1.はじめに
2022年の最初の日を迎えました。31日から降りました年越し雪で、今日は足下が悪くてここに集えない方も多いかと思います。ライブ配信によって家庭礼拝を守っている方もおられるでしょう。今日は元日ですので、初詣に行く人も多くいるでしょう。元日に神様に祈るということでは、初詣も私共の元日礼拝も同じようなところがありますけれど、神社への初詣と私共の元日礼拝は少し違います。それは、初詣では「今年の私や家族の無事を神様にお願いする」ことが中心になるのでしょう。子どもや孫の受験や就職、出産、結婚、健康のためにも祈るでしょう。いわゆる、家内安全ですね。また、コロナのことや経済のこと、世界の平和のために祈る人もいるでしょうし、それは良いことでしょう。しかし、私共の元日礼拝は「私の思いの丈を祈る」という前に、「神様の言葉を聞く」ということがあります。神様の言葉を聞いて、そして祈るわけです。勿論、私共もこの一年が無事であるようにという願いや祈りはあります。コロナのことや平和のことだって祈ります。しかし、私共の礼拝は、私共の祈りは、その願いから始まるのではありません。私共は、まず神様の言葉を聞きます。そして、その示された御言葉に応えて祈る。私共の願いや思いが最初にあるのではなくて、神様の言葉、神様の御心が最初にあります。それをまず聞きます。神様の言葉を、聖書を通して聞きます。そして、神様の御心を示されて、それに応えて祈るわけです。
2.大祭司の祈り
そのような私共に、2022年の最初に与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書17章15~19節のイエス様の言葉です。このヨハネによる福音書17章の小見出しは「イエスの祈り」となっています。17章全体がイエス様の祈りです。聖書の中で一番長いイエス様の祈りがここには記されています。この祈りは、どのような場面でイエス様が祈られたものなのかと申しますと、イエス様が弟子たちと最後の食事をされた時です。ヨハネによる福音書以外の三つの福音書では、聖餐が制定された「最後の晩餐」の時です。しかし、ヨハネによる福音書には聖餐制定の記事はありません。その代わり、ヨハネによる福音書では13章に「洗足」の出来事が記されております。それからイエス様の長い説教が記されていて、最後に17章のイエス様の祈りでこの場面が閉じられます。次の18章では、イエス様は捕らえられてしまいます。ですから、この17章のイエス様の祈りは、イエス様がもうじき十字架に架かって死なれることを前提としています。もう弟子たちと話すことも出来なくなる、その最後の時のイエス様の祈りです。
この17章のイエス様の祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれています。自らの十字架の血潮をもってすべての人の一切の罪を贖われた「まことの大祭司」であられるイエス様の祈りだから、大祭司の祈りと呼ばれるわけです。そして、イエス様がここで祈られていることは、大祭司の祈りと呼ばれるのに相応しく、執り成しの祈りです。特に6節から19節の部分は弟子たちのための祈りです。もう自分は十字架に架かって死ぬ。弟子たちを残していかなければならない。だから、イエス様は弟子たちのために神様に祈られました。イエス様を信じ、イエス様に救われた者のために、父なる神様に祈られた祈りです。ですから、この祈りは「私共のための祈り」と言っても良いでしょう。私共は、自分の願いを祈る前に、今日、イエス様が私共のために祈ってくださった、その祈りを聞くのです。まず、イエス様が私共のために祈ってくださった、その祈りを聞きましょう。
3.悪い者から守られるように
今日、私共が聞く、イエス様が私共のために父なる神様に執り成してくださった第一の祈りは、15節にあります「悪い者から守られるように」という祈りです。「悪い者」とは、悪しき者、悪魔、悪霊、サタンといった、私共を神様から引き離そうとする者のことです。或いは、そのような悪しき者によって引き起こされる様々な誘惑や出来事、私共の心に湧いてくる悪い思いといったものです。イエス様は、主の祈りの中で「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」と祈るようにと、私共に教えてくださいました。私共が神様と共に、神様の御心に従って歩んで行こうとする時必ず、それを邪魔する者、それを阻害しようとする出来事、そこから引き離そうとする誘惑というものに出遭います。必ず出遭います。もちろん、そんな目には遭わない方が良いに決まっています。しかし、悪しき者や悪しき力、更には悪しき思いと無縁で生きていくことは、誰にも出来ません。私共は望まないのですけれど、向こうからやって来るのですから、避けようがありません。また、私共の中に罪がありますから、悪しき思いが湧いてくることを止めることも出来ません。しかし、たとえそのようなことに出遭ってしまったとしても、悪しき思いが湧いてきたとしても、神様から離れない、信仰から離れない。そのようにイエス様は私共のために祈ってくださいました。たとえ過ちを犯したとしても、神様の前に立ち帰り、やり直すことによって、悪しき者の手に落ちてしまわないようにと、イエス様が祈ってくださった。私共はまずこのことをしっかり心に刻みたいと思います。
悪しき者の私共への攻撃には、色んなあり方があります。悪しき者は私共より賢く、私共より力があり、しかも彼らには「こんなことをしてはいけない」というルールもありませんから、どんなことでもしてきます。肉体の痛みや我が子の苦しみ、経済的な困難や人間関係のトラブル、何でもかんでも悪しき者は利用します。そして、私共の心から、神様・イエス様を愛し、信頼する思いを奪おうとします。しかし、私共が今日しっかり心に刻んでおくべきことは、そのような一切の悪しき者の攻撃や誘惑から私共が守られるようにと、イエス様が父なる神様に既に祈ってくださったということです。
イエス様は父なる神様の独り子ですから、イエス様の祈りは必ず父なる神様に聞き届けられています。それは間違いありません。私共はこのことを信じて良いのです。イエス様は、主の祈りの中で「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」と祈るようにと、私共に教えてくださいました。実にこの祈りは、イエス様によって私共のために既に祈られた祈りなのです。ですから、私共は安心して祈ったら良いのです。イエス様によって祈られ、父なる神様に既に聞き届けられている祈りだからです。私共は、このイエス様の祈りをなぞるようにして、イエス様の祈りに重ね合わせるようにして、「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」と祈る。私共はこの祈りを一人で祈っているのではありません。イエス様が私共のために、私共に代わって、既に祈ってくださいました。イエス様は、私共が悪しき者から守られるようにと、既に祈ってくださった。しかも、御自分の祈りが父なる神様に必ず聞き届けられるように、私共のために十字架にお架かりになった。その意味では、イエス様のこの「悪い者から守られるように」という祈りは、イエス様が御自分の命を賭けて捧げられた祈りだということです。イエス様の命掛けの祈りです。私共は、このイエス様の祈りによって悪しき者から守られ、生きている。このことをしっかり心に刻んでおきましょう。
4.聖なる者となるように
さて、今朝、心に刻んでおくべきイエス様の第二の祈りは、私共が「聖なる者となるように」(17節)という祈りです。ただここで私共が注意しなければならないのは、「聖なる者となるように」と訳されている言葉です。私共が「聖なる者」としてイメージするのは、行いや言葉などが清い人。親切で、優しくて、謙遜で、愛情深く、酒もたばこもやらない人といったものかもしれません。しかし、イエス様は私共がそのような者になるようにとここで祈ってくださったということでは全くありません。そもそも、「聖なる者」は神様・イエス様しかおられません。この「聖なる者としてください」と訳された言葉は、口語訳では「聖別して下さい」と訳されており、新改訳では「聖め別ってください」と訳されていました。こちらの訳の方が事柄をはっきり示していると思います。「聖別する」というのは、特に礼拝で使用する器具などを聖なるものとして、他の物とは別にして分けることを意味します。ここでイエス様は、私共が「聖別されるように」と祈ってくださった。それは、私共が単なる被造物ではなくて、もっぱら神様の御業のために、神様を礼拝する者として、神様の御用のために用いられる者として分けられた存在となるようにと祈ってくださったということです。何時でも、どこでも、何をしていても、神様の愛を身に帯びた者として生きる、神様の救いの御心・イエス様の愛を証しする者として生きる、神様を礼拝する者として生きる、そういう者として私共が聖別されるようにとイエス様は祈ってくださいました。
そして、私共を聖別するのは、真理です。御言葉である真理です。17節に「真理によって、彼らを聖なる者としてください(聖別してください)。あなたの御言葉は真理です。」とあるとおりです。私共が神様のものとされ、神様の御業に仕え、神様の愛を証しし、神様を礼拝する者とされたのは、真理によってです。永遠の神の言葉である主イエス・キリストによってです。私共の努力によってでも、真面目さによってでも、信仰心によってでもありません。真理である主イエス・キリストによってです。主イエス・キリストの十字架という神様の愛が現された真理によってです。私共はイエス様を信じることによって、この真理に触れ、真理に生かされています。そして、イエス様によって聖別されています。神様のものとされています。このことをしっかり心に刻みたいと思います。頑張って「聖なる者になりましょう」という話ではありません。
この「聖なる者としてください」と訳されている言葉は、19節で「自分自身をささげます」とか「ささげられた者」と訳されている言葉と、ギリシャ語では同じです。新共同訳だけが「聖なる者としてください」と「ささげます」「ささげられた者」と別の訳語を当てていますけれど、口語訳はどちらも「聖別してください」、新改訳はとちらも「聖め別けて」と訳しています。ギリシャ語では同じ言葉ですから、同じ訳を当てた方が分かりやすいと思います。イエス様は御自身を聖別されました。それは、十字架にお架かりになることによって、神様の救いの御業のために完全に用いられる者となったということです。ただ神様の救いの御業にもっぱら用いられる者として十字架にお架かりになった。それは私共も聖別されるためだというのです。ということは、私共が聖別されるとは、イエス様の十字架に従って生きる。十字架の愛を証しし、神様の御心を指し示す者として生きるということです。そのためにイエス様は十字架にお架かりになったのです。
5.遣わされた者として
さて、今日、心に刻んでおくべきイエス様の第三の祈りは、私共が「世には属さず、世に遣わされた者として」ということです。イエス様はこの世に属さぬ者です。天と地のすべてを造られた父なる神様の独り子ですから当然です。そして、「世には属さぬイエス様」のものとされることによって、私共は「世に属さぬ者」となりました。イエス様がこの世のものではなく、神のものであられたように、私共も神様のものとしていただきました。勿論、私共はこの世の秩序の中に生きています。日本人であり、富山人です。税金も払いますし、この世の法律にはきちんと従います。法律を破るつもりも、それから逸脱するつもりもありません。しかし、私共は神様・イエス様のものです。この世のものではありません。それは、この世にあるいかなるものも、私共の主人ではないということです。私共の主人はただ神様であり、イエス様だからです。それが「この世に属さぬ」という意味です。更に言えば、「この世に属さぬ」ということは、私共の望みはこの世にあるわけではないということでもありましょう。勿論、趣味であったり、子どもの成長であったり、私共にもささやかな望みや楽しみはあります。キリスト者はそんなものを持ってはいかんとか、キリスト者にはそんなものは必要ないのだというのではありません。しかし、私共を生かす本当の望みはこの世にあるのではなく、神の国にあるということです。この世に属さぬ者とされているとはそういうことです。
しかし、それは私共がこの世と無関係に、この世には無関心に生きるということでは全くありません。私共はこの世のただ中で生きています。しかも、責任ある者として生きています。この世に対して無関係に、無関心に生きることなど出来ませんし、そうであってはなりません。何故なら、私共は「この世に遣わされた者」だからです。神様によってこの世に遣わされたイエス様のように、私共もまたイエス様によってこの世に遣わされた者だからです。イエス様は何のために私共をこの世に遣わされたのでしょうか。それははっきりしていると思います。イエス様が十字架において神様の救いの御心を成就されたように、私共はそのイエス様の十字架の福音を宣べ伝え、イエス様の十字架の愛を証ししていくためです。私共はそれぞれ、イエス様によって遣わされている所は違います。しかし、十字架の福音を宣べ伝え、十字架の愛を証しする者として遣わされている。それはどのキリスト者も同じです。
6.結論
この三つが、2022年の最初に私共に与えられた神の言葉、イエス様の祈りです。第一に「悪しき者から守られるように」、第二に「聖別されるように」、第三に「世に属さず、世に遣わされた者として」ということです。このようなイエス様の祈りによって支えられ、生かされているのが私共なのです。このことをしっかり心に留めて、共に祈りを合わせたいと思います。
お祈りいたします。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
2022年の新しい年をあなた様の守りの中で迎えることが出来ましたこと、心より感謝いたします。あなた様は天地を造られたただ独りの神様であられるのに、私共の父となってくださいました。イエス様の十字架の故にです。感謝します。どうかイエス様の祈りを聞き届けてくださり、私共を悪しき者から守ってください。私共をあなた様のものとして聖別してください。私共がこの世に属さず、あなた様に遣わされた者として、この新しい一年もそれぞれ遣わされた場において歩んで行くことが出来ますように。私共は弱く、愚かな者でありますけれど、何時でも、どこでも、どんな時でも、キリスト者として、あなた様の子として、あなた様の愛を証しし、十字架の福音を伝える者として歩んで行くことが出来ますように。上からの支えと守りと導きを心からお願いいたします。
この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2022年1月1日]