、それを見て神様はダビデを赦したのか。そうではありません。ダビデは悔いたのです。預言者ナタンによって、ダビデは自分の罪を白日の下にさらされ、言い逃れが出来ない者として神様の御前で悔いたのです。神様の御前に赦しを求めたのです。ダビデは赦しを乞うしかなかった。そして、その赦しを求めるダビデを神様は義とされました。この罪赦されたダビデが感謝の中で歌ったのが、この詩編32編です。  神様の御前に出て、赦しを乞い求めるしかない。それが私共です。その赦しを求める私共とイエス様は共にいてくださり、父なる神様に執り成してくださる。「この者の罪をわたしは知っています。しかし、父よ。わたしはこの者のために、この者に代わって、十字架の上で裁きを受けました。どうか、わたしの十字架の故にこの者の罪を赦してください。」そう執り成してくださっています。このイエス様の十字架の執り成しの故に、私共はこのように主の日の度ごとに、父なる神様の御前に誰はばかることなく集い、礼拝を捧げることが出来る。まことにありがたいことです。

7.割礼という「しるし」
 そして、パウロは割礼に言及します。9~11節「『アブラハムの信仰が義と認められた』のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」とパウロは告げます。アブラハムが信仰をもって義とされたのは創世記の15章、そして契約のしるしとして割礼を与えられたのは17章です。信仰によって義とされた時、アブラハムはまだ割礼を受けていませんでした。とするならば、割礼が信仰によって義とされるために必要だとは言えないでしょう。割礼を受けなければ救われないと言っていたユダヤ人キリスト者に対して、信仰によって義とされ、救われるのに、割礼は必要なものではない。そうパウロは言うわけです。
 そして、アブラハムが「信仰によって義とされる」者の先頭に立っているとするならば、アブラハムは割礼のある者たちの父であるばかりではなく、割礼はなくても信仰によって義とされるキリスト者の父ともなったということではないですか。アブラハムはユダヤ人だけの父祖ではなく、信仰によって義とされるすべての者たちの父祖となった。つまり、肉においてはそうではなくても、信仰においては、私共もアブラハムの子孫となったということです。
 これは重大なことです。私共は旧約聖書をどのように読んでいるでしょうか。遠い国の、遠い昔の話として読んでいるかもしれません。しかし、旧約聖書はユダヤ人にとって民族のアイデンティティーを確保する大切な書というだけではなくて、私共キリスト者にとっても、信仰の先達たちの物語であり、神様の私共に対する愛と赦しの物語であり、私共が信仰者としてどう生きるのか、その事を教えてくれる大切な書になったということです。私共も神の民となり、聖書の民となったからです。アブラハムの子孫となったからです。まことにありがたいことです。

お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、御言葉によって、「信仰によって義とされている」という救いの恵みを新しく心に刻むことを許され、感謝いたします。そして、私共がアブラハム以来の神の民に加えられましたことを感謝します。まことに弱く、罪に満ち、愚かな私共でありますけれど、ただ感謝をもってイエス様の贖いの恵みに与るものです。どうか、私共の歩みを顧み、御手の中で守り、支えてください。新しい一週、あなた様の子どもとされた者として、あなた様を愛し、信頼し、従う者として、健やかに歩ませてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年8月22日]