1.はじめに
ローマの信徒への手紙を共々に読み進めています。前回は4章1節以下の所において、福音の中核である「信仰によって義とされる」ということの証人として、パウロはアブラハムを出して論じました。アブラハムが神様の約束を信じて義とされたのは、割礼を受ける前だったではないか。このように、神様に義とされる、つまり神様によって正しい者と認められて救われるには、割礼が必要なわけではない。これは明らかではないか。そうパウロは論じました。ちなみに、神様に空の星を見せられ、「あなたの子孫はこのようになる。」という言葉を信じて神様に義とされたことは、創世記の15章に記されています。そして、神様から契約のしるしとして割礼を与えられたことは、17章に記されています。ですから、アブラハムは、割礼を受けた者(この場合はユダヤ人ですが)の父であるだけではなくて、アブラハムの信仰の模範に従う者(この場合は異邦人ですが)にとっても父なのだ、とパウロは告げるわけです。
今朝与えられている御言葉は、その次の所です。では、アブラハムに与えられた約束とは何か。そして、神様に義と認められた信仰とはどういうものだったのか。そのことを論じています。
2.信仰によって世界を受け継ぐ
まず、アブラハムに与えられた約束ですが、13節に「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束された」とあります。ですから、アブラハムに与えられた約束とは、「世界を受け継がせる」ということになります。この「世界を受け継がせる」ですが、これはアブラハムやその子孫が世界を支配する者となるという意味では全くありません。そうではなくて、創世記12章においてアブラハムが神様に召し出された時に神様が告げられた約束、それは「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12章2~3節)というものでした。つまり、アブラハムとその子孫は地上のすべての人々の祝福の源となり、ここから神様の祝福が注がれ、すべての人々が神様の祝福に与るようになる。神様の祝福を人々に与えていく、そういう存在になるということです。それは、まことの神様を知らず、自分の願いや思いをかなえるために神ならぬものを神として拝んでいる者たちに、まことの神様を知らせ、まことの神様と共に生きる、まことの神様との交わりに生きる、そのような祝福に満ちた新しい命を知らせていく。その結果、世界のすべての者たちが神様の祝福に与るようになる。それが「世界を受け継ぐ」ということなのです。自分はアブラハムの子孫であって、特別な民、神の民だ、あなたたちとは違うのだとお高くとまって、世界はやがて私たちのものとなって、他の者たちは私たちに仕えるようになる。そんな約束を神様はされたのではありません。ユダヤ人たちは、このアブラハムに与えられた約束を完全に誤解している。そうパウロは言うのです。
ですから、続けて「その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」と言うのです。律法に基づくならば、律法を完全に守れる人はいないのですから、誰も神様に義とされることはありませんし、つまり誰も神様の祝福を受けることは出来ないことになってしまう。そもそも、この神様の約束は、「もしこれこれをしたら、〇〇を与えます」という約束ではありませんでした。神様はアブラハムにいきなり現れて、「わたしはあなたを大いなる国民にし…地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」と告げたのです。何の条件もありません。それがアブラハムに与えられた神様の祝福の約束です。ですから、これは私共が通常考える約束とは違います。祝福の宣言と言っても良いようなものです。そして、アブラハムはその約束を信じて、神様が行けと言われた地に向かって旅立ったのです。この祝福の約束に対しては、アブラハムは「ただ受け取るだけ」です。感謝と喜びをもって受け取るだけ。それが信仰による義に基づいているということです。「律法を守ったら」などという条件は一切付いていないのです。
3.律法によってか、信仰によってか
神様の祝福の約束を受け継ぐのは、「律法を守ることによって」か、それとも「ただ信じることによって」なのか。パウロは、ただ信じることによってだと言います。律法を守ることによってということならば、そもそも信仰は要らないではないか。自分が律法を守って、正しい人になって、神様の祝福を受けるというならば、信仰なんていらない。真面目に、ひたすら律法を破ることがないように生きていくしかない。しかし、それで本当に律法を完全に守れますか。守れないでしょう。だったら、律法によっては、神様の怒りを買うだけ、罪の自覚が生まれるだけではないか。それではアブラハムに約束された祝福を受け継ぐことは出来ないではないか。
しかし、信仰によって義とされるということならば、どんな人もアブラハムの祝福を受け継ぐことが出来る。確実に受け継げる。だから、信仰によって義とされる者は、アブラハムの祝福を受け継ぎ、世界を受け継ぐ者となるのだ。神様の祝福を伝え、ここに人々を招き、すべての人が神様と共なる命に生きることが出来るようになる。何と幸いなことか。そして、アブラハムの信仰に従う者は、アブラハムの子孫となる。アブラハムは、信仰よって神様の約束を受け継ぐすべての者の父となる。神様がアブラハムに「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」(17節a)と言われたのは、単に増え広がるイスラエルの民の父となるという以上のことだ。イスラエル民族という枠を超えて、地上のすべての民において、信仰によって義とされる者たちの父となるという意味なのだと言うのです。信仰によって義とされた者、キリストを信じる者たちは、今や世界中のあらゆる民族の中にいるわけですけれども、そのすべての者たちの父となる。そういう者になる者として、神様はアブラハムを選ばれたのです。ですから、私共の信仰の父もアブラハムなのです。
4.死者に命を与える神を信じた
次に、神様によって義とされたアブラハムの信仰とは、どういうものだったのでしょうか。パウロは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ」(17節b)たと言います。これは、アブラハムが75歳、妻サラが65歳の時に、神様はアブラハムを召し出し、「わたしはあなたを大いなる国民にする」と約束されました(創世記12章1~3節)。この時、アブラハムには子どもがおりませんでした。子孫が大いなる国民になるには、子どもがいなければなりません。アブラハムは、それを信じて旅立ったのです。しかし、前回見ましたように、アブラハムはいつもそのことを信じ切れていたわけではありません。「そんなの無理!!!」と思う時がありました。それは、神様はアブラハムを外に連れ出し、満天の星を見させ「あなたの子孫はこのようになる。」と言われた時がそうです。アブラハムはその御言葉で改めて信じたのです。神様はそれを義と認められました(創世記15章)。そして、アブラハム99歳、サラ89歳の時、神様が割礼を与えられた時ですが、神様はアブラハムとサラの間に子どもを与えると告げられました。しかし、アブラハムもサラもそれを信じることが出来ずに笑ってしまいました。アブラハムが笑ったことが創世記17章に記されており、サラが笑ったことは18章に記されています。神様は、「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。」と言われます(18章13節)。サラは自分が笑ったことが知られていることに驚き、恐ろしくなって、慌てて「わたしは笑いませんでした。」と言うのですが、主は「いや、あなたは確かに笑った。」と告げます。この場面は、ちょっと怖いですね。神様はサラの不信仰を見逃さず、言い訳も通用しない。神様はアブラハムとサラの不信仰を御存知なのです。だったら、神様は不信仰なアブラハムとサラを退け、子どもを与えることを止められたか。いいえ、止めないのです。神様が言われたとおり、次の年、アブラハム100歳、サラ90歳の時にイサクが与えられたのです。この出来事を為される方、それが「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」です。アブラハムが信じた神は、100歳のアブラハムと90歳のサラにイサクという子どもを与えてくださる神でした。100歳のアブラハムと90歳のサラ、もう死ぬばかりだ。普通そう思います。子どもが出来るはずがない。普通はそう思います。しかし、神様は普通ではないことをされたのです。あり得ないことをされたのです。それがアブラハムの神であり、聖書の神であり、私共の神なのです。アブラハムの信仰に従うとは、そのような方として神様を信じるということです。普通はあり得ない。神様はその普通を超えておられる。なぜでしょうか。それは、この神様は天と地のすべてを造られた方だからです。神様に対して、私共の常識、この世のことわりは通じません。この世を造られたのは神様であって、神様はこの世の中におられる方ではないからです。この世界を造られた方としてこの世界の外におられ、その上でこの世界に関わり、出来事を起こされるのです。
先ほど、創世記18章の、神様がサラに言われた言葉を見ました。「なぜ笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。」この「主に不可能なことがあろうか」という言葉は、ルカによる福音書1章で、マリアが御使いガブリエルから受胎告知された時、マリアが「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言った時に、ガブリエルがマリアに告げた言葉と同じです。自分が身籠もって男の子を産むということを受け入れられないマリアに対して、ガブリエルは「神にできないことは何一つない。」と告げたのです。そして、その言葉どおり、おとめマリアからイエス様が誕生しました。
更に、イエス様は十字架の上で死んで、三日目に復活されました。これも、普通ならあり得ない話です。しかし、これを起こされたのが聖書の神、アブラハムにイサクを与えられた神様なのです。私共がイエス様の復活を信じるということは、アブラハムがイサクの誕生を信じたということと同じ質のことなのです。24節bを見てみましょう。パウロは「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」と言います。アブラハムは高齢になって、子どもなんて生まれるはずがない。にもかかわらず、神様の言われることだからと信じた。それと、私共がイエス様の復活を信じるということは、同じ質の信仰なのです。だから、アブラハムが信仰によって義とされたように、私共も信仰によって義とされるのです。
5.希望無き中で、なお信じる
このアブラハムの信仰を、パウロは「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」(18節)たと言います。アブラハムの旅は75歳から始まりましたが、100歳でイサクが生まれました。それは、人間的に見れば、どうしたってあり得ないことです。「希望するすべもなかった」、どう考えても無理、そんなことはあり得ないことです。しかし、そこでなおアブラハムは信じた。私共もそうなのです。イエス様の復活を信じるという信仰は、死という絶対的な壁が神様の前では最早崩されている、それを信じる。私共は必ず死ぬ。この地上での生涯は終わる。例外はありません。しかし、それが絶対的な終わりではない。イエス様が復活されたように、イエス様が再び来られる時、その時が来れば、私共も代々の聖徒たちと共に復活する。そして、永遠の命に生きることになる。私共はそのことを信じているわけです。
肉体の死さえも私共にとって絶対的な壁ではなくなったとするならば、私共の行く手を遮る絶対的な壁など存在しないということです。この地上の歩みにおいて、私共は「もうダメだ」と思うような時が何度もあるでしょう。しかし、ダメにはならない。あの死を破られたイエス様が、私共と共におられるからです。この方が、私共のために道を開いてくださるからです。アブラハムにイサクを与え、おとめマリアからイエス様を誕生させられた神様が、私共のために道を開いてくださるからです。私共は、そのことを信じて良いのです。神様が信じなさいと私共を招き、これを信じるようにと促してくださっているからです。
6.信じさせてくださる神
しかし、そう言われても、やっぱりダメじゃないかと思ってしまうこともあるでしょう。誰にでもそういう時があるのです。ここで聖書は、19~21節でこう告げます。「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」と言います。しかし、これは本当でしょうか。アブラハムは「信仰が弱まった」り、「不信仰に陥った」ことはなかったでしょうか。彼はいつも確信していたでしょうか。そうではなかったということを示す記事を、創世記は幾つも記しています。神様に星を見せられた時(創世記15章)のアブラハムはどうだったでしょうか。自分とサラの間には子どもは出来ないと思って若い女奴隷ハガルとの間にイシュマエルをもうけた時(創世記16章)はどうだったでしょうか。99歳でサラとの間に子どもが与えられると神様に言われて「笑った」時(創世記17~18章)はどうだったでしょうか。これらの時、アブラハムが信じられないでいたことは明らかです。しかしパウロは、アブラハムは「信仰が弱らなかった」「神様の約束を疑うようなことはなかった」「確信していた」と言います。これはどういうことなのでしょう。
私共は、このようなパウロの言葉を読みますと、アブラハムの信仰は全く動揺せず、75歳で召し出され、100歳でイサクが与えられるまで、神様が子どもを与えてくれることを少しも疑うことなく、信仰が弱ることなく歩んだように思ってしまいます。しかし、そうではありませんでした。アブラハムは何度も、信じられない、そんなことは起きない、もう諦めた、そう思ったことがあったのです。しかし、大切なことは、神様はそのようなアブラハムを放ってはおかれなかったということです。神様はその度にアブラハムに言葉を与え、励まし、信じる者として歩むように導き続けられたのです。それがアブラハムの信仰の歩みでした。
私共もそうなのです。本当に神様は道を開いてくださるのだろうか。大丈夫だろうか。もうダメではないか。何度もそう思うことがあるのです。しかし、神様はそのような私共に御言葉を与え続けて、信仰に立たせ続けてくださるのです。神様がアブラハムを励まし続け、信じる者であり続けさせてくださった。これが、アブラハムの信仰は弱まらなかった、神様の約束を疑うようなことはなかった、確信していたとパウロが告げていることの実態です。アブラハムの信仰が立派だから、神様はアブラハムを義とされたのではありません。アブラハムの信仰は揺らぎ、迷い、疑い、そんなことがあるはずがないと笑ってしまうようなことだってあったのです。しかし、たとえそうであっても、彼はかろうじてであろうとイサクが与えられるまで神様との交わりの中を歩み続けました。それは、神様がアブラハムの信仰を支えてくださったからです。神様がアブラハムを見捨てなかったからです。神様が御言葉を与え続けてくださったからです。私共はこのことを信じて良いのです。信仰によって義とされる、信仰によって救われるということは、その信仰さえも自分のものではないということです。信じる者であり続けることが出来るようにと、神様が私共の信仰を守り、支えてくださるということです。アブラハムに御言葉が与え続けられたように、私共にも御言葉が与えられ続けています。そこで励まされ、有るか無きかの信仰を支えられ、守られている。それが私共の信仰の歩みなのです。
私共は、どんなことがあっても絶対に動揺しない、確信し続ける信仰者というものをイメージし、そうでありたいと思います。そう思うことが悪いわけではありません。しかし、そういう信仰でなければ救われないと考えるならば、それは間違いです。大切なのは、「わたしの信じる気持ち」ではありません。信じ切れない私をも愛し、守り、支え、導いてくださる神様の憐れみこそ大切なのです。それを信頼することです。神様が必ず何とかしてくださるのです。「どう何とかしてくれるのか?」と聞かれても、私には分かりません。しかし、必ず神様は何とかしてくださいます。私共の想像を超えたあり方で、私共の信仰を支え続けてくださいます。私共はそれを信じて良いのです。何しろ神様は、天と地のすべてを造られた方であり、私共に愛する独り子イエス様を与えてくださった方であり、そのイエス様を三日目に死人の中から復活させられた方なのですから。神様は、私共のために何でもしてくださいますし、お出来になります。だから、大丈夫です。主があなたと共におられます。安心して行きなさい。
お祈りいたします。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、あなた様は御言葉を通して、信仰によって義とされる私共が、アブラハムの子孫であることを教えてくださいました。そして、アブラハムの信仰が揺らいでも、信じられなくなっても、神様はアブラハムを見捨てず、御言葉を与え続け、信仰に留まり続けるようにしてくださったことを知らされました。ありがとうございます。私共はイエス様の復活を信じています。どうか、私共がこの信仰の恵みの中に留まり続けることが出来ますよう、私共に御言葉を与え続け、出来事をもって支え続けてください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2021年9月5日]