日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

クリスマス記念礼拝説教

「光は暗闇の中で輝いている」
創世記 1章1~5節
ヨハネによる福音書 1章1~18節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
イエス様の御降誕を祝うクリスマス記念礼拝を捧げています。新型コロナウイルスの感染者数は富山ではかなり落ち着いてきており、もう礼拝堂の定数を2分の1にしなくても良いようにも思いますが、まだ今回は2分の1のままにして、クリスマス礼拝とキャンドル・サービスはそれぞれ2回に分けて行うことにしました。このようにするのは、今回のクリスマスが最後になればと願っています。富山市民クリスマス、子どものクリスマス会、中高生のクリスマス会、教会のクリスマス祝会、刑務所のクリスマスは、昨年同様、今年も休会となりました。しかし、来年はきっと再開出来ることを願っています。
 新型コロナウイルスによるわざわいを意味する「コロナ禍」という言葉も定着してしまいました。日本だけではなく、世界中の経済が低迷し、国をまたいでの人々の行き来は激減し、航空会社、ホテル・旅館、そして外食産業など、多くの働く人たちの環境がこの2年間で大きく変わりました。働く場がなくなってしまった人もいます。バイト先を失った学生たちもいます。施設や病院では、家族との面会もままならない状態が続いています。この2年ほどの間、世界はコロナ禍の中を歩んで来ました。新型コロナウイルスという目に見えないものに怯え不安の中を歩む私共は、それでもクリスマスを祝っています。いつもと同じようには出来なくても、クリスマスを喜び、祝っている。それは、クリスマスの喜びは、どんな不安や恐れの中にあろうとも、私共から決して奪われることのない、私共の中から決して消し去ることの出来ない喜びだからです。いや、むしろ、そのような闇が濃いほどに、クリスマスの喜びの光は私共を、この世界を照らします。今朝与えられている御言葉は、はっきり私共に告げます。5節「光は暗闇の中で輝いている。」これが今朝、私共に与えられた神様の言葉です。実にはっきりしたイメージがここにはあります。暗闇というものは、どうすれば消えていくのでしょうか。光が来ることによってです。光が来れば、暗闇は退き、無くなります。もっと言えば、暗闇とは光が無い状態とも言えましょう。光が無いから暗闇なのです。光が来れば、闇は消えてしまいます。

2.言はキリスト
聖書が「光は暗闇の中で輝いている。」と告げるとき、この光とは何を言っているのでしょうか。また、暗闇とは何を指しているのでしょうか。
 それは、はっきりしています。ヨハネによる福音書の1章1節以下は大変有名な言葉ですけれど、これをどのように読むのかとなると、聖書全体のメッセージをよく弁えていないと、チンプンカンプンかもしれません。何か神秘的で、深いことを言っているようではあるけれど、よく分からないということになってしまいます。ここで「言(ことば)」という言葉が繰り返し出てきます。13回も使われています。この「言」が何を指しているのかということですが、最初の所を読んで見ましょう。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とあります。ここで言われている「言」、これは「神の独り子であるキリスト」「子なる神・キリスト」を指しています。この「言」というところを「キリスト」と言い換えて読んでみると良く分かります。やってみましょう。…まったく違和感がありません。しかし、他のどんな言葉を入れても変なことになってしまいます。
 この天地が造られる前から神様と共におられた「言」であるキリストが肉体をとって、人間として生まれた。それがクリスマスの出来事です。14節は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とありますが、これがヨハネによる福音書が告げるクリスマスの記事です。ここには天使も羊飼いも博士も登場しませんけれど、クリスマスの出来事が何であるかをはっきり告げています。神の独り子であるキリストが、人間としてお生まれになった。それがクリスマスであり、お生まれになったのがイエス様です。イエス様は誰も見たことのない、見ることが出来ない、天地を造られたただ独りの神様を、言葉と業と存在をもってお示しになりました(18節)。

3.光はキリストの命
そして4節以下、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」と続きます。言の内に、つまりキリストの内に命がある。そして、その命が人間の闇を照らす光なのです。クリスマスの光、それはキリストの光、キリストの命の光です。このキリストの命の光に照らし出されて、すべての人を取り巻いている闇が退けられた。すべての人の内にある闇が退けられた。そして、みんなが明るい光の中を歩むことが出来るようになった。それがクリスマスの喜びです。
 この光はキリストの光ですから、天と地が造られる前からずっとありました。天と地を造られた神様と共にありました。しかし、人はその光を認めませんでした。5節で「暗闇は光を理解しなかった。」と言われているとおり、分からなかったのです。それは、人は自分が闇の中にあることを認めることが出来なかったからです。また、自分の中に闇があることを認めることが出来なかったからです。自分は光を必要としていることが分からなかったからです。しかし、その光はついに神様のもとを離れて、この地上にやってきました。人間となってやって来られました。それがおとめマリアから生まれたイエス様です。イエス様がお生まれになったクリスマスは、この神様と共にあったキリストの光、永遠の命の光が来た喜びの日なのです。
 9節を見ましょう。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあります。「すべての人を照らす」光です。キリストの光、まことの光、永遠の命の光が世に来ました。そして、すべての人を照らします。すべての人です。あの人はダメ、この人はダメ、そんなことはありません。ただ、この光に照らされたい、闇の中から光の中に生きたい。そう願う人は、誰でもこの光の中を歩むことが出来ます。12節で「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と告げられているとおりです。ただ願い、求め、キリストを我が主と受け入れるだけで、神の子としていただく。キリストと共に、キリストの光の中を歩む者としていただけます。どんな人もです。このキリストの光に照らされるための条件は、何一つありません。

4.闇の囁き、闇の中での呟き
 では、この暗闇とは何でしょうか。これも様々に理解することが出来ます。この世界を覆っている闇と聞いてすぐに思い浮かべることが出来るのは、戦争や難民、飢餓や貧困、犯罪や薬物、暴力や差別といったものかもしれません。自らの命が脅かされるような、心の平安が全く保てないような異常な状況、それが日常になってしまっているような状態。これはまさに闇と言うべき現実です。そして、病や死も私共を闇の中に沈めてしまう力があります。また、この闇は私共を取り巻くだけではなくて、私共の中にもあります。憎しみや恨み、妬みや怒り、悲しみや絶望、投げやりや無気力。これも挙げればきりがありません。様々なレベルにおいて闇があり、私共が健やかに生きていくことを阻害します。昨年からのコロナ禍もまた、黒いベールで世界を覆っています。人はこの闇の力に対抗することが出来ず、ただうずくまり、うめくしかない。自分の力で何とか出来るはずもないことを知っているからです。 しかし、本当にそうでしょうか。闇が私共の心に囁く言葉をみんな知っています。それは、「何も変わりはしない。」「何をしてもムダだ。」です。この言葉を私共は闇の中でうずくまる人の口から漏れるのを聞きます。しかし、それは自分からそう願って言っている言葉ではありません。闇に飲み込まれ、光を見ないようにされて、闇の世界がすべてだと思い込まされて、闇の囁きにそそのかされているだけです。この闇に光が来れば、闇の囁きから自由になれば、「何も変わりはしない。」「何をしてもムダだ。」などと人は呟かなくなります。
 確かに、まだ世界中で戦争や内戦があり、何億という人たちが難民となっています。不当な差別に苦しむ人がいます。何億という人々が飢餓状態にあります。犯罪もなくなりません。薬物中毒になる人も減りません。しかし、クリスマスを祝うということは、それらの闇がいつまでも続くことはない。この状態が少しも変わらないなんてことはない。神様が事を起こしてくださる。既に、イエス様が来られたことによって、事は起き始めている。この神様の御業を止めることは、誰にも出来ない。どんなに濃い闇が私共を包んでいようと、イエス様がもう来られたのですから、光が来たのですから、闇は退かなければなりません。闇のために残されている場所はもうありません。

5.すべての暗闇を照らす光、主イエス・キリスト
 もう一度申し上げます。クリスマスを祝う今日、私共に与えられた御言葉は「光は暗闇の中で輝いている。」です。もう光は来ました。まことの光である主イエス・キリストは来られました。すべての人をまことの光で照らすためです。
 皆さん、思い起こしましょう。ルカによる福音書によるならば、イエス様がお生まれになったのは、父ヨセフと母マリアの旅先でのことでした。そして、イエス様はお生まれになると、飼い葉桶に寝かされました。宿屋には、彼らの泊まるところがなかったからです。マリアもヨセフはナザレから150kmも離れたベツレヘムへの旅など、この臨月を迎えている時に絶対したくなかったでしょう。しかし、ローマ皇帝の命令でしたから、仕方がありませんでした。ローマ皇帝こそ、この時代の最も力ある者でした。彼が命令すれば、逆らえる者はいません。ここには、この世の力ある者が、力の弱い者を踏みつける現実がはっきり現れています。そしてイエス様は、その臨月でも旅をしなければならなかったマリアからお生まれになりました。それは、イエス様が誰よりも低く、誰よりも弱く、誰よりも貧しい所に来られたことを示します。どうしてそんなところに来られたのでしょう。それは、そのような人たちを救うためです。
 マリアには御使いガブリエルからお告げがあり、聖霊によって身ごもることが知らされました。しかし、ヨセフには知らされませんでした。いいなずけのマリアのお腹が大きくなっていく。しかし自分には身に覚えがない。ヨセフは離縁しようとしました。当然でしょう。マリアは「聖霊によって身ごもった。」とヨセフに言ったでしょう。しかし、そんな話をにわかに信じられるでしょうか。そのヨセフに、夢の中で御使いが現れ、「恐れずマリアを迎え入れなさい。マリアのお腹の子は聖霊によって宿った。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」(マタイによる福音書1章20節以下)と告げます。そして、ヨセフはマリアとイエス様を受け入れました。マリアとヨセフの壊れかけた関係。しかし、神様が御使いを用いて壊しません。ここにも、神様の光が差しています。愛が壊れれば、マリアとヨセフをも闇が飲み込んだことでしょう。しかし、マリアとヨセフは闇に飲み込まれることはありませんでした。
 そして、マタイによる福音書によるならば、ヨセフとマリアとイエス様はしばらくしてヘロデ王から逃れるためにエジプトへ行きました。これは現代の言葉で言えば、難民になったということです。また、イエス様の所には、病気の者や困り果てた貧しい者たちが大勢助けを求めて来ました。その者たちをイエス様は癒やし、また「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなた方のものです。」と祝福を与えられました。それは、どんな貧しさの中にある者も、困り果て、行き場を失った者たちをも救うためです。光であるイエス様は、闇のただ中に降り、そこに入りこみ、その人たちの光となり、彼らを救う。そのためにイエス様は来られました。
 更に、救い主イエス様の誕生を最初に知らされたのは、羊飼いたちでした。彼らは社会的には低い階層の人たちでした。彼らは天使が告げたことを確かめに行きました。そして、天使に言われたとおり、飼い葉桶に寝かされている幼子を見つけました。それは彼らが、神様に見捨てられていない、特別な者として扱われていることを意味しています。彼らは喜びました。クリスマスの最初の喜びを味わったのが彼らでした。
神様がおられる。神様が私を、この世界を、見捨てていない。そうであるならば、「何も変わりはしない。」とか「何をしてもムダだ。」ということにはなりません。私もこの世界も、もうどうにもならないとか、何も変わらないなどということはありません。そうではなくて、何とかなる。神様が必ず何とかしてくださる。そのことを、私共は信じて良い。ここにクリスマスの喜びがあります。
 私共の力や知恵や能力によって、闇を打ち破ることは出来ないでしょう。しかし、神様に出来ないことはありません。どんな闇の中にも光を与えることがお出来になります。世界を変え、すべての人に生きる力と勇気を与えることがお出来になります。何故なら、神様は天と地のすべてを造られた全能の方であり、また私共を、そしてこの世界を、本当に愛しておられるお方だからです。その力と愛がはっきりした形で顕れたのが、主イエス・キリストの誕生、クリスマスの出来事なのです。

6.死を打ち破られた光、主イエス・キリスト
皆さん、思い起こしましょう。イエス様は十字架の上で死なれました。けれども、それで終わってしまったでしょうか。いいえ、三日目に復活されました。この事によって、神様は肉体の死は絶対的な終わりではないことを私共に証しされました。死は終わりではありません。しかし、闇はいつも私共に囁きます。「死んだら終わりだ。」と。しかし、主イエス・キリストが来られ、肉体の死が最後ではないことを明らかにしてくださいました。肉体の死の向こうがあります。4節で「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と言われている命とは、永遠の命・復活の命です。この復活の命が、人間を照らすまことの光です。肉体の死では終わらない。次があります。実は、死が闇の一番深いところにあるものの正体です。しかし、この死は、イエス様の復活によって打ち破られました。肉体の死には次がある。この次というのは、神の国の完成する時、イエス様が再び来られる時、私共は共々に復活するということです。ここを見つめて、ここを目指して、私共はこの地上の生涯を歩みます。
 イエス様の光に照らされたならば、死さえも私共を闇に引き込むことは出来ないということです。それは、死を恐れないとか、愛する者の死を悲しまないということではありません。死を恐れるのは、生きている者として当然のこと。愛する者の死を悲しむのも当然のことです。しかし、それでもなお、次があることを信じる故に、私共は希望を失わずに、感謝を失わずに、死を受け入れる者とされたということです。死もまた、神様の御業だからです。永遠の命を約束された方が、私共の地上の生涯も閉じられるのですから、それで終わるはずがありません。

7.キリストはあなたのもとに
 私共は今から聖餐に与ります。主イエス・キリストの体と血とに与ります。このことによって、私共は一人一人、イエス様が来られたのは「私のためだ」ということを受け取ります。イエス様がこの聖餐において、「あなたのために十字架に架かったわが肉を食え。あなたのために十字架で流したわが血を飲め。」と言って、私共の前にパンと杯を差し出してくださるからです。私がイエス様の光の中を歩んでいくことが出来るようにと、イエス様は来てくださった。クリスマスは何よりも、私のためのクリスマス、私のクリスマスです。
 そして、そのイエス様がお生まれになった最初のクリスマスの夜、「神には栄光、地には平和」と天の大軍は歌いました。それがイエス様を遣わされた神様の御心だったからです。ですから、私共もクリスマスを祝うこの時、天の大軍と共にこのことを祈るのです。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今日、私共は御子イエス・キリストの御降誕を喜び祝うクリスマス記念礼拝を捧げることが出来て、心から感謝いたします。まことの光である御子が来られて、闇は退けられました。私共は、ただ憐れみによって選ばれ、イエス様の光の中を、イエス様と共に歩む者とされました。ありがとうございます。しかし、まだ世界中でイエス様の光を知らず、闇の中であえぎ、うめいている者が大勢います。どうかあなた様の光がその人たちを照らし、あなた様の光の中を健やかに歩んで行くことが出来ますよう、心から祈り願います。すべての者の唇に、あなた様の御名が誉め讃えられていきますように。そして、あなた様の平和が世界に満ちていきますように。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2021年12月19日]