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礼拝説教

「アダムによって死が、キリストによって命が」
創世記 3章17~19節
ローマの信徒への手紙 5章12~21節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を読み進めております。前回は5章の前半から御言葉を受けました。信仰によって義とされた者、信仰によって救われた私共はどのような者とされているのか、ということを示されました。私共は神様との間に平和を与えられ、神の栄光に与る希望を与えられ、そして苦難さえも誇りとする者とされている。そして、私共はイエス様の十字架によって示された神様の愛を心に注がれることによって、そのことをはっきり知る者とされている。だから、神様を喜び、神様を誇りとして私共は生きる。そのことを心に刻みました。
今朝与えられております御言葉はその続きですが、ここではアダムとイエス様を対比する形で、私共の罪と救い、死と命が記されています。一回読んですぐによく分かるという箇所ではないかもしれませんけれど、語られていることは少しも複雑なことではありません。最初の人アダムが罪を犯し、それによって人間は死ぬべき者となった。人間は誰でもこのアダムの罪を受け継いでおり、それ故にいつか死ななければならない。しかし、イエス様が十字架によって私共の一切の罪を贖ってくださった故に、イエス様を信じる者は罪赦された者として、罪の裁きとしての死の支配から解放され、永遠の命に生きる者とされた。そうパウロは告げています。

2.原歴史
 12節を見てみましょう。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」とパウロは告げます。これは創世記3章に記されている、アダムとエバが、神様が食べてはいけないと言われた「善悪の知識の木」の実を食べてしまい、そしてその結果、神様の裁きによって人間は死ななければならない者になったということを指しています。先ほど読みました3章19節の神様がアダムに言った言葉、「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」という言葉ですね。これまではエデンの園にいて、アダムとエバは食べることに困ることはありませんでした。しかしこの後、アダムとエバはエデンの園を追われて地に降り、土を耕し、食べるものを得るために労苦しなければならなくなりました。そして、この「土に返る」「塵に返る」という言葉は、「死ぬ」ということを意味します。アダムとエバは罪を犯したが故に、神様の裁きとして死ななければならない者となったと語ります。
 ここで創世記の最初の部分、1章から11章をどのように理解すべきかということについて、少しお話ししておきましょう。創世記の最初の所は、天地創造、人間の創造、人間が罪を犯す、カインとアベル、ノアの洪水、バベルの塔と続くわけです。この部分は、現実の歴史を語っているというよりも、世界とは何か、人間とは何か、罪とは何か、歴史とは何か、そういったことを神話の形で記している、そう理解すべきだろうと思います。実際の歴史世界の記述は12章のアブラハムから始まると考えて良いでしょう。ですから、この創世記の1~11章は、ここからすべてが生まれてくると言う意味で「世界の歴史の卵」のような所です。ある神学者はこれを「原歴史」と言います。ですから創世記3章のアダムとエバの話は、初めの人間であるアダムとエバが罪を犯した故にすべての人間に罪があるという、「原罪」というものについて述べていると考えて良いでしょう。
 アダムとエバはエデンの園から追放されてしまうわけですが、二人の息子が与えられます。カインとアベルです。そして、何と兄のカインは弟アベルを殺してしまいます。それからノアの洪水の話へと続きます。この話の流れは、アダムとエバが神様に対して罪を犯し、神様との関係が崩れてしまう。その結果、最も近しい兄弟を殺してしまうという、人と人との関係も崩れてしまう。そして、地上の人間の悪は増し、遂に大洪水をもって生きているものすべてを滅ぼすという神様の裁きがなされるという話です。でも、この神様の裁きによって人類は完全に滅んでしまうのではなくて、ノアの家族から新しい人類の歩みが始まる。神様はノアとその後に続く子孫とすべての生き物に祝福の約束をし、その「契約のしるし」として神様は虹を置かれました。このように、アダムからノアまでの話は、人間の罪の現実とそれに対しての神様の裁き、そして新しい人類が誕生するという物語となっており、これは聖書全体の構造を示しています。

3.アダムによって
 アダムが犯した罪が、どうして現代の私共にまで伝わっているのかということですが、これを遺伝のように考えますと、現代人にはとても受け入れられないということになるでしょう。そのように理解していた時代もありましたけれど、この創世記3章が告げていることは、実際にアダムとエバという一組の夫婦がいて、彼らが罪を犯して、その罪が私共に遺伝しているということではなかろうと思います。そうではなくて、人間というものは本質的にアダムとエバのように神様との交わりを捨てて、神様の言葉に従うよりも自分がやりたいことをやる。やりたいようにやる。全く自分中心。そういう罪への強い傾きを持っているということを告げているのでしょう。人間は自分の過ちを認めず、他人のせいにし、言い訳をし、神様から身を隠している。その結果、罪の裁きとしての死が、すべての人間に及んでいるというのです。
 「罪によって死が入り込んだ」ということは、医学や生物学で考えるならば、「生物の死とはそういうことではない」ということになるでしょう。しかし、聖書はそういうレベルで死を捉えているのではありません。永遠に生き給う神様との繋がりの中で命というものがあり、神様と離れてしまえば命は枯れ、死ぬしかないということです。罪と死が結びついている。神様からの離反という罪の結果が死なのだ。それが聖書が告げていることです。この命は霊の命と言っても良いかもしれません。創世記2章に記されている、神様が息を吹き入れて、土くれに過ぎない人間が「生きる者となった」という、あの命です。神を知らなければ、命とは生物的な命しか知りません。そのような死に特別な意味はありません。そして、人間は死んだら終わりなのでしょう。しかし、神様の御前にあっては、人間の命とはそんなものではありません。私共の命は、神様との繋がり、神様との健やかな関係と共にあるのです。創世記3章におけるアダムとエバの物語は、罪によって人間に死が入ってきたことを告げているわけですが、そうであるならば、この罪の問題が解決されれば、死もまた克服される。永遠の命への道が開かれる。そのことを私共に暗示しているのです。

4.キリストによって
 この暗示されていたことが明らかに示された、それが主イエス・キリストによる救いなのです。17~19節を読みます。「一人(アダム)の罪によって、その一人(アダム)を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人(アダム)の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人(イエス・キリスト)の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人(イエス・キリスト)の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」とパウロは告げます。ここでアダムとイエス様が対比されて語られています。アダムという一人の人が罪を犯すことによって、アダムを通して死が入ってきた。そして、すべての人が死ななければならなくなり、すべての人は死に支配されるようになってしまった。しかし、その逃れようのない現実をイエス様が覆してくださったのです。「一人の正しい行為」、つまりイエス様の十字架という、死に至るまで神様に完全に従われた御業によって、すべての人の罪が赦され、神様との関係が完全に回復されました。イエス様を信じるすべての人が神様の子とされました。そのことによって、アダムによってもたらされた死の支配が終わり、神様と共にある永遠の道が開かれたのです。実に、信仰によって義とされる、救われるということは、死の支配から解放された。神様と共にある命、永遠の命に生きる者とされたということなのです。
 この永遠の命について、随分前に読んだものですが、ある牧師がこのように語っていたことを印象深く覚えています。それは、「肉体の死をもっても終わらない命。永遠の命。人はそんなものは信じないという。そんなものがあるはずがないという。しかし、人は本当は、そんなものがあったらどんなに良いことか、それがあったら良いな、あって欲しい。そう思っているのではないか。聖書は、それがあると告げます。そして、あなたはそれを受けることが出来る。その道がある。イエス様を信じれば良い。それだけで良い。」本当にそうだと思いました。本当にそんなものがあったら良いのにと思うのであれば、難しいことではありません。イエス様を信じれば良いのです。

5.アダムはキリストの雛形
 アダムによって罪と死がもたらされ、イエス・キリストによって救いと永遠の命がもたらされました。アダムとイエス様は正反対です。しかし、14節bでパウロは、「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」と告げています。「来たるべき方」とはイエス様のことです。「前もって表す者」とは、鋳型に金属を流し込むと同じものが出来ますが、その鋳型の「型」という意味の言葉です。口語訳聖書では「きたるべき者の型である」と訳されておりました。確かに、アダムとイエス様は全く反対のものを人類にもたらしました。その意味では、アダムとイエス様は正反対です。しかし、一人からすべての人間が誕生してくるという意味では、両者は全く同じです。
 アダムの子孫であるすべての人間は、生まれながらにして神様に敵対し、自分を中心にしてしか考えることも生きることも出来ません。それ故、死という罪の裁きを逃れることが出来ません。例外はありません。しかし、イエス様の贖いの十字架を信じ、イエス様を「わが主、わが神」と告白する者は、イエス様と一つに結ばれ、一切の罪を赦され、神の子として受け入れられ、神様との関係が回復されます。それ故、復活の命に与る。イエス様から、全く新しい人類が始まったのです。パウロは別の手紙において、イエス様を「最後のアダム」或いは「第二のアダム」(コリントの信徒への手紙一15章45~48節)と言っているのはそういうことです。第二のアダムによって生まれた新しい人、それが肉体の死によって終わらない、永遠の命に生きる人。イエス様と繋がり、神様と繋がり、永遠の命に与る人です。それが「信仰によって義とされた者」である私共キリスト者なのです。
 この地上にあっては、アダムの子孫が罪の中であろうと普通に生きているように、イエス様によって新しくされて永遠の命を与えられた者も普通に生きています。見た目で両者の違いを見つけることは出来ません。どんな精密検査をしても、その違いは分かりません。しかし、神様から見れば全く違います。そして、敢えて言えば、その唇に祈りと賛美があるかどうか、或いはその心に決して失われることのない希望があるかどうか、神様・イエス様への愛があるかどうか、そういう違いがありましょう。しかし、それは他の人が判断することではありませんし、出来るものでもありません。しかし、イエス様が来られるとき、それは明らかになります。私共は、その日に向かって歩んでいるわけです。

6.恵みは罪を凌駕する
 パウロはこうも告げます。15節a「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。」確かに、アダムの子孫であるすべての人間は罪人であり、死に支配されています。しかし、イエス様によって与えられた救いの賜物、恵みの賜物は罪とは比較にならない、と言うのです。比較にならないというのは、比べものにならないほどに素晴らしく、大きく、強力だということです。新聞やテレビのニュースを見ますと、毎日、心を痛める悲惨な状況が報道されます。人間の罪は現実的な悲惨を生み続けています。内戦が世界中で起きています。命と自由を脅かされている者たちが沢山います。人間の罪の力が世界を覆っているように見えます。しかし、そうではないと聖書は告げるのです。
 人間が例外なく罪人であるということは、本当のことです。私共も罪人です。しかし、イエス様によって与えられる救いの恵みは、私共の罪の現実を圧倒するのです。人間の罪が神様の恵みより大きく、強く、力があるのでは断じてありません。神様の恵みの方が、比べものにならないほどに力があり、素晴らしく、人間の罪を圧倒するのです。私共は自らの罪を知っています。しかし、私共は最早それに支配されてはいません。これと戦い、神様に従う者とされました。辛いとき、苦しいとき、サタンは私共の心に「信仰なんて意味がない。やめてしまえ。祈って何になる。何も状況は変わらないではないか。神様の愛なんて嘘っぱちだ。」そう囁きかけます。しかし、その時私共ははっきりこう告げなければなりません。「サタンよ、引き下がれ。もうお前の時代は終わった。イエス様は復活された。お前の勝利はどこにある。私はイエス様のものだ。神の子だ。引き下がれ。」罪と死に対して勝利されたイエス様の復活の御力が、神様の救いの恵みが、私共を捕らえて離さないのです。罪を凌駕し、神様の恵みが私共を捕らえ、命の祝福を注ぎ続けてくださいます。

7.悔い改めと反省
私共が自分の中にある罪や愚かさや不信仰にばかり目を向けていますと、このことがよく分かりません。私共は悔い改めるわけですが、これは暗い自分の心の中を覗き込むのではなくて、復活のイエス様の光を浴びて、その光の中で為されるものです。悔い改めと反省の決定的な違いはここにあります。反省は、どこまでも自分で自分を見つめ、判断し、変わっていこうとすることです。大抵これは不徹底になります。私共は自分には甘い者だからです。しかし悔い改めは、自分を見つめるところから始まるのではありません。圧倒的なイエス様の救いの恵みの中で、救いの光に照らされて、神様に愛され赦された者として神様の御前に出る。そして、そこで初めて私共は言い訳することなく、自らの罪を正直に認めることが出来ますし、神様に新しくしてくださいと祈ることが出来るのです。そう、悔い改めは祈りです。反省は祈りにはなりません。自らの罪に気付いて悔い改めたら、神様の救いの恵みに与るというのでもありません。圧倒的なイエス様の救いの恵み。一切の罪を赦していただき、神様の子としていただいている恵みの中で、私共は神様の御前に初めて出ることが出来ますし、自らの罪を正直に認め、赦しを求め、新しくされるのです。何度も申し上げます。神様の恵みは、私共の罪をはるかに凌駕しているのです。もう、罪の支配、死の支配は終わったのです。

8.永遠の命へ
 そのことをパウロは、今朝与えられた御言葉の最後でこう告げます。21節です。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」イエス様の十字架・復活によって、私共はただ信仰によって義とされた。神様に救われ、神様との親しい交わりに生きる者とされました。この恵みの事実が私共を支配し、永遠の命へと私共を導き続けるのです。罪が死によって私共を支配する時代は、もう終わったのです。確かに、罪と死はこの世界において未だに我が物顔で闊歩しています。イエス様を知らない者たちは、今もその力に支配され、脅えています。「しかし、今や」です。私共は違います。神様の恵みの御支配が私共を包んでいます。神様の救いの御支配の中に私共は既に生きています。そして、この恵みの御支配は、肉体の死によっても終わることはありません。イエス様の復活によって示された神様の恵みは、肉体の死を打ち破り、圧倒し、私共を永遠の命へと導くものだからです。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝あなた様は、御言葉によって、私共が主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みの中に生かされていることを教えてくださいました。罪も死も、最早私共を支配することは出来ません。私共はあなた様のものです。あなた様の子であり、あなた様の僕です。どうか、私共がイエス様の救いの恵みの御支配の中、この一週も健やかに御国に向かって歩んで行くことが出来ますよう、導いてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年9月19日]