1.はじめに
私共は、「知っている」ことと「行う」ことがいつも一致するわけではありません。卑近な例で言えば、食べ過ぎれば体重が増えて、糖尿病や高血圧、更には心臓病のリスクが高くなり、体に良くないことは知っています。腹八分目が良いということも知っています。しかし、それならば食べることを少し控えるということが出来るかと言いますと、これが中々難しい。これは私のことです。数kg痩せるのは何ヶ月もかかって大変なのですけれど、元に戻るのはあっという間。ダイエットとリバウンドの繰り返し。今はリバウンドに移りそうなところで、気を付けています。知っているんです。分かっているんです。でも、出来ない。これは本当に困った問題です。でもそれは、これが自分の命の問題だと本当のところで分かっていないからなんですね。検査の結果、「これは命にかかわります。すぐに入院してもらわなければなりません。」そう言われたら、その日から本気のダイエットが始まるのは間違いありません。目の前に鯛焼きが出てきても手を出さないでしょう。ということは、「知っている」といっても、それは単に知識として知っているだけで、骨身にしみて分かる、本当に分かる、という分かり方をしていないということなのでしょう。私共が罪を知るということは、「私の罪」を本当に知るということであり、「罪というものが私を滅びに至らせる」ことを骨身にしみて知るということなのでしょう。罪についてただ知っているだけでは、実は私共の救いには何の役にも立ちません。
2.私の罪
パウロは今朝与えられた御言葉において、「律法が語る善いことは分かっている。しかし、罪によってそれが私の救いに繋がらない。」と語ります。パウロは、律法と罪とによって露わにされた自分の姿を吐露しています。そして、そこから「律法と罪の関係」を論じます。今、パウロは自分の姿を吐露していると申しました。吐露するとは、「自分が心に思っていることを、隠さず打ち明けること」です。ここでパウロは、律法と罪の関係を冷ややかに、自分とは距離を置いて客観的に論じているのではありません。律法と罪との関わりについて自分の辛い経験を語りつつ、これが人間と律法、人間と罪の有りようではないか、そう論じています。このことは、ここでパウロが語り口を変えていることからも明らかです。今までパウロは「わたしたち」を主語にして語ってきました。ところが、今朝与えられている7章7節以下において、パウロは「わたし」を主語にして語り続けます。それは7章の最後まで続きます。今日与えられている17節までだけで13回も「わたし」という言葉が出てきます。更に7章の終わりまででは24回も「わたし」という言葉を用いています。パウロは、自分の身に起きた罪の現実をここで語っている。ここで告げられている罪は、パウロの「私の罪」です。しかし、それは同時に私共にとっての「私の罪」でもあります。パウロの「私の罪」はパウロだけの話ではありません。すべての人に当てはまることです。しかし、痛くも痒くもない一般的な話として罪を語っているのではありません。パウロはあくまで「私の罪」に泣いているのです。「私の罪」に泣くことなく、悔い改めは起きません。一般的な罪や他の人の罪をいくら理解し、論じたところで、それが自分の救いに繋がることはありません。なぜなら、そこで悔い改めは起きないからです。本当に自分の罪が分かり、自分の罪を憎み、自分の救いに絶望し、心から変わりたいと願うことがなければ、私共がイエス様の救いを求めることはないからです。
パウロのこの「私の罪」の現実に対する思いは、24節において極まります。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」自分の罪をはっきりと示されたパウロは、自分は救われない、神様から遠い者、神様に捨てられて当然の者だ、自分を待つのは神様の裁きとしての死しかない。そのように絶望し、嘆き、叫ぶしかありませんでした。このことについては来週、18節以下の御言葉を受ける時にしっかり学びたいと思います。今朝与えられている御言葉は、「律法と罪の関係」についてパウロが自分の経験を通して告げているところです。順に見てまいりましょう。
3.律法は罪なのか
先週の御言葉においてパウロは、4節で「キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。」と告げ、5節で「罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」と告げ、更に6節で「自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。」と告げました。これでは、まるで「律法が私共に罪を犯させている」かのように受け取られてしまいます。「だったら、律法が罪なのか? 悪いものなのか?」という、パウロに対する反論が聞こえてきそうです。勿論、律法は神様が与えてくださった、神様の御心に適う道を示したものですから、悪いはずがありません。今朝与えられている御言葉の冒頭で、「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。」と告げているとおりです。またパウロは12節でも「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。」と告げ、更に14節「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。」と告げています。つまり、律法が悪いわけがないのです。
だったら、どうしてパウロは律法に対してこのような言い方をしたのか、律法と罪とはどういう関係にあるのか。そのことが問題になります。
4.律法によって罪を知る:むさぼりの罪
まずパウロは、「律法によって、わたしは罪を知った」と言います。律法がなければ、罪は罪として認識されることはなかった。これは、十戒を思い起こせばすぐに分かることです。十戒で「偶像を作るな、拝むな」と教えられていますけれど、これを全く知らなければ、偶像を拝むことが罪だと認識することもありませんし、それをしても平気でいられます。日本の文化には、偶像礼拝を禁じる戒めはありませんので、偶像は私共の周りに溢れています。勿論、だから罪がないということではありません。知らなくても、罪を犯していることに変わりはありません。このことは他の戒めにおいても同じでなのですが、日本において「殺すな、姦淫するな、盗むな」ということについては、十戒によらなくても悪いことだと教えられていますので、キリスト者でなくてもそれが罪であることは認識しています。しかし、「偶像礼拝」については、十戒によって教えられることがないと罪と認識することは出来ないでしょう。「律法によって、わたしは罪を知った」とはそういうことです。
5.むさぼりの罪
ここでパウロは、偶像礼拝ではなくて、「むさぼりの罪」について語り始めます。「むさぼりの罪」というのは、十戒の第十の戒め「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」によって明らかにされた罪です。出エジプト記20章に記されております、十戒を与えられた時の言葉をそのままに読んでみますとこうなります。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」(出エジプト記20章17節)です。つまり、この第十の戒めは「他人のものを欲してはならない」という戒めなのです。殺すとか姦淫するとか盗むとかは、実際にそれを行うことを戒めているのですけれど、第十の戒めは、行う以前のこと、「欲すること」自体を戒めているわけです。ここでパウロは、律法によって人間は「行動以前の心の動き」さえも問題にされている、それも罪だと神様によって見なされている。そのことをはっきりさせているわけです。
これは、イエス様が教えてくださったことと同じです。マタイによる福音書の「山上の説教」において、イエス様は「殺すな」という十戒の第六の戒めに対して、「わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」(マタイによる福音書5章22節)と教えられ、「姦淫するな」という第七の戒めに対して、「わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイによる福音書5章28節)と教えられました。これと同じです。
問題は、この「むさぼるな」との律法によって、パウロの中に何が起きたのかということです。パウロは、8節「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。」と言うのです。むさぼることは罪であると知らされて、「わたしはむさぼらなくなった。」と言うのではなく、むさぼりの思いがどんどん湧き上がってきて、あらゆる種類のむさぼりの思いが起きたのです。「むさぼるな」という戒めは、むさぼりの思いを鎮めることは出来なかった。それどころか、いよいよ「むさぼりの罪」が自分の中で活性化したと言うのです。
ここでパウロが告げているのは、「分かっちゃいるけど止められない」という私共の心の弱さのことなのでしょうか。それも否定出来ないとは思います。しかしパウロは、もっと根源的な律法と罪の関係について告げているのです。皆さん、最初に神様が人間に律法・戒めを与えられたのは何時でしょうか。律法と言えばモーセの十戒を思い浮かべる方が多いと思いますが、もっとずっと前です。それは神様が、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。」(創世記2章16~17節)とアダムとエバに対して命じられた時です。アダムとエバはこの戒めを蛇にそそのかされて破ってしまいました。蛇は、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3章5節)と言って誘惑しました。ここで「神様のようになる」という「むさぼりの罪が」立ち上がってきたのです。そして、アタムとエバは神様の戒めを破り、神様との関係を破ってしまいました。神様の戒めがなければ、それを破ることもなかったし、蛇に誘惑されることもなかった。しかし、戒めが与えられたことによって、蛇が働き、遂に戒めを破らせてしまったわけです。この時のように、津法が与えられると、神様に従おうとしない罪がむくむくと活性化してしまうのです。
6.律法が罪に利用される
実は、そこに生まれてくるのが律法主義というものなのです。律法主義は、心から神様に従うことを求めません。心は問わないのです。何をしているか、何をしたか、それだけを問題とします。これが律法主義の特徴です。ですから、十戒のむさぼりを戒める第十の戒めはそれほど重んじられませんでした。そこでは、表面は従っているけれども、心の中では、どうにかして律法の網の目をかいくぐって、律法を守っているように自分にも他の人にも見えればよい。心は問わない、問われない。そして、「私は正しいのです。」と主張する。律法が与えられれば、必ずこのような「律法を利用する」という罪が活性化するということなのです。また卑近な例ですけれど、法律が出来ると必ず、その法律を逆手にとって私腹を肥やそうとする者が出る。それと同じです。
確かに「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いもの」なのです。しかし、律法が与えられると、その律法を利用しようとする罪が活性化してしまう。そして、結局のところ、律法を与えてくださった神様を愛し、信頼し、従うという関係を自らが壊してしまう。そこで口を開いているのは、神様の裁きとしての死です。ファリサイ派であったパウロは、そこに向かってひた走っていた。律法は悪くない。しかし、人間の罪が律法を利用し、パウロを神様に敵対させ、死へと導いていたのです。律法主義とはそういうものです。
パウロがこのことを知ったのは、あのダマスコ途上の出来事(使徒言行録9章)においてでした。それまでパウロはファリサイ派のユダヤ人として、律法を展開した沢山の戒律を日々の生活の中で完全に守ることが御心に従うことであり、それを行っている自分は正しい者であると信じて疑いませんでした。そしてその結果、パウロはイエス様の弟子たちを迫害していたわけです。しかし、まさにイエス様の弟子たちを迫害するためにダマスコに行く途中で、復活のイエス様がパウロに現れた。そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」(9章4節)と声を掛けたのです。決定的なイエス様との出会いです。パウロはここで初めて、自分は正しい者であると思っていたけれど、実は神様に敵対し、神の御子であるイエス様を迫害するという大変な罪を犯していたことに気付かされます。自分は正しいどころか、神様に敵対している者であったことを突きつけられたのです。これはパウロにとって、自分を支えていたものが根本から崩れ落ちてしまう経験でした。
パウロはこのダマスコ途上での経験により、自分の正しさなど神様の御前においては自分が救われるためには何の意味も価値も無いことを知らされました。律法を守っている、神様の御心に適った者だ、私こそ神様に救われるに価する者だと思い込んでいた自分。しかし、本当は神様を侮り、欺き、敵対していた。神様を心から畏れ、敬い、愛し、信頼し、従っていたわけではなかった。イエス様との出会いによってパウロはそのことを気付かされ、本当の自分の姿を見せられたのです。それは滅びるしかない自分でした。心の底から罪にまみれ、罪に支配されている自分でした。
7.律法の役割
どうしてこんなことになってしまったのか。パウロは悩みました。そして、考え抜きました。何故、神様が与えてくださった善いものである律法に従っていながら、神様に敵対する者になってしまっていたのか。そして、はっきり分かったのです。律法によって、自分に何が起きていたのかが分かったのです。それは、律法を私の罪が利用し、自分を神様から引き離してしたのだということでした。それが8節「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。」ということであり、9~11節「掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」と言われていることです。
ここで「機会を得」と訳されている言葉のイメージは、「橋頭堡を築いて攻撃する」といものです。律法が与えられると、罪はすぐに橋頭堡を築いて、その律法を用いて攻撃し続け、遂には私共を罪の支配下に置くようになるということです。パウロはダマスコ途上の出来事によって、イエス様の恵みによって、ただ憐れみによって救われるという福音を知らされました。そして、今まで自分は神様の正しさと共にあるような勘違いをさせられ、神様の恵みと憐れみによって生きるのではなく、自分の力を頼み、自分の正しさによって神様の御前にふんぞり返っていたことに気付かされました。それは、自分が神様の裁きの前に死に至るしかない者であることを知らされることでした。
8.邪悪な罪
そしてパウロは、どうしようもないほどに深く、自分の中に巣くっている「邪悪な罪」に気付かされました。律法を利用して、自分を神様から離れさせる罪。これに対してどう対応出来るというのでしょうか。律法は善いものですし、それに従おうとするのも善い心です。ところが、その善いものが「邪悪な罪」に利用されてしまうのです。律法は善いもの。それに従おうとするのも善い心。ところが、私共の中には、善い心だけがあるのではありません。「邪悪な罪」があり、これが活性化してしまうのです。つまり、律法が与えられますと、自分の力で正しい者になれるのだ、神様を頼る必要はない、自分こそが正しい者だ、という罪の心も活性化して動き出してしまう。神様を愛することよりも自分を愛し、神様を信頼するよりも自分の力を頼り、神様に従うよりも自分の欲に従うことになってしまう。そのくせ「自分は正しい者だ。」と自分にも、他の人にも、神様に対してさえも言い張る。律法という、神様の御心を示した聖なるものさえも利用し、取り込み、私共を神様から離れさせる罪。それは13節で「実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」と告げられているように、罪は「限りなく邪悪なもの」であるというその正体が明らかにされたのです。聖なる律法によって、そのことが知らされたのです。これが律法の役割だったのです。この「限りなく邪悪な罪」が私の中にある。それが神様との交わりを阻害し、破壊する。それは、神様との交わりだけではく、人と人との交わりも阻害し、破壊していく。自分は正しい者として、人を裁く。神様の御前においてさえ、自分を正しいと言い張るのが律法主義ですから、律法主義に犯されれば、人の前で自分を正しいと言い張ることなど造作もないことです。その結果、人の交わりも壊していく。
洗礼を受けたばかりの頃、私は真面目で熱心なキリスト者でした。礼拝を休まず、よく奉仕をしていました。その頃、洗礼を受けた教会では、青年会に毎月一人の長老を招いて懇談するということがありました。その時にある長老から、「小堀君の信仰は、『ベき』信仰だね。」と言われたことが今でも心に残っています。キリスト者はこうあるべき、こうすべき。そんなことばかり言っていたのでしょう。典型的な律法主義的信仰だったのでしょう。その頃の私は、「正しさの剣」をいつも振り回していたように思います。何という信仰であったかと思います。今はこう思っています。「正しさの剣は大切なもの。しかし正しさの剣は、愛という鞘に収めて、腰に差しておけばよい。この剣は鞘から出して振り回すものではない。振り回せば、必ず周りの者が傷つき、倒れていく。それでは、愛の交わりを形作っていくことは出来ない。」年を重ねていく中で、正しさというものが邪悪な罪に利用されることをよく知るようになったからです。
自らの中にうごめく邪悪な罪に気付いたパウロ。彼はこう叫びます。「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。…そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」これは、邪悪な罪の正体に気付いたのだけれども自分ではどうしようも出来ない、その絶望的な悲痛な叫びです。
だったら、どうしたら良いのでしょうか。「恩寵のみ、憐れみのみ、信仰のみ。」ここにしっかり立つことです。イエス様はこの邪悪な罪から私を解き放つために来られました。この方の尊い血潮によって、私共は罪の支配から神様の支配、イエス様の支配に生きる者とされたのです。ですから、頼るのは自分ではなく、神様だけです。私共は既に赦されています。聖霊なる神様が、私共を導いてくださっています。洗礼によって、私共はイエス様と一つとされたのですから、罪も死も律法も、最早私共を支配することは出来ません。私共は神の子なのです。だから、「恩寵のみ、憐れみのみ、信仰のみ。」ここにしっかり立ちましょう。そうすれば、邪悪な罪の縄目に捕らえられることはありません。
お祈りいたします。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、あなた様は御言葉によって、私共の中にある邪悪な罪の正体を教えてくださいました。私共は洗礼によってイエス様と一つとされ、最早、罪と死と律法の支配から解き放たれました。どうか、聖霊なる神様の導きの中で、いよいよあなた様を愛し、信頼し、従う者であらしめてください。ただあなた様の憐みによって、自らの罪との戦いに勝利させてください。あなた様より罪や悪の方が、力が強いかのような思い違いから解き放ってください。正しいお方は、ただあなた様だけです。あなた様の前に真実に額ずく者であらしめてください。
この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2021年11月14日]