日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「落ち穂拾い」
ルツ記 2章1~12節
コリントの信徒への手紙一 11章17~22節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日からアドベント、待降節に入ります。今日、教会に入る時に幾つもクリスマスリースを見られたことでしょう。先週の礼拝の後、執事の方たちが作ってくださいました。昨日は北陸学院大学同窓会富山支部のクリスマス礼拝が当教会で行われました。コロナ禍ということで祝会は行わず礼拝だけでしたけれど、いよいよクリスマス・シーズンに入って行くのだと思いました。今日の礼拝の後には大掃除が行われます。会堂の隅々まできれいにして、クリスマスへの備えを為してまいりたいと思います。
 今朝は11月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けてまいります。前回からルツ記に入っております。ルツ記というのはたった4章からなる、大変短い書です。しかし、とても愛されてきた書です。ルツという女性が、モアブ人という異邦人でありながら神様の憐れみを受け、そのひ孫にダビデが生まれる。ということは、イエス様の系図にもルツの名前が入ってくるわけです。イエス様の救いというものがイスラエル民族という枠を超えて広がっていくという、福音の豊かさ、広がりというものを、このルツ記はよく示しています。「神様の救いの完成を待ち望む」信仰、「主が再び来たりたもうを待ち望む」信仰を整えるアドベントの第一の主の日に、ルツ記の御言葉を与えられた幸いを思います。

2.落ち穂拾い
 今日の説教の題は「落ち穂拾い」としました。「落ち穂拾い」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。ミレーの絵を思い浮かべる方も多いと思います。このミレーという画家は19世紀のフランスの方です。「落ち穂拾い」の外、皆さんも良く知っている「晩鐘」や「種蒔く人」といった農民の絵をよく描いた人です。フランスではあまり評価されなかったようですが、アメリカに伝わって、「敬虔な信仰を持つ農民」というモチーフが大変評価され、愛されました。それが日本にも伝わったのでしょう。「落ち穂拾い」の絵は、三人の女性が落ち穂を拾っている姿が描かれています。この絵はルツ記を題材にしていると言われています。しかしミレーは、単なる想像ではなくて、実際に落ち穂拾いをしている人を見て、それを描いたのではないかと思います。
 「落ち穂拾い」というのは、麦などを刈り取った後に、刈り取る時落ちてしまったものを拾っていくという作業です。そのように説明されますと私共は、「もったいないから」とすぐに思うでしょう。しかし、この「落ち穂拾い」というのは、ただ「もったいないから」為されるわけではありません。レビ記19章9~10節に「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」という律法が記されています。つまり、落ち穂拾いというのは、その畑の持ち主が「もったいないから」行うのではなくて、「貧しい者や寄留者のために残して」おいたものを「貧しい者や寄留者」が拾っていく、そういう営みでした。落ち穂だけではなくて、畑の端まできれいに収穫してはいけない。それは残しておかなければならなかったのです。ミレーの絵では、落ち穂拾いをしている女性の背景に、刈り取られた麦でしょうか、それが幾つもこんもりと積まれています。しかし、その収穫された作物は落ち穂拾いをしている女性たちのものではありません。19世紀になっても、フランスの田舎ではこのようなことが行われていたということなのでしょう。
 私は、この落ち穂拾いを定めたレビ記の律法には、神様の慈しみというものが具体的に示されていると思います。神様の御心を示した律法というものの「心」が、ここにはよく現れていると思います。神様は貧しい者、弱い者、小さい者を捨て置くことなく、憐れんでくださっている。そして、この神様の憐れみを示したのが律法であり、それを実際に示していく者として、神の民は選ばれ、立てられているということなのでしょう。

3.神様の備え
さて、ベツレヘムに住んでいたエリメレクとナオミは、飢饉の時に二人の息子を連れてモアブの地に移り住みました。モアブの地というのは、死海を挟んで丁度ベツレヘムの反対側にある地域です。ベツレヘムは死海の西にありますが、モアブの地は死海の東に広がる地域です。飢饉を逃れてこの地にやって来たエリメレクとナオミでしたが、そのモアブの地でエリメレクは亡くなってしまいます。しかし、ナオミにはまだ二人の息子が残されていました。二人の息子はモアブの女性と結婚します。ところが、何とこの二人の息子も亡くなってしまうのです。しかも、息子たちには子どもがいませんでした。ナオミはもう生きる力も希望も失ってしまいました。故郷を離れてモアブの地で生きてきたけれども、もうここで生きていく気力も力もなくなった。そして、故郷であるベツレヘムに帰ることにしました。二人の息子のお嫁さんたちはモアブの女性でしたが、一緒にナオミについて行くと言いました。けれどナオミは、「それぞれ実家に帰った方が良い。」と諭しました。一人はナオミと別れて帰っていったのですけれど、もう一人のお嫁さんであるルツは、どうしてもナオミについて行くと言ってききません。それで、ナオミとルツは二人でベツレヘムに戻ってきたのです。
しかし、ベツレヘムに戻ったと言っても、生活の当てがあるわけではありませんでした。それでルツは、落ち穂拾いに行くことにしたのです。それ以外に、食べる当てがなかったからです。幸いなことに、ナオミとルツが戻って来た時は大麦の収穫の時でした。過越の祭の時が丁度その時期です。大麦の収穫の後には、小麦の収穫になります。これがだいたい五旬節(ペンテコステ)の時期です。ですから、ルツは2ヶ月ほどの間、落ち穂拾いを続けることが出来ました。これは本当に幸いなことでした。収穫の時期でなければ、落ち穂拾いさえ出来ません。そうであれば、ベツレヘムに着いてからの二人の生活は、まさにどうにもならなかったでしょう。私は、ここにも神様の恵みの御手というものがあったと思います。

4.出会いという恵み
そうして、ルツは落ち穂拾いをすることになりました。他所の国に来て、落ち穂を拾って口を糊する生活。それは辛いことだったと思いますけれど、それ以外に食べ物を得る手段がなかったのです。ところが何と、ルツが落ち穂拾いをした畑の持ち主はボアズという、モアブの地で亡くなってしまったナオミの夫エリメレクの親戚の人だったのです。新共同訳聖書は3節で、「ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」と訳しています。「たまたま」というのは、偶然そうだったということでしょう。しかし、新改訳や新しい聖書協会共同訳では「はからずも」と訳しています。これは「思いもかけず」ということです。「たまたま」と「はからずも」とは、そんなに違わないという感じを受ける人が多いかもしれませんが、「はからずも」と訳した意図は、これは偶然ではなくて、ここには神様の導きがあったということを聖書は告げている、そう受け止めたのだと思います。この時、ルツが落ち穂拾いをした畑がボアズの畑であったということが、ルツとボアズが出会うきっかけとなりました。そして、後にルツとボアズが結婚して、ダビデのおじいさんに当たるオベドが生まれる。勿論、ルツがボアズと出会う前に、ナオミとの出会いがありました。ルツはナオミの息子と結婚したわけですが、子どもが与えられることなく、夫に先立たれてしまいます。これだけでしたら、ルツの人生は不幸だったということで終わってしまうのかもしれません。しかし、ルツはナオミを通して、天地を造られたただ独りの神様を信じる信仰を与えられました。ルツの人生はそこでは終わらなかった。新しいボアズとの出会いというものを神様は用意しておられ、そこで新しい展開が為されていきます。
 このことは、とても大切なことを私共に教えています。私共が偶然としか思わないような出来事、出会いの中に、神様の御手が働いているということです。私はいつも思うのですけれど、人と人との出会いは自分で意図して作ることは出来ません。自分の意図を超えて、出会ってしまうわけです。そして、その人との出会いというものが私共の人生に決定的な影響を与えます。そこには神様の御手が働いており、神様の導きというものがある。神様は出会いというものを通して、私共を導いていてくださっている。聖書はそのことを私共に教えていると思うのです。
 私共は親を選ぶことは出来ませんし、兄弟を選ぶことも出来ません。そして、それが私共にとても大きな影響を与えることは間違いないでしょう。また結婚もそうです。子どももそうです。そして、この人と出会ってイエス様の救いへと導かれたということもあるでしょう。また、教会における信仰の友との出会いというものも、私共の人生においてとても大きな恵みです。週報にありますように、I姉妹が天に召されました。99歳でした。明日、葬式がここで行われます。I姉妹と出会えたこと、それは私共にとって大きな恵みでした。私共はこの「出会い」という出来事に慣れてしまって、神様の具体的な導きというものをそこに見出すことを忘れてしまっているかもしれませんけれど、この神様の具体的な導きの中に生かされているということをしっかり受け止め、神様に感謝したいと思うのです。

5.ボアズとルツ
 ここで、ルツが出会ったボアズという人について、聖書が記していることから見ておきたいと思います。
 ボアズについて一貫して語られていることは、優しく、慈愛に満ちた人だったということです。ボアズはルツが落ち穂拾いをした畑の持ち主ですけれど、彼と農夫との関係はとても穏やかで良好なものでした。4節を見ますと、「ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、『主があなたたちと共におられますように』と言うと、彼らも、『主があなたを祝福してくださいますように』と言った。」とあります。地主のボアズと農夫たちは、互いに神様の祝福を祈ることで挨拶しています。とても穏やかな関係であったことがここに見て取れます。
 また、ルツに対しては並々ならぬ配慮をしました。8~9節「ボアズはルツに言った。『わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。』」驚くほどの配慮をしてくれます。
 これに対して、ルツは10節で、「ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。『よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。』」と言います。ルツにしてみれば、ボアズの自分に対する配慮は、ただただ驚くばかりのことでした。ルツはモアブの女です。イスラエルの人から見れば外国人です。ですから、白い目で見られることやのけ者にされることを覚悟していたでしょう。落ち穂拾いは貧しい人たちばかりがすることです。落ち穂拾いをする人が増えれば、自分が拾える量が減ります。ですから、新参者に対しての嫌がらせもあったかもしれません。また、農夫たちは落ち穂拾いに来る人たちに対して、「落ち穂拾いをさせてやっているんだ」というような、見下すような態度であったかもしれません。しかし、ボアズの言葉はルツのそのような恐れをすべて拭ってくれたのです。ルツは本当に驚きました。そして、心から感謝しました。
 それに対するボアズの答えは、11節「ボアズは答えた。『主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。』」というものでした。ベツレヘムは小さな村ですから、ナオミとルツがモアブの地で辛い目に遭ったこと、そしてモアブの女性であるルツが姑のナオミと一緒に帰ってきたこと、ルツがナオミのために甲斐甲斐しく働いて支えていることなど、皆が知っていたことでした。ボアズもそれを伝え聞いた。そして、ボアズはこのルツのために、出来ることはしてあげたいと思ったのでしょう。
 そしてこの配慮は、15節において更に徹底されます。「ルツが腰を上げ、再び落ち穂を拾い始めようとすると、ボアズは若者に命じた。『麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ。』」と言うのです。「刈り取った束から穂を抜いて落としておく」なんて、これはもう「落ち穂拾い」ではありません。その結果、ルツが拾い集めた大麦は「一エファほどにもなった」と17節にあります。1エファというのは約23ℓです。10数kgあったでしょう。もうこれは落ち穂拾いの域を出ています。刈り入れの農夫がもらう量とほとんど同じくらいだったのではないでしょうか。
 また、ルツはボアズの言葉を聞いて、こう言っています。13節「ルツは言った。『わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。』」ルツは、ボアズの言葉が自分の心に触れて、慰められたのです。姑の故郷だと言っても、自分の知らぬ土地です。姑の他には知っている人もいません。心を開いて話す人もいなかったでしょう。そして、落ち穂拾いをしなければ食べることさえ出来ない。しかも、自分は外国人です。心細かったでしょう。明日への不安、生活の不安もあったでしょう。ボアズの言葉と配慮は、ルツのそのすべての不安と恐れを拭い去ってくれたのです。
 ボアズは本当に良い人ですよね。イエス様が語られた「善きサマリア人のたとえ話」に出てくるサマリア人を思い起こします。こんな人に自分もなりたい。そう思います。

6.御翼のもとに
 どうしてボアズはここまでルツのために配慮したのでしょうか。鍵となるボアズの言葉が12節にあります。「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」ボアズはルツを「主の御翼のもとに逃れて来た」者と見たのです。神様の御許に助けを求めに来た人。ボアズはそのような人を放っておくことは出来なかったということでしょう。主が報いてくださるように、とボアズは言います。この主の御業に仕える者としてボアズは働いたということなのでしょう。
 私はこのボアズのルツに対する関わり方は、主イエス・キリストを指し示している、主イエス・キリストを預言している、そう思います。勿論、ボアズがイエス様だというのではありません。ボアズはイエスの私共への関わり方、イエス様によって与えられる救いというものを指し示している、そう思うのです。ボアズは旧約の中でそれほど有名な人であるわけではありません。大きな事業をしたわけでも、イスラエルの民を導いたわけでもありません。しかし、その人となりがイエス様を指し示している。旧約聖書はイザヤ書やエレミヤ書といった預言書だけではなく、すべての書がイエス様を指し示している預言の書であると言われるのはそういうことです。イエス様は「御翼のもとに逃れて来た者」を見捨てることは、決してありません。それがイスラエルの民であろうと、異邦人であろうと関係ありません。事実、私共は異邦人でありながら神様に救いを求めただけで、イエス様は私共に一切の罪の赦しを与えてくださいました。そして、その恵みの御手は私共を捕らえて離しません。具体的な恵みの御業をもって、また御言葉をもって支えてくださいます。ルツがボアズの言葉と配慮によって慰められ生かされたように、私共もイエス様の御言葉と御業によって慰められ生かされています。

7.愛の交わり
イエス様との出会いを与えられ、救われ、御言葉によって慰められている者たちの交わりが教会です。そして、その交わりを最も具体的に現しているのが聖餐の交わりです。先ほどコリントの信徒への手紙一11章17節以下をお読みしました。この箇所は聖餐の制定の言葉の直前の所です。パウロがこの手紙を書いた頃、まだ聖餐と愛餐ははっきりと区別されていないところがあったようです。21節で「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。」と言っているのですが、これは礼拝の中で愛餐と聖餐が為されていたのですが、後から来る貧しい人々が来る頃にはもう食事が残っていない。どうして後から来るかと言えば、仕事が終わらないから、あるいは主人の命令に従わなければいけなかった奴隷たちは、来たくても来られないわけです。しかも、先に来ている人の中には既に酔っ払っている者もいる。先に来る人というのは、先に来ることが出来る裕福な人です。そういう状況に対して、パウロが「それでも神の教会か。」と諫めているところです。
 ボアズが外国から来た貧しいルツに対して慈愛をもって接したように、イエス様の愛によって生かされている私共は、国籍を問わず、貧富を問わず、御翼のもとに逃れてきた者に対しては、愛をもって交わっていく。そこにキリストの体としての教会の証しが立っていくのでしょう。この世の交わりにおいては、様々な壁があります。国籍・言葉・思想・社会的立場・貧富の格差・男女・年令等々、挙げたら切りがありません。しかし、イエス様はそのすべての壁を取り去ってくださって、互いに愛し合い、支え合い、仕え合う交わりを形作っていくことが出来るように、聖霊を注いでくださいました。共に御言葉を受け、聖餐に与る者として、そのような交わりをしっかり形作っていくことが出来るよう、共に祈りを合わせたいと思うのです。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。 今朝、あなた様は御言葉を通して、あなた様の御翼のもとに逃れてきた者に対して、愛をもって接し、受け入れ、交わりを形作っていくように促されました。私共もイエス様の愛によって新しくされました。ですから、あなた様によって注がれた愛を、私共の出会う一人ひとりに注いでいくことが出来ますように、私共を導いてください。あなた様が与えてくださる出会いに感謝し、丁寧に、一人ひとりと交わりを作っていくことが出来ますように。その時に相応しい言葉を与え、為すべきことに誠実に対応していくことが出来ますように。聖霊なる神様の導きを、心からお願いいたします。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2021年11月28日]