日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「聖なる生活」
レビ記 11章44~45節
ローマの信徒への手紙 6章15~19節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 聖書は、私共が救われるのか滅びるのか、白か黒かをはっきり告げます。しかし、日本人の感覚では白でもないし黒でもない。白に近いグレーから黒に近いクレーまで、白でも黒でもないようなことばかりではないか。そのように考えるところがあるかと思います。確かに、この人が善人なのか悪人なのか、そんなことは簡単に分かるはずもありません。私共の知り得ることはまことに断片的ですし、一面的に過ぎないからです。しかし、救われるのか滅びるのか、それは人間が決めることではなくて、神様がお決めになることです。そして、神様は私共人間とは違って、すべてを御存知です。すべてを御存知の上で、白か黒かはっきりお告げになる。その基準は、私共が善人であるか悪人であるかというところにあるのではありません。ただ一点、主イエス・キリストをわが主・わが神と信じるかどうか。イエス様によって与えられた神様の救いの道を受け入れるかどうか、この一点にかかっています。この神様の御心が記されているのが聖書です。ですから、聖書は私共の救いについて、白か黒かをはっきり告げています。

2.奴隷
 今朝与えられている御言葉において、「奴隷」という言葉が7回も出てきます。こんなに短い箇所でこれほど「奴隷」という言葉が用いられているのは、この箇所だけです。イエス様の救いに与る前、私共は「罪の奴隷」でした。しかし今や、イエス様の救いに与り、「神の奴隷」となったと言います。どっちにしても「奴隷」なのか、奴隷は嫌だな、と思う方もおられるでしょう。実際に奴隷を見たことはありませんけれど、奴隷というのは全く自由がない、誇りも喜びも奪われた、とても悲惨な境遇の人、私共はそのように考えていると思います。ですから、私共が奴隷であると言われると、反射的に「嫌だな。」と思うのではないかと思います。勿論、社会の制度としての奴隷は、あってはならないと私も思います。しかし、パウロの時代には奴隷は実際にたくさんいました。ですから、人々が奴隷という言葉に対して否定的な受け止め方をするのは、現代人よりももっと激しかったと思います。しかし、この「奴隷」という言葉は、「罪人の現実」と「救われた者の現実」をイメージするのにとても分かりやすい、本質を言い当てている。そう考えてパウロは敢えてこの言葉を使いました。ですから19節において、「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。」と言っているのでしょう。パウロは、奴隷という言葉を使って、分かりやすく説明しようとしたのです。
 「罪の奴隷」とは、罪に従うしかない、罪に逆らえない、そのようなイエス様の救いに与る前の私共の現実を言っています。一方、「神の奴隷」とは、イエス様の救いに与って、神に従うしかない、神様に従う者とされたキリスト者としての私共の現実を告げています。パウロは、16節cで「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」と告げます。「罪の奴隷」か「神の奴隷」か、どちらかしかないと言うのです。罪の奴隷でも神の奴隷でもない、どっちでもないグレーゾーンはここにはありません。人間の気持ちとしては、どちらでもないということはあるでしょう。しかし、神様から見たならば、これはどちらかしかありません。それはこういうことです。神様の奴隷として神様に仕えない、神様に従わないということは、神様から見れば自分に逆らい、自分に敵対し、自分が与える救いに与ろうとしない者だということです。そして、それこそが「罪の奴隷」であるということです。神様に従わないけれど、罪にも従わない。人間はそんな存在ではあり得ないと言っているわけです。神様に従わないのは、神様に敵対し、罪に従っていることなのだ。だから、「罪の奴隷」なのか「神の奴隷」なのか、どちらかしかない。グレーゾーンはないと言うのです。
 多分、イエス様とまだ出会っていない人は、こう考えていると思います。「自分は罪に従っているわけでもないし、神様に従っているわけでもない。自分は自由だ。」私共もそう思っていました。そして、「どちらかと言えば、善い人だ。」と思っていました。しかし、実際にはどうだったでしょうか。確かに、人と比べれば「そこそこに善い人」だったかもしれません。ここで「そこそこに」ということが大事です。けれども、神様の御前に出て「自分は善い人です。正しい人です。」と胸を張って言える人ではありませんでした。「そこそこに善い人」ですから、すべてを御存知である神様の御前に出れば、犯した罪や過ちが山と出てくる。私共は忘れてしまっていますけれど、神様はすべてを御存知だからです。しかし、そんなことは考えたこともなかった。私共を裁かれる神様の御前に立たなければならないということを知らなかったし、本気で考えることもなかったからです。人と比べてどうのこうのということなど、私共を裁かれる神様の御前では全く意味がありません。神様を知らなかったとき、そんなことも分かりませんでした。ですから、「そこそこに善い人」というところで満足していました。そして、「自分は罪に従っているわけでもないし、神様に従っているわけでもない。自分は自由だ。」と思っていた。しかし、その時の私共の自由とは、「自分の思いのままに生きる」ということでしかありませんでした。この「自分の思いのままに」とは要するに、言葉は良くないかもしれませんけれど、「自分の欲に引きずられて」ということでしかなかったのではないでしょうか。聖書はそれを「罪の奴隷」と言っているわけです。

3.罪の奴隷から神の奴隷
聖書はイエス様の救いに与った、救われたということは、主人が替わったということだと言うのです。「罪の奴隷」から「神の奴隷」となったとはそういうことです。罪の支配から解き放たれ、神様の御支配の中に生きる者となった、神様のものとなった。自分の人生の主人が、自分自身から神様に替わった。洗礼を受けたとは、そういうことです。洗礼を受けた者は、私共には見えませんけれど、神様から見れば一目瞭然です。神様のものであるという印、神様の焼き印が押されている。パウロはこのことをガラテヤの信徒への手紙6章17節で、「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」と言いました。「焼き印」というのは、牛や羊のお尻に所有者の印を焼きゴテで付ける。これは消したりすることは出来ません。これが付いていれば、この羊が誰のものなのか一目瞭然です。私共が神様のものであるということは、人と比べてどうのこうのという話では全くありません。神様が自分のものとしてくださったいうことです。洗礼によってイエス様と一つにされた私共は、神様が独り子イエス様を見るように私共を見てくださり、受け止めてくださるということです。それが救われたということ、神様の子とされたということです。
 とすれば、私共はどう生きるのでしょうか。「ただ信仰によって救われる」と言いますと、何をやっても救われるのなら、いよいよ自分の思いのままに生きて、罪を犯して、悔い改めて救われたら良いのか、という問いが出されます。パウロも15節と1節で同じ問いを出しています。しかし、これは屁理屈です。何故なら、救われたということが、「神様を知らない者」から「神様の御前に生きる者」に変えられたということが、分かっていないからです。神様のものとされたとはそういうことでしょう。ですから、パウロは「決してそうではない。」と答えます。信仰によって救いに与った者は、すでに神の奴隷とされ、神様のものとされたのだから、決してそんな風には歩みはしない。神様の御前に、神様の御心に喜んで従う者として生きる。「罪の奴隷」ということが実際のイエス様に出会う前の私共の日々の営みの有り様を表しているように、「神の奴隷」とは実際の私共の日々の歩み方そのものを示しています。それは、神様とのリアルな交わりの中に生きるということです。神様の御心に喜んで従おうとするということです。そして、それが私たちの具体的な生活を整えていくことになります。

4.伝えられた教えの規範に従って
皆さんは、洗礼を受け、キリスト者となって、何が変わりましたか? そのように問われたら、どう答えるでしょうか。中々答えるのに難しい問いかもしれませんが、主の日の礼拝をきちんと守るようになったとか、お祈りをするようになったとか、初詣に行かなくなったとか、色々あると思います。
 洗礼を受けてキリスト者になる時、必ず準備の時が持たれます。それはパウロの時代も今も同じです。洗礼を受けるとはどういうことなのか。洗礼を受けたならば、どのように生きるのか。勿論、その準備の時にすべてを語り尽くすことは出来ないでしょうけれど、どうしても弁えていなければならないことはきちんと伝えます。それが17節の、「伝えられた教えの規範」と言われているものです。この「伝えられた教えの規範」というものは、キリストの教会の教えとはこういうものですと要約したものであり、倫理の要約も示されていたものではないかと思います。洗礼を受けてキリスト者となる時、それに従って生きるということを確認させられたはずなのです。それが罪の奴隷から神の奴隷へと変えられた者の目に見える変化でした。罪の奴隷でなくなった者、神の奴隷とされた者の具体的な生活が「伝えられた教えの規範」に示されており、これに喜んで従っていくところに、神の奴隷とされたキリスト者の信仰の歩みが形作られていくということです。救われたのだから、もう何をしても良いのだ、そんな風にはならない。勿論、何をしても良いのです。だけれども、キリスト者として相応しい歩みを神様の御前に為していきたいと思う。それがキリスト者です。
 例えば、結婚した者は、夫や妻がいない、そのような者としてはもう生きることは出来ないでしょう。いつでも、どこでも、何をしていても、結婚をしたならば結婚している者として生きるし、子どもが与えられたならば父として、母として生きているわけです。家にいる時だけ、妻や夫、父や母であるということではないでしょう。キリスト者が神の奴隷となったというのは、それと似ています。いつでも、どこでも、何をしていてもキリスト者であるということです。神様に救われた、神の子とされた。だから、神様と共に生きる、御心に従って生きる。それは、いつでも、どこでも、何をしていても変わりません。私共の存在のあり方そのものが、根底から変わってしまったからです。そして、それが具体的な生活のあり方に現れてきます。信仰は心の問題で、日々の生活とは直接関係ないなどという理解は、聖書からは絶対出てきません。私共はいつでも、どこでも、何をしていてもキリスト者です。私共はいつでも、どこでも、何をしていても神様の御言葉に従って生きていく。それは、「あれをしてはいけない。これをしてはいけない。」というようなリストを作って、それに反することがないように生きるということではありません。そうではなくて、何をしていても、神様の御心に従っていこうとするということです。

5.神の奴隷としてのイエス様とパウロ
 私共はここで、神の奴隷となった二人の人を思い浮かべる必要があります。第一に、それは主イエス・キリスト御自身です。イエス様は徹底的に神様の御心に従われました。十字架の死に至るまで従順でした。私共は、イエス様がゲツセマネの園において、苦しみもだえながら、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカによる福音書22章42節)と祈ったことを知っています。そしてイエス様は十字架を担い、ゴルゴタの丘で十字架に架けられました。このことを、パウロはフィリピの信徒への手紙2章6節以下でこう言っています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」ここに、神の奴隷、神の僕とされた者の姿が示されています。ここで「僕の身分になり、人間と同じ者になられました」と訳されております「僕」という言葉ですが、このギリシャ語は、今朝の御言葉の中で繰り返し出てきた「奴隷」という言葉と全く同じです。つまり、イエス様は神の奴隷となって、十字架への道を歩まれたということなのです。神の奴隷・神の僕として生きるとは、このイエス様の御姿に従って生きるということです。洗礼によってキリストと一つにされたということは、このまことの神の御子であるキリストが僕の姿を取られた、その姿と一つにされるということでもあります。
神の奴隷とされたもう一人の人。それはこの手紙を書いたパウロです。パウロの書いた手紙が新約聖書に幾つも残されていますが、その手紙の冒頭で差出人である自分のことを「キリスト・イエスの僕であるパウロ」と言っています。このローマの信徒への手紙でもそうです。今申しましたように、この「僕」という言葉は「奴隷」という言葉です。パウロは「私はキリスト・イエスの奴隷である」と思っていました。そして、彼の告げる「奴隷」という言葉には、喜びと誇りがみなぎっています。彼は「奴隷」という言葉を卑屈な思いで用いていません。私共が「神の奴隷」とされたということも、これと同じです。少しも卑屈でないし、窮屈でもありません。喜びと感謝と誇りをもって、私共は「神の奴隷」「神の僕」という言葉を用いる。私共はパウロと同じように、誇り高き神の奴隷なのです。誇り高き奴隷は、主人の顔に泥を塗るようなことをしようとは思いません。それは御主人様に本当に申し訳ないことだからです。御主人様を愛し、この方と主従の関係を結べたことは嬉しいことであり、誇りです。私共はこのことを心から喜び、感謝し、誇りとしている。以前、私共は罪の奴隷だった。しかし今や、私共は神の奴隷となった。主人が替わった。それは本当に嬉しいことです。そして、私共がこの恵みに与るために、イエス様は十字架にお架かりになってくださった。ですから、私共が「神の奴隷」「神の僕」とされたということは、感謝なしに受け止めることは出来ません。

6.聖なる生活へ
この誇り高き「神の奴隷」「神の僕」が為していく生活が「聖なる生活」です。19節b「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」とパウロは言います。イエス様の救いに与る前、私共は罪の奴隷であり、神様の御心に適わないばかりか、自分の欲に引きずられて不法を為すことに疑問も抱かず生活していたわけです。しかし、今は神様の奴隷とされ、神様の御心に喜んで従う者とされました。ですから、神様を愛し、これに従うためにこの体を用いる。神様に献げられた者として歩む。そこに新しい「聖なる生活」が営まれていくことになります。
 ここで「聖なる生活」ということが意味しているのは、主イエス・キリストに倣っていく歩みであり、主イエス・キリストと一つにされた者として、イエス様を愛し、信頼し、従っていく歩みです。私共が善い人になって「聖なる生活」を為していこうというのとは、少し違います。聖書で「聖なる」という言葉が用いられるのは、神様に対してだけです。「聖なる方」は神様しかおられません。ですから、この「聖なる生活」というのは、聖なる神様とつながっている生活ということです。洗礼によって御子イエス・キリストと一つにされることによって、また聖霊なる神様の導きによって、聖なる神様との交わりの中で形作られていく生活ということです。ですから、あれはしない、これもしない、ということではありません。いつでも、どこでも、何をしていても、神様に愛されている者として、喜びと感謝と誇りを持ってキリスト者として生きる。そこに形作られていく生活が、聖なる生活ということなのです。
 私は、日々の歩みの中でいちいち御心を問うということをしなければいけない、と言っているのではありません。お昼をパンにするのか、うどんにするのか、そばにするのか。そんなことで御心を問う人はいませんし、そんな必要はありません。では、どんな時に、何をすれば御心に適うのか、具体的に良く分からないと思われる方もいるかもしれません。しかし私は、大抵の場合、私共はみんな本当は分かっているのだと思っています。勿論、本当に分からないこともあります。そういう時は、祈って、委ねて決めていくしかないわけです。でも、大抵の場合は、どうするのが神様の御心に適うのか、私共は分かっている。聖霊なる神様の導きというものは、大変具体的で、私共の心に働きかけ、このようにしたら良いと促すのです。皆さんは今朝、その促しに従って、この主の日の礼拝へと集ってきたわけでしょう。しかし、その促しの声に従わない。分かっているけれど、それを無視する。そういうことがあるわけです。聖書を読み、祈り、礼拝に集い続けているならば、聖霊なる神様の促しを誰も受けているはずです。それに従って行けば良いのです。しかし、この促しに従おうとしない自分とは戦わなければなりません。私共は神の僕であり、神様が私共の主人です。主人は僕に、こうしなさいと命じられるのです。御言葉をもって告げるのです。ですから、私共は感謝と喜びと誇りをもって、神様の御言葉に従って歩んで行けば良いのです。勿論、神様の促しが分からずに、こうすることが良いことだと思ってやってしまって、後から間違っていたと思う時もあるでしょう。私もあります。その時には、神様の御前に悔い改めて赦しを願い、そして赦された者として再び歩み出していけば良いのです。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、あなた様は御言葉をもって、私共が神様の奴隷、神の僕であることを教えてくださいました。どうか、私共が喜びと感謝と誇りを持って、あなた様の御声に従って歩んで行くことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きを願います。いつでも、どこでも、何をしていても、あなた様の僕として相応しい歩みを為させてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年10月17日]