1.はじめに
今日は9月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。前回の8月の時も申し上げましたが、17~21章には士師は出てきません。士師が出てくるのは16章のサムソンの話までです。17~21章には、こんなことが神の民においてあっても良いのかと思うような出来事が記されています。17~18章はダン族のひどい話ですし、19~21章はベニヤミン族のひどい話です。正直なところ、読んでいて憂鬱になるような出来事が記されています。聖書を読んで憂鬱になってしまってはいけないのですけれど、読んで楽しい所ではありません。前回見ましたダン族のひどい話というのは、ダン族が偶像を拝む者になってしまった経緯の話でした。では19~21章のベニヤミン族を巡る話はどうかといいますと、もっとひどい話です。一人の女性が集団レイプされて殺されるという事件が発端です。そして、それがもとで、ベニヤミン族と他のイスラエルの全部族との間で内戦になったという話です。
そもそも、どうして士師記に、士師の出てこない17~21章があるのか。ここは士師記の付録のようなものだという人もいます。しかし、付録にしては全体の4分の1もの分量があり、長すぎるように思います。私は、目をそむけたくなるような記事が記されているこの部分は、士師記の中で繰り返し出てきた言葉、「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。」と言われていることがどういうことなのか、それを具体的な出来事をもって示しているのではないかと思います。17~18章に記されていたのは、ダン族が偶像礼拝をするようになったということでした。では19~21章で記されていることは何か。それは「性的不品行」です。具体的には集団レイプ殺人です。しかも、それだけでは終わりませんでした。ベニヤミン族と他のイスラエルの全部族との全面戦争へと発展してしまうのです。何万人もの人たちが命を落とします。モーセに率いられて出エジプトしたイスラエルの民は、シナイ山で神様と契約を結び、十戒をもらいました。これに従って生きるのが神の民であるはずでした。しかし、モーセの後を継いだヨシュアによってヨルダン川を渡って約束の地に入ったイスラエルでしたけれど、神様の言葉に従って生きる民には中々なれなかった。それが士師の時代の実態であったということが実例を挙げて示されているわけです。もっとも、士師の時代の後、王が立てられて王国時代となるわけですが、聖書でいえばサムエル記・列王記の時代ですが、その時代になっても「主の目に悪とされることを行う」ということがなくなったわけではありません。それどころか、サムエル記にも列王記にも、この言葉が繰り返し出てきます。士師記はこの17~21章で神の民の現実を記すことによって、「これで良いのか?」「あなたたちはどうなのか?」そのように私共に問いかけているのではないかと思います。私は「聖書のリアリズム」という言葉を使いますが、聖書は、人間の罪、神の民の罪というものに対して決して目をそむけません。私共は自分の罪に対して甘いと言いますか、ぬるいと言いますか、他人には厳しいけれど自分のこととなると気が付かないというところがあります。しかし聖書は、人間の罪、神の民の罪をしっかり見て、記します。そして、「あなたはどうか?」と問うのです。今朝は、この聖書の問いをしっかり受け止めたいと思います。
2.集団レイプ事件
今日読みました聖書の箇所は士師記20章12~16節ですが、ここだけ読んでも分かりません。ここは、19~21章にわたる長いエピソードの一部分だからです。ただ、19~21章全部を読みますとそれだけで説教の時間が無くなってしまいますので、一部だけを読みました。
19章から始まる話は、こういうものです。エフライムの山地に一人のレビがいました。この人に側女がおりました。この時代の側女というものは倫理的には特に問題はありません。この側女が実家のベツレヘムに帰ってしまいます。理由はよく分かりませんけれど、聖書には「側女は主人を裏切り」とありますから、この側女が性的不品行をしてしまったのかもしれません。ベツレヘムはエフライムの山地から30kmくらい南にくだったところにあります。富山市と細入村くらいの距離でしょうか。このレビ人は、側女の実家があるベツレヘムまで迎えに行きます。実家ではこのレビ人は大変歓迎され、4日間も歓待されます。でも、5日目にはさすがに出発しようと思ったのですが、なおも引き止められ、食事もし、ベツレヘムの側女の実家を出るのは午後になってしまいました。家路についてしばらくすると日が傾いてきます。エルサレムの近くまで来たところで、どこかに泊まらなくてはならなくなりました。しかし、エルサレムはまだエブス人の町でした。エルサレムがイスラエルの町になるのはダビデの時代です。エルサレムはイスラエルの民の町ではないので、もう少し先のギブアまで行って、そこに泊まることにしました。ギブアはベニヤミン族の町でした。
当時は宿屋なんてありませんから、旅人を泊めることは社会的に当然のマナーでした。まして同じイスラエルの民です。ところが、一行がギブアの町の広場に腰を下ろしていても、誰も声を掛けてきません。夕暮れになってやっと、畑仕事帰りの一人の老人が声をかけてきました。彼はベニヤミン族の人ではなく、エフライムの山地から来ていた人でした。彼はレビ人と側女と若者の一行を家に迎え、泊めました。その日の夜のことです。ならず者たちがその家を囲み、戸を叩いて、「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい。」と言うではありませんか。これが、ただ他所から来た人が珍しくて、土産話を聞きたいというのならば何の問題もありません。しかし、この「知りたい」と訳されている言葉は、「性的関係を持ちたい」という意味の言葉です。この家の主人は、そんなことに同意することなど出来るはずもありません。困り果て、悩んだ末に、「ここに自分の娘と、このレビ人の側女がいる。この二人を連れ出すから、思いどおりにするがよい。しかし、あの人には非道なふるまいをしてはならない。」と言います。しかし、ならず者たちはそれに耳を貸そうとはしませんでした。そして、遂にレビ人は自分の側女を外に出しました。次の日の朝、側女は何とか主人のいる家にたどり着きますが、その入り口で息絶えます。集団レイプの犠牲となったのです。この出来事を聞いて、どこかで聞いた話だと思われた方も多いでしょう。創世記19章に記されている出来事そっくりです。神の二人の使いがアブラハムの甥ロトのところに泊まった時に、同じことがありました。この時は神の使いでしたから、ロトの家族に被害はありませんでした。その出来事があった町の名が、悪名高いソドムです。ソドムは神様によって滅ぼされました。このことは、ベニヤミン族の町ギブアがソドムと同じような状態になっていた、神様に滅ばされても仕方がないような町になってしまっていたということを示しているのでしょう。
このレビ人は側女の遺体をろばに乗せて、エフライムの山地の自分の家に帰りました。そして、彼はその遺体を十二の部分に切り分け、それをイスラエルの十二部族に送りつけたのです。ここまでが19章です。当然、送るに際して、この肉片がなんなのか、どうしてこうなったのかを説明したはずです。「神の民の中で、こんなことがあっても良いのか。」と、このレビ人は全イスラエルに訴えたのです。これを受け取ったイスラエルの全部族は、ベニヤミン族を除いてすべてミツパに集まりました。その時に剣を携えた歩兵は40万人であったと聖書は告げます。このレビ人は集まった人々を前に、ギブアの町で一体何があったのかを語ります。そして、それを聞いたイスラエルの人々は、ギブアに攻め上るということで一致しました。全イスラエルはベニヤミン族に対して、ギブアで行われた犯行を告げ、ギブアでこのおぞましい犯罪を犯した犯人を引き渡すように告げます。この時にギブアでのおぞましい犯罪を犯した犯罪者たちを引き渡していれば、事はここで済んだでしょう。ところが、ベニヤミン族の人たちは全イスラエルからの申し出を退けます。それどころか、ベニヤミン族の他の町々からギブアに兵が集まり、イスラエルと戦おうとしたのです。
3.私共への問い
どうしてベニヤミン族はギブアの町の犯罪者を引き渡さなかったのでしょうか。理由はよく分かりません。ただ、この出来事を記し始めた19章1節は、「イスラエルに王がいなかったころ」という書き出しで始まっています。つまり、こういうことになってしまったのは王がいなかったからだ、と暗に示しているのでしょう。王がいないので、イスラエル全体に対しての統制が取れない。それぞれの部族は、内政干渉は許さないとばかりに身内をかばう。元々、部族というものはそういう機能を持っていました。イスラエルが部族連合という形である限り、この部族の壁を越えて一致することは難しい。確かに、外敵が来たときには士師が立てられ、そのもとで一致して外敵に立ち向かいます。けれど、それ以外の時は、それぞれの部族は独立性を維持して機能していました。
しかし、ここで問題になっているのは集団レイプ殺人という、社会的にも、そして神様の御前においても、全く言い逃れ出来ない大きな犯罪です。神の民として、このようなことを野放しにしておくことは出来ません。このレビ人や全イスラエルが取った行動は間違っていなかったと思います。犯人を引き渡してもらい、全イスラエルが一致して処罰する。神の民において、あってはならないことだからです。そうでなければ、神の民が神の民としての独自性を喪失してしまうことになるからです。神の民としての独自性の喪失ということが、ここでは性的不品行というあり方ではっきり現れました。
ここで私共は、「あなたたちはどうなのか?」と聖書から問われています。現代の日本における倫理と神の民である教会が同じレベルであったならば、それは神様の御心を証しするために立てられている神の民として、教会またキリスト者はその責任を果たしていないということになりましょう。私共は21世紀の日本で生きているわけですから、自然とこの現代日本における常識や当たり前というものに影響を受けます。50年前は自家用車は贅沢だったかもしれませんけれど、今、富山で自動車がなければ買い物にも行けません。そういうことは、どんどん変わっていきます。しかし、神様の御前に生きるその真摯さにおいては、神無き世界に毒されてはなりません。性倫理とはそういうものです。十戒によって「あなたは姦淫してはならない」と明示されているからです。
17~18章において示された罪は偶像礼拝でした。そして、19~21章で告げられている罪は性的不品行・姦淫ということでした。実は、偶像礼拝と姦淫とは、へブル語では全く同じ言葉です。この二つは神様が最も忌み嫌うものなのです。しかし、この二つは私共の心の奥に潜んでいる欲と連動していますから、神の民にとって時代を超えて自分たちを誘惑するものであることをよく弁えていなければなりません。しかし、そう考えてみますと、事の発端であったこの集団レイプ殺人事件は、「神様の御前に立つ」あるいは「神様と共に生きる」ということが分からなくなった結果起きたことなのです。
4.イスラエルの内戦
さて、ベニヤミン族は全イスラエルを相手にギブアに集結して戦うことになってしまいます。ベニヤミンの兵力は2万6千人とギブアの選りすぐりの兵士700人でした。対するイスラエルの兵力は40万人です。数の上では圧倒的に全イスラエルが有利でした。しかし、一日目はイスラエルの2万2千人の兵が打ち倒されます。そして、二日目には1万8千人が打ち倒されます。合わせて4万人です。ベニヤミン族の勝利に見えました。しかし、三日目に「主はベニヤミン族を撃たれ」、2万5千100人が滅ぼされました。ベニヤミン族は敗北しました。更にイスラエルはギブアの町を襲い、掃討戦も行い、2万5千人が殺されました。つまり、イスラエル側4万人、ベニヤミン側5万人が戦死したことになります。先ほどベニヤミン族の兵士の数は2万6千700人と言いました。ということは、2万数千人の「兵士以外の人たち」、女・子ども・老人が殺されたということです。ひどい話です。本当にひどい。どうして神の民同士が戦い、このようにおびただしい人々が命を落とさなければならなかったのか。ただただ、「何ということか」と思わざるを得ません。更に21章において悲惨な結末が記されていますが、今日はそこには触れません。いずれせよ、一人の女性を集団レイプして死に至らせる。その罪が更に大きな、罪に満ちた悲惨な現実を生み、人々を巻き込んでいったのです。
犯された罪は、悔い改められなければ、処分されなければ、それだけで終わることはなく、更に大きな罪を生み出していくということでしょう。罪というものは雪だるまのように、どんどん大きな罪を生み、多くの人々を巻き込んでいく。それは神の民とて例外ではないということです。
5.コリントの教会
先ほどコリントの信徒への手紙一の3章1節以下ををお読みいたしました。生まれたばかりのキリストの教会であったコリントの教会において、幾つものグループが出来て互いに対立するという現実がありました。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」と言って対立していたというのです。パウロはコリントの教会の最初の伝道者であり、アポロは次に来た伝道者ではなかったかと考えられています。このようなことは、伝道者が替わるときに大なり小なり、どの教会でも起きることです。自分に洗礼を授けてくれた牧師、自分を指導してくれた牧師は、誰にとっても特別だからです。この思いを否定することは出来ません。しかしそれと、アポロにつく、パウロにつくというのは、全く別な話です。
パウロは、5~6節「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」と言って、誰につくとか言うこと自体が愚かなことだ、間違っていると諭します。「パウロにしても、アポロにしても、ただ神様の御業の中で用いられているだけなのだから、神様だけが誉め讃えられるのでなけば、神の民としての教会は立っていくことは出来ない。共に神様の御前に立とう。」そう諭したのです。きっと、放っておけばコリントの教会は、生まれたばかりなのに四分五裂していったのではないでしょうか。神の民も教会も罪人の集まりですから、見るところを間違ってしまえば、我を張り、ぶつかり、争うということだって起きてしまう。パウロは、見るところが違うと言うのです。パウロでもアポロでもない。ただ神様です。ただイエス様です。それ以外に私共が見上げるべき方はいませんし、全く正しいお方はこの方しかいません。
6.自分の目に正しいとすることを行っていた
士師記は、21章25節「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」という言葉で閉じられています。ベニヤミン族は、ギブアの町のならず者を部族を挙げて守り、全イスラエルと戦うまでに至りました。そして、ベニヤミン族と全イスラエル合わせて9万人もの人々が命を落とした。これは本当に馬鹿馬鹿しいほどに愚かなことであり、痛ましいことです。この時、全イスラエルを敵に回しても戦うと決めたベニヤミン族は、「自分たちは正しい」と思っていたはずです。自分たちの部族の者を守る。それが彼らの正義でした。神様の御前に正しいかどうかではなく、自分たちの部族の者は全力で守る。命を賭けて守る。それが部族の正義であり、部族の役割だと信じていたのです。その正義を信じていなければ、何万もの人々の血が流されることへ突入することなど出来るはずもありません。イスラエルもそうです。自分たちには正義があると信じていた。だから、制裁するために40万もの兵士が集まったのです。確かに、神の民として、あってはならないことをしたのは、ギブアの町のならず者たちでした。しかし、ベニヤミン族との全面戦争に至る前に、40万の兵力をもってベニヤミン族を威圧するのではなくて、共に神様の御前に立って、御心に適う道を神様に問うて、共に道を選ぶということが出来なかったのでしょうか。お互い神の民なのですから。これが出来なければ、神の民とは何なのでしょう。神様の御心を尋ね求め、神様の言葉に従う。それが神の民の歩みです。神様を見失い、自分の正義を振りかざすことの愚かさと悲惨さとがここにあります。「自分の目に正しいとすることを行う」ことの過ちが、ここにはっきり現れています。
箴言12章15節に「無知な者は自分の道を正しいと見なす。」とあります。「無知な者」とは、神様を知らず、神様の御前に立って自分を見ることを知らない人です。しかし、私共は神様を知っている。否、神様に知られています。ですから、自分の道を正しいと言い張る愚かさからも解き放たれているのです。全く正しいのは神様だけだからです。私共は神様の御前に立って、ただ「主よ、憐れんでください。」と祈るばかりです。そして、そのような者を神様は義と認めてくださり、赦してくださり、救ってくださいます。ありがたいことです。
お祈りいたします。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝あなた様は御言葉を通して、神の民も、ただあなた様に聞き従うということを見失ってしまえば、対立し、戦い、愚かな歩みをし、悲惨な現実を生み出してしまうことを教えられました。すべてを知り、全く正しいお方はあなた様しかおられません。ですから、自らの正しさから自由にされ、あなた様の御前に立って、あなた様の憐れみを請い願いつつ歩ませてください。私共を、互いに愛し合い、支え合い、仕え合いつつ、御国に向かって健やかに歩んで行く群れであらしめてください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2021年9月26日]