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礼拝説教

「恵みの下にある者の命」
イザヤ書 25章6~10a節
ローマの信徒への手紙 6章8~14節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を読み進めています。先週は6章1節以下の御言葉から、洗礼によってキリストと一つにされた私共は、十字架のキリストと一つにされ、復活のキリストと一つにされた。罪人としての私共は十字架のキリストと共に死に、今や復活のキリストと共に復活の命・新しい命に生き始めている。私共は最早、罪の奴隷ではない。罪の支配の下にはなく、神様の御支配、キリストの御支配の中に生きている。そう御言葉を与えられました。今朝与えられている御言葉は、その続きです。キリストと一つにされた私共は、どのように生きるのかということが記されています。

2.キリスト者という自己認識
 パウロは11節で「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と告げます。これは、福音によって救われ、洗礼によってキリストと一つにされた者は、自分をこのような者としてして考えなさいと言っているわけです。この「考えなさい」と訳されている言葉は、口語訳では「認むべきである」と訳されておりました。また、新改訳では「思いなさい」と訳されています。要するに、自分をどのような者として認識するのかということです。自分をどういう者だと認識するか、これは私共の生き方、考え方の根本に関わることです。勿論、自分をどのような者として認識するのかということは、自分たちが生きている状況や、環境や教育によって大きく変わってくることでしょう。しかし、キリスト者は、「自分はキリスト者である」という自己認識が、何にも優先されます。私共は、日本人であるとか、会社員であるとか、教師であるとか、学生であるとか、あるいは父であるとか、母であるとか、逆に誰々の子どもであるといった、様々な自己認識を持っているわけです。けれど、それらのすべてに優先して、私共は何よりもまず「キリスト者である」ということです。
 私は夫であり、父であり、富山鹿島町教会の牧師です。これらが私の言動に大きく影響していることは間違いありません。しかし、私は夫であり、父であり、富山鹿島町教会の牧師である前にキリスト者です。キリスト者として生きている、生かされている。その神様の救いの御業の中で、夫であり、父であり、富山鹿島町教会の牧師であるわけです。夫であり、父であり、富山鹿島町教会の牧師であるということと、キリスト者であるということは、対立したり矛盾していると感じることはほとんどありません。これは大変ありがたいことです。皆さんも、自分は何者であるかと言った場合、色々なことがあると思います。しかし、その大前提として、「自分はキリスト者である」ということがある。これはとても大切なことです。私共がキリスト者であるということは、私共の存在の一番深いところ、すべての根底を支えている自己認識なのです。
 何かを決める時、私共は神様の御前で何が御心に適うのかを考え、決断する者とされているということです。色々考えて、中々結論が出ない。どうすれば良いのか分からない。そういうこともありましょう。いつでも「このように道を選ぶことがキリスト者として相応しい。」というわけではありません。祈っても分からない。そういう時は、神様の憐れみを信じて、祈って、右でも左でも道が開かれた方に行けば良いのです。サイコロを振って、こっちにするだって良いのです。こっちと決めたら、そこに神様の道が備えられていると信じて歩んで行けば良いのです。こっちじゃなければ御心に適わないということは、明らかな罪を犯す場合でもなければ、そうそうありません。ですけれど、キリスト者として御心を問うこと、御心を信じて委ねることは、とっても大切なことです。

  3.新しい自己認識
さて、「自分はキリスト者である」という自己認識は、今朝の御言葉で言えば「キリストにあって自分は罪に対して死んだ。そして、キリストにあって神に対して生きている者だ。」ということです。自分をそのような者として受け止める、そのような者として認識する、そのような者として考えるということです。これは、神様がそのような者として私共を見てくださっていることを信じるのだと言っても良いでしょう。これは、私の心の中を覗いて見たら「そうだった」ということではありません。聖書が、そのような者として自分という者を受け止めなさいと言っているわけです。信仰によって救われた者として神様に与えられた、新しい自己認識です。
 「罪に対して死んだ」ということは、罪に支配されていた私は死んだ、罪の奴隷であった私は死んだということです。最早、私共は罪に支配されない、罪の奴隷ではない私が生きているということです。確かに、私共は罪人です。しかし、それがすべてではありませんし、それが聖書が告げる結論でもありません。肉体を持っている私共は、罪の誘惑から逃れることは出来ません。罪の誘惑はいつも私共を襲います。そして、私共はそれに負けてしまうこともありましょう。それは事実です。腹も立ちますし、怒りがこみ上げてくる時だってあります。特に、この口は罪を犯すものです。しかし、そこにばかり思いを向けていてはいけません。私共は「罪に対して死んだ」のですから。
 聖書は、私共は「キリストにあって神に対して生きている」と告げています。これは、私共が神に対して、神様に向かって、神様の御前で、神様と共に、神様に従って生きる者となっているということです。神様に愛されている、神様の子どもとされている、神様の僕とされているということです。それが信仰によって、イエス様の恵みによって、私共に与えられた新しい私です。ただの罪人は、神様に対して生きることはしませんし、出来ません。そんなことは考えたこともありません。罪の奴隷だからです。しかし、私共はそうではなくなりました。キリストと結ばれたからです。

4.肉の欲との戦い
 パウロは、キリスト者は、神に対して生きている私共は、罪を犯さなくなったなどとは言っていません。それどころか、はっきりと「体の欲望に従うな」「五体を不義のための道具としてはならない」と告げています。「体の欲望」や「不義の道具」というのが具体的に何を指しているのか、色々な説はありますけれど、性的な不品行を含んでいることは間違いありません。しかし、それに限定出来るものではないでしょう。色々な「欲」が私共にはあり、その欲に引きずられてしまうということは、誰もが日常的に経験していることです。
 仏教には五欲という言葉あります。五欲とは食欲・財欲・色欲・名誉欲・睡眠欲の五つだそうです。確かに、このような欲は誰にでもあります。「食欲」とは、食べたい、飲みたいという欲。「財欲」とは、お金が欲しい、車が欲しい、服が欲しい、家が欲しいといった物欲。「色欲」とは、男性なら女性が欲しい、女性なら男性が欲しい、異性とは限らないのでしょうけれど、いわゆる性欲です。「名誉欲」とは、人からほめられたい、認められたいという欲です。「睡眠欲」というのは、寝ていたい、楽をしたい、という欲です。この五欲をなくせということではありません。この欲をすべてなくしたら、人間は生命として生きていくことは出来ません。食欲が全くなくなったら大変です。睡眠欲もなくなってしまったら病気になるでしょう。そうではなくて、聖書はこの欲に引きずられ、神様の御心に反するようなことをしてはならないと言っているわけです。この五欲は神様が与えてくださった、健やかに生きていくために必要なものです。しかし、これに引きずられて神様を忘れては、本末転倒です。食欲に引きずられアルコール依存症になってしまってはならないでしょう。財欲に引きずられて、人の物に手を出してはいけません。色欲に引きずられて夫婦の関係を裏切ってはなりません。名誉欲に駆られて、他の人を貶めてはなりません。睡眠欲に駆られて、自堕落な生活は良くないでしょう。何度も申し上げますが、健全な欲は必要なものです。若い時、色欲・性欲と戦うことは本当に大変なことでした。そして、年を重ねて、今、大変だと思うのは「名誉欲」というものです。若い時は、これがそんなに厄介な欲だとは思いませんでした。気付かなかったんですね。人からほめられたい、認められたいという欲は、その思いが傷つけられた時に周りを巻き込んで大変な爆発をする。でも、本人は気付きません。本当に厄介です。そして、このような経験は誰にでもある、中々厄介なものです。
 しかし、サタンはこの欲を刺激し、これを暴走させ、私共に罪を犯させるのです。それが十戒違反という形で現れるわけです。愛の交わりを壊し、神様の御心を傷つける。私共は、そのことをよく弁えて、神様が与えてくださったこの体を罪に任せないようにしなければなりません。そこで、信仰の戦いというものが、どうしても必要になります。この戦いがないような信仰の歩みなどありません。その戦いは血肉によるものではなく、つまり人間が相手ではなく、悪しき霊に対するものです。私共はこのことをよく弁えていなければなりません。パウロはこのことをよくよく知っていました。何故なら、彼は真剣に神様に従おうとしたからです。神様に真剣に従おうとする時、私共は必ずこのような罪の誘惑を経験することになります。サタンが放っておかないのです。

5.献身 
 パウロはこの戦いについて、自分の罪を見つめて、誘惑に負けないようにしようと言っているのではありません。罪を見つめるのではなくて、私を救ってくださった神様を見つめて歩むことによって、その誘惑に陥らないようにと言っています。それが、我が身を神様に献げて生きる、すなわち献身の歩みです。13節b「かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」神様の憐れみによって、罪の奴隷である私は死んで、キリストの復活の命に生き始めた私共は、自分自身を神様に献げて生きる。献身という新しい生き方へと招かれている。罪との戦いは、罪をいつも意識して戦うというのではなくて、献身の歩みの中で罪の誘惑を退けていくということなのでしょう。
 「献げる」という生き方。これは全く新しい生き方です。私はイエス様に出会って、救いに与るまで、そのような生き方があるということを知りませんでした。私は何か自分が手に入れたい目標を定め、それに向かって努力するということは知っていました。というか、それしか知りませんでした。それが手に入れば成功、それが手に入らなければ失敗。しかし、イエス様の救いに与り、何かを手に入れるということが私の生きる目的ではないことを知りました。勿論、一生懸命励んだ結果、与えられるということはあるでしょう。それは感謝して受け取れば良いのです。しかし、それは目的ではありません。そうではなくて、「献げて生きる」ということが、自分が生かされた意味なのだということを知りました。勿論、神様に献げるわけですけれど、実際に目に見える所では隣人であったり、友人だったり、家族だったり、その方々に自分の時間と労力と能力を献げていくわけです。それは大変美しいものです。勿論、面倒くさかったり、しんどかったりもしますけれど、「自分は献身者だ。」という自覚を持つ時、それが耐えられます。そして、その労苦が意味あるものであり、無駄ではないことを知るわけです。
 牧師や伝道者を私共は献身者と呼びますけれど、本来、すべてのキリスト者は献身者なのです。献身者の生活というものは、少しも堅苦しいものではありません。それぞれ神様によって遣わされている場は違いますし、委ねられている務めも違います。しかし、どこで、何に携わろうと、キリスト者は献身者として生きる。それがイエス様の救いに与った者に与えられた新しい歩みです。自分のため、家族のため、地域のため、会社のため、私共は色々なことをするわけですけれど、その根底にあり、それを貫いているのは「自分自身を神様に献げる」、「神様の義の道具として神様に献げる」という献身者としての歩みです。神様の御業に仕えるという歩みです。
 これは少しも難しいことではありませんし、ややこしいことでもありません。母として父として子どもを育てる。その時私共は、この子を神様から与えられた命として、神様の御心に従って育む。神様を愛し、神様に仕え、人を愛し、人に仕える者として育んでいく。そのための日常的な、ご飯を作り、洗濯をし、仕事をすることが、献身者としての歩みだということです。教会の奉仕をする時やボランティアをしている時が献身者であって、それ以外の時は献身者ではないというようなことではありません。神様の御心を求めて、祈りつつ、為すべき務めに励んでいる日々が、献身者としての歩みなのです。それぞれが、与えられた場において、神様の御心を求めて歩む。それが献身者としての歩みになるのです。夫の食事を作ることだって、立派な献身者としての務めです。勿論、教会での奉仕もまた、献身の歩みであるに違いありません。しかし、献身ということをそこに限定してしまいますと、私共の歩みそのものが献身であるということが見えなくなってしまいます。そうすると、高齢になって様々な奉仕が出来なくなってくると、「自分は何のお役にも立たなくて、すみません。」というような言葉が出てきてしまうことになってしまう。全くそんなことはありません。私はいつも、「礼拝に集うこと自体が、最も大切な献身の業です。私のためにお祈りしてください。教会のためにお祈りしてください。それは本当に大切な献身の業です。」そう答えています。
 牧師になり立ての頃は、献身者として歩むということが良く分かっていなかったところがあります。献身者は神様にすべて献げたのだから、遊びなんてしてはいけない、まして趣味なんていうものは牧師は持たないのだ。本気でそう思っていたところがあります。しかし、10年ほどしてからでしょうか、献身の日々とはそういうことではないと気がつきました。私は何をしている時も、遊んでいる時も牧師なのであって、献身者であることをやめて遊んでいるわけではない。健全な遊びは、とても大切です。それで釣りを始めました。教会学校の子どもたちを連れて、防波堤に釣りに行ったこともありました。釣りの師匠の息子さんの結婚式の司式を私がして、お孫さんが教会に来られるようになり、お母さんである師匠の息子のお嫁さんが洗礼を受けました。私が富山に来てからのことです。うれしかったです。富山に来てからは釣りに行くこともなくなり、竿やリールはもう錆びてしまいました。でも、富山に来てからは、温泉に行く楽しみが出来ました。温泉に浸かっている時も、私は献身者です。

6.恵みの下に生きる
 パウロは、キリストの救いの御業によって救われた者は、「律法の下(もと)にはいない。恵みの下にいる。」と言います。律法の下にいた時は、律法を守らなければ救われないと思っていました。だからこれをしなければいけない、あれをしなければダメだ。そう思ってパウロは一生懸命やっていました。ですから、10分の1献金をきちんとした。でも10分の9は自分のものだと思っていたのではないでしょうか。これでは10分の1の献身者ということになってしまいます。しかし、恵みによって救われてパウロは変わりました。10分の10、自分のすべてを献げる幸いを知ったのです。神様のために、喜んで自分自身のすべてを献げた時、神様はすべてを導いてくださり、神様と共なるまことに幸いな歩みへと導かれたのです。
 私は長い間、10分の10の献身ということが良く分かりませんでした。そんなことをしたら、生活がなり立たないではないか。そう思っていました。しかし、献身というものはそもそも10分の10以外のありようはないのです。10分の1の献身なんてありません。何故なら、私共は福音によって丸々全部救われました。私という存在が、全部神様のものとなりました。イエス様は十字架において御自身を献げ、神の子羊となられました。神様への献げ物となられた。そのイエス様と一つにされたということは、私共もまた、神様への献げ物となったのです。私共は10分の1だけ救われた。良いことをしている時だけ神様に愛されている。神様の御用をしている時だけ献身者である。そんなことはあり得ません。私共は丸々全部神様に愛され、赦され、神の子とされ、神様のものとされたのです。それは、私の全存在が感謝の献げ物となったということです。それがキリスト者であるということであり、献身者ということなのです。それはまことにありがたく、光栄なことです。もう、自分を満足させるために、人に認められるために生きることから解き放たれたのです。自由なのです。  ただ誤解しないで欲しいのですが、これはあなたの持っているすべてを献げて献金ましょうとか、自分の持っているすべての時間を献げて奉仕しましょうという話ではありません。それは、「もっと、もっと」と人をあおるカルト宗教が言うことです。聖書はそんなことは言っていません。キリスト者には神様に遣わされたそれぞれの場があります。また、神様に与えられたそれぞれの務めがあります。そこで神様の御業の道具として、献身者として歩んで行くのです。恵みの下にあるということは、いつでも、どこででも、何をしていても神様に愛され、赦された者として生きる者とされたということです。喜んで神様に従って、献身者として生きることが出来る者となったということです。私共の献身の歩みは、どこまでも喜びの歩みです。神様との共なる歩みだからです。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、あなた様は御言葉を通して、私共がキリストと一つにされ、最早罪の支配にはないこと、そしてただ喜びと感謝の中で献身者としての歩みへと招かれていることを教えてくださいました。ありがとうございます。自らの欲に引きずられることなく、自らを神様への献げ物として、それぞれの場において、為すべき務めに健やかに、誠実に励んでいくことが出来ますよう、私共を導いてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年10月10日]