1.はじめに
今朝私共は、先に天の父なる神様の御許に召された愛する者たちを覚えて礼拝を捧げています。お手元に召天者の名簿があると思いますが、昨年の召天者記念礼拝から4名の方の名前が加わりました。コロナ禍ということで、葬式は多くが家族葬の形で行われました。その方たちの遺骨は、この後教会の墓地にまいりまして墓前祈祷会を行い、その後に納骨されます。
この名簿にある私共の愛する一人一人の在りし日の姿を思い起こしつつ、私共は礼拝を捧げています。毎週の主の日の礼拝がそうなのですけれど、特にこの召天者記念礼拝においては、私共はこの礼拝というものが、地上の私共と天上の者たちとが一つになって、共に主の御前に集い、御名を誉め讃えているということを思わされます。いつもですと私共は、目の前にいる、ここに共に集っている者たちと礼拝していることしか意識していないことが多いのですけれど、この召天者記念礼拝を迎える度に、私は礼拝というものが天地を貫く営みであることをはっきりと示される思いがいたします。私共はやがてこの地上の生涯を閉じられ、天の父なる神様の御許に召されていきます。そこで私共は何をするのかといえば、神様を礼拝する。神様との全き交わりを与えられて、代々の聖徒たちと共に主を賛美します。この賛美は、地上におけるどんな荘厳な賛美も、これに比べるならばみすぼらしいものでしかないような、まことに壮大で、華麗で、優美なものです。すべての代々の聖徒たちとすべての天使たちによる賛美だからです。
2.神の賜物としての永遠の命
今朝与えられております御言葉において、聖書は「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(23節b)と約束しています。神様が賜物として永遠の命を与えてくださる。この約束を信じて、この地上の生涯を歩む。それがキリスト者です。先に召された敬愛する兄弟姉妹たちは、そのように地上の生涯を歩まれました。「神の賜物」とは、神様が恵みとして与えてくださるものです。何か〇〇をしたら与える、というのではありません。それは「恵みとして」与えられるのではなく、何かをした報いとして受け取る、「報酬として」受け取ることです。しかし、神様が約束してくださっているのは、「永遠の命」をただただ「恵みとして」私共に与えるというものです。
それは、神の独り子であられる主イエス・キリストが、私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになって、私共の身代わりとして私共の一切の罪の裁きをお受けくださったからです。私共はこのイエス様の救いの御業を、ただありがたく感謝して受け取る。ただそれだけで、私共は永遠の命を与えていただく。本当にありがたいことです。このイエス様の十字架の御業を、それによる罪の赦しを、永遠の命を、ただありがたいこととして、感謝して受け取る。それが信仰というものです。信仰によって救われるとは、そういうことです。私共はただ神様の恵みを受け取るだけです。
恵みとして与えられる「永遠の命」というものは、不老不死ということではありません。私共の地上の命は必ず終わりが来ます。しかし、信仰を与えられ、洗礼によってイエス様と一つにされた者は、イエス様が十字架の上で死んで三日目に復活されたその命、復活の命と一つとされたということです。イエス様が十字架の上で死なれたように、私共も一度は死ななければなりません。しかし、イエス様が三日目に復活されたように、私共の命も肉体の死をもって終わることなく、復活することになるのです。更に言えば、この復活の命は死んだ後に与えられるのではなくて、この地上の歩みにおいて既に与えられている。私共は復活の命にすでに生き始めているということです。それが完成するのは、終末の時。イエス様が再び来られる時です。確かにまだ完成はされていませんけれど、私共は既にその命に生き始めています。
3.罪の奴隷から神の奴隷へ
イエス様と一つにされて、イエス様の命・復活の命に生き始めたキリスト者は、自分の主人が代わりました。イエス様の命に生き始めるまで、私共は自分の人生の主人は自分だと、何の迷いも無く思っておりました。ですから、自分の思いの通りに生きることが良いことだと思っていましたし、それが自由ということだと思っておりました。しかし、「自分の思いのままに生きる」とはどういうことなのでしょうか。
驚くべきことに、聖書は、それは「罪の奴隷」としての生き方であり、少しも自由ではないと言います。それは思い出しても「恥ずかしい」ような歩みではなかったか、それは結局自分の欲に引きずり回されていただけではなかったのか、と言うのです。それは本当に大切なことが何なのか、よく分からなかったからです。自分が何故命を与えられたのかが分かっていなかったからです。自分の思いのままに生きる歩みは、ただ自分の欲を満たす何かを手に入れるために一生懸命なものでした。でもそれは本当に幸いな歩みだったのか。
私は20歳で洗礼を受け、キリスト者になって45年になります。洗礼を受けて何が変わったかといいますと、生きる意味とか生きる目標といったものが決定的に変えられました。勿論、洗礼を受けて次の日から変わったということではありません。洗礼を受けた頃の自分は、学歴を身につけて、たくさん給料を取って、きれいな奥さんをもらって、大きな家に住む。そんな将来しか考えることが出来ない者でした。自分の欲を満たす、目に見えるものを手に入れる。そのために、一生懸命頑張る。そして、それを手に入れることが成功することだと思っていました。洗礼を受け、イエス様と一緒に生きていきたいと思いましたけれど、その目に見えるものを手に入れるということからすぐに自由になったわけではありませんでした。そういうものを手に入れるために、自分は命を与えられたのではないということがはっきり分かるためには、随分時間がかかりました。でも、神様に愛されている、神様の御手の中で生かされているということが分かり始めますと、自分で手に入れようとする前に、様々なものが既に与えられていることに気付き始めました。両親や家族、友人、健康、住むところ、毎日の食べ物。もっと良いものをもっと沢山手に入れようとしていた時には、あることが当たり前で、与えられているということが分からず、感謝するということがありませんでした。でも、与えられていることに気付き始めると、自分で手に入れたものなど何もない程に、与えられたものに囲まれて生かされていることが分かり、「ありがたいことだ。神様に感謝だな。」と思うようになりました。私の場合はこうして、自分の欲に引きずり回されるところから、少しずつ少しずつ神様の恵みの中に生かされていることに気付き始めて、神様と共に生きる者へと変えられてきたように思います。
罪の支配から神様の支配へと移されることは、洗礼によって起きるわけですけれど、神様の御支配の下に生きる生活というものは、少しずつ整えられていくものなのでしょう。それは自分の考え方や生き方、何を大切なこととするのか、何が喜びなのかといった、私という存在そのものの根底から全部造り変えられていくことですから、時間がかかるのは当然のことなのです。
4.神の奴隷
今朝、キリスト者として地上の歩みを為し、天の父なる神様の御許に召された私共の愛する者たちの在りし日の姿を思い起こしながら、彼らはただ「自分の思いのままに」生きたのだろうかと思うのです。この名簿にある人々の姿を思い起こしますと、みんな実に個性的な人たちでした。一人一人、その人だけの人生を歩まれました。生い立ちも、この地上で為したことも、得意だったことも、人柄も、性格も、全く違った人たちでした。しかし、そこには決して「自分の思いのままに」というだけではない、何かがありました。イエス様を信じて歩んだところに生まれた何か。それは神様を愛し、神様に仕える。そして、隣り人を愛し、隣り人に仕えるという、イエス様によって与えられた「新しい一筋の道」ではなかったでしょうか。それを聖書は「神の奴隷」と言っています。
奴隷というのは全く自由がない者をイメージしますけれど、聖書が「奴隷」という言葉を用いる場合の強調点は「主人がいる者」ということです。自分の思い通りにではなく、自分を支配する者に従って生きなければならない者という意味です。「罪の奴隷」というのは、罪という主人に仕えている状態を指しています。自分は自由であるつもりでいても、知らず知らずのうちに自分が得すること、自分の欲を満たすこと、そして自分のことや自分の家族のことしか考えられない者とされている状態です。しかし、「神の奴隷」とは、神様という主人の下で生きることにより、自分の欲を満たすことが第一ではなく、神様に従うこと、神様に喜ばれることを第一とする者となったということです。しかし、それは堅苦しい「あれはしちゃいけない」「これはダメだ」、そんな生活を営む者となったということではありません。そうではなくて、私にとって大切なこと、こうなって欲しいと願うこと、嬉しいと感じること、喜ぶことが変わってしまうということです。神様の愛の道具とされること、神様の御心に従うこと、神様の救いの御業が前進すること、それを何よりも嬉しく喜び、そうなることを祈り願う者となったということです。例えば、自分が楽しむことが一番ではなくなり、周りの人が楽しむことを喜ぶ、そんな風に変えられていくということだと思うのです。そして、ここに本当の自由があります。
5.聖なる生活へ
今、「本当の自由」と言いましたけれど、先に召された信仰の先達たちの名簿を見ながら、本当に自由に生きられた一人一人のお姿を思い起こすのです。私共は、色々な枠に囚われて生きているところがあります。しかし、神様が私共の主人となってくださって、その堅い枠のようなものを一つ一つ壊していってくださり、私共を自由にしてくださいます。そして、神様の御心に従って行く道を歩むようにと促してくださる。その促しの中で、本当に自由に生きることが出来るようになっていく。この自由の中で「仕える」ということが、とてもとても大切なのです。「仕える」。それは自分に人を「仕えさせる」のではなくて、自分が人に「仕える」ということです。普通、自由な人と言いますと、周りの人のことを全く気にすることなく、好き勝手なことをする人というようなイメージを持つかもしれません。勝手なことばかりやって、はた迷惑な人というイメージです。しかし、イエス様によって救われて、本当の自由へと招かれた人、本当の自由に目覚めた人は、決してはた迷惑な人ではありません。何故なら、その自由は、喜んで人に仕えるために用いられる自由だからです。人に仕えるために、キリスト者は自分の自由を用います。それがイエス様によって救われた者の新しい生活です。これを聖書は「聖なる生活」と言います。
聖なる生活とは、イエス様と一つにされた者の生活のことです。キリスト者は聖なるイエス様と一つにされました。そのキリストと一つにされた者の生活が聖なる生活なのです。それは何か特別な生活、世俗と隔絶した生活を指しているのではありません。キリスト者は世捨て人ではありません。四角四面の真面目な人というのでもありません。勿論、そういう人もいるでしょうけれど、それは信仰によってというよりも、性格の問題でしょう。キリスト者はこの世界のただ中で生きていきます。しかし、神様のものとされた者として、自分の欲を満たすことを第一とするのではなく、自分の欲に引きずられて生きるのではなくて、新しい「仕える」という歩みを為していきます。
この「仕える」という歩みにおいて、私共キリスト者と周りの人々との様々な関係が変わっていきます。例えば「夫婦」です。聖なる生活において、夫婦は互いに仕える者として神様によって選ばれ、結ばれました。夫婦関係において、男尊女卑という理解は聖書にはありません。しかし、それは男女同権というのとも少し違います。お互いが自分の権利を主張し合う関係ではありません。そうではなくて、夫も妻も、お互いが相手に仕え合うのです。たとえどちらかが経済的に支えていたとしても、それはその人が経済的に支えるというあり方で相手に仕えているのであって、だから自分の方が偉いという話にはなりませんし、まして「自分の言うことを聞け」という話にはなりません。夫婦は、それぞれが、それぞれの立場、持ち場、あり方で仕え合うのです。言い方を変えますと、私のための夫、私のための妻ではなくて、妻のための私、夫のための私。そのような関係性になっていくということです。それが夫婦の愛というものです。
ただ、誤解して欲しくないのですが、相手のために自分がこうしたいということを我慢するのが愛だと言っているわけではありません。どちらかが我慢を強いられるのではなくて、互いに喜んで相手のために仕えるということです。愛は互いに仕え合うところに成立し、成熟していきます。互いに自分に仕えることを要求するところにおいて、愛は成立しません。何故なら、この愛は主イエス・キリストが十字架において自分の命を捧げるというあり方において、徹底的に仕えるというその姿によって、私共に教えられたものだからです。このイエス様の愛によって新しくされた私共は、このイエス様の愛に倣う者となる。そこに「聖なる生活」が営まれていく道があります。それは、無理してそうなろうというようなことではなくて、イエス様に救われた者として、少しずつそのように変えられていくということです。
それは親子の関係においても、あるいは兄弟の間でも、また隣り人との間においても「互いに仕え合う」という新しい関係が築かれていくことでしょう。勿論、お互いの関係というものは相手があることですから、単純にこのようになっていくとは言えないところがあります。しかし、お互い、神様に造られ、神様に愛された者として尊重し、仕え合い、支え合っていく。そこに神様の御心に適う新しい関係が生まれてくるということは確かなことです。
6.聖なる生活の行き着く先
この「聖なる生活」の行き着く先に永遠の命があると聖書は告げます。22節「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」聖なる生活は、イエス様に救われた者が、その救いの恵みに感謝して、イエス様に倣う者として営んでいく生活です。聖なる生活は、既にイエス様の新しい命、復活の命に与った者の、感謝の生活として形造られていきます。聖なる生活をしたら永遠の命が与えられるということではありません。それは既に与えられている。しかし、その復活の命・永遠の命が完成されるのは、この地上においてではありません。聖なる生活には行き着く先があります。この行き着く先に私共がたどり着くのは、終末の時です。イエス様が再び来られる時です。そこに完成された永遠の命があります。この時、私共は代々の聖徒たちと共に復活します。それは十字架にお架かりになって三日目に復活されたあの主イエス・キリストの姿に似た者に変えられるということです。ここに、地上の歩みを為すすべてのキリスト者の希望があり、目指している目標があります。イエス・キリストに似た者とされる。それはとんでもなく素晴らしいことです。そうではないでしょうか、皆さん。イエス様と父なる神様との絶対的な信頼、イエス様と父なる神様との絶対的な愛の交わり。その信頼と交わりの中に、私共も入れていただくことになるということです。永遠の命に与るとはそういうことです。何という幸い、何という祝福でしょう。永遠の命とは、ただ長く生きるということではありません。ただ長く生きるだけなら、単純に幸いとは言えないでしょう。罪人である私が、全く新しく作り変えられるのです。聖なる生活とは、その日に向かっての地上における私共の日々の営みのことです。
この聖なる生活には行き着く先があり、そこで完全な永遠の命、完成された復活の命が与えられる。ここに私共の確かな希望、揺るがぬ希望があります。私共の地上における聖なる生活には欠けがあります。先ほど、聖なる生活としての夫婦という話をしましたけれど、皆が欠けの無い良い夫婦であった、見事に互いに仕え合う夫婦であったとは言い切れないでしょう。それは、親子においても、兄弟においても、そうでありましょう。完全に聖なる生活、聖なる生活の完成というものは、この地上には存在しません。みんなそれぞれに欠けがあります。しかし、その欠け多き聖なる生活であっても、「行き着く先」を目指して営まれていたことは確かなことです。だから、主の日の度ごとにみんなここに集ってきたのです。この礼拝において、日々の生活の「行き着く先」を仰ぎ望み、行くべき目的地をはっきりさせて、日々の生活の中へと戻っていく。これを繰り返し、繰り返し為していく中で、聖なる生活が整えられていきます。
私共も先に召された敬愛する信仰の先達たちを覚えて、やがて神様の御前で相見える日を待ち望みつつ、神様に与えられたこの命を、神様の御心に適うようにと、互いに仕え合うために用いてまいりたいと心から願うのです。
お祈りいたします。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝は、先にあなた様の御許に召された愛する者たちを覚えて、御言葉を受けました。敬愛する信仰の先達たちが、あなた様に一切の罪を赦され、あなた様の子とされ、感謝と喜びの中、聖なる生活を送り、御国を目指して歩んだことを思い起こさせていただきました。ありがとうございます。私共も、やがてイエス様が来られる時に、代々の聖徒たちと共にイエス様に似た者として復活させていただき、心から御名を誉め讃えることでしょう。あなた様との完全な愛の交わりの中に生きる者とされることでしょう。その日を待ち望みつつ、それぞれ遣わされている場において、あなた様の御心に適った歩みを捧げていくことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きを願います。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2021年10月31日]