1.はじめに
ローマの信徒への手紙を読み進めておりますが、8章に入って6回目となります。今日で8章が終わるのですが、8章から離れがたい思いが少しあります。この8章はローマの信徒への手紙のクライマックスと言われていて、私も大好きな御言葉が詰まっている所です。皆さんも愛唱聖句にしている所が何ヶ所もあるのではないかと思います。今朝与えられている御言葉において、パウロは歓喜の叫びを上げているかのようです。当時の手紙は口述筆記でしたから、パウロはここに記されている言葉を口に出して語ったのです。語りながらどんどん高揚していって、先週与えられた御言葉から今朝の御言葉まで、きっとパウロは畳みかけるように、一気に語ったに違いないと思います。
先週与えられた御言葉から振り返ってみますと、31節で「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」と告げます。敵対出来る者などいません。そして、33節で「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」と告げます。訴えることが出来る者などいません。34節で「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。」と告げます。罪に定めることが出来る者などいません。そして、今朝与えられている御言葉の35節「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」と繋がっています。勿論、引き離すことが出来る者などいません。ここで、誰が、誰が、誰が、誰がと4回も繰り返します。そして、この繰り返しの頂点として、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」と告げるのです。当然、この答えは「誰も出来ない」です。誰も、何も、私共を神の愛、キリストの愛から引き離すことは出来ません。そして、39節の「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」という宣言で8章は終わります。何と力強い宣言でしょう。このパウロの勝利宣言とでも言うべき言葉は、すべてのキリスト者が信仰の歩みを通して語ることの出来る言葉です。この言葉を、自分の言葉として語ることが出来る者となるように、私共は召されて信仰を与えられ、御国に向かっての歩みをしています。良いですか皆さん。このパウロの言葉は、偉大な信仰者にだけ語り得る言葉ではありません。パウロだから言えたけれど、自分にはとても言えない。そういうことではありません。キリスト者はみんなこのように言うことが出来ます。みんなこのように言い切れます。そのように、神様は私共を導いてくださっているからです。私共の信仰の歩みは、このように言い切れるために営まれていると言っても良いほどです。
2.キリストの愛に捕らえられて
パウロは、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」と言って、すぐに「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」と言います。パウロは、キリスト者が出遭うであろう困難を想像して、こう言ったのではありません。これは、みんなパウロが経験したことばかりです。コリントの信徒への手紙二11章24節以下にこう記されています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」パウロの伝道者としての歩みは、使徒言行録を読めば明らかなように、苦難の連続でした。一つの町で伝道すると迫害する者が現れ、それから逃れるように次の町に行って伝道すると、そこでも同じような目に遭う。そして、次の町へと逃れていく。そんなことの繰り返しでした。こんなに苦労するなら止めたら良いと、人は普通思うでしょう。パウロは、ユダヤ人の社会において、いわゆるエリートでした。キリスト者にならなければ、まして伝道者などにならなければ、こんな苦難の連続のような歩みをすることはなかったはずです。しかしパウロは、キリスト者であることも、伝道者であることも止めませんでした。どうしてでしょう。それは、彼がキリストの愛、イエス様の愛に捕らえられていたからです。そして、彼も神様を、イエス様を愛していたからです。
イエス様を信じるとは、イエス様を愛することです。しかし、イエス様を信じることもイエス様を愛することも、私が信じる、私が愛する、というのは少し違います。聖霊なる神様のお働きの中で、私共はイエス様を信じるようになりました。そして、イエス様に愛されていることが示されて、私共はイエス様を愛するようになりました。私共がイエス様を信じたから愛されたのではありません。私共がイエス様を知らない時、敵対していた時に、イエス様は私共のために十字架にお架かりになったのです。この聖霊なる神様のお働きも、イエス様の愛も、私共がどのような状態になろうとも全く変わることはありません。私共の信仰も、私共の愛も、揺らぐことがあるでしょう。人とはそういうものです。しかし、イエス様の愛は決して揺らぎません。ですから、私共がそのことにさえ気付けば、私共と神様・イエス様との愛の交わりは微動だにすることなく、堅固なものとして保持され続けます。
3.困難は証しが立つ時
しかし、私共はしばしば、この神様・イエス様の愛が分からなくなります。本当に神様は私を愛しているのだろうか。そんな思いが湧いてくる。ここでパウロが告げた「艱難や苦しみや迫害や飢えや裸や危険や剣」などいうものに遭遇するならば、神様は本当に私を愛しているのだろうかと不安になり、神様・イエス様への愛が揺らいでしまいます。そのような経験をしたことのないキリスト者は一人もいないでしょう。しかし、このような時こそ、キリスト者にとって本当に本当に大切な時です。私はいつも「困難や苦しみに出遭った時は、証しが立つ時。」と言っています。病気にならない人はいないのですし、人間関係や経済的なことで困難な状況になることだってあります。キリスト者はそのような目には遭わない、などとは決して言えません。しかし、その時になお神様を信頼して、神様を頼って、神様を愛して歩み続けるかどうか。その問題に神様が働いてくださることを期待して、忍耐して、信仰をもって歩み通すかどうか。そこが大切な所です。そして、たとえ確信に満ちていなくても、かろうじてであろうとも、曲がりなりにも信仰をもってその時を歩み通した者には、証しが生まれます。神様が生きて働いておられること、神様が私を愛してくださっていることを、一段とはっきり知るようになります。そして、それが二度、三度と繰り返されていく中で、神様の愛、イエス様の愛がどんなに深く、熱く、真実であるかを知らされていくことになります。そして遂には、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と宣言出来るようになります。これは、代々の聖徒たちが、信仰の生涯を通して証ししてきたことです。今、そのように歩んだキリスト者の名前を挙げることはいくらでも出来ます。でも、しません。それは、「その人は立派なキリスト者だったから出来た。でも、自分のような普通のキリスト者にはそんなことは出来ない。」そう思われては困るからです。これは、偉い立派なキリスト者の話ではありません。すべてのキリスト者が、この証しを立てる者として召されているのです。
ただ、ここで忘れてはならないことは、決して短気になってはいけないということです。いついつまでに、こうならなければ。そんな風に考えて祈っても、神様の時がありますから、そのとおりになんてなりません。そして、そうならなければ、「神様は私を愛していないんだ」と思ったり、「信仰なんて意味がない」と思ったりするのでは、私共の信仰は成熟していきません。信仰の成熟には、このような時を何度もくぐっていかなければならないのです。信仰の成熟というのは、目に見える幸を得る手段として神様や信仰を考えないというようになっていくものなのですが、この「目に見える幸を求める」ということから、私共は中々抜け出せないものなのです。
自分の信仰の歩みを振り返ってみますと、信仰が一歩成長出来たとか、信仰が一皮むけたというようなことが起きたのは、いつも辛い経験をした時ばかりでした。「何でこんな目に遭わなければならないんだ。」と思って、それでも礼拝だけは守っている中で、御言葉が飛び込んできて、自分の幸せのために神様がいるんじゃないことを徹底的に知らされました。また、将来への希望が絶たれたと思っていたら、思ってもいなかった道が開かれました。献身した時も、結婚することになった時も、子どもが与えられた時も、私の思いを超えた出来事ばかりでした。勿論、辛い目には遭いたくないですし、そんな経験をしないで済むならそれが良い。でも、私共の人生は残念ながらそうはいかない。そして、そのような時をも信仰をもって歩んだ者は、神様の愛と真実がいよいよ分かっていく。皆さんもそうでしょう。自分の信仰の歩みを振り返ったならば、大変だった時、辛かった時、神様の守りの御手が確かにあったことを知るのではないでしょうか。パウロは確かに、伝道者として大変な目に遭いました。しかし、それ故にこのような手紙を書くことが出来ました。そして、この手紙は二千年にわたってキリスト者たちを励まし、教会を導き続けたのです。これは本当のことです。
4.労苦があって当たり前
36節の「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」は詩編44編23節の引用ですが、意味するところは要するに、「詩編で預言されているように、イエス様が屠られる羊のように十字架に架けられたのですから、私共も大変な目に遭う、そういうことになっています。」ということです。
私共は平穏無事に過ごせることが当たり前だと思っていて、何か大変な目に遭いますと、なんで自分だけこんな目に遭わなければならないのか、こんな目に遭わせるような神様なんて要らない。そんな風に思ってしまうところがあります。私は牧師として、何度もこのような言葉を聞いてきました。しかし、困難や辛いことは、人生につきものなのです。それは神様の愛、イエス様の愛が揺らいだからではありません。ヘブライ人への手紙12章10~11節にこうあります。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」実に「神様の訓練」というものがあるのです。父なる神様が神の子としての私共を訓練されるのです。私共はそのような時を必ずくぐらなければなりません。そして、変えられ続けていくのです。イエス様は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)と言われました。世では苦難があるのです。しかし、イエス様は既に世に勝っています。私共はそのイエス様の勝利に与るのです。
5.超勝利
パウロは37節で、「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」と告げます。この「輝かしい勝利」と訳されている言葉は、とても珍しい言葉で、「勝利する、勝利者となる」という言葉に、英語で言えばスーパーとかウルトラというような「超える」という「超」という言葉を合わせた言葉です。新共同訳は「輝かしい勝利を収めています」と訳し、口語訳では「勝ち得て余りがある」と訳しています。新改訳では「圧倒的な勝利者となる」と訳しています。私は、この新改訳の「圧倒的な勝利者となる」がとても良い訳だと思いました。
パウロは、「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」といったものに圧倒的に勝利していると言うのですが、それはパウロの力によってではありませんし、私共にそのような力があるわけでもありません。三日目に復活された主イエス・キリストの勝利と一つとされているということです。だから、圧倒的な勝利者となり、輝かしい勝利を収めることになるのです。聖霊なる神様が我が内におられ、イエス様を復活させた全能の神様が味方してくださり、イエス様が共にいてくださる。だから、その勝利は圧倒的なのです。パウロは、ここを見なさい、ここに注目しなさい、と告げているのです。私共は目の前の困難や苦しみに、目も心もすべて奪われてしまうからです。そして、不安と恐怖に支配されてしまう。それが私共に敵対する者、サタンの策略なのですけど、私共はやすやすとその手に絡め取られてしまいます。パウロはそのことをよく知っています。だから、見るのはそこじゃない。イエス様の十字架と復活、そしてそれを成し遂げられた全能の神様、そこに目を向けなさい。そして、その方を愛し、信頼しなさい。圧倒的な勝利は、その方と共にある。神様の私への愛は微動だにしていない。私共もその方と共にあるならば、その勝利に与ることになる。
私共が戦うのではありません。全能の神様が戦ってくださるのです。私共のために、私共に代わって戦ってくださいます。ですから、私共は圧倒的勝利者となることになっています。エジプトを脱出したイスラエルの民の前には、海が広がっていました。後ろからはエジプト軍が迫ってきます。絶体絶命のあの時、神様は海を引き裂いて道を作り、イスラエルを助けました。この時、イスラエルの民は何もしませんでした。神様が戦ってくださり、圧倒的な勝利を与えてくださいました。
信仰の戦いは、神様・イエス様が戦ってくださる戦いです。私共は神様・イエス様によって勝利に与ります。この信仰の戦いは、他の戦いと同じように、経験がない者には戦い方も分からず、勝利への確信もありません。しかし、この戦いを何度もしてきた者には、簡単にはへこたれない忍耐と、勝利への確信が身についていきます。それでも、何が起きても少しも動揺しないということはありません。動揺はします。どうしようとうろたえます。しかし、それでもキリスト者として為すべきことを為し続けていく。聖書を読み、祈り、礼拝に集う。その営みを続ける中で、出来事が起きます。神の出来事です。そこに証しが生まれます。
6.神の愛から引き離すことは出来ない
パウロは最後に、高らかに宣言します。勝利宣言です。38~39節「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」ここには、私共を神様の愛から引き離そうとして、私共の前に立ちふさがるものが挙げられています。
最初に挙げられているのは「死」と「命」です。死を恐れない人はいません。でも、「死」は既にイエス様の復活によって、私共を永遠に支配する座から引きずり下ろされています。私共は死んでも生きることになります。「命」は良いものです。でも、良きものもまた、神様の愛から私共を引き離す要因となります。良きものに満たされていれば、神様なんて要らない、これで十分、他に何が必要なのか、と人は思うものだからです。
次に「天使も、支配するものも」というのは、目に見えない存在、霊的な天使や悪霊を指しています。「支配するもの」というのは、この世界を支配する悪霊のことです。そして、「現在のものも、未来のものも」ですが、これは現世と次の世を指していると思います。同時に、現在の問題・困難だけではなくて、将来出会う問題や困難、それに対する不安を指していると考えても良いでしょう。「力あるものも」とは、やはり諸々の霊力と考えて良いでしょうし、この世の権力者と読むことも出来ます。そして、最後に「高い所にいるものも、低い所にいるものも」ですが、これも人間の人生を操っている諸々の力と考えて良いでしょう。要するに、目に見えるものも見えないものも、どんなものであっても、みな「神様に造られた被造物」に過ぎないのですから、それを造られた全能の父なる神様にかなうはずがありません。神様の御心に逆らうことは、どんな被造物にも出来ません。ですから、全能の父なる神様の愛から私共を引き離すことなど、出来るはずがないのです。
私共は全能の神様に向かって「父よ」と呼ぶことの出来る者、神様の子とされた者、独り子を賜るほどに愛されている者です。「ただのキリスト者である」ということは、天地を造られたただ独りの神様の子どもであるということです。大変なことです。ですから、この私共と神様との愛の交わりを引き裂いたり、その間に割り込んでくることが出来るものなど存在しません。私共は安んじて、神の子としての誇りと喜びをもって、与えられた地上の生涯を御国に向かって歩んで行けば良いのです。この愛を否定したり、疑わせるようなささやきに耳を貸してはなりません。私共の耳は聖書の御言葉に、私共の目は神様の御業に開いていきましょう。そうすれば、何があっても大丈夫です。恐れることはありません。主があなたと共におられる。これは確かなことです。
お祈りいたします。
恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝あなた様は、御言葉を通して、どんな被造物も私共を神様の愛から引き離すことは出来ないことを教えてくださいました。感謝します。私共は弱く、愚かで、しばしばあなた様を忘れ、目の前のことがすべてであるかのように思い、また明日があなた様の御手の中にあることを忘れてうろたえ、不安と恐れにさいなまれます。しかし、あなた様の御支配は何にもまして確かなものです。私共には聖霊なる神様が与えられており、御子イエス・キリストの執り成しの中で、父なる神様の憐れみは微動だにしません。どうか、このことをしっかり心に刻んで、祈りつつ、御国に向かってしっかりした足取りで歩んで行くことが出来ますよう、心から祈り願います。
この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[2022年1月23日]